ニッセイ同和損害保険日本生命によるニッセイ損害保険の設立と損害保険業への参入
損害調査網を持たない生保が、営業職員という販売網だけを携えて損保市場へ入った
- 概要
- 1996年、日本生命保険が損害保険子会社としてニッセイ損害保険を設立した経営判断。本店は東京都新宿区、資本金は100億円で、生損保の相互参入が解禁された第1陣として損害保険市場へ入った。
- 背景
- 1996年4月施行の新保険業法で子会社方式による生損保相互参入が認められ、同年10月に相互参入が始まった。損害保険市場は1998年8月の料率自由化を控えており、大手生保はいっせいに損保子会社を設立した。
- 内容
- 既存損保の買収でも提携でもなく、新会社を起こした。販売は日本生命の営業職員が担い、損害保険の初級資格を取った約3万4,000人に普通資格を取らせることを成長の条件に置いた。
- 含意
- 最も期待した団体傷害保険への参入は実質的に閉ざされ、森口昌司社長は黒字化が2年遅れると語った。第一生命・三井生命が数年で損保子会社を手放すなか、日本生命は同和火災海上保険との合併へ進んだ。
販売網は買えても、事故処理は買えない
約3万4,000人——損害保険の初級資格を取った日本生命の営業職員の数が、この参入の元手だった。ニッセイ損害保険は資本金100億円で発足したものの、自動車事故の損害調査網も、育った代理店網も持たずに始まっている。手にしていたのは親会社の顧客接点だけで、伸びる速さは職員が普通資格をどこまで早く取るかに委ねられた。損害保険が成熟市場であることを森口昌司社長自身が認めたうえで、なお販売網の厚みだけで押し通す設計だった。
その設計は、最も当てにしていた団体傷害保険が実質的に閉ざされた時点で狂った。森口昌司氏は黒字化が二年は遅れると語り、現場では損保代理店が「一番大切なのは事故処理ですよ」と説いて契約を守っていた。参入の第1陣に並んだ生保のうち、第一生命は損保子会社を売り、三井生命は営業譲渡している。同じ規制緩和に同じ形で応じながら、続けるか畳むかで結果が分かれた。分けたのは各社の熱心さではなく、事故が起きてから人と拠点を要する損害保険の費用構造にある。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
生損保の垣根が外れた1996年
1996年4月、新しい保険業法が施行され、生命保険会社と損害保険会社は子会社を通じて互いの領域へ入ることを認められた。実際に相互参入が動き出したのは同年10月である。始まってみれば、互いの主戦場を避けた探り合いが続いた。週刊東洋経済は翌1997年春の時点で、この状態を「まだ互いの本丸には攻め込まない限定戦争の段階」と評し、それでも競合は強まる方向にあると見ていた[1]。
生保が入ろうとした損害保険市場も、同じ時期に転換を控えていた。1996年末に決着した日米保険協議により、1998年8月から損害保険料の自由化が決まる。自動車・火災・傷害・自賠責・地震の5種目で各社に課されていた算定会料率の順守義務は廃止され、全国一律の料率も見直される。横並びの料率が崩れ、価格で優劣がつく市場へ変わる直前に、新しい参入者が並んだことになる[2]。
いっせいに設立された損保子会社
規制緩和に対して、大手生保はそろって同じ手を打った。のちに週刊東洋経済は「規制緩和による生損相互参入で、大手生保はいっせいに損保子会社を設立した」と振り返っている。ただし損害保険は、生命保険と費用のかかり方が違う。自動車事故の損害調査網を全国に張らなければ商品として成り立たず、コストと手間がかかる。契約を取る前ではなく、事故が起きた後に人と拠点を要する[3]。
日本生命保険も1996年、損害保険子会社としてニッセイ損害保険を設立した。本店は東京都新宿区、資本金は100億円である。同社の沿革では、この年の記載は「ニッセイ損害保険(株)設立」の一行にとどまる。既存の損保を買うのでも、どこかと組むのでもなく、白紙から会社を起こした。前年の1995年にはニッセイ投信を設立しており、本業の周辺へ子会社を置く動きが続いていた時期にあたる[4][5]。
決断
販売網から始める
新会社が最初に取りかかったのは、商品開発でも損害調査網の整備でもなく、資格試験であった。日本生命の営業職員のうち、損害保険の初級資格を取った者が約3万4,000人にのぼる。森口昌司社長は1997年初めの時点で、この層になるべく早く、なるべく多く普通資格を取らせることを成長の鍵に挙げ、「できれば全員に普通資格をとらせたいが、最低でも七、八割は確保したい」と語っている[6]。
販売の担い手を親会社の営業職員に置いた以上、伸びる速さは資格の取得ペースで決まる。森口昌司氏は、その前提となる市場観も同時に口にしていた。「損害保険は成熟マーケットだけに、生保系が成長するには時間がかかる」。市場そのものは膨らまず、契約を増やすには他社の既存契約を取り替えるほかない。参入する側は、短期の急成長をはじめから見込んでいなかった[7]。
事業計画が当てにしていた団体傷害保険
個人の自動車保険を一件ずつ積み上げるより早い道として、新会社が当てにしていたのが団体傷害保険であった。日本生命は団体保険で企業の総務部門に入る販路をすでに持っている。団体保険それ自体は儲からないものの、この分野で幹事を取って職場に入り込めれば、営業職員が個人保険を売る場も得られる。その職場へ傷害保険を重ねられるかどうかが、参入初期の収支を左右した[8]。
1997年1月、ニッセイ損害保険は損害保険の販売を認められた。ところが、その団体傷害保険への道は実質的に閉ざされる。森口昌司氏は「我々が一番期待していた団体傷害保険については、実質的には道を閉ざされた」と述べ、生保系にとって大変不利な結果であり、黒字化は二年は遅れるとまで語った。販売が認められたその月に、社長は採算計画の遅れを公に認めている[9]。
結果
参入1年目の現場
販売網の側では、狙いどおりの動きも出た。相互参入から1年を経た1997年11月の座談会で、大手生保の営業職員は自動車保険の契約をすでに10件以上取ったと述べ、日ごろ顧客を訪ねているため信頼関係があれば既存契約を取り替えるのは難しくないと語っている。ただし同じ職員は、本業の生保販売がおろそかになるのを恐れて会社が損保を後押ししない、とも明かしている[10]。
迎え撃つ損保代理店は、生保系の弱点を正確に突いていた。同じ座談会で大手損保の代理店は、大手生保が融資を絡めて10台以上の車両を持つ企業のフリート契約に攻勢をかけてきたと証言する。それでも「一番大切なのは事故処理ですよ」と説いて契約を守ったという。生保系損保は事故処理の体制が整っておらず、契約の一部だけを分け合うシェア・インのほうが有利だとも見られていた[11]。
第1陣に並んだ生保の分岐
日本生命は、この事業を一時の多角化として扱わなかった。2000年の時点で加藤貞男氏(取締役総合企画部長)は、損保を第二の本業と考え、保険グループとして独立した集団をめざすと説明している。膨大な契約者を「ニッセイ保険口座」で囲い込む取り組みも同じ時期に始まり、口座の加入者はスタートから1年で300万人を超えた。損保商品は、その顧客基盤へ重ねて売る品目に据えられた[12]。
同じ1996年に横並びで損保子会社を持った各社は、その後たどった道が分かれた。第一生命は包括提携した安田火災保険へ損保子会社を売却し、三井生命も2002年暮れに三井住友海上保険へ損保を営業譲渡している。損害調査網を抱える負担に見合う成果を得られないまま、数年で手放す判断が続いた。日本生命だけは同和火災海上保険を傘下に収め、2001年4月に子会社と合併させる道を選んでいる[13]。
- 週刊東洋経済 1997年1月18日号「[ザ・トーク]森口昌司・ニッセイ損害保険社長」
- 週刊東洋経済 1997年4月5日号「保険自由化で保険料はどうなるか」
- 週刊東洋経済 1997年11月29日号「生損保相互参入から1年を語る、最前線匿名座談会」
- 週刊東洋経済 2000年10月7日号「最強の保険会社はここだ!」
- 週刊東洋経済 2003年4月12日号「悩める巨人 日本生命の闘い」
- ニッセイ同和損害保険 有価証券報告書【沿革】
- 日本生命保険「沿革」(会社案内)