大和銀行とあさひ銀行の経営統合とりそなホールディングスの誕生

2002年成立

都銀再編から取り残された2行はなぜ統合し、なぜ約2兆円の公的資金で実質国有化に至ったのか?

更新:

時期 2001年9月
概要
都市銀行再編から取り残された大和銀行とあさひ銀行が、近畿大阪銀行・奈良銀行とともに共同持株会社の傘下に集い、のちのりそなホールディングスを形づくった経営統合。
背景
1999年に始まった都銀の合従連衡で、不良債権を抱える大和とあさひは合併相手を得られず取り残され、メガバンクとは異なる「スーパーリージョナルバンク」への転換を迫られていた。
内容
2001年12月に大和・近畿大阪・奈良の3行が株式移転で大和銀ホールディングスを設立、2002年3月にあさひ銀行が株式交換で傘下入り。同年10月にりそなホールディングスへ改称し、2003年3月に大和とあさひが再編されりそな銀行・埼玉りそな銀行が発足した。
含意
統合は財務体質の改善には直結せず、2003年5月に繰延税金資産の縮小で自己資本比率が4%を割り込み、預金保険法に基づき約2兆円の公的資金が注入され実質国有化された。外部からの経営陣刷新を経て立て直され、公的資金は2015年に完済された。
筆者の見解

規模の論理と、財務の実態

この統合は、再編から取り残された銀行どうしが規模を補い合い、メガバンクとは異なる地域密着型の路線を選んだ事例とみることができる。だが統合そのものは、各行が抱えていた不良債権や資本の薄さという財務の実態を解消するものではなかった。組織を束ねることと、財務体質を立て直すことは別の課題であり、両者を取り違えれば統合の直後に危機が表面化しうる——りそなショックは、その境目を可視化した出来事だったとも読める。

一方で、実質国有化という強い外的介入が、外部人材の登用や統治構造の刷新という形で経営の不連続を生み、結果として立て直しの契機になった面も否めない。公的資金を約12年で完済し、当初計画より前倒しで国の関与に区切りをつけた経緯は、危機対応の枠組みと経営改革が噛み合えば再建が成し得ることを示している。統合の成否を、発足時点の規模やシナジーだけで測るのではなく、その後の財務再建と統治の刷新までを含めて評価すべきことを、この案件は示唆しているのだろう。

Yutaka Sugiura

統合の背景

都銀再編から取り残された2行

1990年代末の日本の銀行界は、不良債権処理と金融ビッグバンの圧力のなかで大規模な再編に入っていた。1999年に第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行が統合を発表してみずほの構想が動き出すと、住友と三井住友、東京三菱、UFJといったメガバンクへの集約が連鎖していく。大手都市銀行の合従連衡が進むなかで、相対的に規模が小さく不良債権を抱える大和銀行とあさひ銀行は、合併の組み合わせから外れる形となり、再編の本流から取り残された[1]とされる。市場では両行の先行きに対する不安が募り、株価への売り圧力にもつながっていた。

メガバンクと同じ土俵で全国・国際業務を競うのではなく、個人と中小企業を主たる顧客とし、地域に密着した金融機関の連合体をつくる——大和銀行が描いたのは、そうした「スーパーリージョナルバンク」への転換であった。大和銀行は信託業務を併営する独自の都市銀行であり、関西を地盤に個人・中小企業取引へ強みを持っていた。近畿財務局も統合の発表に際し、関西を地盤とするスーパー・リージョナル・バンクとしての経営体制の確立に期待を示している[2]。規模の拡大そのものより、収益基盤の組み替えと経営資源の有効活用に統合の主眼が置かれていたとみられる。

「監督庁の次の標的」と名指しされた大和銀行

統合に先立つ数年前、大和銀行は再編の圧力の最前線に立たされていた。1999年に入るころ、日本の金融界は金融監督庁の強い監視のもとに置かれていた。監督庁が日本長期信用銀行と日本債券信用銀行を相次いで一時国有化したことで、金融界には「まだ何行か国有化する腹づもりではないか[3]」という疑心暗鬼が渦巻いていたと報じられている。監督庁は公的資金による資本注入で金融不安を一気に取り除く構え[4]をとり、預金の全額保護を打ち切るペイオフの解禁も迫るなかで、大手行にリストラ計画や長期の経営計画の提出を求め、生き残り策を明確にするよう迫った。三井信託銀行と中央信託銀行が年明けからわずかな期間で合併合意に至った背景にも、こうした「生き残り策の確定」を求める監督庁の圧力があったとされる。もっとも、両行が示したリストラ計画に対しては、監督庁から早くも「そんな手ぬるいリストラでは資本注入はできない[5]」との声が漏れたという。

そうしたなかで、金融界が「監督庁の次の標的」と見なしていたのが大和銀行[6]であった。1999年初には、大和銀行をめぐって「住友信託銀行と合併」「あさひ銀行・東海銀行と包括提携」といった観測報道[7]までが飛び出したと伝えられる。大和銀行は既に、海外業務からの撤退により京阪神地区を地盤とするスーパー・リージョナル・バンク(巨大地域金融機関)を目指す[8]ことを明らかにしていた。だが同じ京阪神を地盤とする都市銀行には三和銀行と住友銀行という強力なライバルが控えており、単独での生き残りは難しいとみられていた。大和銀行は遅からず何らかの生き残り策の提示を迫られる立場にあり、のちの経営統合へと向かう圧力は、この時点で既に強くかかっていた。

苦肉の策としての住友信託との提携

監督庁から生き残りを迫られた大和銀行が動いた一例が、1999年11月に明らかになった住友信託銀行との提携である。両行は翌年秋に折半出資で新しい信託銀行を設立し、それぞれが保有する年金や投資信託など受託資産の管理を全面的に移管することで合意した[9]と発表した。資産管理業務は多額の設備投資を必要とするだけに規模のメリットが働き、いったんシステムを構築して一定の顧客を獲得すれば安定した収益を期待できる。融資業務の将来性に期待できない信託各行にとって、資産管理業務に活路を求めるしかない[10]という事情があった。日経ビジネスはこの動きを、再編に立ち遅れた両行の「苦肉の策」と位置づけている[11]

この提携の裏には、信託業界の勢力図の塗り替えがあった。一時は全面提携の検討が表面化していた三菱信託銀行と住友信託銀行は、ここに至って完全に袂を分かつ形となり、その離反をめぐっては「昨年の金融システム不安の折の出来事が影響しているのでは[12]」との憶測が流れた。金融界では「大和、住友信託には三菱信託への不信感があり、ネックになったのでは[13]」ともささやかれた。加えて、住友銀行とさくら銀行が合併を決断したことで[14]、住友信託が三菱信託と組む余地はいっそう狭まっていた。大和銀行の内部には、かつて合併を模索した住友銀行への複雑な思いから住友信託との提携に躊躇する向きもあったが、最終的には三菱信託より組みやすいと判断したとされる。日本長期信用銀行との合併がご破算となって以降、明確な再編戦略を描けずにいた住友信託[15]も、都市銀行の勢力図が固まったことで積極的に動き始めていた。単独での生き残りが難しい大和銀行が、こうして次々に提携相手を探し求めていた姿は、のちに近畿大阪銀行・奈良銀行、そしてあさひ銀行との経営統合へと向かう前史をなしている。

統合の発端

関西3行の統合と、あさひ銀行の合流

統合は二段構えで動いた。まず2001年8月、大和銀行は近畿大阪銀行・奈良銀行とともに、持株会社の設立を主体とする経営統合を発表する。関西を営業基盤とする3行が共同で金融持株会社を設けて経営を一本化し[16]、あわせて信託部門の分社化なども進める枠組みであった。近畿財務局はこの統合について、金融機関を巡る厳しい環境のなかで抜本的な事業再構築と経営資源の有効活用を通じ収益力が強化されるものと期待する[17]との談話を出している。

続いて、首都圏・埼玉県を地盤とするあさひ銀行が、この統合に合流する。あさひ銀行は協和銀行と埼玉銀行の合併で生まれた旧都市銀行であり、大和銀行と同様に再編から取り残された立場にあった。2001年9月にあさひ銀行が統合への参加を正式に表明し、関西の3行に首都圏の都市銀行が加わることで、東西にまたがる金融グループの構想が固まっていく。公正取引委員会も、関西圏を営業基盤とする3行が共同で持株会社「大和銀ホールディングス」を設立して経営統合を行い、その後に首都圏を営業基盤とするあさひ銀行が当該統合に参加した[18]、と統合の構造を整理している。

統合の経過

持株会社の設立から「りそな」への改称

枠組みは予定どおり実体化していく。2001年12月、大和銀行・近畿大阪銀行・奈良銀行の3行は共同株式移転により金融持株会社「大和銀ホールディングス」を設立し、各行はその傘下に入った。続く2002年3月、あさひ銀行が株式交換によって大和銀ホールディングスの完全子会社となり、四つの銀行を擁する金融グループが姿を整える。公正取引委員会は、いずれの取引分野においても競争を実質的に制限することにはならないと判断し、統合を認めている[19]

グループは2002年10月、持株会社の商号を「大和銀ホールディングス」から「りそなホールディングス」へ改めた。そして2003年3月、傘下銀行の再編を断行する。大阪を地盤とする大和銀行と首都圏を地盤とするあさひ銀行を組み替え、あさひ銀行の埼玉県内の営業を分割して埼玉りそな銀行を新設し、残るあさひ銀行と大和銀行を合併させてりそな銀行とした[20]。これにより、りそな銀行・埼玉りそな銀行を中核とするりそなグループの体制が整った。発足時点で、グループにはすでに金融危機対応で約1兆円の公的資金が注入されていた[21]と報じられている。

統合の帰結

りそなショック——繰延税金資産と実質国有化

統合は財務体質の弱さそのものを解消するには至らなかった。2003年3月期の決算をめぐり、自己資本に算入していた繰延税金資産の見積もりが監査法人の判断で大きく縮小され、りそなの自己資本比率は国内基準行に求められる4%を割り込む水準まで低下する[22]。税効果会計上、将来の利益で回収できる範囲をどこまで資産に計上できるかが論点となり、計上できる年数が絞り込まれた結果、自己資本が目減りしたとされる。財務の脆弱さが、統合後ほどなくして表面化した形であった。

2003年5月、政府は預金保険法に基づく金融危機対応会議で、りそなグループへの公的資金による資本増強を決定する。傘下のりそな銀行を対象に約2兆円規模の注入を行い、グループは実質的に国有化された[23]。同年6月、りそな銀行は預金保険機構を引受先として約1兆9600億円の優先株式・普通株式を発行し[24]、資本注入が実行に移された。一連の経緯は「りそなショック」と呼ばれ、上場行の自己資本比率が監査の判断ひとつで急落しうる現実を市場に突きつけた出来事であったとされる。

外部からの経営刷新と公的資金の完済

実質国有化を受け、りそなは経営陣を外部から迎えて立て直しに踏み出す。2003年6月、JR東日本副社長を務めた細谷英二氏がりそなホールディングス会長に就任し[25]、トヨタやカネボウなど異業種出身者を含む社外取締役を招くなど、金融機関では前例の乏しい統治体制へ移行した。細谷氏は「銀行はサービス業」を掲げ、窓口営業時間の延長や待ち時間の短縮といった顧客目線の改革を進めた[26]と報じられている。不良債権の処理を進める一方で、業務の組み替えと収益力の回復に取り組んだ。

立て直しの成果は、公的資金の返済として形になっていく。実質国有化以降、注入された公的資金はピーク時に3兆円規模に達したが[27]、りそなは収益の改善を背景に段階的な返済を進めた。2014年には返済がほぼ完了して実質国有体制は終了し、2015年6月、りそなホールディングスは公的資金を完済する[28]。当初は15年程度を見込んだ返済が前倒しで実現し、統合と危機の出発点となった巨額の公的支援に区切りがついた。

出典・参考

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