第2章 年〜年

吉本興業:吉本興業合名会社への改組と映画興行への業態転換

35劇場の焼失から映画館チェーンの再建へ

1932年〜劇場35館への拡大と映画・演劇への業務拡張

1931年9月に吉本興業合名会社となった会社は、演芸人を育て指導する機関を置くとともに、演劇と映画へ業務を広げた。経営する劇場と寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えるに至る。1932年3月には東京支社を開き、関東の興行を大阪から離れた組織に担わせた。劇場と寄席を合わせて35という数は、1912年に買った第二文芸館の一軒から数えて19年での到達である。寄席は一軒あたりの客席が限られ、番組を替えても収入の上限は席数で決まる。劇場の数を増やすことは、同じ演者を掛ける場を増やすと同時に、興行が途切れたときに残る固定費を増やすことでもあった。

  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [1]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
    • [2]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [3]1932年3月、吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設

1933年、吉本興業合名会社は漫才の横山エンタツと花菱アチャコを組ませ、野球の早慶戦を題材にした演目を当てた。落語の合間に挟む芸だった万才は、ここで番組の主役へ移る。1930年に大阪・千日前の南陽館を万才の専門館としてから3年、専門館のために組んだ番組が会社の名を全国へ広げる演目を生んだ。演者を育てる機関は1931年の改組とともに置かれており、当たった組の型を次の組へ移す下地はすでにあった。万才の一組が当たれば、専門館の番組はその組を軸に組み直せる。当たりの再現を組織で引き受ける形が、この時期に整っていく。

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [4]1933年(昭和8年)、エンタツ・アチャコの漫才コンビをつくり「早慶戦」を大ヒットさせ吉本の名を高めた
  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [5]1930年、大阪・千日前の「南陽館」を万才の専門館とし十銭で開放
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [6]1931年9月の吉本興業合名会社への組織変更とともに演芸人の育成・指導機関を設置

1934年10月、吉本興業合名会社は日活と提携し、映画「佐渡情話」を製作した。小屋を持ち演者を抱える会社が、フィルムを作る側にも回ったことになる。1955年の会社銀行八十年史は、演劇と映画への業務拡張を1931年の改組以降の動きとして一括りに記録している。映画は一度作れば各地の小屋で繰り返し掛けられる一方、演者の体は一つしかなく、寄席の番組は同じ日に一箇所でしか立たない。直営の劇場で自社が関わった映画を掛ければ、製作から興行までが一つの帳簿に収まる。映画の製作は、演者を抱えなくても番組が立つ収入源を会社に与えた。

  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [7]1934年10月、日活と提携し映画「佐渡情話」を製作
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [8]1931年9月の組織変更以降、演芸人の育成・指導機関の設置と演劇・映画への業務拡張に努めたと記載
参考文献[1]-[8]
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [1]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
    • [2]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
    • [6]1931年9月の吉本興業合名会社への組織変更とともに演芸人の育成・指導機関を設置
    • [8]1931年9月の組織変更以降、演芸人の育成・指導機関の設置と演劇・映画への業務拡張に努めたと記載
    • [3]1932年3月、吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設
    • [5]1930年、大阪・千日前の「南陽館」を万才の専門館とし十銭で開放
    • [7]1934年10月、日活と提携し映画「佐渡情話」を製作
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [4]1933年(昭和8年)、エンタツ・アチャコの漫才コンビをつくり「早慶戦」を大ヒットさせ吉本の名を高めた

1938年〜戦時の動員と戦災による劇場・演芸陣の喪失

1938年1月、吉本興業合名会社は日中戦争の戦地へ演芸人の一団「わらわし隊」を送った。興行の場は劇場から戦地の慰問へ広がり、演者の仕事は会社が取り次ぐ形で外へ出た。1939年には演芸人の養成所「漫才道場」を開き、1931年の改組で置いた育成機関を独立した学校の形に改めている。演者を育てて送り出す機能は、劇場を増やせなくなった局面でも会社の内側に残った。抱える小屋の数が伸びを止めても、抱える演者の数は増やせる。養成所を持つことは、演者の補充を外の一門に頼らずに済ませることでもあった。

  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [9]1938年1月、日中戦争の戦地慰問に演芸人の一団「わらわし隊」を派遣
    • [10]1939年、演芸人の養成所「漫才道場」を開校
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [11]1931年9月の吉本興業合名会社への組織変更とともに演芸人の育成・指導機関を設置

1945年3月、東京と大阪の空襲で、吉本興業合名会社は大半の劇場を焼失した。各都市で35を数えた劇場と寄席のほとんどは、損害を受けるか灰燼に帰した。その打撃は、1955年に刊行された会社銀行八十年史の沿革にも書き残されている。1950年版の株式会社年鑑の備考欄も、戦災によって35劇場を失ったことを沿革の一項に挙げている。小屋を買い集めることで伸びてきた会社にとって、失われたのは営業の道具ではなく資産そのものだった。土地が残っても、客を入れる箱を建て直さなければ興行は打てない。1950年版の年鑑が挙げる事業場は、千日前グランドから浅草グランドまでの8箇所にとどまる。

  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [12]1945年3月、東京・大阪の空襲で大半の劇場を焼失
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [13]経営する劇場および寄席は各都市で35を数えたが、太平洋戦争によりそのほとんどが損害を受け、または灰燼に帰した
    • [14]経営する劇場および寄席は各都市で35を数えたが、太平洋戦争によりそのほとんどが損害を受け、または灰燼に帰した
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [15]備考欄の沿革に「戦災により三十五劇場」を失った旨を記載
    • [16]事業場として千日前グランド・常盤座・梅田グランド・新世界グランド・京都花月劇場・浅草グランド・ヤサカグランド・グランド京都(キヤバレー)の8箇所を記載

1945年6月、吉本興業合名会社は演芸人への貸金を帳消しにし、専属契約から解いて演芸陣を解散した。貸金を帳消しにするとは、演者に対する債権を放棄することである。抱えていた演者を自ら手放したことになり、専属という縛りもここで解けた。戦争によって芸人は散り散りになり、戦後に会社が持っていたのは焼け跡の土地だけだった。小屋と演者という二つの資産のうち、小屋は空襲で失われ、演者は会社の側から解いた。1912年から33年かけて組み上げた興行の仕組みは、この時点でいったん失われている。専属を解いた会社には、再び演者を集めるときに使える縛りが何も残らなかった。

  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [17]1945年6月、演芸人への貸金を帳消しにして専属から解放し演芸陣を解散
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [18]戦後、吉本が抱えていた芸人たちは戦争で散り散りになっており、空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建てて映画興行を主業としていた
参考文献[9]-[18]
    • [9]1938年1月、日中戦争の戦地慰問に演芸人の一団「わらわし隊」を派遣
    • [10]1939年、演芸人の養成所「漫才道場」を開校
    • [12]1945年3月、東京・大阪の空襲で大半の劇場を焼失
    • [17]1945年6月、演芸人への貸金を帳消しにして専属から解放し演芸陣を解散
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [11]1931年9月の吉本興業合名会社への組織変更とともに演芸人の育成・指導機関を設置
    • [13]経営する劇場および寄席は各都市で35を数えたが、太平洋戦争によりそのほとんどが損害を受け、または灰燼に帰した
    • [14]経営する劇場および寄席は各都市で35を数えたが、太平洋戦争によりそのほとんどが損害を受け、または灰燼に帰した
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [15]備考欄の沿革に「戦災により三十五劇場」を失った旨を記載
    • [16]事業場として千日前グランド・常盤座・梅田グランド・新世界グランド・京都花月劇場・浅草グランド・ヤサカグランド・グランド京都(キヤバレー)の8箇所を記載
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [18]戦後、吉本が抱えていた芸人たちは戦争で散り散りになっており、空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建てて映画興行を主業としていた

1948年〜株式会社への改組と映画興行による再建

1948年1月7日、資本金650万円をもって吉本興業株式会社が設立された。同年7月には吉本興業合名会社の営業の一切を譲り受け、個人所有の資産を現物出資して資本金を2,600万円へ引き上げている。1949年5月には大阪証券取引所へ株式を上場した。焼けた小屋を建て直す資金を、興行の会社が株式市場から取る形になった。1950年3月、創業者の吉本せいが没する。1950年版の株式会社年鑑には会長として名が残り、社長の席には弟の林正之助が就いていた。上場した年の下期にあたる1949年9月期の興行収入は6,034万1千円で、半期の収入が資本金2,600万円の2倍を超えていた。

  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [19]昭和23年1月、資本金650万円をもって吉本興業株式会社を設立
  • 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
    • [20]沿革に「昭和23年7月 吉本興業合名会社の営業譲渡を受く」「個人所有の現物出資と合名会社合併により資本金2千600万円に増資」と記載
  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [21]1949年5月に大阪証券取引所に上場、1950年3月に創業者の吉本せいが死去
    • [23]1949年5月に大阪証券取引所に上場、1950年3月に創業者の吉本せいが死去
  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [22]1948年に吉本興業株式会社へ改組し、1949年に大証一部、1961年に東証二部へ株式を上場した
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [24]重役欄に会長 吉本せい、社長 林正之助、専務 林弘高を記載。昭和24年9月期の興行収入は60,341千円、資本金は26,000千円
    • [25]重役欄に会長 吉本せい、社長 林正之助、専務 林弘高を記載。昭和24年9月期の興行収入は60,341千円、資本金は26,000千円

空襲で焼け落ちた演芸場の跡地には、映画を上映する館が建てられていった。戦後の再出発を担ったのは寄席ではなくそうした館で、映画の上映が主な事業となった。1955年刊の会社銀行八十年史は、主な業務を映画興行とし、京阪神地区の直営劇場は6館、関東地区は傍系の吉本株式会社の経営と記す。名古屋地区ではトヨタと手を組んで中日本興業株式会社を設け、東西のチェーンを固めようとしたとも伝える。さかのぼって1950年版の年鑑でも、営業目的の第一項は映画興行で、演劇・演芸の興行はその後に続き、同年の事業場一覧に載る8箇所の中にはキャバレーが1箇所含まれていた。

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [26]戦後、空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建て、もっぱら映画興行を主業としていた
    • [27]戦後、空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建て、もっぱら映画興行を主業としていた
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [28]映画興行をおもな業務とし、直営劇場は京阪神地区に6館、関東地区は傍系の吉本株式会社が経営、名古屋地区ではトヨタとの提携のもとに中日本興業株式会社を設立してチェーンの強化を図ったと記載
    • [29]映画興行をおもな業務とし、直営劇場は京阪神地区に6館、関東地区は傍系の吉本株式会社が経営、名古屋地区ではトヨタとの提携のもとに中日本興業株式会社を設立してチェーンの強化を図ったと記載
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [30]営業目的として「1.映画興行 2.演劇、演芸興行 3.キヤバレー 4.前各号に附帯する業務」を記載
    • [31]営業目的として「1.映画興行 2.演劇、演芸興行 3.キヤバレー 4.前各号に附帯する業務」を記載

吉本興業の資本金は、1948年1月の650万円から1957年10月の3億3,000万円まで、10年で6度引き上げられた。1953年5月に5,500万円、1954年11月に1億1,000万円、1956年2月に2億2,000万円という刻みである。1954年4月から9月の半期の興行収入は1億8,115万8千円で、上場した1949年9月期の3倍に達している。増資で得た資金は土地建物構築物へ向かい、1958年9月期の有形固定資産は4億6,055万6千円に達した。1955年版の年鑑は、定款に挙げたキャバレー・食堂・出版を現在は営業していないと注記しており、定款の広さと実際の事業とは離れていた。同じ時期の定款には、映画・演劇の興行やキャバレー・食堂の経営と並んで、演芸家の有料職業紹介事業が加わっている。小屋を建て直してきた会社が、演者を取り次ぐ業を定款に書き入れたことになる。

  • 株式会社年鑑 1959年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472810)
    • [32]沿革に資本金の推移として昭和23年1月650万円、23年7月2千600万円、28年5月5千500万円、29年11月1億1千万円、31年2月2億2千万円、32年10月3億3千万円を記載
    • [33]沿革に資本金の推移として昭和23年1月650万円、23年7月2千600万円、28年5月5千500万円、29年11月1億1千万円、31年2月2億2千万円、32年10月3億3千万円を記載
    • [35]昭和33年9月期の有形固定資産は460,556千円。主なる事業内容に「1.映画、演劇、その他各種の興行 2.娯楽場、キヤバレー、食堂、喫茶の経営並びに煙草の販売 3.演芸家の有料職業紹介事業」を記載
    • [37]昭和33年9月期の有形固定資産は460,556千円。主なる事業内容に「1.映画、演劇、その他各種の興行 2.娯楽場、キヤバレー、食堂、喫茶の経営並びに煙草の販売 3.演芸家の有料職業紹介事業」を記載
  • 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
    • [34]昭和29年4月から9月の営業状況として興行収入181,158千円、その他21,963千円、合計203,121千円を記載。主なる事業内容の注記に「キヤバレー、食堂、出版は現在営業していない」と記載
    • [36]昭和29年4月から9月の営業状況として興行収入181,158千円、その他21,963千円、合計203,121千円を記載。主なる事業内容の注記に「キヤバレー、食堂、出版は現在営業していない」と記載
参考文献[19]-[37]
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [19]昭和23年1月、資本金650万円をもって吉本興業株式会社を設立
    • [28]映画興行をおもな業務とし、直営劇場は京阪神地区に6館、関東地区は傍系の吉本株式会社が経営、名古屋地区ではトヨタとの提携のもとに中日本興業株式会社を設立してチェーンの強化を図ったと記載
    • [29]映画興行をおもな業務とし、直営劇場は京阪神地区に6館、関東地区は傍系の吉本株式会社が経営、名古屋地区ではトヨタとの提携のもとに中日本興業株式会社を設立してチェーンの強化を図ったと記載
  • 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
    • [20]沿革に「昭和23年7月 吉本興業合名会社の営業譲渡を受く」「個人所有の現物出資と合名会社合併により資本金2千600万円に増資」と記載
    • [34]昭和29年4月から9月の営業状況として興行収入181,158千円、その他21,963千円、合計203,121千円を記載。主なる事業内容の注記に「キヤバレー、食堂、出版は現在営業していない」と記載
    • [36]昭和29年4月から9月の営業状況として興行収入181,158千円、その他21,963千円、合計203,121千円を記載。主なる事業内容の注記に「キヤバレー、食堂、出版は現在営業していない」と記載
    • [21]1949年5月に大阪証券取引所に上場、1950年3月に創業者の吉本せいが死去
    • [23]1949年5月に大阪証券取引所に上場、1950年3月に創業者の吉本せいが死去
  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [22]1948年に吉本興業株式会社へ改組し、1949年に大証一部、1961年に東証二部へ株式を上場した
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [24]重役欄に会長 吉本せい、社長 林正之助、専務 林弘高を記載。昭和24年9月期の興行収入は60,341千円、資本金は26,000千円
    • [25]重役欄に会長 吉本せい、社長 林正之助、専務 林弘高を記載。昭和24年9月期の興行収入は60,341千円、資本金は26,000千円
    • [30]営業目的として「1.映画興行 2.演劇、演芸興行 3.キヤバレー 4.前各号に附帯する業務」を記載
    • [31]営業目的として「1.映画興行 2.演劇、演芸興行 3.キヤバレー 4.前各号に附帯する業務」を記載
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [26]戦後、空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建て、もっぱら映画興行を主業としていた
    • [27]戦後、空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建て、もっぱら映画興行を主業としていた
  • 株式会社年鑑 1959年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472810)
    • [32]沿革に資本金の推移として昭和23年1月650万円、23年7月2千600万円、28年5月5千500万円、29年11月1億1千万円、31年2月2億2千万円、32年10月3億3千万円を記載
    • [33]沿革に資本金の推移として昭和23年1月650万円、23年7月2千600万円、28年5月5千500万円、29年11月1億1千万円、31年2月2億2千万円、32年10月3億3千万円を記載
    • [35]昭和33年9月期の有形固定資産は460,556千円。主なる事業内容に「1.映画、演劇、その他各種の興行 2.娯楽場、キヤバレー、食堂、喫茶の経営並びに煙草の販売 3.演芸家の有料職業紹介事業」を記載
    • [37]昭和33年9月期の有形固定資産は460,556千円。主なる事業内容に「1.映画、演劇、その他各種の興行 2.娯楽場、キヤバレー、食堂、喫茶の経営並びに煙草の販売 3.演芸家の有料職業紹介事業」を記載

筆者考察

戦争が吉本興業から奪ったのは劇場ではなく、劇場と演者を結ぶ仕組みそのものだった。各都市で35を数えた劇場と寄席は、1945年3月の空襲でそのほとんどが焼けている。だが失われたのはそれだけではない。同年6月に演芸人への貸金を帳消しにして専属契約から解いたのは、抱えていた演者を会社の側から手放す決定である。小屋は空襲で失い、演者は自ら解いた。1912年から33年かけて積み上げた興行の仕組みは、この二つで一度に消えた。1948年1月に資本金650万円の株式会社として出直したとき、手元に残っていたのは焼け跡の土地だけだった。同年7月に合名会社の営業を譲り受けて資本金を2,600万円へ引き上げたものの、それは失われた35館を建て直せる額ではない。

焼け跡に建て直したのは寄席ではなく映画館だった。映画は一度作れば各地の小屋で繰り返し掛けられ、演者を抱えなくても番組が立つ。演芸陣を解散した会社に選べたのは、この収入の型である。1950年版の株式会社年鑑が営業目的の第一項に映画興行を置き、演劇・演芸興行をその次に並べたのは、その帰結にすぎない。資本金は1948年の650万円から1957年の3億3,000万円まで10年で6度引き上げられ、資金は土地建物構築物へ向かった。もっとも1958年時点の定款には、映画・演劇の興行と並んで演芸家の有料職業紹介事業が加わっている。小屋を建て直してきた会社が演者を取り次ぐ業を書き加えたところから、次の20年が始まる。

株式会社設立から10年間の資本金 1948年の650万円から1957年の3億3,000万円へ(万円)

650 会社設立 5,500 5,500万円へ 11,000 1億1,000万円へ 22,000 2億2,000万円へ 33,000 3億3,000万円へ
  • 1948年7月の2,600万円への増資(合名会社の営業譲受と現物出資)を含め、10年で6度の増資が行われた。
  • 出所は株式会社年鑑 1959年版の沿革欄。

1932年〜1958年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 4 n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 4 0.0% n/a n/a n/a

出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 半期合算

出典・参考

7件
出典・参考
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
  • 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
  • 株式会社年鑑 1959年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472810)
  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
  • 吉本興業 公式サイト 沿革

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