第1章 年〜年

テクセンドフォトマスク:証券印刷の製版技術からシリコントランジスタ用マスクへ

1900年〜偽造防止のための有価証券印刷という設立目的

凸版印刷の前身は、1900年1月に創立された凸版印刷合資会社である。内閣印刷局の出身者が相寄って起こした会社であり、彫刻を主とする高級凸版印刷術を応用し、偽造変造を防止できる株券、社債券、その他の有価証券を製造することを設立の目的に掲げた。1908年6月4日に資本金40万円で株式会社へ改組した。もっとも、有価証券だけで工場は回らなかった。民間で有価証券専門の工場を経営することは当初きわめて難しく、煙草包装紙、ポスター、レーベルなど高級印刷技術を要する一般印刷も合わせて営んだ。1908年10月に内外印刷を合併して本所工場とし、1918年2月にはオフセット印刷を買収した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史 45_諸工業「凸版印刷」の項
    • [1]凸版印刷は1900年1月創立の凸版印刷合資会社を前身とする
    • [2]設立の目的は、内閣印刷局の出身者が相寄り、彫刻を主とする高級凸版印刷術を応用して偽造変造を防止しうる株券、社債券、その他の有価証券を製造することにあった
    • [3]設立は1908年6月4日。1908年6月に資本金40万円をもって株式会社に改組した
    • [4]当初は民間において有価証券専門の工場として経営することが非常に困難だったため、煙草包装紙、ポスター、レーベル、その他高級印刷技術の必要な一般印刷事業も合わせ営んだ
    • [5]1908年10月、内外印刷を合併し本所工場とした
    • [6]1918年2月、オフセット印刷を買収した

株券、社債券、勧業債券、政府発行の諸債券といった有価証券の需要が増えるにつれ、設備と技術も進んだ。国内で流通する紙幣を民間会社が印刷した最初の例は凸版印刷であり、戦中戦後にかけても紙幣の印刷を担った。工場と品目は合併で増えた。1926年4月には東京紙器を合併して小石川工場とし、紙製容器の製造を事業に加えた。1927年1月に大阪工場、1938年5月に板橋工場、1943年5月に富士工場を新設し、1944年7月には精版印刷を合併して大阪支社工場とし、資本金を2,250万円へ増やした。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史 45_諸工業「凸版印刷」の項
    • [7]株券、社債券、勧業債券、政府発行の諸債券等の有価証券の需要が増大するに伴い設備と技術も漸次進歩した
    • [8]国内で流通する紙幣を民間会社において印刷したのは凸版印刷が最初である
    • [10]1926年4月、東京紙器を合併して小石川工場とし、紙製容器の製造事業を加えた
    • [11]1927年1月に大阪工場(現大淀工場)、1938年5月に板橋工場、1943年5月に富士工場を新設した
    • [12]1944年7月、精版印刷を合併して大阪支社工場とし、資本金を2,250万円に増額した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)3編 企業の歴史「凸版印刷」の項
    • [9]戦中戦後には民間最初の紙幣印刷まで行なった
参考文献[1]-[12]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史 45_諸工業「凸版印刷」の項
    • [1]凸版印刷は1900年1月創立の凸版印刷合資会社を前身とする
    • [2]設立の目的は、内閣印刷局の出身者が相寄り、彫刻を主とする高級凸版印刷術を応用して偽造変造を防止しうる株券、社債券、その他の有価証券を製造することにあった
    • [3]設立は1908年6月4日。1908年6月に資本金40万円をもって株式会社に改組した
    • [4]当初は民間において有価証券専門の工場として経営することが非常に困難だったため、煙草包装紙、ポスター、レーベル、その他高級印刷技術の必要な一般印刷事業も合わせ営んだ
    • [5]1908年10月、内外印刷を合併し本所工場とした
    • [6]1918年2月、オフセット印刷を買収した
    • [7]株券、社債券、勧業債券、政府発行の諸債券等の有価証券の需要が増大するに伴い設備と技術も漸次進歩した
    • [8]国内で流通する紙幣を民間会社において印刷したのは凸版印刷が最初である
    • [10]1926年4月、東京紙器を合併して小石川工場とし、紙製容器の製造事業を加えた
    • [11]1927年1月に大阪工場(現大淀工場)、1938年5月に板橋工場、1943年5月に富士工場を新設した
    • [12]1944年7月、精版印刷を合併して大阪支社工場とし、資本金を2,250万円に増額した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)3編 企業の歴史「凸版印刷」の項
    • [9]戦中戦後には民間最初の紙幣印刷まで行なった

1945年〜空襲からの復旧と製版法の工夫による特殊印刷

1945年、2度にわたる空襲によって凸版印刷は本社、本社工場、本所工場、大淀工場、小石川工場を焼失した。同じ年の7月に熊本県で九州工場を新設し、あわせて小石川工場の復旧を終えた。1946年8月に大淀工場、1948年4月に本社の両工場、1951年6月に本所工場が復旧し、1949年には仙台工場を開設した。1953年3月には富士工場を閉鎖し、工場は8か所になった。1955年時点の本社は東京都台東区二長町にあり、印刷、製本、紙器を事業とした。山田三郎太社長のもと、1955年5月期の営業収入は21億円、資本金は1954年12月に3億円へ増えた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史 45_諸工業「凸版印刷」の項
    • [13]1945年、二次にわたる空襲により本社、本社工場および本所、大淀、小石川の各工場を焼失した
    • [14]1945年7月、熊本県に九州工場を新設し、小石川工場の復旧を完成した
    • [15]1946年8月に大淀、1948年4月に本社両工場、1951年6月に本所工場を復旧し、1949年に仙台工場を開設した
    • [16]1953年3月に富士工場を閉鎖し、八工場となった
    • [17]1955年時点の本社は東京都台東区二長町1、事業は印刷、製本、紙器
    • [18]1955年5月期に21億円の営業収入。資本金は1954年12月に3億円。社長は山田三郎太

復旧と並行して、海外技術の導入と自社研究により印刷できる素材を紙の外へ広げた。ビニール印刷は1949年に印刷加工を始め、精細なグラビア印刷の方式を採用して繊細優雅な効果をあげた。1951年には独自考案の三色印刷機械を作り、54インチ幅のエンドレスものを印刷した。ポリエチレン印刷、アニリン印刷、チューブ成型印刷は1952年に操業を開始した。1968年時点の特殊印刷は、合成樹脂、金属、布地、セロファンを対象とした。証券印刷では、偽造防止の特殊印刷機械であるM・C・F機と並行して、製版法の工夫により繊細で鮮明な印刷の迅速化に成功した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史 45_諸工業「凸版印刷」の項
    • [19]ビニール印刷、ポリエチレン印刷、アニリン印刷等の新規事業はいずれも海外技術の導入と自社研究の成果である
    • [20]ビニール印刷は1949年に印刷加工を開始し、精細なグラビア印刷の方式を採用して繊細優雅な効果をあげて好評を収めた
    • [21]1951年に独自考案による三色印刷機械を作成し、54吋幅のエンドレスものを印刷した
    • [22]ポリエチレン印刷、アニリン印刷、チューブ成型印刷は1952年に操業を開始した
    • [24]証券印刷では偽造防止の特殊印刷機械であるM・C・F機と並行して、製版法の画期的な工夫により繊細にして鮮明な印刷の迅速化に成功した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)3編 企業の歴史「凸版印刷」の項
    • [23]1968年時点の営業品目に合成樹脂・金属・布地・セロファンなどへの特殊印刷が挙がる

1962年8月、凸版印刷は朝霞工場を開設し、本社工場をここへ移した。1964年8月には伊丹工場を開設し、大淀工場を移した。1968年時点の工場は仙台、板橋、小石川、本所、朝霞、相模原、大阪、伊丹、九州の9か所を数えた。本社直轄の技術研究所を新設し、東京と大阪にアイデアセンターを開設した。1968年5月にはトッパンビルディングとフォトスタジオを新築し、IBMの電子計算機を導入した。海外へは1963年5月に香港の合弁会社、1964年6月にニューヨークの駐在員事務所で臨み、ミルプリント社、レトラセット社、トランスワールド・ディスプレイ社と技術提携を締結した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)3編 企業の歴史「凸版印刷」の項
    • [25]1962年8月に朝霞工場を開設し、本社工場を移転した
    • [26]1964年8月に伊丹工場を開設し、大淀工場を移転した
    • [27]1968年時点の工場は仙台・板橋・小石川・本所・朝霞・相模原・大阪・伊丹・九州の九工場
    • [28]本社直轄の技術研究所を設置し、東京・大阪にアイデアセンターを置いている
    • [29]1968年5月にトッパンビルディング並にフォトスタジオを新築し、IBM電子計算機を導入した
    • [30]1963年5月に香港に合弁会社を設立、1964年6月にニューヨークに駐在員事務所を開設。ミルプリント社(米国)、レトラセット社(英国)、トランスワールド・ディスプレイ社(米国)と技術提携
参考文献[13]-[30]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史 45_諸工業「凸版印刷」の項
    • [13]1945年、二次にわたる空襲により本社、本社工場および本所、大淀、小石川の各工場を焼失した
    • [14]1945年7月、熊本県に九州工場を新設し、小石川工場の復旧を完成した
    • [15]1946年8月に大淀、1948年4月に本社両工場、1951年6月に本所工場を復旧し、1949年に仙台工場を開設した
    • [16]1953年3月に富士工場を閉鎖し、八工場となった
    • [17]1955年時点の本社は東京都台東区二長町1、事業は印刷、製本、紙器
    • [18]1955年5月期に21億円の営業収入。資本金は1954年12月に3億円。社長は山田三郎太
    • [19]ビニール印刷、ポリエチレン印刷、アニリン印刷等の新規事業はいずれも海外技術の導入と自社研究の成果である
    • [20]ビニール印刷は1949年に印刷加工を開始し、精細なグラビア印刷の方式を採用して繊細優雅な効果をあげて好評を収めた
    • [21]1951年に独自考案による三色印刷機械を作成し、54吋幅のエンドレスものを印刷した
    • [22]ポリエチレン印刷、アニリン印刷、チューブ成型印刷は1952年に操業を開始した
    • [24]証券印刷では偽造防止の特殊印刷機械であるM・C・F機と並行して、製版法の画期的な工夫により繊細にして鮮明な印刷の迅速化に成功した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)3編 企業の歴史「凸版印刷」の項
    • [23]1968年時点の営業品目に合成樹脂・金属・布地・セロファンなどへの特殊印刷が挙がる
    • [25]1962年8月に朝霞工場を開設し、本社工場を移転した
    • [26]1964年8月に伊丹工場を開設し、大淀工場を移転した
    • [27]1968年時点の工場は仙台・板橋・小石川・本所・朝霞・相模原・大阪・伊丹・九州の九工場
    • [28]本社直轄の技術研究所を設置し、東京・大阪にアイデアセンターを置いている
    • [29]1968年5月にトッパンビルディング並にフォトスタジオを新築し、IBM電子計算機を導入した
    • [30]1963年5月に香港に合弁会社を設立、1964年6月にニューヨークに駐在員事務所を開設。ミルプリント社(米国)、レトラセット社(英国)、トランスワールド・ディスプレイ社(米国)と技術提携

1959年〜トランジスタ用マスクの量産とクリーンルーム

1959年12月、メサ型トランジスタマスクの初の国産化成功が報じられると業界の反響を呼び、日本電信電話公社通信研究所、東京芝浦電気、日立製作所、三菱電機研究所、神戸工業などから試作の依頼が寄せられた。メサ型トランジスタ用のマスクは厚さ約20ミクロン、一辺数十ミリ角のニッケル薄板で、これを通してゲルマニウムに金とアルミニウムを蒸着し、電極を形づくるものであった。凸版印刷はこれを契機に本格的なマスク製造へ取り組むこととし、1960年7月に本社技術研究所が新発足した際、その第1研究部のなかに関係者を統合して実験工場を設け、実生産とともに工業化を進めた。同月26日にはメサ型トランジスタ用シャドウエバポレーションマスクの工業化試験に対し、通商産業省から鉱工業技術の工業化試験研究補助金の交付があった。この技術研究所に置かれた研究班が、精密電子部品類の製造部門が発足する基盤となった。

  • 日本経済新聞 1959年12月3日付(TOPPAN1985 凸版印刷株式会社史 所引)
    • [31]1959年12月3日付の日本経済新聞にメサ型トランジスタマスクの初の国産化成功の記事が発表されると業界の反響を呼び、日本電信電話公社通信研究所、東京芝浦電気、日立製作所、三菱電機研究所、神戸工業など各社の試作の依頼を受けた
  • TOPPAN1985 : 凸版印刷株式会社史(凸版印刷株式会社社史編纂委員会 編纂, 1985)本編第3章第3節 精密電子部品の製造
    • [32]メサ型トランジスタ用マスクは厚さ約20ミクロン、一辺数10ミリ角のニッケル薄板で、これを通してゲルマニウムに金(ベース電極)とアルミニウム(エミッタ電極)を蒸着した
    • [33]これを契機に本格的にマスク製造に取り組むこととし、1960年7月に本社技術研究所が新発足した際、その第1研究部(写真製版)のなかに関係者を統合し、実験工場を設けて実生産するとともに本格的な工業化を進めた
    • [34]1960年7月26日、「メサ型トランジスタ用シャドウエバポレーションマスクの工業化試験」に対し、通商産業省から鉱工業技術の工業化試験研究補助金の交付があった
    • [35]技術研究所にはトランジスタマスクとシャドウマスクの研究およびその工業化のための研究班が設けられ、現在の精密電子部品類の製造部門発足の基盤となった

1961年、凸版印刷はシリコントランジスタ製造用フォトマスクの試作に成功した。フォトマスクは、フォトリソグラフィ技術において対象物に任意の図形を転写するための原版となるガラス基板であり、一般に写真のネガにたとえられる。フォトマスクの製造には、印刷技術の1つである微細加工技術を応用した。1900年の創立時に掲げた偽造変造を防ぐ有価証券の製造は彫刻を主とする高級凸版印刷術に支えられ、1952年までに製版法の工夫が繊細で鮮明な印刷の迅速化に達していた。試作の成功から量産の開始までには7年を要した。

  • テクセンドフォトマスク 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1961年、シリコントランジスタ製造用フォトマスクの試作に成功した
  • テクセンドフォトマスク 有価証券報告書【事業の内容】
    • [37]フォトマスクはフォトリソグラフィ技術において対象物に任意の図形(パターン)を転写するための原版となるガラス基板であり、一般に写真のネガに例えられる
    • [38]印刷テクノロジーの一つである微細加工技術を応用し、1968年にトランジスタ用のマスクの量産を開始した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史 45_諸工業「凸版印刷」の項
    • [39]設立の目的は、彫刻を主とする高級凸版印刷術を応用して偽造変造を防止しうる有価証券を製造することにあった
    • [40]証券印刷では製版法の画期的な工夫により繊細にして鮮明な印刷の迅速化に成功した(1952年前後の記述)

1968年3月、朝霞工場の精密部品棟にクリーンルームが完成し、シリコントランジスタマスクの量産が始まった。朝霞工場は1962年8月の開設にあたって本社工場を受け入れた場所であり、1968年時点の凸版印刷が仙台から九州まで持つ9つの工場の1つであった。当時の呼び名はトランジスタマスクであり、1968年の営業品目にフォトマスクや集積回路の語はない。テクセンドフォトマスクの事業は、前身であるTOPPANグループにおいて印刷技術の1つである微細加工技術を応用し、1968年にトランジスタ用のマスクの量産を開始したことに端を発する。

  • テクセンドフォトマスク 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1968年3月、朝霞工場精密部品棟にクリーンルームが完成し、シリコントランジスタマスクの量産を開始した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)3編 企業の歴史「凸版印刷」の項
    • [42]1962年8月に朝霞工場を開設し、本社工場を移転した
    • [43]1968年時点の工場は仙台・板橋・小石川・本所・朝霞・相模原・大阪・伊丹・九州の九工場
    • [44]1968年時点の産業資材部門の品目はトランジスタマスク・メタルフィルター・シャドウマスク・電子計算機用印字リング他、ガラスパターンと記載され、フォトマスク・IC・集積回路の語はない
  • テクセンドフォトマスク 有価証券報告書【事業の内容】
    • [45]テクセンドフォトマスクグループの事業は、前身であるTOPPANグループにおいて印刷テクノロジーの一つである微細加工技術を応用し、1968年にトランジスタ用のマスクの量産を開始したことに端を発する

1968年の産業資材部門は、トランジスタマスク、メタルフィルター、シャドウマスク、電子計算機用印字リング、ガラスパターンを品目に並べ、ソノシートとシンクロシートの音響製品、家具・建材向けの化粧板用原紙、メラミン製品、給付用紙、塩ビ製品も同じ部門に含めた。営業品目の総括では、凸版、活版、原色版、オフセット、凹版、グラビアの一般印刷と並んで電気化学機器部品の製造が挙がる。1968年時点の凸版印刷は資本金60億円、従業員6,179名を抱え、沢村嘉一社長が経営にあたった。朝霞の工場は1979年に精密機器工場と呼ばれ、精密電子部品を生産していた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)3編 企業の歴史「凸版印刷」の項
    • [46]1968年の産業資材部門はトランジスタマスク・メタルフィルター・シャドウマスク・電子計算機用印字リング他、ガラスパターン、音響製品(ソノシート・シンクロシート)、化粧板用原紙(家具・建材)、メラミン製品、給付用紙、塩ビ製品
    • [47]営業品目は凸版・活版・原色版・オフセット・凹版・グラビアその他の一般印刷、合成樹脂・金属・布地・セロファンなどへの特殊印刷、立体写真印刷応用製品、製本および電気化学機器部品の製造、その他印刷関連製品の製造販売
    • [48]1968年時点の社長は沢村嘉一、資本金60億円(1968年10月1日現在)、従業員6,179名
  • 日経ビジネス 1979年1月15日号
    • [49]1979年時点で凸版印刷の朝霞市の工場は精密機器工場と呼ばれ、精密電子部品を生産していた
参考文献[31]-[49]
  • 日本経済新聞 1959年12月3日付(TOPPAN1985 凸版印刷株式会社史 所引)
    • [31]1959年12月3日付の日本経済新聞にメサ型トランジスタマスクの初の国産化成功の記事が発表されると業界の反響を呼び、日本電信電話公社通信研究所、東京芝浦電気、日立製作所、三菱電機研究所、神戸工業など各社の試作の依頼を受けた
  • TOPPAN1985 : 凸版印刷株式会社史(凸版印刷株式会社社史編纂委員会 編纂, 1985)本編第3章第3節 精密電子部品の製造
    • [32]メサ型トランジスタ用マスクは厚さ約20ミクロン、一辺数10ミリ角のニッケル薄板で、これを通してゲルマニウムに金(ベース電極)とアルミニウム(エミッタ電極)を蒸着した
    • [33]これを契機に本格的にマスク製造に取り組むこととし、1960年7月に本社技術研究所が新発足した際、その第1研究部(写真製版)のなかに関係者を統合し、実験工場を設けて実生産するとともに本格的な工業化を進めた
    • [34]1960年7月26日、「メサ型トランジスタ用シャドウエバポレーションマスクの工業化試験」に対し、通商産業省から鉱工業技術の工業化試験研究補助金の交付があった
    • [35]技術研究所にはトランジスタマスクとシャドウマスクの研究およびその工業化のための研究班が設けられ、現在の精密電子部品類の製造部門発足の基盤となった
  • テクセンドフォトマスク 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1961年、シリコントランジスタ製造用フォトマスクの試作に成功した
    • [41]1968年3月、朝霞工場精密部品棟にクリーンルームが完成し、シリコントランジスタマスクの量産を開始した
  • テクセンドフォトマスク 有価証券報告書【事業の内容】
    • [37]フォトマスクはフォトリソグラフィ技術において対象物に任意の図形(パターン)を転写するための原版となるガラス基板であり、一般に写真のネガに例えられる
    • [38]印刷テクノロジーの一つである微細加工技術を応用し、1968年にトランジスタ用のマスクの量産を開始した
    • [45]テクセンドフォトマスクグループの事業は、前身であるTOPPANグループにおいて印刷テクノロジーの一つである微細加工技術を応用し、1968年にトランジスタ用のマスクの量産を開始したことに端を発する
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史 45_諸工業「凸版印刷」の項
    • [39]設立の目的は、彫刻を主とする高級凸版印刷術を応用して偽造変造を防止しうる有価証券を製造することにあった
    • [40]証券印刷では製版法の画期的な工夫により繊細にして鮮明な印刷の迅速化に成功した(1952年前後の記述)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)3編 企業の歴史「凸版印刷」の項
    • [42]1962年8月に朝霞工場を開設し、本社工場を移転した
    • [43]1968年時点の工場は仙台・板橋・小石川・本所・朝霞・相模原・大阪・伊丹・九州の九工場
    • [44]1968年時点の産業資材部門の品目はトランジスタマスク・メタルフィルター・シャドウマスク・電子計算機用印字リング他、ガラスパターンと記載され、フォトマスク・IC・集積回路の語はない
    • [46]1968年の産業資材部門はトランジスタマスク・メタルフィルター・シャドウマスク・電子計算機用印字リング他、ガラスパターン、音響製品(ソノシート・シンクロシート)、化粧板用原紙(家具・建材)、メラミン製品、給付用紙、塩ビ製品
    • [47]営業品目は凸版・活版・原色版・オフセット・凹版・グラビアその他の一般印刷、合成樹脂・金属・布地・セロファンなどへの特殊印刷、立体写真印刷応用製品、製本および電気化学機器部品の製造、その他印刷関連製品の製造販売
    • [48]1968年時点の社長は沢村嘉一、資本金60億円(1968年10月1日現在)、従業員6,179名
  • 日経ビジネス 1979年1月15日号
    • [49]1979年時点で凸版印刷の朝霞市の工場は精密機器工場と呼ばれ、精密電子部品を生産していた

筆者考察

凸版印刷が1900年に掲げた設立の目的は、偽造変造を防げる株券や社債券を刷ることであった。偽造を防ぐ版とは、他人に真似のできない細かさで正確に刷れる版のことである。この一点に絞って磨かれた彫刻と製版の技術は、刷る相手が紙であるかぎり証券印刷という狭い市場にしか売れない。創立当初に民間で有価証券専門の工場を経営することが難しく、煙草包装紙やポスターやレーベルを併せて刷って工場を回したのは、そのためである。技術は市場に対して最初から過剰であり、その過剰を引き受ける買い手が現れるまでに60年を要した。1918年のオフセット印刷の買収も1926年の東京紙器の合併も、刷れる素材を広げて精度の行き場を探す動きの延長にあった。

その買い手はトランジスタであった。1959年12月にメサ型トランジスタマスクの国産化が報じられると、日本電信電話公社通信研究所から東京芝浦電気、日立製作所、三菱電機研究所、神戸工業まで試作の依頼が集まった。依頼した各社が求めたのは、印刷会社が証券のために抱えていた精度そのものである。1961年のシリコントランジスタ用フォトマスクの試作も、1968年3月の朝霞工場精密部品棟でのクリーンルーム完成と量産開始も、技術を新しく獲得した出来事ではなく、同じ技術の売り先を差し替えた出来事だった。現に1968年の営業品目にフォトマスクや集積回路の語はまだなく、トランジスタマスクは産業資材部門に並ぶ一品目にすぎない。

出典・参考

7件
出典・参考
  • テクセンドフォトマスク 有価証券報告書【沿革】
  • テクセンドフォトマスク 有価証券報告書【事業の内容】
  • 日本経済新聞 1959年12月3日付(TOPPAN1985 凸版印刷株式会社史 所引)
  • TOPPAN1985 : 凸版印刷株式会社史(凸版印刷株式会社社史編纂委員会 編纂, 1985)本編第3章第3節 精密電子部品の製造
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史 45_諸工業「凸版印刷」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)3編 企業の歴史「凸版印刷」の項
  • 日経ビジネス 1979年1月15日号

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