{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"1331","company_name":"ニチロ","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/1331/","api_url":"/api/1331/history.json","updated":"2026-08-05","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/1331/","title":"ニチロの歴史概略","sections":[{"start_year":1906,"end_year":1914,"main_title":"露領カムチャッカへの買魚出漁から始めた堤商会と日魯漁業の設立","subsections":[{"title":"ブロンゲ岬での出会いと帆船「宝寿丸」の初出漁","text":"日魯漁業の創業者の一人となる平塚常次郎氏は、1881年に北海道函館の呉服唐物商の家に生まれた。札幌の露清語学校でロシア語を学び、南樺太コルサコフの雑貨店員を経て、21歳の春に露領カムチャッカのヤイナへ買魚出漁に加わった。日露戦争では旭川第七師団の砲兵として旅順攻撃から奉天大会戦に参加し、砲声で右の鼓膜を破った。ポーツマス条約で日本が北洋露領の漁業権を得た翌年の1906年春、平塚氏は沿海州黒龍江河畔のブロンゲ岬で漁をしていた。そこへ背広にハンチング、白ズボンに長ぐつという漁場では見慣れない風体の青年が訪ねてくる。越後三条町の呉服屋の長男で、ロシア人相手の雑貨貿易を調べに来た堤清六氏だった。\n\n堤氏は帰郷したのち、水産に反対する両親と親類を説得して1万2,500円の出資を集め、163トンの帆船「宝寿丸」を手に入れた。名目は当初の計画どおりの貿易だったが、宝寿丸は出漁船であり、二人はこれを元手に新潟で堤商会の看板を掲げた。有価証券報告書は沿革の最初に1906年11月の堤商会設立を記し、平塚氏自身は看板を掲げたのを翌1907年と回想した。同年に日露漁業協約が結ばれたものの漁場の競売が遅れたため、初年度は宝寿丸でカムチャッカ河へ向かう買魚出漁に終わった。翌1908年、堤商会はウスチ・カムチャッカで二か所の漁場を落札し、自前の漁場を持った。平塚氏は漁のかたわら地形や潮流、魚の回遊状態を調べて歩いた。","references":[{"title":"ニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年 3編（1968年）「日魯漁業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日魯漁業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"紅鮭の缶詰と、社名「日魯」の由来","text":"カムチャッカ東海岸の一帯は紅鮭が多かったが、当時の日本で紅鮭は好まれず値も安かった。外国では喜ばれるので輸出用の缶詰にすればよいという助言を受け、堤商会は1910年にウスチ・カムチャッカの漁場へ小さな工場を建てた。その年の生産は四ダース入り704箱にとどまる。缶の封は職人が鏝で半田づけし、煮沸で膨張した缶に穴をあけてまた半田づけするという手工業で、身の詰め方も揃わず「鮭のスープか」と冷やかされた（日本経済新聞 1958/4）。それでも味は評価され、翌年には2,700余箱を製造した。隣接する露人デンビー商会の漁場はスウェーデン式の半自動機械を据えており、生産能力は堤商会の五倍から十倍あった。\n\n機械力の差を埋めるため、堤商会はオゼルナヤに新工場を建てる際、有り金をはたいて米国製のサニタリー缶機械を導入した。空缶の製造から中身の充填までを自動で処理する設備で、機械は売り物ではないと断られたのを、セール・フレーザー商会のブース氏が立て替え払いまでして買い付けた。この空缶部門は後に函館で独立工場となり、北海製罐につながる。一方、久原房之助氏の番頭だった中山説太郎氏が興した一井組は、1914年3月12日に資本金200万円の日魯漁業株式会社となり、社長に田村市郎氏、専務に中山氏が就いた。これが日魯という社名の起こりで、以後は堤商会・輸出食品・日魯の三社が北洋漁業の三羽烏と呼ばれた。","references":[{"title":"ニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年 3編（1968年）「日魯漁業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日魯漁業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1914,"end_year":1945,"main_title":"米国式缶詰機械と三社合同が築いた北洋漁業の集約体制","subsections":[{"title":"尼港事件と恐慌が決めた1921年の三社合併","text":"1917年のロシア革命は露人の漁業家に打撃を与え、平塚氏の競争相手だったデンビー商会も1918年に三菱へ身売りした。革命後のソビエトは国営漁場を推し進め、日本の漁業家が個々に対峙できる相手ではなくなる。1919年、平塚氏が草分けしたカム河の三漁場が長期漁区として競売にかけられた。当時のロシアは外国為替を禁じており、入札には数百万ルーブルの現金が要る。平塚氏はハルビンで200万ルーブルを現金化すると、紙幣の束を小分けにして体に巻きつけ、その上に毛皮外套を着てウラジオストクへ渡った。無警察状態のシベリアを単身で抜けたこの入札行で、三漁場を確保した。堤商会自身も1919年12月に極東漁業へ改組し、翌1920年2月には輸出食品を合併してその商号を継いだ。\n\n翌1920年3月の尼港事件では石田領事以下の邦人700余名が殺害され、その余波でオホーツク方面の漁場30余か所が焼き払われた。同じ年、大戦後の世界的な恐慌でロンドンへ送った缶詰が滞貨し、運賃の変動による差損も重なって1,000万円の負債を抱えた。朝鮮銀行を主体とする融資の条件が、関係三社の合同だった。1921年3月、輸出食品・勘察加漁業・日魯漁業の三社が合併して日魯漁業の商号を継ぎ、資本金2,570万円の会社が本社を東京市日本橋区に置き、堤氏が取締役会長、平塚氏が常務に就いた。この合同は米国式の缶詰機械と技術を全面的に使い、缶詰の能率的な大量生産を図るためのもので、輸出食品が主体となって計画を進めた。","references":[{"title":"ニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日魯漁業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年 3編（1968年）「日魯漁業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"露領漁場の集約と、島徳事件が突いた弱点","text":"合同後の日魯漁業は露領の漁場を集め、1924年10月に大北漁業を買収して露領の優良漁場をほぼ掌握し、1932年9月には露領に散在する41漁場を合併して総合同を実現する。同年11月の経営漁場はカムチャッカ東海岸106、西海岸137、オホーツク38、沿海州サガレン17の計298に達し、工場は32を数えた。半期の漁獲高は1,394万貫、缶詰122万2,000函、塩魚53万6,000函にのぼる。缶詰は英国船1隻と邦船2隻を使ってほとんど英国へ直送され、年産5,000万円を突破した。堤商会が作ったあけぼの印の鮭缶詰は、合同前の1915年にサンフランシスコ万国博覧会で名誉大賞牌を得ていた。\n\n事業が好調になると、外から仕掛けられた。1929年の漁区競売では、日魯漁業が更新するはずの優良漁区78か所がK・UDA名義の露人によって落札される。工場のあるキシカの漁区は平塚氏が2万金ルーブルで入れたのに対し、相手は10万金ルーブルという高値だった。入札の結果が知れ渡る前に市場へ投げ物が殺到し、120円台だった日魯株は20円まで暴落し、立会停止になった。仕掛けたのは相場師の島徳蔵氏の一派で、漁場を押さえて事業を止め、株の操作で儲ける筋書きだった。調停に立った杉山茂丸氏の一言で島側が漁区を全部放棄し、日魯漁業が160万円を渡して決着した。\n\n1931年、堤清六氏が灸の跡から入った丹毒に肺炎を併発し、52歳で急死した。平塚氏は二人を事業の上でまったく一個の人格に等しかったと書き、身も魂も抜けたような空虚を感じたと回想した。翌1932年には中小の漁業家が合同した北洋合同漁業も即時合併し、資本金5,380万円の会社となって北洋漁業は一社に統一される。1943年4月には企業整備令により太平洋漁業・北千島水産・北日本漁業・日本蟹缶詰・北洋蟹缶詰の5社を吸収合併し、資本金は8,550万円となった。この時点で北洋全地域のサケ・マス漁業とカニ漁業の大部分を日魯漁業が経営した。そして1945年8月、終戦により在外の全資産を失った。","references":[{"title":"ニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日魯漁業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年 3編（1968年）「日魯漁業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1945,"end_year":1977,"main_title":"在外資産の全喪失から北洋の再開、そして総合食品メーカーへ","subsections":[{"title":"四つの基地から始めた戦後再建と北洋の再開","text":"敗戦で失ったのは漁場だけではなく、樺太・千島・カムチャッカの租借権はすべて空証文になり、北洋の現場では2,300余名の従業員が抑留され、戦前に冷蔵庫43、缶詰工場37を擁した生産設備も残らなかった。当時64歳の平塚氏は残留社員1,000余名とその家族の生活を考え、どこの海でもいいから魚を獲ることに再建の道を求める。神奈川県久里浜を基地に遠洋のかつお・まぐろ漁業へ着手し、宮城県塩釜を補助基地、下関を根拠に東シナ海と黄海のトロールと機船底曳へ広げ、函館と合わせて四つの基地を置いた。資金は興業銀行から1億円余、復興金融公庫から2億円の融資を受け、終戦直後に三回の増資を重ねた。1949年5月には東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場した。\n\n1952年の講和条約発効で、母船式のサケ・マス漁業とカニ漁業が復活した。初年度の漁獲は42万4,000尾と試験操業の域を出なかったが、1953年度は母船明晴丸が独航船34隻を率いて280万2,000尾を水揚げする。このとき缶詰製造設備を一ライン母船に積み込み、現地での製造に主力を置いて3万8,400函を生産した。翌1954年度には母船協宝丸を加えて缶詰機械を二ラインとし、前年度の4.1倍にあたる16万1,500函をあけぼの印で製造した。北海道沿岸のカニ缶詰と久里浜・石巻の各工場を合わせた缶詰は42万5,000函にのぼり、その7割を英国・米国・アイルランドなどへ輸出した。1956年には北洋サケ・マス母船16船団のうち5船団を確保した。資本金は戦後四回の増資を経て1955年6月に22億円となった。","references":[{"title":"ニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日魯漁業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年 3編（1968年）「日魯漁業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1969年12月号「日魯漁業の現状と将来」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の商社昭和史（1987年）「日本人の食生活改善に貢献」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"海から陸へ ── 五年で三百億円を投じた多角化と無配転落","text":"日ソ漁業条約のもとでは漁獲の割当量に限りがあり、北洋の売上増は望めなかった。日魯漁業は陸上加工と畜産加工の強化に着手し、総合食品メーカーへの転換を始めた。1960年から1964年までの五年間に300億円を投じ、久里浜・広島・弘前の各工場、東京冷蔵庫、栃木畜産試験場、川崎配合飼料、白鷹工場を整備した。品目はマヨネーズ、魚肉ハム・ソーセージ、冷凍カキ、パン、養鶏養豚、果実栽培、ミンク飼育へ広がる。1967年度の売上高は467億6,200万円で、内訳は鮮冷副産品42%、缶詰28%、飼料・畜産11%、ハム・ソーセージ7%だった。1958年には大洋冷凍母船を合併して母船を6船団に増やした。\n\n陸への転換は重い負担を伴い、1960年度から1968年度までの九年間の設備投資は約350億円に達した。うち海上が約6割を占め、資本金70億円の会社が金利負担に追われた。副社長の平野赳氏は、水産業が認許可制であるため「許可を得たからにはその権利を確保するため」に無理な投資を強行せざるを得なかったと説明した（証券アナリストジャーナル 1969/12）。1968年11月期は大幅な減益で無配に転落する。同社は3年間の無配を続けて手元の資金を厚くする方針を決めたが、初年度に40億円を留保して経常利益4,100万円の黒字無配とし、3年を待たずに目標を達成した。\n\n多角化は子会社の設立でも進み、1968年11月に宮畜産を子会社化し、1971年3月に函館国際ホテル、1973年7月にインドネシアのP.T.Alfa Kurnia Fish Enterprise、1975年6月には北海道畜産事業部を分離してニチロ畜産を設立した。1969年7月には本社を東京都千代田区有楽町へ移している。海外の漁業基地づくりでは商社との協業もあり、1961年には三井物産と組んでガーナのテマにカツオ専門の基地を設けた。副社長の平野氏は将来の漁撈について、開発途上国の沿岸では現地へ技術と手段を供与して漁獲させ、日本の市場へ流す形になると述べた（証券アナリストジャーナル 1969/12）。","references":[{"title":"ニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日魯漁業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年 3編（1968年）「日魯漁業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1969年12月号「日魯漁業の現状と将来」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の商社昭和史（1987年）「日本人の食生活改善に貢献」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1978,"end_year":2007,"main_title":"家庭用冷凍食品への集中と、マルハとの統合による幕引き","subsections":[{"title":"北洋の終幕と、ニチロへの商号変更","text":"1977年に各国が二百カイリの漁業専管水域を設定すると、日魯漁業は海外の加工会社を買収して原料を確保した。1979年9月に米国のピーターパン・シーフーズ、1986年12月に同じく米国のゴールデンアラスカ・シーフーズを子会社化し、アラスカの加工拠点を手に入れた。国内の北洋漁業は縮み、1988年6月の母船式サケ・マス事業は、母船16船団のうち5船団を単独で出した1950年代から、8社共同経営による1船団の出漁になった。1989年2月には決算期を11月30日から3月31日へ変更し、1990年1月に商号を株式会社ニチロ、英訳名をNICHIRO CORPORATIONへ改めた。日魯という社名は、露領の漁場を前提にした1914年以来のものだった。\n\n陸上の主力は調理冷凍食品へ移り、その担い手は子会社だった。家畜の枝肉や内臓を売る会社として1962年に設立された宮畜産は、1993年からセブン-イレブン向けの餃子納入を始め、ここから売上を伸ばした。1994年に新潟フレッシュデリカを設立して新工場を建て、1999年には長野工場で焼成パンや調理パン、スパゲティ、グラタンを作る。同社は1994年にニチロサンフーズへ商号を変更し、1999年3月期は売上高88億5,400万円、経常利益4億4,600万円を計上した。売上に占めるセブン-イレブン向けの比率は約26%にのぼる。2000年2月、ニチロサンフーズは株式を日本証券業協会へ登録した。\n\n1999年9月、ニチロは冷凍食品「そばめし」を発売した。焼きそばを切ってチャーハンに絡ませ、どろソースで仕上げた商品で、冷凍食品担当の松村直幹常務の見立ては「こんなもの売れない」だった（週刊東洋経済 2001/2/24）。売れないと見た以上コストはかけず、包材は当初1,000箱だけ用意する。それが1か月で3,000箱、4か月後には1万箱に伸びた。2000年12月22日にいったん売り止めとし、2001年1月22日に販売を再開したが、作りためた220万食は10日で消え、2月14日から関東以東で再び売り止めになった。全社一本の開発部を解体してライン直結の開発体制を敷いたことが、「とりめし」「いか天」と続くヒットの背景にあった。","references":[{"title":"ニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"ニチロ 有価証券報告書（2007年6月28日提出）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年11月号「不二製油」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年2月24日号「驀進 ニチロ「そばめし」空前のヒット」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 2000年4月号「ニチロサンフーズ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"財務が決めた統合 ── マルハとの株式交換","text":"冷凍食品への傾斜は買収でも進み、2003年4月に冷凍食品製造販売のアクリフーズを子会社化し、2004年11月には夕張のほくれいを加えて2007年1月にアクリフーズへ統合した。2003年1月には中国山東省に日照日魯栄信食品有限公司を設立して水産加工の拠点を海外に置き、2006年6月にはアクリフーズが山東省で煙台阿克力食品有限公司を設立した。一方で財務は重く、2005年3月期に71億8,600万円の当期純損失を出して自己資本比率が12.0%まで下がったため、同期に優先株式800万株を発行して資本金を122億2,400万円へ積み増した。\n\nニチロは有利子負債の削減をグループ最大の財務的課題と位置づけ、遊休資産の早期売却と売上債権の早期回収を並べた。2007年3月期の連結売上高は2,516億9,700万円で前期比1.0%減、経常利益は29億100万円で16.0%減となる。自己資本比率は15.8%まで戻り、当期純利益は42億9,200万円を計上した。ニチロとマルハグループ本社は2006年12月11日に、株式交換による全面的な統合を対等な精神で行う基本合意書を締結し、2007年4月12日に株式交換契約を結んだ。6月28日、ニチロの定時株主総会がこれを承認した。ニチロの普通株1株にマルハ本社の普通株0.905株を割り当てる比率で、優先株主には第二種優先株式400万株を交付した。9月25日に株式の上場を廃止し、10月1日に完全子会社となった。同日、マルハグループ本社はマルハニチロホールディングスへ商号を変更した。\n\n統合の時点でニチロが持っていたのは、加工食品に偏った収益構造だった。2007年3月期の加工食品事業は外部顧客への売上高1,544億1,700万円・営業利益59億7,000万円で、水産品事業の売上高726億6,900万円・営業利益13億3,000万円を上回った。両社は統合の目的を、水産物のグローバルな調達や商事に強みを持つマルハグループと、食品の開発・製造に強みを持つニチログループが一体となり、規模の拡大と機能の相互補完を進めることに置いた。統合でニチロの社名と上場は消えたが、あけぼの印の缶詰、アクリフーズの冷凍食品、ピーターパン・シーフーズのアラスカ拠点はマルハニチロへ引き継がれた。1906年に新潟の堤商会として始まった北洋の会社は、101年目に他社の完全子会社となった。","references":[{"title":"ニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"ニチロ 有価証券報告書（2007年6月28日提出）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年11月号「不二製油」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年2月24日号「驀進 ニチロ「そばめし」空前のヒット」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 2000年4月号「ニチロサンフーズ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1906年に帆船一隻で始めた堤商会が、1910年に自前の缶詰工場まで持ったのか","a":"カムチャッカ東海岸は紅鮭が多かったが、当時の日本で紅鮭は好まれず値も安かった。外国では喜ばれるので輸出用の缶詰にすればよいという助言を受け、堤商会は1910年にウス・カム漁場へ小さな工場を建てた。初年度の生産は四ダース入り704箱にとどまり、身の詰め方も揃わずに冷やかされる出来だった。隣接する露人デンビー商会の漁場はスウェーデン式の半自動機械を据え、生産能力は堤商会の五倍から十倍あった。この差を埋めるため、堤商会はオゼルナヤの新工場に有り金をはたいて米国製のサニタリー缶機械を導入した。"},{"q":"なぜ1960年からの五年間で300億円を陸上加工に投じ、1968年に無配へ転落したのか","a":"日ソ漁業条約のもとでは漁獲の割当量に限りがあり、北洋の売上増は望めなかった。日魯漁業は陸上加工と畜産加工の強化に着手し、1960年から1964年までの五年間に300億円を投じて久里浜・広島・弘前の各工場や川崎配合飼料を整備した。1967年度の売上高467億6,200万円の内訳は鮮冷副産品42%、缶詰28%である。一方で1960年度から1968年度までの九年間の設備投資は約350億円に達し、資本金70億円の会社が金利負担に追われた。認許可制の水産業では、許可の権利を確保するための投資を避けられなかった。"},{"q":"なぜ2007年にマルハグループ本社との統合を選び、上場を廃止したのか","a":"2005年3月期に71億8,600万円の当期純損失を計上し、自己資本比率は12.0%まで下がった。同期に優先株式800万株を発行して資本金を122億2,400万円へ積み増し、有利子負債の削減をグループ最大の財務的課題と位置づけていた。2007年3月期の加工食品事業は外部顧客への売上高1,544億1,700万円で、水産品事業の726億6,900万円を大きく上回る。両社は統合の目的を、水産物の調達や商事に強いマルハと食品の開発・製造に強いニチロが一体となり、規模の拡大と機能の相互補完を進めることに置いた。"}]},"auditVersion":2}