山崎製パンの歴史は、創業者の飯島藤十郎氏が1948年3月、千葉県市川市に山崎製パン所を開き、パンの委託加工を始めたことに端を発する。同年6月には資本金100万円をもって山崎製パン株式会社を同じ市川市に設立し、委託加工から自社での製造販売へと歩みを進めた。戦後の食糧不足とそれに続く食生活の洋風化を背景に、主食の代替としてのパン需要はこの時期に急速に立ち上がっており、配給統制のもとで割り当てられた小麦を確実に焼き上げ、量をさばける加工能力が事業の生命線であった。 [1][2][3][4]
品目の広がりは早く、1949年に和菓子部、1950年に洋菓子部を設けてパン以外へ製造品目を伸ばした。事業が量産へ傾く転機となったのは1952年の小麦粉統制の撤廃で、山崎製パンはこれを機に生産設備を急速に拡張している。1951年2月に両国工場、1954年12月に市川工場を新設し、小麦粉の一日使用量で測る加工能力を段階的に積み増した。原料は日清製粉との特別契約により、カナダ・北米産の小麦を挽いた同社製の小麦粉を全量用いる形をとっている。割り当てを待つ立場から、自ら仕入れて自らさばく立場へ移ったことが、この時期の事業の型を決めた。 [5][6][7][8]
会社設立から十数年で、山崎製パンは首都圏を軸とする量産体制の整備を進めた。1959年には横浜ミリオン製パンを買収して系列に収め、1960年に東京都杉並区で杉並工場が竣工稼働し、1962年7月には東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。1963年には東京都東久留米市の武蔵野工場が稼働するとともに、系列化していた横浜工場を吸収合併し、1966年3月には千葉県松戸市で松戸工場が竣工するなど、大消費地を囲むように生産拠点を積み増した。設備投資と生産能力の拡張が、上場後の成長を支える土台となった。 [9][10][11][12][13]
上場時点の山崎製パンは、まだ東京とその周縁を商圏とする一メーカーであった。公開時に開示された資料では、従業員は945名、売上の内訳は卸売が1,298店で81.5%、直営売店が4店で18.5%を占め、品目別ではパン類が70.3%、和菓子が13.6%、洋菓子が11.0%であった。販売地域は東京都内が80.3%、千葉県が16.3%、埼玉県が3.4%で、事業圏は都内に八割が集中している。当時の小麦粉使用量は、都内と千葉県のパン用小麦粉の月間消費60万袋に対して6.7万袋、およそ7%にあたった。全国のパン市場で3割のシェアを握るまでには、ここからなお30年を要する。 [14][15][16][17][18]
1966年11月には東京証券取引所市場第一部へ上場し、製パン専業メーカーとして資本市場での地歩を固めた。翌1967年にはスーパーヤマザキを設立して流通事業へ進出し、パンの製造にとどまらず販売の現場までを早くから視野に入れていた。1969年には宮城県柴田郡で仙台工場が稼働し、生産網は首都圏から東北へと広がった。創業から20年余りで、山崎製パンは地域限定の製パン所から全国規模の食品メーカーへと成長する足場を築いた。 [19][20][21]
1970年10月、山崎製パンは米国ナビスコ社および日綿実業(現双日)との合弁でヤマザキ・ナビスコを設立し、ビスケットなど洋菓子分野へ足場を広げた。同社はのちの2016年9月にヤマザキビスケットへ商号を変更している。パンで培った量産技術と全国の配送網を土台に、山崎製パンは主食用パンの単一事業から総合食品企業へと事業領域を押し広げた。海外ブランドとの提携は、製品開発と品質の面でも学びを取り込む機会となった。 [22][23]
1980年5月にはサンデリカを設立して調理パンや弁当などのデリカ事業へ進出し、コンビニエンスストア向けの中食需要を取り込む体制を整えた。1986年にはサンキムラヤを設立し、1989年にはイケダパンの株式を取得するなど、地域の製パン・菓子事業者をグループへ取り込む動きも続いた。ただし品目を増やすこと自体が目的だったわけではない。新鮮なパンとともに幅広い菓子類を毎日配送すれば、中小の小売店は在庫を抱えずに品ぞろえを整えられる。取引の魅力を高めて販売店をつなぎとめ、本業である食パンの拡販につなげる——のちに日経ビジネスが同社の商品多様化をそう読み解いたように、多品種化は量産の中核を支える手段でもあった。 [24][25][26][27]
山崎製パンは製品の供給先を確保するため、小売の現場にも早くから乗り出している。1977年12月にサンエブリーを設立してコンビニエンスストア事業へ進出し、同時期にはサンロイヤルがインストアベーカリー事業を開始した。焼きたてパンの店頭販売と定温流通のノウハウを蓄えることは、製造から販売までを一貫して押さえる戦略の一環でもあった。自社製品の出口を自ら持つ発想が、この時期に形をとり始めた。 [28][29]
自前の売り場を増やす動きと裏腹に、既存の販売店との関係は軋みを見せていた。1979年2月、山崎製パンの販売店主およそ500人が東京・上野のホテルに集まり、押し込み販売と割当販売をやめるよう気勢を上げている。製パン業界で独走体制を築いた原動力は『ヤマザキ・セールス・マニュアル』に率いられたセールス軍団にあり、そこには不退転の決意で予算達成の主役たれといった叱咤の文言が並んでいた。だがパン消費が伸び悩み、販売店主の高齢化とともに『そこまで拡販しなくても』[引用元]という声が漏れるなかで、高度成長期に磨いた拡販の型は見直しを迫られていた。 [30][31][32]
1982年1月にはデイリー事業部とサンエブリーを統合してサンショップヤマザキを設け、コンビニエンスストア事業を本格的に始めた。この店舗網は1999年1月にデイリーヤマザキへと商号を変更し、山崎製パンを象徴する小売業態のひとつに育った。製パン大手が自前のコンビニ網を抱える構図は、製品の販路と物流を自社で握る同社の一貫志向を映し出すものであった。 [33][34]
西日本への進出は、経営陣の分裂という代償を伴った。1976年3月、山崎製パンの監査役は取締役に法令違反があるとする限定意見を監査報告書に付す。創業者社長の飯島藤十郎氏と実弟の副社長が対立し、争点となったのは関西山崎パンをめぐる商法上の競業避止義務と忠実義務であった。飯島氏側は、関西進出は取締役会で反対論が強かったため個人で始めたものであり、北海道や九州、新潟と同じくいずれ本社へ吸収合併する前提だったと反論した。だが白川修一監査役は、1月上旬に社長へ違法行為をやめるよう勧告したが容れられなかったとして意見を付し、第28回定時株主総会は紛糾、争いは裁判へ持ち込まれて株価も急落した。1974年の商法改正で強化された監査役の業務監査権が初めて働いた事例として、この一件は経済界の注目を集めることになる。 [35][36][37][38][39][40]
その関西ヤマザキを、山崎製パンは1986年1月に吸収合併する。大阪第一工場をはじめ関西・中四国・九州にまたがる複数の工場を直轄化し、別会社で市場を開拓してから本社へ取り込むという、北海道や九州でも用いた型が、紛争を経てここでも完結した。首都圏で確立した量産と配送の仕組みを西へ移すことで、全国網は名実ともに整う。帰結は市場での位置に表れた。パン市場のシェアは1981年の21.6%から1992年に32.2%へ伸び、2位の敷島製パン8.4%との差はむしろ開いている。1993年末には全国25の工場と7万3000店の販売店を擁し、他社が1日1回の配送にとどまるなか1日最低2回、大型店には3回運んだ。年商100億円を確保できるメドが立つまで工場を建てないという規律が、この密度を支えている。1993年12月期の売上高は5362億円、経常利益率4.95%は上場食品会社111社平均の3.85%を上回った。 [41][42][43][44][45][46]
海外展開もこの時期に本格化した。1981年に香港へ現地法人を設けたのを皮切りに、1984年にタイ、1987年に台湾へと東アジア・東南アジアの拠点を広げている。1991年の米国進出は現地法人ヴィ・ド・フランス・ベーカリー・ヤマザキの設立にとどまらず、大手食品メーカーであるヴィ・ド・フランスの製パン部門を買収して米国12カ所の工場と7800件の取引先を引き継ぐ形をとり、1994年1月には同社の外食部門も取得した。もっとも海外事業の売上は本社売上高の3%にすぎない。1992年12月期に25年ぶりの減益を喫したことは国内一本での成長に限界が見え始めた表れでもあった。 [47][48][49][50][51][52][53][54]
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| 1948〜1969年委託加工から始まった製パン専業メーカーの創業 | 飯島藤十郎氏が山崎製パン所を開業 | ★ | ||
| パンの委託加工を開始 | ★ | |||
| 山崎製パンを資本金百万円をもって設立 | ★ | |||
| 杉並工場が竣工稼働 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に株式を上場 | ★ | |||
| 山崎製パン横浜工場を吸収合併 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に株式を上場 | ★ | |||
| スーパーヤマザキを設立し流通事業に参入 | ★★ | |||
| 1970〜1999年総合食品企業への多角化と流通・海外への展開 | 米ナビスコ・日綿実業との合弁によるビスケット事業への進出 1970年10月、山崎製パンは米国ナビスコ社および日綿実業(現双日)との合弁でヤマザキ・ナビスコを設立し、ビスケット・クラッカーの分野へ入った。資本金は8億円であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 山崎製パン千葉工場を吸収合併 | ★ | |||
| 山崎製菓・山崎製パン新潟工場を吸収合併 | ★ | |||
| サンロイヤルがインストアベーカリー事業を開始 | ★ | |||
| サンエブリーを設立しコンビニエンスストア事業に参入 | ★★ | |||
| 飯島延浩 | サンデリカを設立しデリカ事業に参入 | ★★ | ||
| 飯島延浩 | サンエブリーからデイリーヤマザキへの転換と、自前のコンビニ網の構築 1977年12月のサンエブリー設立から1982年1月のサンショップヤマザキ発足、1999年1月のデイリーヤマザキへの商号変更まで、山崎製パンは20年余りをかけて自前のコンビニエンスストア網を築いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 飯島延浩 | コンビニエンスストア事業を本格展開 | ★ | ||
| 飯島延浩 | 関西ヤマザキを吸収合併 | ★ | ||
| 飯島延浩 | イケダパンの株式を取得 | ★ | ||
| 飯島延浩 | 安城工場が竣工稼働 | ★ | ||
| 飯島延浩 | ヴィ・ド・フランス・ベーカリー・ヤマザキ,Inc.を設立 | ★ | ||
| 飯島延浩 | 松戸工場松戸第二工場が竣工稼働 | ★ | ||
| 飯島延浩 | 札幌工場を新設して稼働 | ★ | ||
| 飯島延浩 | 阪南工場を新設して稼働 | ★ | ||
| 飯島延浩 | サンロジスティックスを設立し物流事業を強化 | ★ | ||
| 飯島延浩 | ヴィ・ド・フランス営業本部を会社分割しヴィ・ド・フランスを設立 | ★ | ||
| 飯島延浩 | 東ハトの株式を取得し菓子事業を拡大 | ★★ | ||
| 飯島延浩 | 不二家への資本参加と51%子会社化による経営再建の引き受け 2007年3月に不二家と業務資本提携を結び、第三者割当増資を引き受けて持株比率35%の筆頭株主となった。2008年11月には追加の増資引き受けで51%まで高め、不二家を連結子会社とした。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 飯島延浩 | 日糧製パンと資本業務提携し株式を取得(持株比率28.4%) | ★ | ||
| 飯島延浩 | サンデリカが大徳食品の全株式を取得 | ★ | ||
| 2013〜2026年値上げの浸透と最高益・さらなる規模拡大 | 飯島延浩 | PT.ヤマザキインドネシアの株式を取得(持株比率51%) | ★ | |
| 飯島延浩 | デイリーヤマザキを吸収合併 | ★★ | ||
| 飯島延浩 | ベイクワイズブランズ,Incの全株式を取得 | ★ | ||
| 飯島延浩 | 山崎製パン総合クリエイションセンターが竣工 | ★ | ||
| 飯島延浩 | 監査役会設置会社から監査等委員会設置会社に移行 | ★ | ||
| 飯島延浩 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 飯島延浩 | 神戸屋から製パン事業のYKベーキングカンパニーの全株式を取得 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(山崎製パン)