損失補填の証券不祥事を受けた田淵義久社長の引責辞任と「新生・野村」への機構改革

顧客の利益か、自社の利益至上か——損失補填で失った信頼を、経営陣の刷新でどう取り戻すか

更新:

時期 1991年6月
意思決定者 田淵義久 社長
論点 証券不祥事で失墜した社会的信頼の回復と、利益至上に傾いた企業体質の刷新
概要
1989年末の株価ピーク後の下落下、1991年に大口顧客への損失補填を中心とする証券不祥事が明るみに出て、邦証券最大手の野村證券はその震源となった。田淵義久社長と田淵節也会長が引責辞任し、酒巻英雄社長のもとで「顧客と共に栄える」という創業理念への回帰と機構改革=「新生・野村」を掲げた経営判断。
背景
証券各社は1980年代後半のバブルのなかで、大口顧客に生じた株式売買の損失を事後に補填する慣行を広げていた。1989年末の日経平均38,915円をピークに株価が下落へ転じると、補填の実態が1991年に表面化し、野村も例外ではなく、内外からの批判を浴びた。
内容
田淵義久社長らの引責辞任で首脳陣を刷新し、酒巻英雄社長が「ノー」と言える証券会社への転換を掲げた。利益至上に傾いた営業体質を見直し、創業以来の「顧客と共に栄える」精神に立ち返る意識と機構の改革を「新生・野村」と称して進めた。
含意
証券不況は深まり、1995年3月期・1997年3月期には連結の最終赤字を計上した。1991年の証券取引法改正で事後の損失補填は禁じられ、1992年7月には証券取引等監視委員会が発足して事後監視型の証券行政へ転換した。だが1997年3月には総会屋への利益供与が再発し、酒巻英雄社長が再び引責辞任、氏家純一社長のもとで再度の刷新に至った。
筆者の見解

利益至上を、組織からどう抜くか

この判断の重さは、危機を組織改革の機会に転じようとした点にある。最大手が自ら首脳陣を退け、新戦略ではなく「顧客と共に栄える」という創業の初心へ帰ると宣言した身ぶりには、失った信頼の大きさを正面から引き受ける潔さがあった。損失補填は野村一社の逸脱ではなく証券界に広がった慣行であり、その震源に立った最大手が範を示せるかどうかに、市場全体の再生がかかっていた。原点回帰という言葉の選び方には、奇策では体質は変わらないという醒めた自覚がにじむ。

だが6年後の総会屋事件は、理念の宣言と現場のふるまいの間に残った距離を映した。利益至上の慣性は一片の反省では抜けず、意識と機構を改めるという課題は氏家純一社長へ、さらにその先の経営者へと引き継がれた。野村を震源とする不祥事が損失補填の法禁止と証券取引等監視委員会という制度を残した一方で、稼ぐ組織から公正さを軽んじる誘惑をどう抜くかという問いは、証券業に限らず、収益を競うあらゆる企業に今も差し向けられている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

バブルのピークと、損失補填という業界慣行

1980年代後半のバブルのなかで、証券各社は大口の法人顧客に生じた株式売買の損失を、事後に補填する慣行を広げていた。営業第一線は数字を競い、利回りを保証するかのような勧誘が横行した。野村證券は営業収益で他社を引き離す最大手として、その渦中の先頭に立っていた。1989年末の日経平均38,915円をピークに株価が下げへ転じると、含み損を抱えた顧客との補填約束が各社の経営を内側から圧迫し始めた。膨張した収益の土台が市況に支えられた一時のものにすぎなかったことが、株価の下落とともに露わになった[1]

その驕りは、当事者自身も感じ取っていた。1990年10月、株価下落が始まって一年足らずの時点で、野村證券の田淵節也会長は取材に対し「金融界は調子に乗り過ぎていた」と語った。エクイティ・ファイナンスと株式売買が生む収益に業界全体が酔い、顧客の資産を守る本来の役割が後景に退いていたという内省であった。だが慣行はすでに深く根を張り、営業現場の数字至上を一片の反省で解くことは難しかった[2]

1991年、明るみに出た補填リスト

1991年半ば、大口顧客への損失補填が国会と報道で一斉に問題化した。監督官庁が公表を促した補填先の名簿には主要証券会社が並び、野村證券もその例外ではなかった。禁じられていたはずの一任勘定に近い運用や、特定顧客への利回り保証が、市場の公正を損なう行為として厳しい批判を浴びた。株式市場の担い手であるはずの証券会社が、市場の信頼そのものを傷つけたという指弾は重かった[3]

不祥事は、野村がバブル期に築いた華々しい業績の裏面を照らした。1991年11月、経済誌はこの問題を「野村証券の使命——失われた〈人格〉を求めて」と題して特集し、収益至上の営業が組織から何を奪ったかを問うた。海外ではニューヨーク・ロンドン両証券取引所の会員権を得てグローバル投資銀行の候補と目された最大手が、国内では市場の公正を軽んじたという落差が、内外に突きつけられた。攻めの国際化と国内ガバナンスの不均衡が、初めて公然と俎上に載った[4][5]

決断

首脳陣の引責と、原点への回帰

証券最大手として批判の矢面に立った野村は、経営責任の明示から再建を始めた。1991年、損失補填問題の責めを負って田淵義久社長と田淵節也会長がそろって職を辞し、酒巻英雄氏が新社長に就いた。バブルの拡大を主導した象徴的な二人が同時に退くことは、失った信頼の重さを社内外に示す意思表示であった。首脳陣の交代は単なる人事にとどまらず、収益至上へ傾いた企業体質と訣別する意思を対外に示す区切りとなった[6][7]

刷新の旗印に据えたのは、新しい戦略ではなく創業の原点であった。野村は「顧客と共に栄える」という創業以来の精神に立ち返るとして、社員の意識と組織の機構を同時に改める改革を「新生・野村」と名づけた。1925年に大阪野村銀行から分離独立して以来、大衆への投資信託の普及や「調査の野村」で市場の裾野を広げてきた自負が、その言葉には込められていた。危機のなかで新奇な処方箋を掲げず、失った初心へ帰るという選択に、最大手の矜持と反省がにじんだ[8][9]

「ノー」と言える証券会社へ

新体制が目指したのは、顧客に対して「ノー」と言える証券会社であった。1992年4月、酒巻英雄社長は取材に対し、信頼回復には新しい営業の型が要ると述べ、売買の回転で手数料を稼ぐ従来の勧誘から距離を置く方針を語った。顧客の意向に沿うだけでなく、不適切な取引なら断れる現場をつくることが、補填慣行を生んだ体質への処方であった。原点回帰の理念を、日々の営業のふるまいへ落とし込めるかどうかに、「新生・野村」の成否がかかっていた[10]

結果

証券不況の深化と、証券行政の転換

掲げた理念とは裏腹に、決算は証券不況の底へ沈んでいった。連結の当期純利益は1993年3月期に36億円へ細り、1995年3月期には183億円の最終赤字を計上した。バブル崩壊後の株式売買の低迷が、手数料に依存する収益構造を直撃した。営業収益で他社を圧倒した最大手も、市況の反転を待つほかない苦しさに置かれた。「新生・野村」の理念の浸透を、数字が下支えしない数年が続いた[11]

証券不祥事は、個社の再建にとどまらず証券行政そのものを動かした。1991年には証券取引法が改正され、事後の損失補填が明確に禁じられた。翌1992年7月には、大蔵省のもとに証券取引等監視委員会が発足し、米国のSECを範とした事後監視の仕組みが日本に据えられた。裁量による事前指導に頼ってきた行政が、透明なルールにもとづく監視へと転換する契機となり、野村を震源とする不祥事は制度改革の呼び水となった[12]

原点回帰の言葉と、6年後の再発

守りを固める一方で、野村は攻めの再開も怠らなかった。1993年8月には銀行と証券の相互乗り入れ解禁を受け、野村信託銀行を設立して業態の拡張へ戻った。だが原点回帰の言葉は、組織の隅々までは届いていなかった。1997年3月、特定の総会屋への利益供与が発覚し、酒巻英雄社長が再び引責辞任、氏家純一社長のもとで再度の刷新に追い込まれた。大蔵省の行政処分と株式関連業務の停止が科され、その年の連結当期純損失は2,427億円に達した。6年で二度、同じ根の不祥事が噴き出した[13][14][15][16][17]

出典・参考
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 野村證券 有価証券報告書(連結)
  • 日経ビジネス 1990年10月22日号「金融界は調子に乗り過ぎていた」
  • 日経ビジネス 1992年4月20日号「信頼回復へ新しい営業模索『ノー』と言える証券会社に」
  • 週刊東洋経済 1997年8月16日号「フラッシュ 証券不祥事 野村処分・山一強制捜査 総会屋・小池隆一被告への利益供与は91年の証券不祥事同様、4社そろい踏み」
  • 金融庁 証券取引等監視委員会(2026年2月)「証券取引等監視委員会」(https://www.fsa.go.jp/sesc/aboutsesc/pamphlet.pdf)