この創業が示すのは、自家製造を持たない和漢薬の仲買として、幕府公認の株仲間が統括する道修町の信用秩序へ末端から加わった選択の意味である。武田は製造設備への投資ではなく、当主名と屋号に信用を集める襲名の慣行を選び、130年余にわたって薬を仕入れて卸す流通業の内側で足場を保ってきたと思われる。属人的な信用に支えられた問屋的な商いが、江戸から明治半ばまでの武田の基盤を形づくっていた。
もう一つ見えてくるのは、製造業への転換が外部環境の急変を受けて起きた経緯である。1871年に始めた洋薬輸入は、第一次大戦によるドイツ供給の途絶で前提を失い、武田は輸入再開を待たずに研究部と製薬所を1年余で相次いで設けて自社製造へ移ったと読める。仕入と転売の差益に立つ薬種仲買から、研究と製造を抱える近代製薬企業へと業態を組み替えたこの転換が、その後の株式会社化と商号変更、戦後の上場を貫く流れになっていったといえる。