{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"5231","company_name":"日本セメント","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/5231/","api_url":"/api/5231/history.json","updated":"2026-08-05","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/5231/","title":"日本セメントの歴史概略","sections":[{"start_year":1883,"end_year":1912,"main_title":"官営深川工場の払下げを受けた浅野総一郎氏の匿名組合から合資会社まで","subsections":[{"title":"官営工場の貸下げから匿名組合浅野工場の発足まで","text":"維新政府は殖産興業の方針のもと、1873年秋に隅田川沿いの旧仙台藩屋敷跡へセメント工場を建て、摂綿篤製造所と名づけた。化学技師の宇都宮三郎氏が前年の欧米視察で得た知識に基づいて設備を英仏流の湿式法へ大改修し、1875年5月にわが国最初の近代的なセメントを製造した。原料の石灰石は栃木県の葛生から運び、粘土は工場前の隅田川底のものを使った。ただし価格を舶来品より低く抑えねばならず、営業成績は赤字の年が多かった。1882年末に太政官から所管事業払下げの承認を得た工部省は、翌1883年3月16日、深川工作分局の工場を確実な営業人へ貸与したいという伺書を太政官へ提出した。伺いは同年4月5日に許可された。\n\n確実な営業人として選ばれたのが浅野総一郎氏である。浅野氏は横浜で薪炭と石炭を商う燃料商で、深川工場へコークスを納めていた縁から、渋沢栄一氏の紹介で工作局長の大鳥圭介氏ら工部省首脳へ払下げをたびたび願い出ていた。工場敷地には倉庫用地として三井が、別荘地として三菱が目をつけていたが、渋沢氏は浅野氏に払い下げれば必ず工場は盛大になると断言して口添えした。1883年4月16日、深川工作分局のセメント工場は浅野氏に貸し下げられ、同日をもって分局は廃止された。構内の耐火煉瓦工場は西村勝三氏が借り受けた。両者とも期限は5年、貸借料は純益金の10分の5という条件だった。西村氏はのちの品川白煉瓦の創設者にあたる。\n\n工場は貸し下げられても所有権は政府に残り、運営は諸般の官規に縛られた。浅野総一郎氏と西村勝三氏は土地を含む工場の一括売却を政府へ要請し、1884年7月に払下げの契約が正式に取り交わされた。払下げ価格は6万1741円62銭4厘、25年の年賦払いという条件である。1885年12月に太政官制度が内閣官制に代わって工部省が廃止されると、納付方法は35年賦へ延長され、年利4分5厘の一時払いも認められた。浅野氏は残額5万6948円15銭1厘に相当する1万2203円98銭9厘を国庫へ納めて完済した。同じ1884年7月、10年余の官営時代を終えた工場は、浅野氏の出資3万円と渋沢栄一氏の出資1万5000円、合計4万5000円で匿名組合浅野工場として発足した。","references":[{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第1節 浅野工場の誕生","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第2節 創業時代","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第3節 西日本への進出","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第4節 横浜築港","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第5節 浅野セメント合資会社の発足","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第1節 回転窯の導入","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第6節 当期間の業績","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）創業者浅野総一郎小伝 4.セメント事業の経営","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）2篇 日本会社史 26 セメント p393 日本セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）化学 p43 化学－輸出産業への歩み","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"皇居造営の受注と2度の増設が生んだ生産能力5倍","text":"発足当初の浅野工場は敷地4442坪、建物15棟で総建坪708.25坪、設備はセメント焼窯8基をはじめ官営時代のままだった。生産能力は月800樽、およそ145トンで、職工は37名である。浅野総一郎氏は総長と呼ばれて販売を担当し、工場は渋沢栄一氏を代表して参画した王子抄紙会社技師の大川平三郎氏が受け持った。浅野氏は横浜寿町から工場構内の旧仙台屋敷の門長屋へ一家をあげて移り住み、毎朝5時に工場の入口で職工を待って一緒に働き、夜は会計監督格の谷敬三氏について簿記を習って自ら帳簿をつけた。勤務時間を定めて厳格に守らせたため、官営時代の悠長な仕事ぶりに慣れた職工の一部は不満を抱き、ストライキを企てる者も出た。\n\n浅野総一郎氏は賃金と賞与の一部を積み立てさせ、10年継続すれば積立額と同額を支給する従業員優遇法を独自に定めた。積立金の金利は当時の郵便貯金の6朱を上回る7朱としたため、他の工場や官庁から調査に訪れる者もいた。1883年に月600〜800樽だった生産高は、操業時間の延長と工場能率の改善によって1885年ごろには1500〜2000樽へ増えた。最初の大口契約は皇居造営工事である。1873年5月に炎上した皇居の造営は1884年4月に起工式を迎え、使用するセメントは約1万5000樽と見込まれていた。浅野氏は工場を借り受けるとすぐ、深川工作分局の少技長へ皇居造営用セメント買上げの願書を提出した。\n\n本格的な買上げが始まったのは1885年6月で、同月27日に第1回分3000樽の納入契約が結ばれ、8月から10月まで毎月1000樽を納めることとなった。売値は400ポンド入り1樽4円50銭である。皇居造営用に納入した浅野工場品は1885年8月から1887年8月までに5373樽、金額にして2万3941円20銭に達した。同じ工事には輸入品7190樽と深川工作分局製品4861樽も使われた。需要は東京湾要塞の築造や各地方鉄道の敷設でさらに増え、浅野工場は1886年に第1次増設へ着工して翌1887年に完成させた。セメント焼窯6基、乾燥場3カ所、石灰窯1基を加え、生産高は月平均3000樽、約544トンとなって規模は倍増した。","references":[{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第1節 浅野工場の誕生","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第2節 創業時代","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第3節 西日本への進出","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第4節 横浜築港","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第5節 浅野セメント合資会社の発足","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第1節 回転窯の導入","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第6節 当期間の業績","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）創業者浅野総一郎小伝 4.セメント事業の経営","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）2篇 日本会社史 26 セメント p393 日本セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）化学 p43 化学－輸出産業への歩み","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"横浜築港での評価と合資会社への改組、そして最初の回転窯","text":"1886年、政府は内閣直属の臨時建築局を設け、建築技師や職工を実習生としてドイツへ留学させた。浅野総一郎氏はこの機をとらえ、技師の坂内冬蔵氏と職工の浅野喜三郎氏を一行に加えた。坂内氏は1883年7月に東京大学理学部化学科を卒業し、1886年3月に浅野工場へ技師として入社した人物である。両氏が1888年に相次いで帰国したのち、坂内氏の指導監督による第2次増設が1890年に完了し、生産高は月4000樽以上、職工数は191名となった。西日本への進出も並行した。浅野氏は渋沢栄一氏、大倉喜八郎氏とともに1888年、関門地帯に資本金20万円の門司セメント会社を設立したが、1890年の不況で金融難に陥り工場建設を中止して会社も解散した。計画は1891年に動き直し、大倉氏が門司白木崎で営む日本輸出米商社を買収して精米工場をセメント工場へ改造し、1893年9月に浅野門司分工場が発足した。\n\n次の大口は横浜築港だった。工事は下関事件の賠償金のうちアメリカから返還された78万5000ドルを財源に、1889年9月から4カ年の継続事業として着手された。監督にあたった土木技師パーマー氏は、外国品が為替相場で価格変動を受けやすいこと、国内品の製造技術が進歩して価格も安いことを挙げて国内品の使用を主張した。入札資格は月産400トン以上の業者に限られ、1891年11月の第1回入札で浅野総一郎氏ほか2社が3500トンずつ落札した。工事報告書は浅野氏の供給に遅滞がなく品質も善良で試験成績は頗る好調だったと記した。第2回は指名入札法で浅野氏が落札し、所要6000トンを1893年9月までに完納した。\n\n日清戦争後の活況を受けて浅野工場は資本の充実を図った。1897年6月30日現在の深川・門司両工場の資本金をそれぞれ30万円と20万円に切り捨てて合計50万円と評価し、渋沢栄一氏から20万円、安田善次郎氏から10万円の現金出資を加えて、1898年2月に総資本金80万円の浅野セメント合資会社が発足した。浅野総一郎氏は33万5000円を出資して無限責任を負い、渋沢氏や大川平三郎氏らは有限責任社員となった。技師長の坂内冬蔵氏は1902年3月に社命で渡米して回転窯の実績を確かめ、アリス・チャーマーズ社へ1基を発注した。深川工場が1903年12月に試運転を始めたこの窯がわが国最初の回転窯であり、竪窯と併用した同工場の生産能力は月2万樽へ倍増した。1907年5月には資本金を500万円へ増資し、出資社員は5名から30名になった。","references":[{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第1節 浅野工場の誕生","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第2節 創業時代","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第3節 西日本への進出","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第4節 横浜築港","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第1章第5節 浅野セメント合資会社の発足","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第1節 回転窯の導入","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第6節 当期間の業績","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）創業者浅野総一郎小伝 4.セメント事業の経営","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）2篇 日本会社史 26 セメント p393 日本セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）化学 p43 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合資会社から株式会社へ","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第3節 北海道セメント株式会社の合併","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第4節 降灰問題と川崎工場の新設","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第5節 台湾工場の新設","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第6節 当期間の業績","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第3章第2節 セメント連合会の創設","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第3章第3節 生産能力増強と増資","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第3章第4節 副業へ進出","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第3章第6節 当期間の業績","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第4章第1節 軍需産業優先とセメント業界","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）2篇 日本会社史 26 セメント p393 日本セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史 p157 日本セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）化学 p182 セメント・ガラス－延々とカルテル","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"降灰問題の決着と関東大震災後の増資・合併・副業進出","text":"深川工場は創業期から降灰の苦情を受けていた。1903年に回転窯が稼働し、生灰焼成法への転換と窯の増設で生産高が急増すると、外部へ飛散する降灰量も増えた。問題は1907年ごろから表面化して工場付近に深川青年団が組織され、当局への陳情と会社への抗議が続き、1910年から翌年にかけて対立は険悪になった。当局の斡旋もあり、浅野セメントは1911年3月、1916年末までに深川工場を撤廃すると区民側へ約束した。川崎工場はその代替として建てたものである。ところが1916年3月、アメリカ滞在中の高峰譲吉氏らからコットレル式電気集じん装置の情報が届き、同年7月の重役会は特許権と機械設備一切をアメリカから購入すると決めた。1917年12月23日に回転窯4基の装置が機能を発揮し、翌24日、深川青年団と区民代表は工場撤廃の要求を撤回した。\n\n設備の拡張はその後も続いた。川崎第2工場は1918年10月に着工して1920年9月に完成し、門司工場には長さ200フィートの大回転窯が据えられて1922年秋までに4基が揃い、1923年の同工場の生産高は年産223万9821樽に達した。北海道第2工場は1917年9月に着工して1922年3月に竣工し、1925年の北海道工場の生産高は143万7075樽と北日本最大になった。増設資金を賄うため1920年7月の定時株主総会は1800万円の増資を可決し、1921年6月に資本金は3300万円となった。1923年9月1日の関東大震災では深川工場が火災で全設備を焼失し、機械や製品を含む損失額は186万4942円72銭にのぼった。川崎工場も煙突や原料粗砕室が大破し、両工場で工員6名が死亡した。\n\n創業40年にあたる1923年10月、浅野セメントは3つの部門を抱え込んだ。浅野スレートを合併してスレート部とし、日本カーリットを合併してカーリット部とし、浅野同族から鉄筋コンクリート部を継承した。スレートは1914年12月に深川でわが国初の製造試運転にこぎつけた事業で、翌年2月に資本金30万円の浅野スレートとして分離していたが、1920年春からの不況で販売数量が半減し採算が悪化していた。カーリットはスウェーデンの化学者オスカー・カールソン氏が発明した火薬で、大戦により原料の輸入が途絶したことから浅野総一郎社長が国産化に乗り出したものである。資本金は1923年10月に3575万円、1924年6月には第二浅野セメントと大阪木津川セメントの合併で5631万円となった。初代社長は1930年11月9日に死去し、翌12月に長男で副社長の浅野泰治郎氏が2代目社長に就き、1931年1月に総一郎を襲名した。","references":[{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第2節 合資会社から株式会社へ","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第3節 北海道セメント株式会社の合併","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第4節 降灰問題と川崎工場の新設","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第5節 台湾工場の新設","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第6節 当期間の業績","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第3章第2節 セメント連合会の創設","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第3章第3節 生産能力増強と増資","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第3章第4節 副業へ進出","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第3章第6節 当期間の業績","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第4章第1節 軍需産業優先とセメント業界","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）2篇 日本会社史 26 セメント p393 日本セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史 p157 日本セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）化学 p182 セメント・ガラス－延々とカルテル","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"セメント連合会の生産制限から戦時統制会の企業整備へ","text":"関東大震災後の復興需要は見込みはずれに終わり、各社の増産計画だけが予定どおり進んだ結果、業界は生産過剰と在庫増を抱えた。1924年6月ごろから小野田セメント製造社長の笠井真三氏と浅野セメント取締役の金子喜代太氏がカルテル結成の準備にあたり、同年10月5日にセメント連合会が創設された。加盟は当時のセメント会社をほとんど網羅する18社で、全社の年間生産能力1599万6000樽のうち浅野セメントは679万2000樽と42.5%を占めた。ただし生産制限は設備の拡張自体を縛らず、輸出も制限外だったため、各社の拡張競争とダンピングが続いた。1930年1月の金輸出解禁後、第2次連合会は生産制限率を38%から56%へ高めたが市価は回復せず、1934年12月に発足した第3次連合会の下では朝鮮を舞台に空前の乱売戦が起きた。決着は1936年7月の笠井・金子協定による朝鮮向け出荷協定である。\n\n戦時統制は業界の組織を次々に組み替えた。1937年9月施行の臨時資金調整法でセメント製造業は丙種産業に指定され、石炭、紙袋、鋼材や耐火煉瓦といった補修資材の購入で強い制約を受けた。1940年2月には内地の全セメント製造業者26社が株主となってセメント共販株式会社を設立し、3月11日からセメント工業創始以来最初の公定価格による配給統制が始まった。第3次セメント連合会は同年9月に解散して日本セメント工業組合となり、太平洋戦争が始まった1941年12月18日にはセメント統制会が設立された。2代目社長の浅野総一郎氏は社長の職を辞して統制会会長に就任し、1944年2月には会長のまま社長へ復帰した。統制会の指令は公定価格の改訂から企業整備、生産力増強、設備の海外移設まで及んだ。\n\n商工省は1941年7月、当時22社あったセメント企業を10社程度へ整理する案を立てた。資本系列を同じくする各社の間では自発的な合併が先行し、浅野セメントは1939年10月1日に八代・佐伯両工場をもつ旧日本セメントを、1940年5月1日に土佐セメントを、1941年3月1日に日東セメントを、1942年3月に東亜セメントを合併した。旧日本セメントの合併では資本金を1000万円増資して1億1631万円とし、九州の工場は門司、香春を含めて4工場、月産11万8500トンとなった。石炭事情の悪化は本拠にも及び、創業以来56年にわたって操業し、1930年に東京工場と改称していた深川工場は、1939年11月に閉鎖された。設備は1940年10月に華北洋灰へ520万円で売却され、川崎工場も1941年3月28日に日本高炉セメントへ譲渡された。1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾した。","references":[{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第2節 合資会社から株式会社へ","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第3節 北海道セメント株式会社の合併","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第4節 降灰問題と川崎工場の新設","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第5節 台湾工場の新設","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第2章第6節 当期間の業績","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第3章第2節 セメント連合会の創設","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第3章第3節 生産能力増強と増資","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第3章第4節 副業へ進出","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第3章第6節 当期間の業績","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"百年史（日本セメント、1983年）第4章第1節 軍需産業優先とセメント業界","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）2篇 日本会社史 26 セメント p393 日本セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史 p157 日本セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）化学 p182 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CEMENT CO., LTD.として許可したため、輸出その他の渉外関係先には当初やむなくこの表記を使った。1948年2月には過度経済力集中排除法の第1次指定企業257社に含まれ、小野田セメント製造、磐城セメント、大阪窯業セメント、宇部興産とともにセメント企業から指定された。しかしアメリカ政府の5人委員会が示した4原則により適用は緩和され、1949年6月17日に持株会社整理委員会から指定取消指令を受けた。","references":[{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第5章第1節 終戦直後の経営","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第5章第2節 海外事業所と権益の喪失","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第5章第3節 創業以来の経営者浅野一族の辞任と日本セメントの再建整備計画","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第5章第5節 企業再建への努力","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第6章第2節 埼玉工場の建設","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第6章第7節 当期間の業績","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第7章第2節 企業体質の改善,強化","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第7章第4節 経営多角化への指向","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年 16巻9号 p27 セメント業界の生産シェア","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"統制撤廃から埼玉工場の完成までの復興10年","text":"労働争議が沈静に向かい企業再建整備計画のめどが立った1949年9月、終戦直後に社長に就いた徳根吉郎氏は井上英煕専務に社長の職を譲った。井上社長は従来の社長・専務・常務制を廃して会長・社長・常務制に改め、東京機械製作所の閉鎖、尼崎工場の閉鎖、秩父鉱業所の分離独立、ブロック事務所の強化、人員整理を実施した。スレート部は1949年11月に独立採算制となり、1951年5月にアサノスレートとして独立した。1949年8月にはセメント生産上の最大難関であった石炭統制が解除され、1950年1月にはセメントの配給と価格の統制が全面撤廃された。セメント販売価格は1940年3月に国家統制を受けて以来、10年ぶりに自由販売価格へ復帰した。\n\n1950年6月に勃発した朝鮮戦争は特需景気を招き、セメント需要を押し上げた。西多摩工場3号窯は1950年12月に着工して翌年11月に竣工し、月産1万トンの能力増となった。このときアメリカのフラー社から購入したエアクエンチングクーラをわが国で最初に設置し、クリンカの冷却温度を下げると同時に2次空気の温度を上げて石炭を節約した。上磯工場では1952年11月に3号窯が完成し、わが国最初の三点支持全溶接回転窯となって同工場の能力は月産3万3000トンに達した。輸送では1950年6月に門司工場へ積込設備を新設し、近海郵船の豊城丸をセメントタンカーに改造して門司と横浜の間を毎月2〜3回往復させ、荷受設備として横浜に最初の包装所を設けた。\n\n需要が最も伸びた関東信越地区で、日本セメントが持つ工場は西多摩工場だけだった。しかも同工場は早強セメントと中庸熱セメントの生産を主体としており、普通セメントの需要には応じ切れなかった。1952年3月に具体的計画の作成へ着手し、糸魚川付近、国鉄青梅沿線、私鉄西武沿線の3地点を候補としたうえで、武甲と日原の両原料山を背後に控える西武沿線に絞った。1953年10月に工事総予算額29億8767万4000円で新工場を建設すると決めたが、飯能町双柳地区の反対運動が市長不信任決議と議会解散にまで発展したため、1954年5月に協定の白紙還元を通知した。候補地を高麗川村へ移して1955年1月に工場誘致協定を結び、埼玉工場は1955年4月に竣工した。","references":[{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第5章第1節 終戦直後の経営","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第5章第2節 海外事業所と権益の喪失","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第5章第3節 創業以来の経営者浅野一族の辞任と日本セメントの再建整備計画","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第5章第5節 企業再建への努力","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第6章第2節 埼玉工場の建設","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第6章第7節 当期間の業績","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第7章第2節 企業体質の改善,強化","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第7章第4節 経営多角化への指向","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年 16巻9号 p27 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1975/3/17）と語った。会社は1975年3月から役員報酬と管理職の賃金カットを実施し、1977年12月まで続けた。雇用調整給付金の指定業種となったため一時帰休制度も採り、1975年6月の西多摩工場を皮切りに上磯、埼玉、大阪、八代の各工場へ広げた。1976年1月には50歳以上の従業員を対象とする勇退を労働組合に提案し、同年6月14日に勇退者350名を確認して、管理職を含め約400名が会社を去った。\n\n1977年4月14日、会社はチャレンジ400とチャレンジ自立の2つの目標を労働組合に説明した。チャレンジ400はセメントの原価をトン当り400円切り下げるもので、1977年上期の予算を基準に本社、支店と上磯、埼玉、土佐、香春、佐伯、糸崎の各工場がそれぞれ削減目標を設定した。チャレンジ自立は関連製品部門の各事業所が採算的に自立することを目標とした。1年を経ても好転せず、1979年1月の常務会で門司、八代両工場の基本方針を定め、同年10月に両工場の閉鎖と従業員の配転を労働組合に提案した。130名近くが他工場や日本イトン工業などへ配転・出向し、約40名が退職して、1980年4月に両工場は閉鎖された。門司工場は1893年、八代工場は1890年に建設された約90年の歴史をもつ工場だった。\n\n燃料は重油から石炭へ戻された。2度の石油ショックで熱量当りの重油価格が石炭価格を上回ったためで、1978年10月の佐伯工場5号キルンを最初に、1980年1月に香春工場、2月に土佐工場、3月に埼玉工場、9月に上磯工場が石炭混焼を始めた。四半期ごとの石炭混焼率は1982年第1四半期に98.3%となり、石炭焼成はほぼ上限に達した。1979年4月には西多摩工場にタイヤの投入設備を新設し、ブリヂストンタイヤと共同開発した使用ずみタイヤの燃料利用を実用化して、同年6月に環境庁から環境賞を受けた。1979年には神戸製鋼所と共同開発したDD式NSPキルンが上磯工場6号キルンで稼働し、1982年9月には香春工場7号キルン系統に最大出力1万6200キロワットの排熱発電設備が完成した。","references":[{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第1節 高度経済成長の転換期","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第2節 石油ショックの克服","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第3節 関連製品部門の自立化への努力と不採算部門からの撤退","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第4節 経営の徹底的合理化","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第6節 研究開発体制の強化と経営刷新の気運","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社、1985年）5231 日本セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社、1985年）5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5236 秩父セメント・5238 三菱鉱業セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1975年3月17日号 No.131 p122 原島保氏（日本セメント）登場","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年7月13日号 No.648 p98 木村道夫氏［日本セメント］登場","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年12月13日号 No.719 p5 北岡徹［日本セメント会長］失敗恐れると画一的発想に陥る","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年10月13日号 No.911 p7 宿敵と手を組んだセメント業界の苦境","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年10月18日号 p60 ［フラッシュ］秩父小野田・日セメ 合併でガリバー化","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年6月27日号 p62 平成恐慌年表 経済・金融・企業事件簿","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年11月28日号 p36 ［特集］富士銀・芙蓉グループの危機","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"1,884億円の頂点と、大手6社が4社になるまで","text":"1982年7月22日、7年半にわたり社長を務めた原島保氏は会長に退き、北岡徹氏が社長に就いた。会社年鑑1986年版によれば、単体売上高は1981年4月期の1,884億円を頂点に3年続けて減り、1984年4月期は1,589億円まで落ちた。経常利益は1979年4月期の105億円から1984年4月期には9億円まで縮んでいる。1984年4月期の売上構成はセメントが1,265億円で80%を占め、その他は324億円にとどまった。同じ年鑑に載る他社の直近期のセメント依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、住友セメント93%、秩父セメント97%、大阪セメント95%であり、大手6社はいずれも1981年前後に売上高の頂点を打って以後減収に転じた。\n\n需要そのものが減っていた。セメントの国内需要は1979年度の8,297万トンを頂点に年々低減し、1982年度は7,237万トンとなって3年間で1,060万トンを失った。創立100周年を迎えた1983年の年頭、北岡徹社長は全体の6割強を占める官公需が財政難で厳しい抑制を受けていること、民需も不況と産業構造の変化でかつての力を失っていることを挙げ、セメント需要の成熟化を認めざるを得ないと述べた。そのうえで、セメント部門で業界最優位の価格競争力を確立すること、成長の機会を新規分野に求めて研究開発と非セメント部門を強化すること、管理・間接部門を効率化して販売、研究開発、海外事業へ人員を重点配置することの3つを基本的方向に置いた。1983年2月には中央研究所本館を新築している。\n\n1990年10月には小野田セメントが米カリフォルニア・ポルトランド・セメントを買収し、米国西海岸へ進出した。1992年7月13日号の日経ビジネスには、同年に社長へ就いた木村道夫氏が登場し、国際化を進展させるとともに自らの意識も変えると述べた。1993年12月13日号では北岡徹会長が、失敗を恐れると画一的発想に陥ると語った。同じころ業界の再編が始まり、1994年10月1日に小野田セメントと秩父セメントが合併して秩父小野田が、住友セメントと大阪セメントが合併して住友大阪セメントが発足した。秩父小野田の国内シェアは24%で業界首位となり、1981年前後にそろって売上高の頂点を打った大手6社は、この月に4社となった。日本セメントは合併に加わらず、単独のまま業界3位の位置についた。","references":[{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第1節 高度経済成長の転換期","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第2節 石油ショックの克服","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第3節 関連製品部門の自立化への努力と不採算部門からの撤退","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第4節 経営の徹底的合理化","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第6節 研究開発体制の強化と経営刷新の気運","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社、1985年）5231 日本セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社、1985年）5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5236 秩父セメント・5238 三菱鉱業セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1975年3月17日号 No.131 p122 原島保氏（日本セメント）登場","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年7月13日号 No.648 p98 木村道夫氏［日本セメント］登場","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年12月13日号 No.719 p5 北岡徹［日本セメント会長］失敗恐れると画一的発想に陥る","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年10月13日号 No.911 p7 宿敵と手を組んだセメント業界の苦境","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年10月18日号 p60 ［フラッシュ］秩父小野田・日セメ 合併でガリバー化","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年6月27日号 p62 平成恐慌年表 経済・金融・企業事件簿","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年11月28日号 p36 ［特集］富士銀・芙蓉グループの危機","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"東南アジア輸出の急減から太平洋セメント発足へ","text":"合併の前提にあったのは、需要と価格の縮小である。セメントの国内需要はバブル期の1990年度に8,600万トンあったが、1996年度は8,200万トン、1997年度は8,000万トン割れも予想された。官公需の比重が6割と高く、1998年度以降は財政改革による公共工事の減少が本格化する見通しだった。市況もトン当り1994年度の9,800円から1996年度は9,200円へ下がった。販売の7割を占める生コンクリート業者は5,000社を超え、買い手であるゼネコンの交渉力が強かった。日本への輸入は1%弱の65万トン、日本からの輸出は1,000万トンで、欧州メーカーはアジア各地で設備を増強し、韓国も競争力をつけていた。\n\n1997年10月2日、秩父小野田と日本セメントは1998年10月1日に合併すると発表した。日経ビジネスは同月13日号で、東南アジアへの輸出急減が引き金になったと伝えた。新会社の国内販売シェアは約4割となり、連結売上高8,600億円はスイスのホルダーバンクの8,800億円に匹敵する規模にあたる。両社で10カ所ある生産拠点の統廃合は行わず、北海道は日本セメントの拠点が秩父小野田の販売分を、関東は小野田の拠点が日本セメントの分を担う物流の再編が計画された。本社の管理部門と営業拠点の人員も減らし、生まれた余力は産業廃棄物や一般ごみからセメントを造る環境事業、ファインセラミックス、エレクトロニクスの強化に回す方針が示された。\n\n日本セメントは芙蓉グループに属し、借入先は富士銀行、安田信託銀行、第一勧業銀行の順で芙蓉グループの比重が圧倒的に高かった。相手方の秩父小野田は三井グループの小野田セメントと第一勧業銀行グループの秩父セメントが1994年に一つになった会社である。それでも合併の交渉に双方のグループ銀行は全く介在せず、週刊東洋経済は、両社のトップ同士のあうんの呼吸による決断で事が進んだと伝えた（週刊東洋経済 1998/11/28）。1998年3月末の両社の有利子負債は合計4,119億円強にのぼった。1998年10月1日、両社は合併して太平洋セメントが発足した。1883年の創立から115年、1947年に日本セメントと改めた商号はこの日に消えた。","references":[{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第1節 高度経済成長の転換期","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第2節 石油ショックの克服","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第3節 関連製品部門の自立化への努力と不採算部門からの撤退","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第4節 経営の徹底的合理化","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本セメント百年史（日本セメント、1983年）第8章第6節 研究開発体制の強化と経営刷新の気運","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社、1985年）5231 日本セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社、1985年）5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5236 秩父セメント・5238 三菱鉱業セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 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