{"title":"ニッセイ同和損害保険の歴史概略","sections":[{"start_year":1897,"end_year":1944,"main_title":"横浜の生糸商と関西の船主が興した4社の合流","subsections":[{"title":"保険業法の整理をくぐって生まれた4社","text":"損害保険という事業は、明治の初めに輸入された知識から始まった。海上保険は1879年に渋沢栄一が華族の出資団を説き伏せて東京海上保険会社を興したのが最初で、火災保険は1887年7月に設立された東京火災保険会社が先鞭をつけ、大火の頻発で経営が行き詰まったのちに安田善次郎が経営へ加わった。渋沢が海上保険を選んだのは、地租が金納になって農村から都市へ穀物を運ぶ必要が生じ、その運搬上の危険を引き受ける仕組みが要ると考えたからである。日清戦争をはさむ十年間には明治火災・日本火災・帝国海上など30社が設立されたが、乱設による競争の激化を受けて1900年に保険業法が制定され、日露戦争直後には10社まで整理された。ニッセイ同和損害保険の源流にあたる4社は、この整理を経て保険熱が再び高まった時期に、相次いで生まれている。\n\n最も古いのは横浜火災海上保険で、1897年8月、富田鉄之助・土子金四郎・小野光景らが発起人となり、横浜の生糸業者を中心とする出資で横浜に設立された。次いで1906年6月、村上定・田辺貞吉・森本清兵衛ら三田・三井・住友系の関係者が東京で共同火災海上保険を興し、のちに本店を大阪へ移している。1907年4月には、岡崎藤吉・伊藤長次郎・辰馬吉左衛門ら関西の有力者と船主が神戸海上火災保険を神戸に設立した。最後が1918年8月の朝日海上火災保険で、内田信也が主体となり窪田四郎・勝田銀次郎らが加わって東京に興し、こちらも本店を大阪へ移した。日露戦争後の1906年から1913年までに設立された14社は、いずれも既設会社か三井・住友財閥の援助を受けており、基礎は固かった。\n\n出自を並べると、4社が引き受けようとした危険の違いが見える。横浜火災は生糸の輸出を、神戸海上は瀬戸内から外洋へ出る船を、共同火災と朝日海上は東京で興りながら本拠を大阪へ移して関西の商業を、それぞれ相手にした。海上保険と火災保険が損保事業の二本柱だった時代に、貨物と船と町の火事という異なる危険を、その土地の商人と船主が自分たちの手で引き受けようとした結果である。ただし4社はどれも、単独では業界の上位に届かなかった。1944年の合併時点の資本金は神戸海上が1,500万円、共同火災が1,300万円、横浜火災が1,250万円、朝日海上が700万円で、4社を合わせても当時の東京海上や安田系の大手には及ばない規模にとどまっている。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「同和火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「損害保險（概説）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「保険－輸入知識から出発」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"震災と戦時統合が4社を1社にまとめるまで","text":"4社が別々に営業を続けた時代を終わらせたのは、震災と戦争だった。1923年の関東大震災で損害保険業界は大きな打撃を受け、その後の不況の深まりとともに各社は弱体化する。業界はこれに対して、減資による整理、大会社への合併、大会社を中心とするブロック化、料率協定の強化という4つの手を打った。整理は大正末期から1931年まで続き、会社数こそ51社で変わらなかったものの、払込資本金は1億44万円から6,990万円へ3割以上減っている。数だけを見れば業界の姿は変わらないのに、体力は目に見えて落ちていた。この弱った状態が、戦時下の企業整備を一気に進める下地となった。\n\n1944年3月23日、神戸海上火災・共同火災海上・朝日海上火災・横浜火災海上の4社は大阪市で対等条件のもとに合併し、同和火災海上保険が発足した。資本金は4,750万円（払込1,187万5,000円）、会長には横浜火災の社長だった吉井桃磨呂、社長には共同火災の社長だった広瀬鍼太郎が就き、のちに社長となる岡崎真一が副社長に入った。同じ年、東京海上・明治火災・三菱海上の3社が東京海上火災に、東京火災・帝国海上・第一機罐の3社が安田火災海上に、日本火災・帝国火災・日本海上の3社が日本火災海上に、大阪海上と住友海上が大阪住友海上火災にまとまっている。50社を超えていた損害保険会社は、終戦時にわずか16社まで減った。\n\n新会社は4社の基盤を受け継ぎ、火災・海上・運送・傷害・自動車・信用・盗難・航空の8種目について事業免許を受けて、本店を大阪に置いて営業を始めた。ただし発足の時点で、海上保険を引き受ける会社にとって不可欠な海外との再保険取引は途絶えていた。損保各社は1944年に共同出資で東亜火災海上再保険を設立し、国内で危険を分け合う仕組みを急ごしらえで整えている。4つの商人集団がそれぞれの土地で育てた営業網を一つの会社にまとめながら、その会社が引き受けられる危険の量は戦争によって細っていた。同和火災海上という会社は、こうして自ら選んだのではない合併から出発している。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「同和火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「損害保險（概説）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「保険－輸入知識から出発」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1944,"end_year":1990,"main_title":"戦時統合が生んだ関西の名門損保と戦後の再建","subsections":[{"title":"焼け跡からの再建と海外再保険の復活","text":"終戦は損害保険会社から引き受けるべき対象そのものを奪った。被保険物件は激減し、残った物件の危険度は空襲と混乱で悪化する。加えて戦時補償の打切りと在外資産の切捨てが資産を直撃した。終戦時に7億円あった損保会社の資産は、1948年1月には5億3,600万円まで減り、そのうち新勘定に属する資産は3億2,000万円にすぎなかった。同和火災海上も営業の主力を火災保険に置いて営業網の整備に努めたものの、この時期の業績は悪化している。合併から3年ほどの新しい会社にとって、4社から受け継いだ営業網を保つだけでも重い仕事だった。\n\n経済情勢の安定とともに、業績は急速に改善した。戦争で途絶えていた海外保険会社との再保険取引の交換が復活し、1955年の時点で取引先は16社に及んでいる。海上保険は1947年の貿易再開以来ふえ続け、計画造船の進捗と1950年4月以降の外貨建引受の再開が重なって契約量が伸びた。運送保険も活況を呈し、1952年からはノーザン保険・ドミニオン保険・ホーム保険・ノースアメリカ保険の4社について、外貨建海上保険の代理業を順次営むようになる。新種保険では競走馬・ガラス・保証・風水害の各保険が追加免許となり、1950年には輸出保険の取扱いも始めた。危険を引き受ける種目の幅は、戦前の水準を超えて広がった。\n\n資本の増強も進んだ。同和火災海上は1948年12月に同和ビルヂングを吸収合併し、数次の増資を経て1954年10月に資本金を8億円とした。1954年度の収入保険料は59億円、純正味収入保険料は36億6,000万円、契約準備金は36億円に達している。もっとも、この伸びは同社だけのものではない。全損保の資本金総額は1949年3月末の3億5,500万円から1955年3月末の92億4,000万円へと約30倍に膨らみ、1954年度の業界全体の正味収入保険料は503億円を数えた。同社の純正味収入保険料36億6,000万円は、その7%あまりにあたる。戦時下の統合で新しく生まれた会社の一つという位置を、同社は戦後も保っている。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「同和火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「損害保險（概説）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1954年〜1955年（新規上場会社紹介・代用有価証券価格表）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"株式会社年鑑 昭和31年版／昭和37年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年3月7日号「［ひと］須藤秀一郎 同和火災海上保険社長（内定）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"代用価格表と株主名簿に残る同和火災の名","text":"高度成長期に同和火災海上が市場からどう見られていたかは、当時の証券資料に残る。1950年代なかばの『証券』が載せた信用取引の代用有価証券価格表では、損保株のうち東京海上火災保険が1株170円と抜きん出ており、住友海上火災保険65円、大東京火災海上保険60円、同和火災海上保険と興亜火災海上保険が55円、千代田火災海上保険50円と続く。同社は中位の一群に置かれていた。同じ時期に新規上場した高岳製作所・東洋ゴム工業・太平製糖・新潟硫酸の大株主欄に並ぶ損保は東京海上火災・住友海上火災・大正海上火災であり、同社の名はそこにない。上場企業の株を抱える機関投資家としても、大手との差は明らかだった。\n\nそれでも、同社の名が上位株主に残る会社はある。大日本製薬（現・住友ファーマ）の1955年11月時点の大株主は、住友生命25万株・住友銀行20万株・日本生命20万株に次いで同和火災海上が17万1,500株で4位に入る顔ぶれだった。半官半民で発足した日本航空でも、1955年9月時点で大蔵大臣の400万株に次ぐ15万株を持って民間の筆頭株主となり、1961年4月時点でも1.6%を保有して東京海上火災の1.4%を上回っている。関西の商業と住友系企業の周辺に張った営業網が、同社の実体だった。それでも4社の合併で生まれた会社は、関西の名門と呼ばれながら、業界の順位を押し上げる材料をついに持たなかった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「同和火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「損害保險（概説）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 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同和火災海上保険社長（内定）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1990,"end_year":2001,"main_title":"創業100年と料率自由化に向き合った「名門の遺産」","subsections":[{"title":"創業100年を前に始めた新創業運動","text":"損害保険会社の前提は、1990年代の後半に二つ同時に崩れた。保険業法の改正によって生命保険会社と損害保険会社の相互参入が子会社方式で認められ、1996年10月に始まる。続いて1996年末に決着した日米保険協議を受け、1998年7月1日から保険料率が自由化された。自動車や火災といった主要種目の保険料を決めてきた算定会料率の使用義務が撤廃され、各社が独自に料率を決められるようになる。同じ商品を同じ値段で売る時代が終わるという意味で、これは中堅損保にとって最も重い変化だった。同和火災海上はその2年前、1996年4月から「新創業運動」を始めていた。狙いは自由化への備えではなく、1997年11月に迎える創業100周年に向けた社内の刷新である。同社は最古の前身である横浜火災海上保険の創立を自社の創業の年としており、法人としての設立年である1944年とは別に、100年という区切りを持っていた。\n\n1998年に社長へ就いた須藤秀一郎氏は、この順序を「ラッキーなタイミングだった」と語っている。自由化のスピードが業界の予想を越えたため、周年行事として始めた刷新が結果として先回りになった、という説明である。運動の中身は「新しい同和火災を作る意気込みでマインドを含めすべてを見直した。組織も支店制に切り替えた」というもので、焦点は価格競争力と収益力に置かれた。もっとも、周年に合わせて始めた運動が自由化に間に合ったという理解は、自由化を社外から来る事情として扱っている。同社が備えたのは商品の価格が下がる事態であって、業界の枠組みそのものが再編される事態ではなかった。\n\n同社の財務は、当時の損保のなかでも堅い部類にあった。S&Pによる格付けはAAで、須藤秀一郎氏は「不良債権は少なく、株式の含み益も多い。財務内容はAAAでいいと格付機関にも言われる」と述べている。それでも格付けがAAにとどまった理由を、須藤自身は成長力の不足に求め、「先輩の遺産が評価されているのだ」と言い切った。名門ゆえに航空保険や企業物件には強みがあり、海外との再保険取引を通じて「昔からグローバルスタンダードの世界の経験はある」とも語っている。ただし市場の評価は逆へ動いた。この発言の直後にあたる1998年3月31日、S&Pは東京海上火災を除く損保8社の格付けを一斉に引き下げ、同和火災海上もAAからAA−となる。安田火災海上・住友海上火災・三井海上火災がそろってAAAからAA+へ下げられたなかでの格下げであり、財務の堅さという自己認識は業界全体の評価下落に飲み込まれた。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1998年3月7日号「［ひと］須藤秀一郎 同和火災海上保険社長（内定）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年10月7日号「特集 最強の保険会社はここだ！」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 悩める巨人 日本生命の闘い」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月18日号「［今月の格付情報］銀行の格下げ相次ぐ 損保もS&Pが見直し」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年4月5日号「特集 出直し日本経済 保険自由化で保険料はどうなるか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年8月1日号「［フラッシュ］損保 自由化突入で「格下げ」相次ぐ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"代理店を財産と呼びながら選別に踏み切る","text":"自由化後に価格が下がっても収益力を保つ方法として、須藤秀一郎氏は「サービス充実か、商品の魅力を高めるしかない。同時に代理店を強化する」と述べた。同社の代理店は顧客から親切だと評価されていたが、その評価は手間をかけた結果であり、手間はそのままコストだった。そこで打ち出されたのが選別である。「代理店はうちを親切と言う。それは手をかけているからで、コストがかかっている。これからは自立できない代理店はやめていただかざるをえない」。同じ人物が「我々の財産は代理店ネットワーク。ここに新たな商品を乗せていく」とも語っている。財産と呼んだ代理店網は、同時に費用を削る対象でもあった。\n\n販売網の設計でも、同社は全国一律を捨てている。外資が攻勢をかけていた通信販売について須藤秀一郎氏は「やったとしても、代理店通販の世界にとどまる」と線を引き、地域展開では「全国一律とはいかない。本社のある関西の基盤はより強化し、首都圏も攻める。支店も見直しを続け半減もありうる」と述べた。すでに生命保険子会社への進出は済ませており、代理店網に新しい商品を乗せる構想も持っていた。規模を追わず、関西という地盤の上で商品を積み増す。この選択は、代理店を抱えたまま費用を絞るという意味では筋が通っていた。ただし、料率が自由化された市場では、その地盤の価値そのものが目減りした。\n\n2000年になると、業界の見方は中堅損保に厳しくなった。保険業は規模の利益が大きく、規模が引受能力を決め、効率を高め、価格競争力を左右する。生損保の垣根が崩れて第三分野が自由化されるなか、生損保を総合的に提供できる3社から4社が覇権を争うことになり、その戦いに加わるには他社との連携が要る。総合保険会社への挑戦に失敗した会社はニッチ市場に特化するか、銀行や異業種の傘下に入るしかない、というのが当時の見立てだった。この時点で同和火災海上の位置は損保業界12位である。財務の堅さと商品の質だけでは、単独で残る条件を満たさなくなっていた。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1998年3月7日号「［ひと］須藤秀一郎 同和火災海上保険社長（内定）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年10月7日号「特集 最強の保険会社はここだ！」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 悩める巨人 日本生命の闘い」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月18日号「［今月の格付情報］銀行の格下げ相次ぐ 損保もS&Pが見直し」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年4月5日号「特集 出直し日本経済 保険自由化で保険料はどうなるか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年8月1日号「［フラッシュ］損保 自由化突入で「格下げ」相次ぐ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":2001,"end_year":2010,"main_title":"ニッセイブランドとの接合、そして統合で幕","subsections":[{"title":"日本生命の損保子会社を迎えた2001年の合併","text":"相手方となったニッセイ損害保険は、1996年に日本生命保険が設立した損保子会社である。本店は東京都新宿区、資本金は100億円だった。生損保の相互参入が始まったのは1996年10月で、ニッセイ損害保険が損害保険の販売に加わったのは1997年1月である。初代社長の森口昌司氏は同月のインタビューで「損害保険は成熟マーケットだけに、生保系が成長するには時間がかかる」と述べている。日本生命の営業職員のうち損保の初級資格を取得したのは約3万4,000人で、これに普通資格をどれだけ早く取らせるかが成長のカギだった。加えて森口昌司氏は、最も期待していた団体傷害保険への参入が実質的に閉ざされたとして、「生保系にとっても大変不利な結果。黒字化は二年は遅れる」と語っている。\n\n2001年4月1日、同和火災海上保険はニッセイ損害保険を吸収合併し、商号をニッセイ同和損害保険へ変更した。存続会社は同和火災海上保険であり、事業年度の期数も同社から連続している。最終事業年度が第67期の2010年3月期であることから逆算すると、第1期は設立年度にあたる1943年度になる。生保が損保を傘下に収めた合併でありながら、法人の連続性は関西の中堅損保の側に残された形である。日本生命の持株比率は2003年時点で33.4%、2006年3月期末でも34.50%と過半に届かず、有価証券報告書上も同社は親会社ではなく「その他の関係会社」として記載され続けた。社長は合併後も須藤秀一郎氏が務めている。\n\n日本生命が業界12位の相手を選んだ理由は、規模ではなかった。同社の総合企画部長だった加藤貞男氏は、物足りないという見方に対して「大きいところと組めばうまくいくのか。同和火災とは共通のコンセプトを持ってやっている」と反論している。ニッセイ同和損保の企画部長を務めた武田嘉和氏も、「ニッセイブランドとして結束し、生損統合、同じ目標を共有できる」ことが条件で同和火災を選んだと説明した。独自の販売手法を持つ大手であれば、ニッセイ保険口座の顧客に割引を用意するような設計には応じない。この時期、第一生命は損保子会社を安田火災へ売却し、三井生命も2002年末に三井住友海上へ営業譲渡している。生保が損保から手を引くなかで、日本生命だけが本体合併という重い方法を選んだ。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2000年10月7日号「特集 最強の保険会社はここだ！」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 悩める巨人 日本生命の闘い」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年1月18日号「ザ・トーク 森口昌司・ニッセイ損害保険社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（2006年3月期・2009年3月期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"ブランドは効いたが目標には届かなかった","text":"合併にあたって掲げた目標は高い。2005年度の正味収入保険料5,000億円という数字は、1999年度の2社合計の約2倍にあたる。実績は目標の手前で止まった。合併初年度の2002年3月期に2,806億円、2004年3月期に3,224億円まで伸びたあとは頭打ちとなり、目標年度である2006年3月期は3,218億円で、5,000億円には1,800億円近く足りなかった。それでも損保市場が横ばいから縮小へ向かうなかでの増収であり、2003年時点の順位は業界6位、シェアは4.6%である。上位3社が1兆円台後半を売り上げる市場で、同社は3,000億円台から抜け出せなかった。\n\nブランドの効き目は、はっきりと数字に出た場面がある。成田空港の自動販売機で売っていた海外旅行傷害保険は、2001年度に名前が変わっただけで前年度比2割伸びた。日本生命の約6万人の営業職員が扱うようになった効果も大きい。販売網の接合も進んだ。日本生命の123の支社に総合職と一般職を2名ずつ配置して営業職員を支援し、2003年4月からは自社の支社が日本生命の支社の損保売上に責任を持つ体制へ移り、1,800ある営業拠点すべてを自社の支社・営業所が担当するようにした。ニッセイ保険口座の顧客のうち損保商品を契約している比率は8%で、これを3割へ引き上げる計画も掲げられている。\n\nそれでも日本生命は成果に不満だった。全収入で年間二桁の増収を見込んでいたためである。2001年度は日本生命のチャネルを除くと前年度比で微減であり、増収は生保の営業職員が運んだぶんに支えられていた。理由を生保側の努力不足に求めるのは当たらない。損害保険は自動車事故の損害調査網を全国に持つ必要があり、生命保険にはない費用と手間が事故のたびに発生する。契約を取る技術と、事故を処理する技術は別物だった。第一生命と三井生命が数年で損保子会社を手放したのも同じ構造による。日本生命は本体合併という方法でこの構造に向き合ったが、生保のチャネルに損保を乗せる速度は、掲げた目標には追いつかなかった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2000年10月7日号「特集 最強の保険会社はここだ！」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 悩める巨人 日本生命の闘い」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年1月18日号「ザ・トーク 森口昌司・ニッセイ損害保険社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（2006年3月期・2009年3月期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"商号と上場が消え、代理店網が残った","text":"統合を選ぶ前の同社の状態は、決算に表れている。正味収入保険料は2007年3月期の3,263億円を頂点に2009年3月期には3,109億円まで下がり、金融危機の影響で同期は経常損失168億円・当期純損失67億円を計上した。自己資本比率は2006年3月期の26.87%から2009年3月期には16.76%へ落ち、純資産額は3,628億円から1,843億円へほぼ半減している。従業員は4,385人、正味損害率は67.36%、正味事業費率は34.64%で、保険料の収入では費用を賄いきれない水準に近づいていた。上位3社が1兆円台後半を売り上げる市場で3,000億円台にとどまる会社が、単独で自由化後の価格競争を続ける条件は残っていない。2009年1月、同社は三井住友海上グループホールディングスおよびあいおい損害保険との3社による経営統合と業務提携の協議に合意した。\n\n2010年3月29日、株式は東京証券取引所と大阪証券取引所で上場を廃止された。4月1日、あいおい損害保険とともに株式交換が行われ、両社は同日付で三井住友海上グループホールディングスから商号を変更したMS&ADインシュアランスグループホールディングスの完全子会社となる。日本生命は、この株式交換によってその他の関係会社に該当しなくなった。同年10月1日、あいおい損害保険との合併によってあいおいニッセイ同和損害保険が発足し、ニッセイ同和損害保険という商号は消えた。海外の代理店子会社やリスクコンサルティング子会社、人材派遣子会社も、統合先の同種の会社へ吸収されている。\n\n消えたものは商号と上場と法人格である。残ったものもある。最終年度の従業員4,445人と、自由化に向き合った社長が財産と呼んだ代理店網は、統合先へ引き継がれた。日本生命との販売協力も、ニッセイ同和損保という会社が消えたあとの現在まで続いている。1897年に横浜の生糸業者が始めた保険会社は、戦時統合で関西の名門となり、自由化のなかで生保系チャネルと接合し、最後は3社統合の一角として姿を消した。単独では業界の上位に届かない規模のまま、他社と組む相手を替えながら113年を通した会社である。組む相手を選ぶ判断は、そのつど当時の条件では合理的だった。得たものもあった。ただし、いずれの判断も規模の差を埋めるには至らなかった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2000年10月7日号「特集 最強の保険会社はここだ！」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 悩める巨人 日本生命の闘い」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年1月18日号「ザ・トーク 森口昌司・ニッセイ損害保険社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（2006年3月期・2009年3月期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ4つの損害保険会社は1944年に一つになり、その会社は1897年を創業の年としたのか","a":"戦時下の企業整備による。1923年の関東大震災と不況で各社は弱り、業界の払込資本金は1931年までに1億44万円から6,990万円へ減った。太平洋戦争に入ると統合は加速し、1944年3月23日、神戸海上火災・共同火災海上・朝日海上火災・横浜火災海上の4社が大阪で対等合併して同和火災海上保険が生まれた。50社を超えていた損保会社は終戦時に16社まで減っている。創業の年を1897年としたのは、最も古い前身である横浜火災海上保険の創立年を採ったためで、法人の設立年とは別に同社は1997年11月に創業100周年を迎えた。"},{"q":"なぜ日本生命は業界12位の同和火災海上を選び、2001年に本体どうしの合併という方法をとったのか","a":"規模より条件の合う相手を選んだためである。日本生命の総合企画部長だった加藤貞男氏は、物足りないという見方に「大きいところと組めばうまくいくのか。同和火災とは共通のコンセプトを持ってやっている」と反論した。独自の販売手法を持つ大手は、ニッセイ保険口座の顧客への割引に応じない。同じ時期、第一生命は損保子会社を安田火災へ売却し、三井生命も2002年末に三井住友海上へ営業譲渡している。生保が損保から退くなかで、日本生命だけが本体合併を選んだ。存続会社は同和火災海上保険であり、事業年度の期数もそのまま引き継がれている。"},{"q":"2001年の合併で掲げた2005年度の正味収入保険料5,000億円という目標は、なぜ届かなかったのか","a":"生保の販売網に損保を乗せる速度が、想定に追いつかなかったためである。ブランドは効いた。成田空港の自動販売機で売っていた海外旅行傷害保険は、2001年度に名前が変わっただけで前年度比2割伸びている。ただし2001年度は日本生命のチャネルを除くと前年度比で微減であり、増収は生保の営業職員が運んだぶんに支えられていた。損保は自動車事故の損害調査網を全国に持つ必要があり、契約を取る技術と事故を処理する技術は違う。目標年度である2006年3月期の実績は3,218億円で、5,000億円には1,800億円近く足りなかった。"}]}}