シチズン時計腕時計の心臓部であるムーブメントを他社へ売る外販に踏み切り量産で世界一を取った戦略
完成品で戦うか、駆動部分の供給元になるか——自社ブランドを捨てて数量を取った十年
- 概要
- シチズン時計が1976年に腕時計用ムーブメント(駆動部分)の外販を決め、1980年代を通じて量産規模を積み上げた戦略である。完成品の腕時計ではなく、他の時計メーカーが自社ブランドの時計を作るための心臓部を売った。1986年に腕時計の生産個数でセイコーグループを抜き、世界一に達した。
- 背景
- クオーツ化によって、パーツを買えば誰でも時計を作れる時代へ移った。香港はデジタル時計の世界最大の生産地となり、日本から送られた主要パーツを組み立てて再輸出していた。低価格帯の価格競争が激しくなり、完成品だけで採算を取ることが難しくなっていた。
- 内容
- 駆動部分を外販すれば、買った相手が同じ市場で競合する。社内では役員会が反発し、当初は別会社を設けて販売が始まった。それでも量産によるコストダウン以外に道はないと判断し、本社としてムーブメントを売る体制へ移った。1981年発売の「203号」は1990年5月に通算3億個へ達した。
- 含意
- 1990年の日本の腕時計は生産個数でシチズンが45.0%と首位に立った一方、生産金額のシェアはセイコー42.6%に対し27.1%にとどまった。数量の世界一と金額の二番手が同時に成立する構造で、1997年の生産量は約3億1,080万個・世界シェア24%に達した。
自社ブランドを譲って得たもの
外販は、時計メーカーとしての取り分をどこに置くかの選択であった。完成品で戦えば自社ブランドの値段がそのまま売上になるが、量は自社の販売力で頭打ちになる。駆動部分だけを売れば、買い手のブランドと販路の分まで数量が伸びる代わりに、消費者の目に触れる名前は他社のものになる。シチズンは後者を取り、1990年には生産の70%がムーブメント、自社ブランドの完成品は15%に満たない構成へ移った。世界一という言葉が指していたのは、店頭に並ぶ時計の数ではなく、動いている駆動部分の数であった。
その代償は金額のシェアに残っている。1990年の国内生産で、個数の45.0%を占めながら金額では27.1%にとどまった差は、高級品を厚く持つ相手との商品構成の違いをそのまま映していた。1998年に春田博社長が語った「産業史的にみても非常によかった」という評価は、時計が大衆のものになった過程への評価であり、その過程でシチズン自身が受け取ったのは数量と回転の速い現金決済であった。2012年のLa Joux-Perret取得と2016年のFrederique Constant取得で高級機械式へ入っていく後年の動きは、あのとき譲った側の取り分を買い戻す作業でもあったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
クオーツ化が壊した参入障壁
戦後の日本の時計市場は中級品に限られていた。低価格品は「安かろう悪かろう」として売れず、高級品を買う購買力もなかった。これを変えたのがクオーツ化とデジタル化であった。山田栄一社長は1981年のインタビューで、クオーツは最大の商品革命だと述べている。パーツを作る技術は難しいが、そのパーツを買ってくれば誰でも時計を生産できる。ここから「四畳半メーカー」と呼ばれる零細な作り手までが市場に現れた[1]。
商品革命は需要の形も変えた。時計は「精度がよくて安い」時代へ入り、メーカーは低価格競争にさらされた。ティーンエージャーやそれ以下の年齢層まで需要が広がった一方で、それまで主力であった中級品の需要が減り、高級品と低価格品へ二極分化した。1981年当時、腕時計は2,000円から200万円までの価格帯に散らばっていた。同じ「時計」という名でありながら、内容としては別の商品へ分かれていた[2]。
香港という組み立て地の出現
デジタル時計の世界最大の生産国は香港であった。ただしその内実は、主要パーツを日本から送り、香港で組み立てて完成品として再輸出する仕組みであった。パーツの生産では日本が主導権を握っており、山田社長は「最終的には日本が香港を育てた」と語っている。日本のメーカーはもはや粗製乱造ができず、一円でも安いものを求めて香港へ需要が集まった。米国メーカーも一時は香港へ来たが敗退し、日本のメーカー同士が現地で競う状態が残った[3]。
シチズンはこの流れに沿って海外の拠点を並べた。1970年2月に香港へ合弁会社の新星工業有限公司を設け、1975年4月には米国にシチズン・ウオッチ・カンパニー・オブ・アメリカを、1976年3月には香港に販売拠点の星辰表(香港)有限公司を設立した。1979年6月にはドイツにシチズン・ウオッチ・ヨーロッパGmbHを置いている。部品を送り出す先と、完成品を売る先の両方を並行して整えた配置であった[4]。
決断
心臓部を他社へ売るという禁じ手
1976年、シチズンは時計用ムーブメントの外販を決めた。同年には時計用シリンダー型音叉水晶振動子などを開発し、クオーツ領域での量産参入も整えている。売るのは完成品の時計ではなく、腕時計の駆動部分そのものであった。駆動部分は時計の心臓部にあたり、これを外販すれば町工場でもシチズンと同じ精度の時計を作れる。同じ市場で買い手が競合に変わるという性質を、この決定は最初から抱えていた[5][6]。
社内の反発は強かった。厳しい競争が続くなかで完成品の商売を妨げるという不満が、役員のあいだにくすぶった。当初は別会社を設立してムーブメントの販売が始められ、本社としてムーブメントを売る体制になったのは、社内の説得が進んだ後であった。後に社長となる中島迪男氏は、役員会で猛反発を受け、事業を担う前川日出夫氏からも突き上げられ、他の役員を説得することが最大の仕事だったと振り返っている[7]。
量産によるコストダウン以外に道はないという判断
外販へ向かった直接の事情は、完成品の不振であった。カシオ計算機が低価格中心のデジタル腕時計で攻勢をかけ、オリエント時計を抜いて国内3位へ上がった。デジタル全盛の1981年から1982年ごろ、シチズンの腕時計事業は存亡の危機に近づいた。ブランド力が弱く販売店との関係も薄い立場で生き残るには、小型精密部品の組み立て技術を生かし、量産によるコストダウンを取るしかないという判断に至った[8]。
量産へ寄せた結果は採算の形にも表れた。ムーブメントは単一製品で数量が出るためスケールメリットを享受でき、売上高経常利益率で20%前後を確保した。1991年3月期の全事業の売上高経常利益率が8%、時計事業が約12%であったから、社内で最も収益力のある事業へ育った。販売先が小さな時計店から大手メーカーへ変わったことで決済も手形から現金へ切り替わり、資金の回転が速まる副次的な効果も生んだ[9][10]。
結果
1986年、生産個数でセイコーを抜く
1980年のシチズンの腕時計生産量は2,800万個であった。そこから毎年2桁の伸びを示し、1986年には8,000万個でセイコーグループを追い抜き、生産量で世界一となった。技術で先行した相手を、量産の規模で抜いた結果であった。この年、ムーブメントを売る拡販部は事業部へ格上げされ、前川日出夫氏が取締役事業部長へ昇進してムーブメント事業の拡大にあたった。組織の格が売上の実態に追いついた形であった[11][12]。
生産の中身は、外販へ大きく傾いた。1990年の生産量1億4,600万個のうち70%をムーブメントが占め、シチズンブランドの腕時計に仕立てて売る分は15%に満たなかった。残りの15%はフランスなどのデザイナーズブランドへのOEM供給である。1981年に発売した主力の「203号」は外販するムーブメントの約80%を占め、1990年5月に通算3億個へ達した。自社ブランドを名乗らない時計が、生産の大半を占める会社へ変わっていた[13][14]。
数量の首位と金額の二番手
首位の内実には偏りがあった。1990年の日本の腕時計は総生産量3億2,500万個で、個数のシェアはシチズン45.0%、セイコー39.0%、カシオ12.0%である。ところが総生産金額3,000億円で見ると、セイコー42.6%に対しシチズンは27.1%にとどまった。1991年3月期の腕時計事業の売上高もシチズン1,058億円に対し服部セイコーは1,688億円で、高級品ブームに乗った相手との差が金額に表れた。シチズンは利益率の高いムーブメントと中級腕時計へ商品を絞っていた[15][16]。
この戦略を後年に総括したのが春田博社長であった。1998年のインタビューで春田氏は、1980年代の初めにモジュールの外販を本格的に始めたことを、時計屋としては清水の舞台から飛び降りるような決断だったと述べ、それが転機となって腕時計を世界規模で事実上の標準にできたと語っている。生産の規模が増えて時計の値段が下がり、どんな環境でも、どんなに安い品でも止まらない品質になった。標準化は自社だけでなく産業史としてもよかったという評価であった。1997年の生産量はモジュールとOEMを含め約3億1,080万個、世界シェア24%で最大となっていた[17][18]。
- 日経ビジネス 1981年2月9日号「時計屋が時計離れするとき」(山田栄一氏 編集長インタビュー)
- 日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」
- 日経ビジネス 1998年8月24日号「はやりの実力主義には乗らない“全員精鋭”へ目立たぬ努力を評価」(春田博氏 編集長インタビュー)
- シチズン時計 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- シチズン時計 会社年鑑(単独業績)