イオンイオン創業——伊勢街道の呉服商「篠原屋」から連邦経営のジャスコへ

1758年に岡田惣左衛門 氏が伊勢街道の四日市で暖簾分けした呉服太物商は、家訓「大黒柱に車をつけよ」を受け継ぎながらどう総合小売の連邦へ姿を変えたか

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時期 1758年
意思決定者 岡田惣左衛門 氏 篠原屋から暖簾分けを受けた岡田屋の創業者
論点 伊勢街道の商業地・四日市での呉服太物商の起業(暖簾分けによる独立開業)
概要
1758年(宝暦8年)、岡田惣左衛門 氏が伊勢街道と東海道の交わる四日市で、老舗の篠原屋から暖簾分けを受けて呉服太物・小間物商を開いた。屋号はのちに岡田屋へ改まり、家訓「大黒柱に車をつけよ」を代々受け継いで、1926年に株式会社岡田屋呉服店として法人化した。戦後に7代目の岡田卓也 氏が総合小売へ業態を転換し、1969年の(旧)ジャスコ設立を経て全国チェーンへ育っていった。
背景
四日市は伊勢神宮への参宮街道と東海道が交わる宿場町で、江戸中期には廻船問屋と旅籠が集まる商業地として栄えていた。呉服太物商は城下町や宿場町ごとに地域の顧客を抱える時代で、往来の多い立地は開業の足場になった。岡田惣左衛門 氏は地元の老舗呉服商・篠原屋から暖簾分けを受け、伊勢街道沿いに小間物と呉服太物を扱う店を構えた。
内容
開業当初は篠原屋を名乗り、のちに岡田家の姓を冠した岡田屋へ屋号を改めて、代々の当主が呉服店として家業を継いだ。人の流れが変われば店の場所も動かすという家訓「大黒柱に車をつけよ」を商いの指針とし、四日市の町人と街道を行き交う旅人を主要顧客とした。1926年には資本金25万円で株式会社岡田屋呉服店として法人化し、江戸創業から168年で家業を近代企業へ改めた。
含意
街道立地の呉服商として始まった家業は、戦後に7代目の岡田卓也 氏が総合小売へ業態を転換し、1969年に兵庫のフタギ・大阪のシロと共同で(旧)ジャスコを設立して規模を補った。旧経営陣を社長として残す連邦経営を掲げて地域スーパーを合流させ、1974年に三市場の第二部へ同時上場、1989年にグループ名称を「イオン」へ改めた。江戸期の家訓が、立地を移し続ける小売業の考え方として受け継がれた。
筆者の見解

街道の呉服商が地域連合の小売へ

この創業から見えてくるのは、街道の往来に足場を置いた一軒の呉服商が、立地への感覚を家訓として引き継いでいった経緯である。「大黒柱に車をつけよ」という教えは、人の流れが変われば店の場所も動かすという素朴な商いの知恵であり、江戸期の街道立地から戦後の駅前、さらに車社会の郊外へと、客の集まる場所を追って業態を組み替える発想につながっていったとみられる。呉服という一つの商材から出発した家業が、立地を読み替える柔らかさを早くから備えていた点は見落とせない。

もう一つ読み取れるのは、大手の全国チェーン化に対し、岡田卓也 氏が吸収合併ではなく地域家業の連合という道を選んだ判断の意味である。旧経営陣を社長として残す連邦経営は、地元の商店街や行政との折り合いをつけながら出店を進める現実的な工夫であり、地域に根ざす小売業の性格を保ったまま規模を得る方法だったと読める。江戸中期の呉服商に始まる家業が、地域を束ねる連合の小売へ姿を変えていった道筋には、立地と地域を重んじる創業以来の性格が通っていたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

伊勢街道の商業地・四日市と岡田家

四日市は伊勢神宮への参宮街道と東海道が交わる宿場町で、江戸中期には伊勢湾の廻船問屋と街道筋の旅籠が集まる商業地として栄えていた[1]。伊勢参宮の旅人と廻船の物資が絶えず往来し、店を構える者にとって地域の顧客を見込みやすい土地であった。呉服太物商は城下町や宿場町ごとに地元の客を抱える時代で、往来の多い四日市はそうした店の足場になりやすかった。人の流れの絶えない街道筋の立地が、のちの岡田屋の商いを支えていく。

江戸中期の呉服太物商は、城下町や宿場町ごとに地域の客を抱えて商う業態で、店の信用と立地が商いの要になった。四日市には老舗の呉服商・篠原屋があり、本家が別家や奉公人に屋号を分けて新たな店を持たせる暖簾分けの慣行が根づいていた。岡田惣左衛門 氏はこの篠原屋から暖簾分けを受ける立場にあり、往来の多い四日市の街道筋で独立した店を構える道が開けていた[2]。呉服太物商は、地域の顧客を見込める堅実な家業であった。

決断

1758年、篠原屋の暖簾分けで開いた呉服商

1758年(宝暦8年)、岡田惣左衛門 氏は地元の老舗・篠原屋から暖簾分けを受け、伊勢街道沿いに小間物と呉服太物を扱う店を構えた[3]。屋号は当初、暖簾分けの本家にならって篠原屋を名乗った。四日市の町人と、伊勢参宮のために街道を行き交う旅人が主要な客であり、店は往来の多い街道立地に支えられて商いを続けた。呉服太物と小間物という日用に近い品を扱うことで、地域に根ざした顧客を積み重ねていった。

店はのちに岡田家の姓を冠して岡田屋へ屋号を改め、代々の当主が四日市の呉服店として家業を継いだ。岡田家には人の流れが変われば店の場所も動かすという商いの指針が代々受け継がれ、7代目にあたる岡田卓也 氏は後年これを家訓「大黒柱に車をつけよ」(私の履歴書 岡田卓也 2004)と紹介している[4]。街道立地から始まった家業には、客の流れに合わせて店の場所を動かすという発想が早くから根づいていた。この教えが、のちの業態転換や出店の判断を貫く指針となっていく。

岡田屋呉服店の家業と1926年の法人化

明治期に入っても岡田屋は四日市の呉服店として営業を続け、江戸期以来の呉服太物・小間物の商いを本業とした[5]。近代化のなかで綿織物や既製の衣料が広がっても、岡田屋は地域の顧客を相手にする地場の呉服店という立場を保った。代々の当主は暖簾を守りながら、四日市とその周辺の商圏に商いの根を張っていった。商いの相手は、街道を行き交う旅人から四日市に定住する地元客へと、時代とともに移っていった。

1926年(大正15年)9月、岡田屋は資本金25万円で株式会社岡田屋呉服店として法人化し、江戸創業から168年を経て家業を近代企業の形へ改めた[6]。個人の暖簾で営んできた呉服店が、株式会社の法人格を得て資本と経営の仕組みを整えた段階であった。ただし規模は数十名の地場呉服店にとどまり、扱う品も呉服太物が中心で、江戸期以来の家業の性格を色濃く残していた。株式会社化は、のちの業態転換や合併に備える組織の土台になった。

結果

7代目岡田卓也 氏と総合小売への転換

戦後の岡田屋を継いだのは、6代目岡田惣一郎 氏の三男として1925年に四日市で生まれた岡田卓也 氏であった。本来は長兄の岡田卓二 氏が家業を継ぐ立場にあったが、太平洋戦争で南方に出征して戦死し、家業を支える役回りが末弟の卓也 氏に回った。早稲田大学商学部を卒業した岡田卓也 氏は、1958年に7代目の当主として岡田屋呉服店の経営を継いだ[7]。長兄の戦死という事情により、江戸期以来の呉服商の家業は末弟の岡田卓也 氏へと受け継がれた。

継承した岡田卓也 氏は、米国型のセルフサービス方式が広がる小売業の変化を見て、呉服店からの業態転換を進めた。1959年11月、商号を株式会社岡田屋へ改めて呉服店の看板を外し、同月に四日市店が百貨店法の適用を受けて食品や衣料を扱う総合小売としての営業を始めた[8]。江戸期から201年続いた呉服商の家業が、戦後型の総合小売へ看板を掛け替えた転換であった。家訓が説く立地への感覚が、駅前や郊外へと移る客の流れをとらえる業態選びに生きていた。

(旧)ジャスコ設立と連邦経営

1960年代後半、ダイエーや西友が全国チェーン化を加速するなか、三重の岡田屋、兵庫姫路のフタギ、大阪のシロといった地場の小売は、大手の仕入規模に単独で対抗する手立てを欠いていた。1969年2月、3社は共同出資で仕入会社「(旧)ジャスコ株式会社」を設立し、共同仕入による合理化と本部機能の共有をはかった[9]。ダイエーの中内功 氏は「グループ化といって売上を積み上げる方式では意味がない。吸収合併でないと実効はない」(日経ビジネス 1969/11)と緩やかな連合方式を批判した[10]が、岡田卓也 氏はあえて共同仕入の連合から始めた。

1970年3月、岡田屋を含む4社の合併でジャスコ株式会社が発足し、本店を大阪市へ移して資本金は6億8,844万円となった[11]。岡田卓也 氏は合併後も地域企業の旧経営陣を社長として残す方針をとり、「小売業は地域産業ですので、組織と業態を考え合わせて、地域主体の連邦制という考えをとった」(日経ビジネス 1979/04/23)と後年その理由を語っている[12]。この連邦経営を掲げて地域スーパーを合流させ、1974年に東京・大阪・名古屋の三証券取引所市場第二部へ同時上場し、1989年にはグループ名称を「イオン」へ改めた[13]

出典・参考
  • 有価証券報告書(沿革)
  • 私の履歴書 岡田卓也(日本経済新聞社, 2004)
  • 日経ビジネス 1969/11
  • 日経ビジネス 1979/04/23

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