大東建託賃貸経営の周辺機能をグループ内に抱え込む

客付け・資金・管理を外に頼るか、自前で持つか——土地建託システムを支える周辺事業の内製化

時期 1996年5月
意思決定者(推定) 多田勝美 社長
論点 事業領域とグループ体制
概要
1993年の大東ファイナンス設立から2001年のガスパル設立まで、大東建託は賃貸経営に必要な機能を次々と子会社として自前で持った。1996年5月には5カ年の中長期経営計画で、多角化とグループで補完しあう体制づくりを掲げている。
背景
建築請負と空室保証は自社で完結していたが、入居者の客付けは全国約1万社の地場仲介業者に依存し、地主の資金調達も外部の金融機関頼みであった。仕組みの中核でありながら、自社の外にある部分が残っていた。
内容
1993年10月に大東ファイナンス、1994年に賃貸仲介のハウスコム、1999年9月に大東建物管理の賃貸建物管理業務、2001年6月にプロパンガスのガスパル関東・中部。金融・仲介・管理・エネルギーを順に子会社化した。
含意
賃貸住宅一棟から得られる収入は建築請負にとどまらず、仲介手数料・管理費・ガス料金へ広がった。同時に、固定費を伴う機能をグループ内に抱えることで、受注の変動をそのまま自社で受け止める体質にもなった。
筆者の見解

隣を埋めるという多角化

この一連の子会社設立は、飛び地への進出ではなく、既にある事業の隣を一つずつ埋める作業であった。仲介も、融資も、管理も、ガスも、いずれも賃貸住宅を建てた地主と入居者のあいだで必ず発生する仕事で、外部の事業者に渡していた収入を自社へ引き寄せる性格を持つ。多田勝美社長が「トータルライズ化」という言葉で説明したのは、新しい市場を開くというより、自分たちの作った市場から漏れていた分を回収するという発想であったとみることができる。無借金で1,000億円規模の運用資産を抱えていたことが、その回収を一気に進めさせた。

もっとも、隣を埋め尽くした先に何を置くかは、この時期には決まっていなかった。5カ年計画の売上目標に届かなかったこと自体より、建てる会社であり続ける限り、周辺収入も新設戸数に縛られる点が重い。2010年代以降の海外不動産や介護、アセットマネジメントへの投資は、埋める対象が国内の賃貸住宅の周りには残り少なくなったことの裏返しとも読める。隣接領域をどこまで自前で持つかという1990年代の問いは、形を変えて今日の資本配分にも及んでいるとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

客付けを外に頼るという弱み

土地建託システムの要は、建てた賃貸住宅に入居者を入れることであった。大東建託はテナント営業部という独自の部隊を持ち、約500人を各支店に10人程度ずつ置いていたが、その仕事は客付けだけではない。建築営業から上がってきた案件について、その土地にどのような物件を建てるのがよいか、どのような賃貸条件が妥当かを審査する立地プランの役目も担っていた。客付けだけに力を注ぐわけにはいかない、と多田勝美社長は述べている[1][2]

実際の客付けは、外部に依存していた。全国の地場の不動産仲介業者およそ1万社を「フレンドショップ」として組織し、入居者の7割はこの経路を通っていた。大東建託は自社物件を紹介された際の仲介手数料を折半せず全額を仲介業者に渡すことで、優先的な紹介を引き出していた。加えて支店の立地が駅周辺ではなかったため、アパート・マンションの客付けには不利があった。仕組みは働いていたものの、入居率を左右する部分が自社の外に置かれていた[3][4]

潤沢な自己資金と、地主の側の資金の壁

一方で、多角化に打って出る原資は十分にあった。大東建託は銀行からの長期借入を持たない無借金の会社で、日経ビジネスは1994年の時点で資産約2,000億円のうち定期預金や株式が1,000億円を占め、豊富な資金を生かしていつでも多角化に打って出られる体制にあると書いている。1994年3月期末の総資産は2,404億6,100万円、株主資本比率は59.4%まで上がっていた。運用益が経常利益を押し上げる構造も、この時期に固まっていた[5][6]

地主の側には別の壁があった。賃貸住宅の建設には数千万円から数億円の資金が要り、着工から完成までのつなぎ資金も欠かせない。長年の取引がない地主にとって、この調達は建設をためらわせる要因になる。大東建託は1993年10月に大東ファイナンスを全額出資で設立し、この部分を自社で埋めた。1996年の講演で藤田浩一常務取締役は、子会社への短期貸付金の大部分が大東ファイナンス向けであり、同社の運用はほとんどが施主へのつなぎ融資であると説明している[7][8]

決断

多角化の第1弾としての仲介子会社

1994年、大東建託は賃貸物件の入居者募集と仲介を担う全額出資子会社ハウスコムを設立した。有価証券報告書の沿革は設立を同年7月と記すが、多田社長は同年5月17日の講演で「94年4月」に設立したと述べており、記録は一致しない。狙いは明確であった。日経ビジネスは、新規事業の確立が急務になったことに加え、本体のテナント営業部の拡大が限界に近づいたこと、そして仲介子会社を設けて他社物件も扱えば黒字を確保しつつテナント営業のテコ入れにつながる、という考えであったと伝えている[9][10][11]

多田社長はこれを「トータルライズ化」と呼んだ。企画・立案から設計・施工・管理まで一貫して担ってきた流れに、賃貸仲介の専門ショップを加えるという説明であった。店舗は首都圏・中部圏・近畿圏に初年度20店舗を開き、将来は3大都市圏を中心に全国300店舗以上へ広げる構想を掲げた。人員は当初20拠点の約3分の1をテナント営業部門からの出向でまかない、以後は経験者の中途採用を主とする方針で、本体の負担増はほとんどないと説明されている[12][13]

1996年、グループで補完しあう体制という言葉

個々の子会社設立が一つの方針として言葉になったのは1996年であった。同年5月29日の講演で藤田浩一常務取締役は、1997年3月期を初年度とする5カ年の中長期経営計画を示し、この間に事業の多角化推進と、土地活用の総合支援をグループとして補完しあえる体制づくりを進めると述べた。到達点として2001年3月期に売上高3,500億円、経常利益350億円を掲げている。単体の請負で伸びる会社から、グループで賃貸経営を丸ごと引き受ける会社へ、目標の立て方そのものが変わった[14]

背景には本業の足踏みがあった。1996年3月期の売上高は1,884億2,000万円で前期比10.4%減、経常利益は126億6,500万円で同36.9%減と、当初計画の2,000億円を割り込んだ。販管費の6割強を人件費が占め、売上が落ちても費用が落ちにくい事業構造も表に出た。1995年10月には全額出資の販売子会社10社を設けて営業体制を分けたが、これは1998年10月に本体へ吸収合併されている。周辺機能の内製化は、余資の使い道であると同時に、請負一本の変動をならす試みでもあった[15][16]

結果

管理・介護・ガスへ広がる周辺

内製化はその後も続いた。1999年2月に在宅介護事業へ進出し、同年9月には大東建物管理が賃貸建物管理業務を開始して、清掃・修繕・苦情対応といった労働集約的な仕事を専業子会社へ移した。2000年10月には戸建て住宅事業へ参入している。2001年6月にはガスパル関東とガスパル中部を全額出資で設立し、賃貸物件向けのプロパンガス供給へ踏み込んだ。2002年6月にガスパル近畿・中国・九州を加えて全国を覆い、2005年7月にはガスパル5社を本体へ合併している[17][18]

数字の上では、5カ年計画の目標に売上高は届かなかった。2002年3月期の連結売上高は3,322億円、経常利益は424億円で、掲げた3,500億円・350億円のうち利益は上回ったものの売上は及んでいない。ただし収益の構成は計画どおりに変わった。建築請負に、管理費・共済会費・仲介手数料・ガス料金という継続収入が積み重なり、連結売上高は2003年3月期に3,761億円、2006年3月期には5,387億円へ伸びた。同じ期間に経常利益も424億円から654億円へ増えている[19]

抱え込んだ機能が骨格になる

内製化した機能は、そのままグループの骨格になった。大東建物管理は2017年4月に大東建託パートナーズへ社名を変更し、同年5月には大東建託・大東建託パートナーズ・大東建託リーシングを主要3社とする体制が始動している。建てる・管理する・仲介するという3機能を別会社に分けたうえで束ねる形は、1990年代に一つずつ子会社を立てた延長線上にある。2014年には信託会社・少額短期保険会社・電力会社が加わり、賃貸経営に必要な機能はおおむねグループ内でそろった[20][21]

一方で、抱え込んだ機能は固定費でもある。1996年の講演で示されたとおり、販管費の6割強を人件費が占める構造は、受注が落ちた期の利益を削った。グループ会社が増えるほど賃貸住宅一棟あたりから得られる収入は厚くなるが、需要が縮んだときに畳みにくい部分も増える。周辺機能の内製化は、地主に対する提案力と引き換えに、市況の変動を自社で受け止める選択でもあった[22]

出典・参考

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