野村ホールディングス 損失補填による引責辞任 損失補填の証券不祥事を受けた「新生・野村」への機構改革
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何をなぜ決めたか
- 概要
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1989年末の株価ピーク後の下落下、1991年に大口顧客への損失補填を中心とする証券不祥事が明るみに出て、邦証券最大手の野村證券はその震源となった。田淵義久社長と田淵節也会長が引責辞任し、酒巻英雄社長のもとで 『顧客と共に栄える』 という創業理念への回帰と機構改革= 『新生・野村』 を掲げた経営判断。
- 背景
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証券各社は1980年代後半のバブルのなかで、大口顧客に生じた株式売買の損失を事後に補填する慣行を広げていた。1989年末の日経平均38,915円をピークに株価が下落へ転じると、補填の実態が1991年に表面化し、野村も例外ではなく、内外からの批判を浴びた。
- 内容
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田淵義久社長らの引責辞任で首脳陣を刷新し、酒巻英雄社長がノーと言える証券会社への転換を掲げた。利益至上に傾いた営業体質を見直し、創業以来の 『顧客と共に栄える』 精神に立ち返る意識と機構の改革を 『新生・野村』 と称して進めた。
- 含意
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証券不況は深まり、1995年3月期・1997年3月期には連結の最終赤字を計上した。1991年の証券取引法改正で事後の損失補填は禁じられ、1992年7月には証券取引等監視委員会が発足して事後監視型の証券行政へ転換した。だが1997年3月には総会屋への利益供与が再発し、酒巻英雄社長が再び引責辞任、氏家純一社長のもとで再度の刷新に至った。
いつ何が起きたか 7件
筆者の見解
利益至上を、組織からどう抜くか
この判断の重さは、危機を組織改革の機会に転じようとした点にある。最大手が自ら首脳陣を退け、新戦略ではなく"顧客と共に栄える"という創業の初心へ帰ると宣言した身ぶりには、失った信頼の大きさを正面から引き受ける潔さがあった。損失補填は野村一社の逸脱ではなく証券界に広がった慣行であり、その震源に立った最大手が範を示せるかどうかに、市場全体の再生がかかっていた。原点回帰という言葉の選び方には、奇策では体質は変わらないという醒めた自覚がにじむ。
だが6年後の総会屋事件は、理念の宣言と現場のふるまいの間に残った距離を映した。利益至上の慣性は一片の反省では抜けず、意識と機構を改めるという課題は氏家純一社長へ、さらにその先の経営者へと引き継がれた。野村を震源とする不祥事が損失補填の法禁止と証券取引等監視委員会という制度を残した一方で、稼ぐ組織から公正さを軽んじる誘惑をどう抜くかという問いは、証券業に限らず、収益を競うあらゆる企業に今も差し向けられている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
業績の推移
同じ問いに直面した会社
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参考文献
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- 野村證券 有価証券報告書(連結)
- 日経ビジネス 1990年10月22日号
- 日経ビジネス 1992年4月20日号
- 金融庁 証券取引等監視委員会(2026年2月)「証券取引等監視委員会」(https://www.fsa.go.jp/sesc/aboutsesc/pamphlet.pdf)