荏原製作所「脱ポンプ」による環境事業への傾斜と、ダイオキシン規制下でのガス化溶融炉の受注拡大

制度の変化は需要か、それとも見込み違いか——「環境の荏原」が背負った工期と追加工事

時期 1999年7月
意思決定者(推定) 藤村宏幸(会長)・前田滋 社長
論点 多角化の主柱選択と環境プラント事業の採算
概要
1991年度に始めた中長期経営計画「ACT'95」でポンプ依存からの脱却を掲げ、ごみ焼却と水処理を担う環境事業を第2の柱に据えた経営判断。2000年前後のダイオキシン規制強化で生じた自治体の焼却炉更新需要に対し、実績の乏しい新型のガス化溶融炉で受注を伸ばしにいった。
背景
荏原製作所は1978年にごみ処理装置の1号機を納めたものの、1988年まで環境事業は赤字であった。藤村宏幸社長はごみ発電や肥料製造を組み込んで「静脈産業から動脈産業へ」を掲げ、採算の取れる事業に変えたうえで、ポンプに代わる主柱として資源を投じた。
内容
2000年1月施行のダイオキシン類対策特別措置法により、2002年12月以降の排出基準に適合しない焼却炉の更新が全国の市町村で一斉に始まった。官公需の都市ごみ処理装置の受注は1998年の4,289億円から2000年に7,483億円へ急増し、荏原は焼却灰まで溶かすガス化溶融炉で受注を取りにいった。
含意
2000年には藤沢工場が8年にわたり高濃度のダイオキシンを引地川へ流出させていたことが判明し、「環境の荏原」の看板そのものが傷ついた。ガス化溶融炉の手直し工事と工期のずれからエンジニアリング部門が崩れ、2003年3月期は連結で285億円の最終赤字に沈んだ。
筆者の見解

制度の変化を需要と読むということ

規制が強まれば設備は入れ替わる。その読み自体は当たっていて、官公需の都市ごみ処理装置の受注は2年で4,289億円から7,483億円へ膨らんだ。荏原が誤ったのは需要の量ではなく、その需要へ差し出す製品の成熟度のほうであった。ガス化溶融炉はABBへ技術供与するほどの技術ではあっても、自治体の現場で20年動かし続けた実績を持つ技術ではない。手直し工事と工期のずれで285億円を失ったのは、需要の見立てではなく、納める側の準備の側に穴があったからだとみられる。

ただ、この傾斜を軽率と決めつけるのも公平を欠く。1983年に川崎工場を閉じて1,400人の配置換えを指揮した藤村宏幸氏にとって、新しい成長事業を絶やさないことは人員整理を避けるための責務であり、環境事業は10年赤字を抱えたまま育て上げた事業でもあった。守るべきものがあったからこそ、規制という追い風を逃がしたくなかったのかもしれない。第2の柱を求めた30年の末に稼ぎ手になったのが、当時は「新分野」の隅に置かれていた半導体だったのは、多角化の当たり外れが計画の順位どおりには決まらないことを示している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

赤字だった環境事業を柱に変えるまで

荏原製作所がごみ処理装置の1号機を売ったのは1978年で、藤村宏幸氏が社長に就いた1988年まで、環境事業は赤字であった。理由は本人が明快に語っている。当時のごみ処理装置は顧客に利益をもたらさず、それゆえ積極的には導入されない。そこでごみによる発電と肥料の製造を組み込み、「静脈産業から動脈産業へ」を掲げて顧客の気持ちに訴えた。注文は増え、環境事業は利益を出せる事業に変わった[1]

藤村氏が新事業にこだわった背景には、1983年の川崎工場閉鎖がある。工場長であった同氏は、1,400人の従業員のうち800人を他工場へ移し、残る600人を他の職場や子会社へ送り出した。「本当に惨めでした。もう二度とやりたくありません」。人員整理を避けるには常に新しい成長事業を開拓するほかない、というのが同氏の結論であった。環境事業は、その責務を果たすための答えであった[2]

「脱ポンプ」という看板

1991年度に始まった中長期経営計画「ACT'95」は、1996年3月期までに売上高を2,492億円から4,200億円へ伸ばし、風水力事業の比率を53%まで下げる目標を掲げた。残る47%、約2,000億円の中核が環境事業で、当時500億円程度の売上を1,000億円まで伸ばす計画であった。藤村社長は「21世紀には、ポンプメーカーから脱皮し、環境保全から省エネルギーまでより広い守備範囲を持つ総合環境エンジニアリング企業になりたい」と語り、企業理念にも「環境」の二文字を加えた[3][4]

技術の裏付けもあると考えられていた。次世代の廃棄物処理技術とされたガス化溶融炉について、荏原は欧州最大の重電メーカーであるアセア・ブラウン・ボベリへ技術供与するまでになっていた。業績も伸び、1996年3月期まで9期連続の増収と11期連続の経常増益が続く。1997年に社長に就いていた前田滋氏は、余力のあるうちに環境ビジネスへ布石を打つ考えを示していた[5][6]

決断

ダイオキシン規制という特需

追い風は制度の側から吹いた。2000年1月に施行されたダイオキシン類対策特別措置法は、2002年12月1日以降、市町村や事業者の一般廃棄物焼却施設に厳しい排出基準を課した。基準を超える焼却炉の更新が全国で一斉に始まり、官公需の都市ごみ処理装置の受注は1998年の4,289億円から2000年には7,483億円へ跳ね上がった。焼却灰まで溶かすガス化溶融炉は、最終処分場に余裕のあった1990年代前半には需要が乏しかった技術である[7][8]

荏原はこの更新需要に、実績の乏しい新型のガス化溶融炉で臨んだ。ごみ焼却炉は鉄鋼・重機械・造船・プラントの各社が入り乱れる市場で、耐用年数が20年と長いぶん、一度受注すればその後の保守も付いてくる。取りにいく理由はそろっていた。ただし1999年の時点で、藤村会長自身が海外企業に比べて自社の変革の速度が落ちているようだと述べており、社内の実行力への不安は当事者の側にもあった[9][10]

1兆円という上振れした目標

拡大の意思は数字にも表れた。2000年6月に社長へ就いた依田正稔氏は、第一勧業銀行の出身で、スイス第一勧業銀行の総支配人を務めた経歴を買われて1990年に荏原へ移った管理畑の人である。同氏がまとめ役となった中期経営計画は、2005年3月期に連結売上高を当時見込みの約1.5倍にあたる1兆円、営業利益を約3倍の640億円へ引き上げる目標を掲げた[11]

同時に依田氏は、機械・精密電子・エンジニアリングの3事業を分社化する構想を視野に入れ、「不採算事業の処理など、個別事業の選択と集中を進める必要がある」と述べていた。規模を追う目標と、採算の悪い事業を切る方針が同居していたことになる。この二つのうち、先に現実の答えを出したのは環境プラントの採算のほうであった[12]

結果

自社工場からのダイオキシンと、285億円

最初に崩れたのは看板のほうであった。2000年3月24日、藤村会長は常務会の最中に、藤沢工場から高濃度のダイオキシンが引地川へ流出していたという報告を受ける。流出は8年に及んでいた。配管の接続を誤っていたことに加え、排ガスの塩酸を中和するために設けたスクラバーが毒性の高いダイオキシンをよく吸収し、それが排水として出ていた。良かれと思って加えた装置が、排出の経路をつくっていた[13][14]

荏原は6月の1カ月間、一部の官公庁から発注に関する指名停止処分を受け、藤沢工場の環境管理の国際規格ISO14001の認証を返上した。危機対応そのものは同時代の評者から評価されている。藤村会長は「マスコミには分かっていることは、全部話そうということで対応した」と述べ、アナリストを集めて受注や収益への影響も開示した。ただし、失ったのは「環境の荏原」という看板の信用であった[15][16]

請負から手を引くまで

賭けの決着は2003年3月期に出た。連結売上高5,179億円に対し経常損失44億円、最終赤字285億円。会社四季報は「ガス溶融炉の手直し工事や期ズレからエンジ部門が大幅赤字で営業赤字に転落」と記し、産業廃棄物処理業者向け債権の引当損や中部電力向け工事の清算損も特別損失に並んだ。規制強化を需要と読んで取った受注は、手直しと工期の遅れというかたちで返ってきた[17][18]

以後、荏原は環境事業を自前で抱える体制から退いていく。2009年4月に水処理事業を荏原エンジニアリングサービスへ、同年10月に廃棄物処理事業を荏原環境プラントへ統合し、2010年3月には水事業会社へ三菱商事と日揮の資本を迎えた。2025年12月期の環境セグメントは売上収益978億円・セグメント利益130億円で、5事業のうち最も小さい。第2の柱に据えるはずの事業は、基盤の一つに落ち着いた[19][20]

出典・参考
  • 荏原製作所 有価証券報告書【沿革】
  • 荏原製作所 有価証券報告書(2003年3月期・連結)
  • 荏原製作所 有価証券報告書(2025年12月期・連結・IFRS)
  • 日経ビジネス 1992年9月28日号「荏原製作所 排煙脱硫・脱硝に新技術 環境事業強化で脱ポンプ」
  • 日経ビジネス 1997年1月13日号「新社長登場 前田滋氏[荏原] 好調の波に乗り環境事業に力こぶ」
  • 日経ビジネス 2000年1月24日号「有訓無訓 赤字事業を解消するにはコツがある 藤村宏幸[荏原会長]」
  • 日経ビジネス 2000年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 藤村宏幸氏[荏原会長] ダイオキシン排出、『環境の荏原』へ再出発」
  • 日経ビジネス 2001年1月29日号「素顔の新社長 依田正稔氏[荏原] 元国際派バンカー、技術者集団に新風」
  • 週刊東洋経済 1999年8月7日号「[ザ・トーク]樋口紀昭/藤村宏幸/浅田隆治/小手川清」
  • 週刊東洋経済 2000年8月12日号「[特集]クライシスマネジメント(1)管理危機と広報 重要な危機の『初期消火』」
  • 週刊東洋経済 2002年12月28日号「時々刻々 ゴミ焼却炉 最新ガス化溶融炉めぐる裏金工作は全面否定だが残る三井造船の説明責任」
  • 週刊東洋経済 2003年2月1日号「『会社四季報』最新情報」

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