吉本興業:第二文芸館の買収と寄席興行の垂直統合
第二文芸館の買収から演芸各派の統合へ
1912年〜取得した小屋と番組編成の組み替え
1912年4月、吉本吉兵衛と妻のせいは、大阪・天満天神の裏門にあった寄席「第二文芸館」を買い取り、寄席経営に乗り出した。取得したのは演者の一座ではなく、客を入れる小屋そのものである。会社が公表する沿革はこの年を創業と定めているが、上場後に株式会社年鑑へ載せた沿革は1914年4月の吉本興行部の発足から始まり、1955年に刊行された会社銀行八十年史も同じ日付を設立として記録する。小屋を持った日と、興行を業として名乗った日とが2年離れていたことになる。1950年版の株式会社年鑑の備考欄は前身の発足をさらに早い1913年と記しており、創業の年は資料によって三通りに分かれる。
- 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
- [1]1912年(明治45年)、吉本吉兵衛・せい夫妻が大阪の天満天神裏門にあった寄席「第2文芸館」を入手して寄席経営に乗り出した
- [2]1912年(明治45年)、吉本吉兵衛・せい夫妻が大阪の天満天神裏門にあった寄席「第2文芸館」を入手して寄席経営に乗り出した
- 吉本興業 公式サイト 沿革
- [3]1912年4月、吉本泰三・せい夫妻が大阪・天満の寄席「第二文芸館」を買収し寄席経営に着手
- 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
- [4]沿革の第1項を「大正3年4月 吉本興行部として演芸を主とする寄席経営にて発足」と記載
- 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
- [5]事業の沿革は大正3年4月に吉本せいが吉本興行部を設立し、もっぱら演芸を中心とする寄席経営を行ったことに始まると記載
- 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
- [6]備考欄に「当社の前身は大正2年に発足した吉本興業部である」と記載
吉兵衛が進めたのは、落語の合間に漫才・民謡・手品などを挟む、変化に富んだ番組の組み立てだった。落語の間に別種の芸を差し込めば、客は同じ木戸銭で複数の型の芸を見ることになる。1915年10月には大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買い取り、「花月亭」の名で興行した。1917年には吉本興行部の看板を掲げ、寄席を連ねて経営する形に踏み出している。客の入れ替わりが速くなれば、同じ小屋で打てる興行の数も増える。1955年の会社銀行八十年史は、この時期の事業を演芸を中心とする寄席経営と記録しており、演劇も映画もまだ業務に入っていない。番組の組み替えは一軒の工夫にとどまらず、買い足す小屋のすべてに移すことができた。
- 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
- [7]吉本吉兵衛の寄席経営で特筆されるのは、落語の間に漫才・民謡・手品などをはさむバラエティに富んだ番組構成を積極的に推進したことである
- 吉本興業 公式サイト 沿革
- [8]1915年10月に大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買収し「花月亭」の名で興行、1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手
- [9]1915年10月に大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買収し「花月亭」の名で興行、1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手
- 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
- [10]吉本興行部は演芸を中心とする寄席経営を行い、演劇・映画への業務拡張は1931年9月の合名会社への組織変更以降の動きとして記載
1921年11月、吉本興行部は東京・神田の寄席を買い取って「神田花月」を開き、大阪の外にも小屋を置いた。買い取った小屋には1915年の花月亭以来「花月」の名が付けられ、大阪から京都・東京へ連なった。同じ演者を複数の小屋へ順に回せば、一人あたりの出番は増え、小屋の側は毎日の番組を埋められる。第二文芸館から数えて、夫妻が連鎖経営に組み込んだ寄席は23軒に達した。1917年に掲げた吉本興行部の看板は、個々の小屋の名ではなく、それらを統括する主体の名だった。小屋を買う資金は、その小屋が生む木戸銭で賄う形になっていく。
- 吉本興業 公式サイト 沿革
- [11]1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手し、1921年11月に東京・神田の寄席を買収して「神田花月」を開場。1915年の花月亭以降「花月」の名を冠した寄席を大阪・京都・東京に展開
- [12]1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手し、1921年11月に東京・神田の寄席を買収して「神田花月」を開場。1915年の花月亭以降「花月」の名を冠した寄席を大阪・京都・東京に展開
- [14]1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手し、1921年11月に東京・神田の寄席を買収して「神田花月」を開場。1915年の花月亭以降「花月」の名を冠した寄席を大阪・京都・東京に展開
- 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
- [13]バラエティに富んだ番組構成を推進した成果として、23の寄席をチェーン経営するに至った
参考文献[1]-[14]
- 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
- [1]1912年(明治45年)、吉本吉兵衛・せい夫妻が大阪の天満天神裏門にあった寄席「第2文芸館」を入手して寄席経営に乗り出した
- [2]1912年(明治45年)、吉本吉兵衛・せい夫妻が大阪の天満天神裏門にあった寄席「第2文芸館」を入手して寄席経営に乗り出した
- [7]吉本吉兵衛の寄席経営で特筆されるのは、落語の間に漫才・民謡・手品などをはさむバラエティに富んだ番組構成を積極的に推進したことである
- [13]バラエティに富んだ番組構成を推進した成果として、23の寄席をチェーン経営するに至った
- [3]1912年4月、吉本泰三・せい夫妻が大阪・天満の寄席「第二文芸館」を買収し寄席経営に着手
- [8]1915年10月に大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買収し「花月亭」の名で興行、1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手
- [9]1915年10月に大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買収し「花月亭」の名で興行、1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手
- [11]1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手し、1921年11月に東京・神田の寄席を買収して「神田花月」を開場。1915年の花月亭以降「花月」の名を冠した寄席を大阪・京都・東京に展開
- [12]1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手し、1921年11月に東京・神田の寄席を買収して「神田花月」を開場。1915年の花月亭以降「花月」の名を冠した寄席を大阪・京都・東京に展開
- [14]1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手し、1921年11月に東京・神田の寄席を買収して「神田花月」を開場。1915年の花月亭以降「花月」の名を冠した寄席を大阪・京都・東京に展開
- 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
- [4]沿革の第1項を「大正3年4月 吉本興行部として演芸を主とする寄席経営にて発足」と記載
- 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
- [5]事業の沿革は大正3年4月に吉本せいが吉本興行部を設立し、もっぱら演芸を中心とする寄席経営を行ったことに始まると記載
- [10]吉本興行部は演芸を中心とする寄席経営を行い、演劇・映画への業務拡張は1931年9月の合名会社への組織変更以降の動きとして記載
- 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
- [6]備考欄に「当社の前身は大正2年に発足した吉本興業部である」と記載
1922年〜演芸各派の吸収による出演者の内部化
1922年9月、吉本興行部は対立していた「浪花三友派」などを吸収し、大阪の演芸界の大合同を成し遂げた。小屋を買い集めても、そこへ上げる演者を差し向けるのは演芸の各派である。派を取り込むことは、番組の供給元を興行部の内側へ移すことを意味した。演者を抱える側と小屋を持つ側が一つになれば、出演料も番組の順序も内側で決められる。1955年の会社銀行八十年史は、この時期の事業を演芸を主とする寄席経営と記し、演劇や映画への拡張を後年の動きとして分けている。大正の末には東京・横浜へも進出し、傘下の寄席は30近くに達した。
- 吉本興業 公式サイト 沿革
- [15]1922年9月、対立していた「浪花三友派」などを吸収し大阪の演芸界を大合同
- 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
- [16]吉本興行部は演芸を中心とする寄席経営を行い、演劇・映画への業務拡張は1931年9月の合名会社への組織変更以降の動きとして記載
- 日経ビジネス 1998年10月19日号
- [17]大正末期には東京・横浜などにも進出し、30近い寄席を傘下に収めた
1924年2月、創業者の吉本吉兵衛が没した。寄席を買ってから12年、連鎖経営に組み込んだ小屋が23軒に達した時点での死である。経営は妻のせいが引き継ぎ、1955年の会社銀行八十年史は吉本興行部を設立した者をせいの名で記録している。実務を支えたのはせいの弟の林正之助で、姉に請われて18歳で興行の世界に入り、吉兵衛の急逝ののちは姉の片腕として寄席興行を担った。1950年版の株式会社年鑑では、会長に吉本せい、社長に林正之助、専務に林弘高の名が並ぶ。正之助は18歳で興行の世界に入ってから74年にわたり会社に在り、92歳までオーナーの座を占めた。創業者の家族が役員の席をそのまま占める構成だった。
- 吉本興業 公式サイト 沿革
- [18]1924年2月、創業者の吉本泰三(吉兵衛)が死去
- 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
- [19]23の寄席をチェーン経営するに至ったが、吉本吉兵衛は1924年に死亡した
- 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
- [20]事業の沿革は大正3年4月に吉本せいが吉本興行部を設立したことに始まると記載
- 日経ビジネス 1998年10月19日号
- [21]せいの弟の林正之助が姉に請われて大正の初めに18歳で興行の世界に入り、吉兵衛の急逝後はせいの片腕として寄席興行を担った。正之助は勤続74年、18歳から92歳まで吉本興業のオーナーとして君臨した
- [23]せいの弟の林正之助が姉に請われて大正の初めに18歳で興行の世界に入り、吉兵衛の急逝後はせいの片腕として寄席興行を担った。正之助は勤続74年、18歳から92歳まで吉本興業のオーナーとして君臨した
- 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
- [22]重役欄に会長 吉本せい、社長 林正之助、専務 林弘高を記載
1924年7月、吉本興行部はキネマ部を設け、大阪・福島に映画の常設館「キネマ花月」を開いた。寄席として使う小屋と映画館とでは、番組を組む手間も客の回転も違う。同じ土地に建つ箱を、寄席にするか映画館にするかを選べる状態になった。映画は演者を抱えずに番組が立ち、フィルムを借りれば同じ小屋で繰り返し掛けられる。1955年の会社銀行八十年史は、演劇や映画への業務拡張を1931年の合名会社への改組以降の動きとして記し、興行部の時代に始まった映画館の経営を沿革に数えていない。会社が公表する沿革と、後年に刊行された会社史とで、映画へ踏み出した時期の記述は分かれている。
- 吉本興業 公式サイト 沿革
- [24]1924年7月にキネマ部を設置し大阪・福島に「キネマ花月」を開場
- [26]1924年7月にキネマ部を設置し大阪・福島に「キネマ花月」を開場
- 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
- [25]1931年9月の吉本興業合名会社への組織変更とともに、演芸人の育成・指導機関の設置と演劇・映画への業務拡張に努めたと記載
参考文献[15]-[26]
- [15]1922年9月、対立していた「浪花三友派」などを吸収し大阪の演芸界を大合同
- [18]1924年2月、創業者の吉本泰三(吉兵衛)が死去
- [24]1924年7月にキネマ部を設置し大阪・福島に「キネマ花月」を開場
- [26]1924年7月にキネマ部を設置し大阪・福島に「キネマ花月」を開場
- 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
- [16]吉本興行部は演芸を中心とする寄席経営を行い、演劇・映画への業務拡張は1931年9月の合名会社への組織変更以降の動きとして記載
- [20]事業の沿革は大正3年4月に吉本せいが吉本興行部を設立したことに始まると記載
- [25]1931年9月の吉本興業合名会社への組織変更とともに、演芸人の育成・指導機関の設置と演劇・映画への業務拡張に努めたと記載
- 日経ビジネス 1998年10月19日号
- [17]大正末期には東京・横浜などにも進出し、30近い寄席を傘下に収めた
- [21]せいの弟の林正之助が姉に請われて大正の初めに18歳で興行の世界に入り、吉兵衛の急逝後はせいの片腕として寄席興行を担った。正之助は勤続74年、18歳から92歳まで吉本興業のオーナーとして君臨した
- [23]せいの弟の林正之助が姉に請われて大正の初めに18歳で興行の世界に入り、吉兵衛の急逝後はせいの片腕として寄席興行を担った。正之助は勤続74年、18歳から92歳まで吉本興業のオーナーとして君臨した
- 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
- [19]23の寄席をチェーン経営するに至ったが、吉本吉兵衛は1924年に死亡した
- 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
- [22]重役欄に会長 吉本せい、社長 林正之助、専務 林弘高を記載
1930年〜放送を排除から活用へ転じた方針転換
1930年、日本放送協会の大阪中央放送局が、落語の初代桂春団治に出演を依頼した。吉本興行部はこれを断っている。放送で落語が流れれば、木戸銭を払って寄席へ来る客が減るという理由だった。放送局は春団治本人と直接交渉し、出演料を先に渡して承諾させた。興行部は全社員を動員して大阪中央放送局の前にピケを張り、出演を阻もうとしたが、放送局は春団治を京都へ移し、京都放送局から放送した。傘下の寄席が30近くに達していた側にとって、電波は客の奪い手に見えた。木戸銭を取らずに芸が届く経路が現れれば、小屋の収入は直に削られる。
- 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
- [27]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
- [28]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
- [29]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
- [30]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
- [31]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
- 日経ビジネス 1998年10月19日号
- [32]大正末期には東京・横浜などにも進出し、30近い寄席を傘下に収めた
ラジオで落語を聞いた人々は、演者がどんな顔をしているのかを知りたがった。寄席ならさらに面白い噺が聞けるかもしれないとも考え、足を運んだ。放送のあと客足は落ちるどころか伸び、春団治が出る寄席はほぼ満員となった。これを受けて吉本興行部は方針を切り替え、放送協会と和解のうえ、所属の演者を放送へ出すようになった。1930年には大阪・千日前の「南陽館」も万才の専門館に改め、木戸銭十銭で開場している。安い木戸銭の小屋に名の売れた演者をそろえれば、放送で広まった知名度がそのまま客の数になる。演者を放送へ出すことは以後も会社の方針として続き、知名度を上げるための手段に位置づけられた。
- 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
- [33]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
- [34]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
- [35]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
- [37]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
- 吉本興業 公式サイト 沿革
- [36]1930年、大阪・千日前の「南陽館」を万才の専門館とし十銭で開放
1931年9月、吉本興行部は吉本興業合名会社に組織を改めた。株式会社年鑑の沿革でも、1955年に刊行された会社銀行八十年史でも、改組の時期は1931年9月である。会社が公表する沿革はこれを1932年3月とし、同時に東京支社を開設したと記す。支社の開設は、大正の末に進めた関東への進出を組織の形に整えるものだった。改組にあたって設けられたのは、演芸人を育て、指導するための機関だった。小屋を買い、番組を組み替え、演芸各派を吸収し、放送へ演者を送り出してきた末に、演者そのものを作る組織が興行会社の内側に置かれた。合名会社は以後、演劇と映画へ業務を広げ、経営する劇場と寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えるに至る。
- 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
- [38]沿革の第2項を「昭和6年9月 吉本興業(合名)に組織変更」と記載
- [39]沿革の第2項を「昭和6年9月 吉本興業(合名)に組織変更」と記載
- 吉本興業 公式サイト 沿革
- [40]1932年3月、吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設
- [41]1932年3月、吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設
- 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
- [42]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
- [43]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
参考文献[27]-[43]
- 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
- [27]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
- [28]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
- [29]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
- [30]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
- [31]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
- [33]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
- [34]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
- [35]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
- [37]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
- 日経ビジネス 1998年10月19日号
- [32]大正末期には東京・横浜などにも進出し、30近い寄席を傘下に収めた
- [36]1930年、大阪・千日前の「南陽館」を万才の専門館とし十銭で開放
- [40]1932年3月、吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設
- [41]1932年3月、吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設
- 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
- [38]沿革の第2項を「昭和6年9月 吉本興業(合名)に組織変更」と記載
- [39]沿革の第2項を「昭和6年9月 吉本興業(合名)に組織変更」と記載
- 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
- [42]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
- [43]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
筆者考察
吉本興業が最初に買ったのは芸ではなく、芸を掛ける場所だった。1912年の第二文芸館から1931年の合名会社化までの19年、吉本吉兵衛とせいが手を伸ばした先は一貫して小屋である。花月亭、神田花月と買い足して23軒を連ねたのは、演者を独占するためではない。同じ演者を複数の小屋へ順に回せば一人あたりの出番が増え、小屋の側は毎日の番組を埋められるからだった。ただし小屋をいくつ持っても、そこへ上げる演者を差し向けるのは演芸の各派である。1922年に浪花三友派を吸収したのは番組の供給元を内側へ移す手であり、ここで小屋と演者が一つの帳簿に入った。大正の末には東京・横浜へも広がり、傘下の寄席は30近くに達する。
1930年に初代桂春団治をめぐって起きた騒動は、興行という商売の前提が崩れた瞬間だった。全社員を動員して日本放送協会の大阪中央放送局にピケを張ったのは、木戸銭を取らずに芸が届く経路を客の奪い手と見たからである。ところが放送の後、春団治の出る寄席はほとんど満員になった。芸そのものではなく、その演者を見たいという気持ちのほうが売り物だと分かれば、放送は競合ではなく名を広める経路に変わる。営業方針を転換して放送協会と和解し、演者を電波へ送り出したのがその答えだった。1931年9月の改組で演芸人を育て指導する機関が置かれたのは、この読み替えの先にある。小屋を買い、番組を組み、派を吸収してきた会社が、最後に演者を作る側へ回った。
- 1912年4月の第二文芸館買収(公式沿革)、23軒は吉本吉兵衛の死去までに連ねたチェーンの数(証券アナリストジャーナル 1994年)。
- 35館は1931年9月の合名会社への組織変更とともに演劇・映画へ業務を広げた結果の到達数(会社銀行八十年史 1955年)。
出典・参考
6件
- 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
- 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
- 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
- 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
- 日経ビジネス 1998年10月19日号
- 吉本興業 公式サイト 沿革