旭化成米ZOLL Medical Corporationの22.1億ドルでの買収とクリティカルケア事業への参入

三本目の柱を自前で育てるか、丸ごと買うか——旭化成はどちらを選んだか

時期 2012年3月
意思決定者(推定) 藤原健嗣 社長
論点 ヘルスケア領域の拡大とクリティカルケア事業への参入
概要
2012年3月12日、旭化成が米国の救命救急医療機器大手ZOLL Medical Corporationを、米国子会社の下に設立した買収目的子会社による株式公開買付けと現金対価の合併により、1株93米ドル・総額約22.1億米ドルで買収すると発表した経営判断。藤原健嗣社長のもと、医薬と医療機器に次ぐ第3の領域としてクリティカルケア(救命救急医療)に参入した。
背景
旭化成のヘルスケアは医薬事業と、透析等の血液浄化・バイオプロセス関連の医療機器事業の2領域にとどまり、2011年3月期の「医薬・医療」は売上高1,164億円と連結売上高の1割に届かなかった。バブル経済の崩壊以降は新規事業の創出が途絶えており、2011年5月の中期経営計画「For Tomorrow 2015」は医療関連を次世代の中核事業領域と定めていた。
内容
米国マサチューセッツ州に新設した買収目的子会社を通じた公開買付けと合併により、ZOLLの発行済普通株式の100%を取得する。ZOLLは1980年設立、2011年度の売上高5億2,370万米ドル・営業利益4,820万米ドル、従業員1,908名で、米国の体外除細動器市場に強固な基盤を持っていた。買収後もM&Aを含む戦略的投資を続ける方針が同時に示された。
含意
発表当時は割高との評価を受けたが、ZOLLの2016年度の売上高は12.7億ドル、営業利益は2.6億ドルとなり、買収時点の倍以上・3倍以上に伸びた。ZOLL自身がCardiac Science(2019年)、Respicardia(2021年)と買収を重ね、ヘルスケアは連結売上高の2割を占める領域になった。
筆者の見解

時間を買った値段

医療新事業プロジェクト長の吉田安幸専務が「M&Aも時間をかけずに進める」と語ったのは、買収合意の8カ月前であった。当時のヘルスケアは医薬と血液浄化の2領域で、2011年3月期の売上高は1,164億円と連結の1割に届かない。三本目を人工腎臓のように自前で立ち上げれば、柱と呼べる規模まで十年単位を要する。22.1億ドルはその歳月を省く値段であったとみられる。高すぎるという当時の評価は、資産の値踏みとしては筋が通るが、時間の値踏みを欠いていたといえる。

ただ、買って育てる型には終わりがない。ZOLLは傘下に入ったのちCardiac Science、Respicardiaと買収を重ね、そのたびに決算説明会では、のれんの償却が利益をどれだけ削るかが問われた。2019年11月に「寄与してくるのは2020年度以降」と説明されたとおり、買収の効果は買った年には出ない。第3の柱を買って据えた決断は、据えた時点では完結せず、以後の各期に負担を持ち越す形をとったとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

医薬と血液浄化しかなかったヘルスケア

2012年当時、旭化成のヘルスケアは二つの領域で成り立っていた。泌尿器・骨領域・血液疾患などを扱う医薬事業と、透析等の血液浄化関連およびバイオプロセス関連の医療機器事業である。医薬は1992年の東洋醸造との合併で得た事業であり、医療機器は繊維技術を応用した人工腎臓に端を発していた。ただし規模は小さく、2011年3月期の「医薬・医療」セグメントは売上高1,164億円、営業利益70億円で、連結売上高1兆5,559億円の1割に届いていなかった[1][2][3]

2011年5月に発表した5カ年の中期経営計画「For Tomorrow 2015」で、旭化成は医療関連分野をグループ経営を支える次世代の中核事業領域と定めた。同年4月には「環境・エネルギー」「住・くらし」「医療」の3領域についてグループ横断で新事業を探る「これからプロジェクト」を発足させ、総額1兆円の投資枠のうち4,500億円を新規分野に充てるとしている。第3の柱をどこに求めるかは、買収の前年に対外的に示されていた[4][5]

新規事業が途絶えていたという社内の危機感

もう一つの背景に、社内の危機感があった。旭化成はアンモニア合成と化学繊維から出発して次々に事業を増やしてきたが、バブル経済の崩壊以降は目立った新規事業の創出が途絶えていた。負の遺産の整理と既存事業の強化が優先され、大胆な事業進出には至っていない。2003年の持株会社移行で各事業会社の独立採算は徹底された一方、経営戦略室長の堀本成宏氏は「ベンチャー的な取り組みはやりにくい」と縦割りの弊害を認めていた[6]

「これからプロジェクト」の医療分野では、取り組む課題を「救命救急医療」と「細胞・再生医療」に絞り込んだ。医療新事業プロジェクト長の吉田安幸専務は、医療機器や医薬にエレクトロニクス部門が得意とするセンサーなどを組み合わせる構想を語ったうえで、「M&Aも時間をかけずに進める」と述べている。自前で育てるのではなく買って獲るという手段は、ZOLL買収の合意より8カ月前に対外的に示されていた[7]

決断

22.1億ドルで買ったクリティカルケア

2012年3月12日、旭化成は米国の救命救急医療機器大手ZOLL Medical Corporationを買収することで合意したと発表した。米国に新設した買収目的子会社を通じた株式公開買付けと、それに続く現金対価の合併により、発行済普通株式の総数を1株あたり93米ドル、総額約22.1億米ドルで取得する。友好的な買収であり、両社の取締役会はすでに承認していた。買付けの下限は発行済株式総数の3分の2以上で、取得後の保有割合は100%となる[8][9]

参入先に選んだクリティカルケア(救命救急医療)は、旭化成が持っていない領域であった。リリースは、既存の2領域に加えて成長を牽引する事業基盤を検討した結果、「人びとのいのち」を救うために必要不可欠でグローバルな成長が期待できる領域として同分野に絞り、参入の機会を探ってきたと説明している。ZOLLは1980年設立、2011年度の売上高5億2,370万米ドル、営業利益4,820万米ドル、従業員1,908名で、米国の体外除細動器市場に強固な基盤を持っていた[10][11]

販売協業からの買収と、買収後の買収の予告

交渉は白紙から始まったわけではない。前年8月から旭化成グループはZOLLのAED「ZOLL AED Plus」の国内販売を始め、日本における薬事コンサルタントとマーケティングも引き受けていた。日本での事業強化を模索していたZOLLと、参入先を探していた旭化成が、まず販売の協業で組んだ形である。着用式除細動器「LifeVest」や体温マネージメント機器「Thermogard」を持つ相手と協力関係の強化を協議した結果、買収の合意に至った[12]

リリースはもう一点、買った後の方針を明記していた。ZOLLの成長戦略を実現・加速するために必要な資源を投入し、将来の中核事業とするために「M&Aを含め積極的な戦略的投資を行います」という一節である。買った会社を持ち続けるのではなく、買った会社にさらに買わせる構えを、合意の時点で表明していた。旭化成側は医療現場へのマーケティング力と薬事法・医療保険制度への対応力を、ZOLLの日本・アジア展開に充てるとした[13][14]

結果

「高値づかみ」という同時代の評価と、5年後の数字

発表当時の受け止めは冷ややかであった。買収から5年後の2017年、東洋経済オンラインは「旭化成、『心肺蘇生事業』が急成長した舞台裏」に「買収から5年、高値づかみの評価をくつがえす」との副題を付け、ダイヤモンド・オンラインは「旭化成で買収を酷評された『救命機器事業』が逆襲の急成長」と題した。いずれも、割高な買い物という当時の相場観を前提に置いた見出しであった[15][16]

数字は評価を裏切った。2016年度のZOLLの売上高は12.7億ドル、営業利益は2.6億ドルとなり、買収時点の2011年度と比べて売上高は倍以上、営業利益は3倍以上に伸びた。2016年8月、社長の小堀秀毅氏は成長の牽引役の筆頭にヘルスケア領域を挙げ、「2012年に買収した救命救急医療機器メーカーの米ゾール・メディカル社が順調に育ち、当面は同社の2ケタ成長が見込める」と語っている[17][18]

買われた会社が買い手になる

買収から数年を経て、ZOLL自身が買収の主体になった。2019年8月26日、ZOLLは米Cardiac Science社の買収手続きを完了し、AEDの製品群と米国以外の販売網を取り込んだ。2021年4月9日には、中枢性睡眠時無呼吸症に対する植え込み型神経刺激デバイス「remedē System」を持つ米Respicardia社の買収を終えている。合意時のリリースが掲げた「M&Aを含め積極的な戦略的投資」は、文字どおり実行に移された[19][20]

買い増しは、利益を削る形でも表れた。2019年11月の決算説明会では、クリティカルケア事業の通期売上予想を120億円上方修正した理由をCardiac Science買収の効果としたうえで、「のれん償却負担もあり、(中略)寄与してくるのは2020年度以降と考えている」と説明された。それでもヘルスケア領域の売上高は2015年3月期の2,571億円から2025年3月期には6,159億円へ伸び、連結売上高に占める割合は13%から20%になった[21][22]

出典・参考

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