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  "company_name": "東海銀行",
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        "新聞・雑誌記事"
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      "extraction": "一次資料を読み合わせて執筆"
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  "title": "東海銀行の歴史概略",
  "eras": [
    {
      "title": "伊藤銀行・名古屋銀行・愛知銀行の創立と、名古屋の地場銀行としての明治・大正の成長",
      "start_year": 1881,
      "end_year": 1920
    },
    {
      "title": "金融恐慌と一県一行の統合、愛知・名古屋・伊藤の3行合併による東海銀行の発足",
      "start_year": 1920,
      "end_year": 1945
    },
    {
      "title": "戦後の再建整備から東京・ロンドンへの進出、中部の巨大な地銀として都市銀行に並ぶまで",
      "start_year": 1945,
      "end_year": 1979
    },
    {
      "title": "地銀からの脱皮と上位行との規模の差、三和銀行とのUFJ統合による上場廃止",
      "start_year": 1979,
      "end_year": 2001
    }
  ],
  "overview": [
    {
      "label": "創業",
      "text": "1881年9月、松坂屋を営む伊藤家が、名古屋で最初の私立本店銀行として伊藤銀行を創立した。翌1882年7月には瀧兵右衛門氏・神野金之助氏ら商人の発起で名古屋銀行が設立され、1896年4月には満期を迎えた第十一・第百三十四の両国立銀行を実質的に合わせた愛知銀行が開業している。1932年に明治銀行が閉店すると、名古屋の本店銀行は愛知・名古屋の2行に絞られた。日銀総裁の結城豊太郎氏が一県一行の方針で合同を促し、1941年6月、3行は対等の条件で合併して公称資本金3760万円・141店の東海銀行が発足した。ただし伊藤銀行の資本金は他の2行より1桁小さく、配当相当金は年7分と低く置かれた。"
    },
    {
      "label": "決断",
      "text": "合併で規模を得る機会がないまま、名古屋の預金を元手に東京と海外へ出た銀行だった。副頭取の木下正美氏の主導で東京への出店を重ね、都内の店舗は1962年に20店、1968年に44店となり、同じ1968年にはニューヨークとロンドンの支店を構えた。1968年に頭取となった三宅重光氏は、合併に頼らず業務提携で規模の不利を補う方針を採った。ところが1979年には主力取引先2社の倒産で80億円超を償却し、名古屋の預金を東京の大企業取引へ回す構図の危うさが顕在化した。提携で規模を補う方針は、1994年に西垣覚頭取のもとで、量を追わずコスト競争力で競う方針へ変わった。"
    },
    {
      "label": "現況",
      "text": "最後の東海銀行が描いたのは、名古屋の地盤を地域別の銀行として残す設計だった。1998年に頭取となった小笠原日出男氏は、カンパニー制を表明し、108店舗の統廃合を計画した。1999年10月にはあさひ銀行と共同持株会社のもとで首都圏・中部圏・関西圏の地域銀行へ組み替える構想を発表している。しかし2000年6月にあさひ銀行が離れ、7月に[三和銀行・東洋信託銀行との経営統合で基本合意した](/tse/8320/)。2001年4月、株式移転でUFJホールディングスが設立され、東海銀行は上場を終えた。2002年1月に三和銀行と合併してUFJ銀行となり、その系譜は[2005年の統合を経て三菱UFJフィナンシャル・グループへ続いている](/tse/8306/)。"
    },
    {
      "label": "競合",
      "text": "東海銀行の競争劣位は、支店網が東海地方に偏っていたことにあった。1979年時点で名古屋市の預金の40%を集めたものの、東京と関西に店を持つ太陽神戸銀行には1978年度上期に月によって預金で逆転を許し、目標とした三和銀行との差は開く一方だった。1985年には総資金量と税引き利益で三井銀行を上回ったが、1987年に太陽神戸銀行の合併相手として名が挙がったのは東京銀行で、東海銀行に合併の相手は現れなかった。1990年に[その三井銀行が太陽神戸銀行と合併し](/tse/8314/decisions/taiyo-kobe-mitsui-merger-1990/)、上位行との差は一度に開いた。1978年に差が開く一方だった三和銀行は、22年後、関西の手薄を補う統合の相手に変わった。"
    }
  ],
  "profile": [
    {
      "key": "founding_business",
      "label": "祖業",
      "value": "名古屋の商家が興した私立銀行"
    },
    {
      "key": "delisting",
      "label": "上場と廃止",
      "value": "1949年〜2001年",
      "note": "UFJホールディングスの子会社へ移行、UFJ銀行を経て現在は三菱UFJ銀行"
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  "foundingStory": true,
  "foundingChapters": 4,
  "chapters": [
    {
      "start_year": 1881,
      "end_year": 1920,
      "main_title": "伊藤銀行・名古屋銀行・愛知銀行の創立と、名古屋の地場銀行としての明治・大正の成長",
      "subsections": [
        {
          "title": "伊藤銀行・名古屋銀行の創立と、日清戦後に遅れて立った愛知銀行",
          "text": "名古屋では1877年に第十一国立銀行が最初の本店銀行として立ち、1878年に第百三十四国立銀行が続いた。だが1879年12月以降は国立銀行の新設が許されなくなり、各地で私立銀行の設立が相次いだ。第十一国立銀行の設立に加わった伊藤家は1881年9月に伊藤銀行を創立し、名古屋で最初の私立本店銀行とした。国立銀行は商工業の育成に向かないという批判もあり、翌1882年7月には商家らの発起で名古屋銀行が設立された。名古屋銀行の顔ぶれは、瀧兵右衛門・小出庄兵衛・神野金之助・森本善七ら郡部出身を含む商人が中心だった。伊藤銀行は松坂屋を営む伊藤家の個人銀行の色合いが濃く、資本金は1941年の合併時点でも200万円だった。\n\n愛知銀行は1896年3月19日に設立の認可を受け、同年4月20日に名古屋市玉屋町で営業を始めた。きっかけは、第十一国立銀行と第百三十四国立銀行が1896年に営業の満期を迎えることだった。両行と徳川家の代表者は1895年12月14日に普通銀行の設立に着手し、同月27日に大蔵大臣から発起の認可を得た。資本金200万円のうち100万円を発起人が引き受けて残りを公募とし、両国立銀行の株主には1株につき新株4株を割り当てた。開業時の払込50万円は第百三十四国立銀行の資本金30万円と第十一国立銀行の20万円を足した額で、形は解散でも実質は2行の合併だった。平民の資本による第十一と金禄公債を元手にした士族の第百三十四が1行にまとまり、初代頭取には第百三十四国立銀行頭取の岡谷惣助氏が就任した。",
          "references": [],
          "start_year": 1881
        },
        {
          "title": "雌伏時代の愛知銀行と、第一次大戦の好況に乗った躍進時代",
          "text": "愛知銀行の目論見書は、資本金200万円を国債・貸付・手形割引などに振り分け、年12万1750円の純益を見込んだ。だが開業時の払込は50万円にとどまり、創立から1年を経た時点の預金は60万円余だった。1896〜1901年の株価は払込額を割り込むのがほぼ常で、払込を上回る値が付き始めたのは1906年だった。名古屋の本店銀行は1901年末に29行を数えたが、1901年と1907年の恐慌を経て明治末年ごろには22行に減った。1907年5月27日に小栗銀行が臨時休業すると、愛知・名古屋・明治の3行は非常時に互いを援助すると申し合わせた。目論見の4分の1の払込で出発し、2度の恐慌が重なったことが、創立から10年余りの伸びを抑えたと推察される。\n\n1907年の恐慌が収まると愛知銀行の株価は上がり続け、1911年上期には30円払込の株が51円18銭を付けた。預金は1909年に1000万円台へ乗り、1914年には1500万円を超えて、1908年末の2倍以上になった。1914年に関戸銀行、1915年に一宮銀行の業務を継ぎ、1917年12月には北方・枇杷島・大垣の3行を買収した。同じ1917年12月に資本金を700万円へ増やし、1915年からは貸出を預金以下に抑える方針を通した。1920年の恐慌で株価は3月上旬の122円から5月25日に80円へ下げたが、下期末の貸出は預金8700万円に対し約6300万円にとどめた。預金が伸びる局面で店を一つずつ新設するより近隣の銀行を買収するほうが早く地盤を得られると判じ、貸出の抑えで恐慌に備えたのだろう。",
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          "start_year": 1896,
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      ]
    },
    {
      "start_year": 1920,
      "end_year": 1945,
      "main_title": "金融恐慌と一県一行の統合、愛知・名古屋・伊藤の3行合併による東海銀行の発足",
      "subsections": [
        {
          "title": "愛知銀行の大成時代と、金融恐慌後の緊縮、合併不調の末に閉じた明治銀行",
          "text": "愛知銀行は1922年5月、資本金を700万円から1500万円へ引き上げた。同じ時期、全国の手形交換所加盟銀行は1923年6月に貸出が預金を上回り、1925年12月には預金100に対し貸出107.1まで膨らんだ。この1925年12月、愛知銀行の貸出は預金138に対して72にとどまっていた。1923年7月に名古屋で尾三銀行が取り付けに遭った際、日銀名古屋支店は愛知・明治・名古屋・村瀬の4行への融通を通じて救済の資金を出した。配当は1922年下期から1924年下期まで年1割1分弱を続けた。預金の半ばほどに貸出を抑えた運び方が、増資と高配当を同時に支えたとみられる。\n\n1927年の金融恐慌の後、全国の銀行は整理と合同で1932年末に650行まで減り、新設分を除けば6年で1000を超す銀行が消えた。大蔵省は1927年5月に合同と減配を勧め、愛知銀行も同年上期の配当を年1割から9分へ下げた。恐慌後は有力銀行に預金が集まり、愛知銀行の預金は1926年上期末の1億4803万円から1928年上期末に1億7034万円へ増えた。同じ期間に貸出は1億952万円から1億77万円へ減っている。1928年1月施行の新銀行法は最低資本金を100万円と定めたが、愛知銀行は定款を改めるだけで足りた。集まった預金を貸出に充てなかった姿勢が、1932年の合併交渉での慎重さにも通じたと推察される。\n\n明治銀行は1932年3月4日に閉店し、名古屋の本店銀行は愛知・名古屋の2行に絞られた。発端は前年、大株主の神野金之助・富田重助の両氏が銀行業から退く意向を示し、愛知銀行との合併を求めたことだった。2月29日、日本銀行名古屋支店での協議で、名目は合併としつつ実質は愛知銀行が明治銀行を買収する案がまとまり、その夜に公表された。ところが3月1日の調印の席に村瀬銀行の閉店の知らせが届くと、愛知銀行頭取の渡辺義郎氏は全資産の精査を求めて署名を延ばしたという。公表後の不調で明治銀行に取り付けが押し寄せ、愛知・名古屋の両行にも波及した。条件を詰める前に公表したことが、地元どうしの再編をかえって危うくしたのだろう。",
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        },
        {
          "title": "一県一行を進めた結城豊太郎日銀総裁と、資本金3760万円の東海銀行",
          "text": "1936年、広田内閣の馬場鍈一蔵相は一県一行主義を掲げ、自立できる地方銀行まで統合を進めた。当局には県内の銀行を愛知・名古屋の2行へ集める構想もあったが、実現したのは尾張と三河の地区ごとの合同にとどまった。日中戦争が長引くと国債の引き受け先を地方銀行へ広げる必要が生じ、預金金利を下げるため群小の銀行の統合が求められた。3行合併を推した日銀総裁の結城豊太郎氏は、1939年ごろから親交のある愛知銀行頭取の渡辺義郎氏に合同を促していた。1940年10月中旬に大蔵省が3行の首脳を別々に招いて反対のないことを確かめ、12月15日に覚書が調印された。愛知銀行は1944年の行史で、戦時の体制が強まるなかで名古屋・伊藤の両行との提携を深める必要に迫られたと記した。\n\n覚書は3行を対等の条件で合わせると定め、新銀行の会長以下の人選は大蔵省に委ねた。行名は3行が結城総裁に命名を頼み、1941年2月20日に東海銀行と決まった。3月27日に合併契約が結ばれ、旧3行の株主には払込額の同じ新株が1株ずつ渡された。6月9日、東海銀行は公称資本金3760万円、払込2725万円で発足し、店は141、行員は3468人を数えた。会長には旧愛知銀行頭取の渡辺義郎氏、頭取には旧名古屋銀行頭取の井倉和雄氏が就任し、常務5人も愛知2人・名古屋2人・伊藤1人で分けた。役員の顔ぶれまで出身行で釣り合わせたのは、対等という覚書の約束を役員の構成で示すためだったと考えられる。\n\n松坂屋を営む伊藤家の一部門だった伊藤銀行の公称資本金は200万円で、愛知銀行の1500万円、名古屋銀行の2060万円より1桁小さかった。合同の機運が生じた段階で、伊藤銀行副社長の佐々部晩穂氏には愛知銀行との合併が持ちかけられていた。合併契約は伊藤銀行の株主にも新株を1株ずつ渡したが、合併前日までの配当相当金は年7分とし、他の2行の年8分より低く置いた。新銀行では常務1人と取締役2人を伊藤銀行から出し、社長の伊藤次郎左衛門氏は相談役に就任した。伊藤家の先代次郎左衛門氏は、1896年の愛知銀行の創立を発起した一人でもあった。規模の差は配当の差で埋め、枠は対等にそろえた構図と読める。",
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          "start_year": 1932,
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        {
          "title": "岡崎・稲沢・大野の3行合併と、中央信託から継いだ信託業務と187の店",
          "text": "東海銀行は発足から半年で太平洋戦争を迎え、地盤である繊維・雑貨などの中小商工業は統制で縮んだ。1941年12月から1945年8月に預金は特殊預金を除いて約15億円増えたが、貸出は約5億円増にとどまり、国債が約7億9000万円増えた。預金を貸出に回せず、国債の引き受けで運用するほかなかったのである。店の網は1943年4月に尾州銀行、1944年11月に岡崎銀行の営業の一部を譲り受けて補った。戦時の主な融資先はワシノ製機や大隈鉄工などだったが、軍需の補償は少額だったという。軍需の大企業に深く入り込まなかったことが、終戦後に補償が打ち切られた際の損失を抑える側に働いたようだ。\n\n東海銀行は1945年9月、中央信託の営業を譲り受けて信託部を設け、信託業務を兼ねるようになった。同月17日には岡崎・稲沢・大野の3行を合併し、愛知県内に本店を置く唯一の銀行となった。3行の公称資本金は岡崎381万円・稲沢150万円・大野115万円で、持ち込んだ店は支店57・出張所21・代理店7だった。岡崎と稲沢は、1936年以降に三河と尾張でそれぞれ地区の合同の核となった銀行である。合併の結果、公称資本金は4406万円、預金総額は約44億6600万円に達した。1936年から当局が描いた県内を1行にまとめる方針は、終戦の直後に地区ごとの中心行の吸収によって完結した可能性が高い。\n\n3行の合併で店は本店を含めて187となり、明治以来県内に設立された110余りの銀行のうち本店を残す唯一の銀行となった。一方で53の店が戦災を受けて在外資産も失い、配当は1945年3月決算の年8分を最後に途絶えた。金融機関再建整備法による特別損失は3億8200万円に上り、預金の切り捨てや9割減資で埋めて1948年3月に処理を終えた。資本金は9割減資で一時440万6000円まで縮んだ。第二封鎖預金の切り捨て率は38%で、軍需補償の少ない融資先が多かったため、帝国・三菱・住友の7割を下回ったという。統合を終えた時点で、戦後の再建は資本の積み直しから始まる状況にあったと見てよい。",
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    },
    {
      "start_year": 1945,
      "end_year": 1979,
      "main_title": "戦後の再建整備から東京・ロンドンへの進出、中部の巨大な地銀として都市銀行に並ぶまで",
      "subsections": [
        {
          "title": "9割の減資からの再建と、日銀名古屋支店長から来た鈴木亨市頭取",
          "text": "1948年3月、東海銀行は金融機関再建整備法に基づいて資本金を9割減らした。再建整備で確定した特別損失3億8200万円は、預金切り捨ての2億9500万円と減資の3900万円、積立金と確定益で埋めた。損失の元には、地盤の繊維・雑貨などの中小商工業が戦時統制で縮み、53店が戦災に遭い、在外資産も失ったことがあった。同年9月には整備計画に沿って4億3059万4000円を増資し、資本金を4億3500万円とした。1953年2月には、確定損を負った預金者へ元利金の全額を、全国の銀行に先んじて払い戻した。預金者への払い戻しを急いだのは、預金を元手とする銀行として信用の回復を何より優先したためとみられる。\n\n戦後の再建を率いたのは、1943年に頭取となった日本銀行出身の鈴木亨市氏だった。鈴木氏は東海銀行の発足時に日銀名古屋支店長を務めており、三行合併を進めた日銀総裁の結城豊太郎氏の推薦で2代目頭取に就任した。首脳を日銀から迎え、旧行の重役を早めに退かせて若手行員を現業担当の重役に登用したことで、旧愛知と旧名古屋の行風の融合が進んだという。経営の軸には、地元産業の復興と大衆預金の獲得を据えた。店頭には「親切」の標語を掲げ、入りやすく話しやすい店であることを行員に求めた。合併銀行の首脳を旧行と無縁の日銀出身者に任せたことが、派閥を抑えて地元の営業へ力を集める条件になったのだろう。\n\n1948年の新日本経済の連載は東海銀行を八大銀行の一つとして扱い、東西の金融市場での地位を五大銀行に次ぐと評した。戦後の第二封鎖預金の切捨率は、帝国・三菱・住友の7割に対し、東海は3割8分にとどまった。戦時の主な融資先が中小の機械メーカーなどで、打ち切られた軍需補償が少なかったためだった。敗戦後に輸出産業として伸びた繊維・陶器・木材は、もともと東海銀行の取引基盤だった。1946年9月末から1947年4月末にかけての自由預金の増加率は206%で、全国の普通銀行の140%を上回った。1955年3月末の預金総額は1661億円となり、普通銀行の中で5位に並んだ。重工業への出遅れが、敗戦後にはかえって損失の小ささと輸出産業の地盤として利いたと推察される。",
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        {
          "title": "木下正美の東京進出とロンドン支店、日本のピープルズ・バンクを掲げた大衆預金",
          "text": "1968年までに東海銀行の東京都内の店舗は44店となり、新設店の大半は関東に置かれた。1956年に頭取の鈴木亨市氏は、東京と大阪の取引先を名古屋に縁のある企業から一般の得意先へ広げてきたと説明した。東京への本格的な進出を主導したのは、副頭取の木下正美氏だった。木下氏によれば、地元の取引を1行で受ける立場にあったため他行の進出が激しく、守るだけでは預金の伸び率を削られた。1962年までに東京の店舗は20店に達し、東京の伸びにより都市銀行の預金に占めるシェアは5年で7.8%から8.8%に上がった。地元での強い地位がかえって他行を呼び込み、守りに限界が出たことが、外へ出る動機になったと考えられる。\n\n1960年の海外視察でバンク・オブ・アメリカの経営に触れた木下正美氏は、帰国後にピープルズ・バンクの路線を打ち出した。1961年3月に竣工した名古屋の新本店では、長さ約50mのカウンターに34人のテラーを並べ、客のための空間を広く取った。2階には経営相談所を設け、取引先が気軽に相談できる造りとした。事務では他行に先がけてIBMの電子計算機7070を入れ、窓口の処理を速めた。貸出では、中小企業への融資の比率が他行より高いことを木下氏は特色に挙げた。1966年9月末の預金は1兆1713億円で、10年間の伸びは都市銀行13行平均の4.7倍に対し5倍だった。財閥系の上位行と大企業のメーン取引で並びにくい以上、個人と中小企業の厚みで規模を補う選択だったとうかがえる。\n\n東海銀行は甲種外国為替銀行として世界の主要地の銀行とコルレス契約を結んで貿易金融を手がけ、1954年3月にはニューヨーク事務所を開設した。地盤の東海地方には繊維・陶器など輸出向けの産業が多く、為替の需要は取引先の側にあった。1960年時点の海外拠点はニューヨークとロンドンの駐在員事務所で、1962年の役員名簿でもロンドンはまだ駐在員事務所と記された。1966年6月には店舗190のうち2店が海外に置かれ、1968年にはその2店がニューヨークとロンドンの支店と記された。取引先の輸出に伴う為替の取次ぎから入ったため、海外拠点も1960年代半ばの支店への格上げまで段を踏んで広げたようだ。",
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        {
          "title": "日銀出身の三宅重光頭取と、谷信一頭取の集まる預金への転換",
          "text": "1968年5月、日本銀行出身の三宅重光氏が東海銀行の頭取に就任した。三宅氏は前年9月に頭取の金子嘉徳氏から後任として求められ、11月に副頭取となって半年ほど行内の事情を学んだ。当時の東海銀行は不幸な出来事が続き、首脳を外部から迎えざるを得なかったという。就任に際しては、1971年の創立30周年までに資金量を2兆円とする目標を掲げた。1969年の対談では、大銀行の合併は効果で個別に判断すべきで、似た規模の大銀行が複数並んで競う構図が必要だとした。そのうえで、オープンコルレスやクレジットカードなどの業務提携が広く深く進めば、合併の意味は薄れるとの見方を示した。合併に頼らず提携で規模の不利を補う方針は、財閥の系列を持たない中位行の立場から導かれたと読める。\n\n1975年5月、三宅重光氏が会長に退き、副頭取の谷信一氏が頭取に就任した。三宅氏は前年3月から名古屋商工会議所の会頭を兼ねており、頭取との兼務に無理を感じていた。谷氏は1937年に前身の愛知銀行へ入り、東京駐在の長い経歴を経た行員出身の頭取だった。就任後の1975年9月の取材で、谷氏は『さしあたり、集める預金から集まる預金へと体質転換する必要がありますね。』と預金の集め方を改める考えを示した。個人預金は小口でも質が高く、安定すれば全体の規模で大口の法人預金に劣らないという判断だった。後任の加藤隆一氏は1980年、谷氏の路線を大衆化・国際化・効率化の3本柱と整理した。企業の資金需要が鈍る局面で、預金の軸足を法人から個人へ移す転換だったと思われる。\n\n1979年2月、東海銀行が主力銀行を務めていた林紡績とパシフィック通商が相次いで倒産した。1979年3月期に両社向けで償却した不良債権は80億円を超え、同期の経常利益198億円の4割を上回った。それまでは各常務に大きく権限を委ね、東京営業部は東京の案件をほぼ東京で決めていた。東海銀行は4月11日に常務会を新設し、6月1日からは担当常務3人の意見が一致した場合だけ融資を決める審査に改めた。同期の預金の34%を名古屋で集めた一方、貸出は29%にとどまり、余った資金を東京の大企業取引に回していた。1980年に頭取の加藤隆一氏は、名古屋を固められなければ東京も海外もあり得ないとの立場を示した。名古屋の預金で東京の貸出を支える構図こそが、巨大な地銀と呼ばれた理由だったのかもしれない。",
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    {
      "start_year": 1979,
      "end_year": 2001,
      "main_title": "地銀からの脱皮と上位行との規模の差、三和銀行とのUFJ統合による上場廃止",
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          "title": "加藤隆一頭取の地域密着と世界の東海、太陽神戸・三和との規模の差",
          "text": "頭取の谷信一氏が病気で退任したため、1980年5月に副頭取の加藤隆一氏が60歳で頭取に就任した。加藤氏は谷氏の敷いた大衆化・国際化・効率化の3本柱を引き継ぎ、そこへ地域密着を加えると表明した。名古屋を固められなければ東京も大阪も海外もあり得ないとして、地盤の空洞化を避けることを経営の重心に置いた。背景には国債の値下がりと大企業の銀行離れがあり、生産者向けに偏った融資を個人向けの小口金融へ広げる必要が出ていた。1979年時点で東海銀行は名古屋市の預金の40%を集め、その余剰を東京での大企業取引へ振り向けていた。東京で伸びる元手が名古屋の預金だった以上、地元の固め直しは拡大の路線と矛盾しなかったとみられる。\n\n1984年度に始めた第7次長期経営計画で、東海銀行は成長性で首位に立つことを掲げ、重点の一つに国際業務の総合的な展開を置いた。国際部門は1978年時点で利益全体の10%を超え、同年のシンジケートローン組成件数は東京銀行に次ぐ2位だった。1985年2月にデュッセルドルフ支店とメルボルン駐在員事務所、3月にバーレーン駐在員事務所を開設し、海外拠点は34か所となった。本部業務の点検で減らした約200人のうち120人を証券・国際などの重点部門へ配置転換し、全体の人員を増やさずに国際部門を厚くした。加藤隆一頭取は1980年、カリフォルニアに根を張ったまま世界一となったバンク・オブ・アメリカを、地方に本店を置く銀行の手本に挙げていた。\n\n1978年度上期、東海銀行の預金は太陽神戸銀行に月によって逆転を許し、目標としていた三和銀行との差は開く一方だった。支店網が東海地方に偏っていたため、東京と関西に店を持つ太陽神戸銀行に比べ、全国で預金を集めるうえで不利だった。加藤隆一頭取は本部業務のむだを洗い出す効率化運動を進め、上位行に迫る経営体質をつくることを狙った。1985年の時点で、東海銀行は総資金量と税引き利益で三井銀行を上回っていた。1986年に住友銀行が平和相互銀行を合併した後も再編の観測は続き、1987年に太陽神戸銀行の合併相手として名が挙がったのは東京銀行だった。規模の差を合併で埋める見通しは立っておらず、自らの効率を上げて差を詰めるほかなかったのだろう。",
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          "title": "伊藤喜一郎頭取の3つの足と、加藤隆一会長の長期支配、西垣覚頭取の登板",
          "text": "1988年6月、副頭取の伊藤喜一郎氏が59歳で頭取に就任した。頭取を8年務めた加藤隆一氏は後継候補をつくらないと公言し、次の頭取は常務以上の役員に意見を聞いて選んだという。伊藤氏は中部圏を大事な基盤としつつ、金融の中心である東京と海外を加えた三本足で立つ方針を示した。方針は金融情勢に応じて変わるものだとして、前任の路線を名古屋回帰とみる見方は退けた。東京では都心部の店舗を整え、大口の法人取引と個人向けの小口取引を並べて広げる計画だった。米国では日系企業中心の取引から非日系企業やミドルマーケットへ広げるため、審査能力の強化を課題に挙げた。自らの時間は名古屋に6、東京に4の割合で振り分けるとした。\n\n1991年、元秋葉原支店の行員が絡む架空預金証書事件が起き、東海銀行はノンバンク5社の債権計625億円を肩代わりすることになった。経営責任としては1991年10月に日銀出身の副会長が退任しただけで、1992年1月に頭取の伊藤喜一郎氏が管理責任者21人の処分を発表した。処分が軽いとの批判のなか、6月に伊藤氏が会長に、会長の加藤隆一氏が相談役に就任するという観測が流れた。加藤氏は1986年から会長を兼ねて8年頭取を務め、人事権を握るワンマン経営者とされた。1992年4月には新聞各紙が加藤氏の辞任を報じたが、副頭取を頭取に上げる案は潰れ、伊藤氏が頭取を続けることになった。後継候補をつくらない方針が、責任の取り方と交代の手を狭めたと推察される。\n\n1994年6月、副頭取の西垣覚氏が59歳で頭取に就任し、伊藤喜一郎氏は会長となった。西垣氏は愛知紡績とタキヒヨーへの2度の出向を経ており、出向から戻って頭取に就任するのは東海銀行で初めてだった。直前の決算で不良債権を大きく償却し、系列ノンバンクの支援では約3000億円の不良債権を肩代わりした。西垣氏は、上位6行が合併で量の差を広げた以上、合併しない限りは量を追わずにコスト競争力で競うという方針を示した。目標は格付けを上位行並みに引き上げることに置いた。専門性の高い業務の人材を行内で公募する制度を設け、東京と名古屋に分かれていた企画部を一本にまとめた。都市銀行として東京の顔となる駐在の副頭取が要るとして、副頭取を2人置いた。",
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          "title": "大阪信組の事業譲受と、三和・東洋信託と組んだUFJホールディングス",
          "text": "1995年12月7日、経営不振の大阪信用組合の事業を東海銀行が1996年夏をめどに引き継ぐと発表された。東海銀行は健全な債権と預金だけを受け、不良債権は日本版RTCへ移し、譲渡で生じる損失は預金保険機構が資金援助で埋める枠組みだった。大阪信組は1995年10月末で預金3381億円・20店舗を持ち、9月に資金が不足して大阪府は自主再建を難しいと判断していた。東海銀行は1968年から役職員を送り、1995年10月には300億円の支援融資を出すなど大阪信組と関わりが深かった。受け皿を担う理由には金融システムの安定への協力と関西の取引基盤の強化を挙げ、直接費用は3年間で107億円と試算された。抵当権の移転にかかる登録免許税を誰が負うかも、1996年1月の時点で決まっていなかった。\n\n1998年4月に副頭取から頭取に就任した小笠原日出男氏は、5年後には東海銀行はないかもしれないという危機感を表した。規模で劣る以上、金融ビッグバンの下で外国の金融機関並みの速さを身につける必要があるという認識だった。他の都市銀行に先駆けて社内分社のカンパニー制を表明し、数年で108店舗を統廃合する計画を立てた。1998年9月にはあさひ銀行と金融持株会社を視野に入れた戦略的提携で合意し、1999年10月7日に共同持株会社を設ける構想を発表した。両行は2001年10月めどに首都圏・中部圏・関西圏の地域銀行3社と国際資金証券銀行1社へ組み替える計画だった。合併はせず、地域ごとの銀行の独自性を残す設計に狙いを置いた。名古屋の地盤を手放さずに規模の不足を補う手段として、地域別の子会社を持株会社の傘下に置く方式が選ばれたと思われる。\n\n2000年6月の時点で、東海銀行とあさひ銀行の統合には三和銀行が加わり、3行統合として構想を広げることになった。頭取の小笠原日出男氏は、地域の軸では関西が手薄で、機能の軸でも証券や信託を補う必要があったことを三和銀行と組む理由に挙げた。異業種の銀行業参入が進むなか、中堅・中小企業の市場で競争優位を保つには一定の規模と機能が要るという認識だった。ところが2000年6月にあさひ銀行が統合から離れることが明らかになった。2000年7月、三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行は持株会社を通じた経営統合で基本合意した。2001年4月に3行は株式移転でUFJホールディングスを設け、東海銀行はその子会社となって上場を終えた。2002年1月には三和銀行と合併してUFJ銀行となった。",
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