カチタス改正民事執行法を機に競売物件の中古住宅再生事業を立ち上げ

石材業から数えて三度目の本業をどこに置くか——群馬・桐生で選んだ競売という仕入先

時期 1998年8月
意思決定者(推定) 須田忠雄 代表取締役社長
論点 主業の選択と仕入モデルの設計
概要
1998年8月、群馬県桐生市の株式会社やすらぎが、不動産競売物件を落札してリフォームののち販売する中古住宅再生事業を確立した経営判断。営業店舗を桐生市に置き、地方圏の戸建中古住宅を低い取得価格で仕入れて再生販売する事業形態を固めた。
背景
1978年に石材業として創業した同社は、1988年に宅地建物取引業の免許を取得して不動産売買・代理業へ移り、戸建住宅販売と賃貸へ手を広げていた。創業から12年で石材業からは事実上退き、地方の不動産業者として事業を組み直す途中にあった。
内容
1996年に改正され1998年に施行された民事執行法により、不動産競売の手続が短期化・透明化された。やすらぎはこの制度変更を受けて競売物件の落札を仕入の柱に据え、リフォーム後に販売する事業形態を確立した。
含意
落札価格の安さと、占有や家財の残置といった競売物件特有の手間を自社で引き受ける実務が、そのまま参入の壁として働いた。四半世紀後に業界首位となる買取再販の事業構造は、この年に桐生で決まった枠組みの延長線上にある。
筆者の見解

制度の変わり目を仕入先として読むということ

1998年の判断は、新しい商品を開発したものでも、新しい市場を発見したものでもない。競売という既存の売却手続が使いやすくなったという制度の変化を、自社の仕入先の設計に読み替えただけである。ただ、その読み替えができたのは、石材業から不動産売買、戸建販売、賃貸へと本業を替え続けてきた会社だったことと無縁ではない。守るべき祖業を持たない事業者ほど、外の条件が動いたときに身を寄せる先を選び直しやすいとみることができる。

この事業がのちに強かったのは、安く仕入れられたからというより、他社が嫌う後始末を値段に織り込む計算を続けたからであった。占有の調整も家財の処分も、一件ごとに手間が違い、量をこなさなければ相場観が育たない。制度が開いた入口はすべての事業者に等しく開かれていたはずで、そこに残ったのが手間を引き受けた側であったという事実は、参入障壁が制度ではなく実務の積み上げに宿ることを示している。競売への依存を後年みずから薄めたあとも、この計算の型だけは残った。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

石材業から不動産業へ——20年で入れ替えた本業

株式会社やすらぎは、1978年9月に群馬県桐生市で資本金1,000万円をもって設立された。当初の事業目的は石材業で、墓石と建材の販売を主に扱っていた。創業者の須田忠雄氏は1946年2月生まれの桐生市出身で、織物で栄えた地元の産業を地盤に、地域に密着した商いとして石材業を選んでいる。桐生の商圏で墓石を売る会社が、のちに全国で中古住宅を扱う会社になるとは、この時点では想像しにくい事業構成であった[1][2]

主業の入れ替えは1980年代の終わりに始まった。1988年12月に宅地建物取引業の免許を取得して不動産売買・代理業に踏み込み、翌1989年1月には建築部と不動産部を設けて戸建住宅の販売に進んだ。1990年2月には賃貸部を加え、売買と賃貸の両輪を持つ地方の不動産業者としての形が整った。創業から12年で石材業からは事実上退いており、この会社は本業を替えることに対する抵抗が薄い経営体質を早くから持っていた[3]

競売手続の改正という外部条件

1996年に改正され1998年に施行された民事執行法により、不動産競売の手続は短期化と透明化が進んだ。裁判所を通じた売却の見通しが立てやすくなったことで、それまで一部の個人投資家が中心であった競売市場に、事業として継続的に参加する余地が生まれている。バブル崩壊後の不良債権処理が本格化した時期と重なり、地方圏でも戸建住宅が競売にかかる件数は少なくなかった。制度の側が、仕入先としての競売市場を開いた形であった[4][5]

もっとも、手続が開かれたことと、事業として成り立つこととは別であった。競売物件は内部を検分しにくく、占有者との調整や残された家財の処分といった実務が落札後に残る。後年になってカチタスの広報担当者は、競売物件には家財道具がそのまま残されている例が多く、その処分費まで織り込んで物件ごとの収支を計算してきたと説明している。安く落とせる代わりに手間を丸ごと引き受ける必要があり、その面倒さ自体が、参入を思いとどまらせる壁として働いていた[6]

決断

1998年8月、桐生で固めた事業形態

1998年8月、やすらぎは競売物件を落札し、リフォームを施したうえで販売する事業形態を中古住宅再生事業として確立した。同時に営業店舗を桐生市に開設している。新築の分譲や賃貸の仲介と違い、この事業では仕入・改修・販売のすべてを自社で抱えることになる。制度改正という外部の変化に対し、既存事業の一部門として様子を見るのではなく、店舗を構えて本業として立ち上げた点に、この年の判断の性格が表れている[7]

対象に選んだのは、地方圏の戸建中古住宅であった。大手ハウスメーカーが主戦場とする新築の分譲や都心のマンションとは重ならず、一件ごとの規模は小さい。そのぶん取得価格を抑えられ、改修の範囲を自分で決められる余地が残る。低い価格で仕入れ、必要な範囲だけ手を入れて、地域の相場に合う価格で売る——四半世紀後まで続く買取再販の骨格は、この時点でおおむね決まっている[8]

桐生から関東へ——店舗網と事務処理の整備

立ち上げの翌1999年3月には高崎支店を開設し、群馬県内での取り扱い地域を広げた。2001年7月には東京本部を中央区八丁堀に置き、北関東の一社という範囲を超える体制に移っている。競売物件の仕入は裁判所の管轄ごとに情報が分かれるため、扱う地域を増やすには拠点を置くほかない。店舗を一つずつ足しながら仕入の母数を増やす進め方は、以降のカチタスにも引き継がれた[9]

取扱件数が増えると、契約・登記・改修の発注といった事務が滞る。2003年6月、やすらぎは事務処理能力の拡充を目的に群馬県みどり市笠懸町へマネジメントセンターを開設し、2005年4月には業容拡大に合わせてこれを桐生市琴平町へ移した。一件あたりの金額が小さい物件を多数さばく事業では、後方の処理能力が販売件数の上限を決める。店舗の増設と事務処理の集約を並行させた点に、量を前提とした設計の意図がうかがえる[10]

結果

上場と多角化——売上760億円とその反動

中古住宅再生事業は会社を急速に押し上げた。2004年2月に名古屋証券取引所セントレックス市場へ上場すると、公開市場での資金調達と人材採用の足場を得て、2006年1月期の連結売上高は663億円、2007年1月期は760億円に達している。ただし伸びの中身には、中古住宅再生のほかに子会社が担うテナントビルやマンションなど収益物件の販売が大きく含まれていた。2004年8月のYUTORI債権回収、9月のバリュー・ローンと、金融サービスの周辺にも会社を作っている[11][12]

反動は早く来た。2008年1月期の連結売上高は537億円へ落ち、純損益は16億円の赤字に転じている。不動産市況が冷えると収益物件の販売はほぼ止まり、多角化で積み増した売上ほど景気の振れをそのまま受けた。2006年に設けたバンカーとやすらぎ共済は数年で解散し、YUTORI債権回収は2008年3月に売却されている。1998年に選んだ本業だけが残り、周辺で広げた事業は順に整理されていった[13][14]

四半世紀後に残った枠組み

2013年に社名をカチタスへ改めた同社は、仕入の主軸を競売から不動産仲介経由の任意売買と直接買取へ移したものの、事業の骨格は1998年のまま保たれた。2023年1月時点で同社が販売する中古物件の平均価格は土地・建物で1,552万円、地方の新築のおよそ半分の水準にある。主な買い手は地方に住む世帯年収200万〜500万円の層で、新井健資社長は、新築には手が出ないが持ち家が欲しいという需要は地方ほど強く、それに応えるには価格が要ると説明している[15]

量の蓄積も参入の壁として働いた。同社は累計6万棟を超える中古物件を扱ってきた経験から50項目以上の点検表を作り、シロアリの食害や雨漏りの程度、隣地との権利関係といった瑕疵の危険を洗い出したうえで、買うかどうか、いくらで買うかを決めている。2023年3月期の戸建の販売見込みは6,845件、2025年3月期の連結売上高は1,295億円に達した。桐生の一店舗で競売物件を落札していた会社が、地方戸建の買取再販で最大手となる過程は、この事業設計の反復であった[16][17]

出典・参考
  • カチタス 有価証券報告書(当時社名:やすらぎ)【沿革】
  • カチタス 有価証券報告書 第29期(2007年1月期・連結)/第30期(2008年1月期・連結)/第47期(2025年3月期・連結)
  • カチタス 公式サイト「カチタスの歩み」(https://katitas.co.jp/history.html)
  • 週刊東洋経済 2023年1月7日号「【特集 熱狂のマンション 崖っぷちの戸建て】PART2 一躍脚光 中古住宅「再生」ビジネス」
  • 桐生活性化プロジェクト 須田忠雄プロフィール

免責事項およびポリシー