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  "title": "北海道炭礦汽船の歴史概略",
  "sections": [
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      "start_year": 1889,
      "end_year": 1913,
      "main_title": "官営幌内炭鉱の払下げから三井傘下へ、そして鉄道を失った会社へ",
      "subsections": [
        {
          "title": "石炭と鉄道を一体で持って発足した北海道開拓の請負人",
          "text": "1889年11月18日、堀基氏が資本金650万円で北海道炭礦鉄道を創立した。元手は、政府から払下げを受けた幌内炭山と、小樽と幌内を結ぶ付属の運炭鉄道である。創立時の常議員には徳川義礼氏・渋沢栄一氏・高島嘉右衛門氏らが名を連ね、皇室も宮内省内蔵頭名義で1万株を出資して筆頭株主となった。同年12月から営業を開始し、翌1890年4月に空知、6月に夕張の二炭山を開発した。両炭山に接続して積出港の室蘭に至る線路を新設し、北海道中央幹線を完成させている。石炭資源の開発と道内交通路の整備を、一つの会社が同時に担った。会社は自らの使命を「北海道開拓の一翼をになうこと」と規定しており、この自己規定は民間企業の事業目的というより、国策の代行者としての宣言に近い。官営事業の払下げを受けて発足したという出自が、そのまま会社の性格になった。\n\n石炭と鉄道を一体で持つ構造が、この会社の広がり方を決めた。石炭の供給によって道内の諸産業を興し、市場は上海や香港まで届いた。それだけにとどまらず、コークスの製造、山林の造植、電灯電力の供給、さらに製鉄製鋼へと事業を伸ばしている。掘る、運ぶ、燃やす、加工するという連なりのすべてに手を出した会社だった。その結果を同社自身は、北海道を「未開の農業立地より、鉱工業立地へと一大転換せしめた」と総括している。手を広げすぎたという評価も成り立つが、開拓を請け負う以上は産業の側もつくらねばならないという理屈がここにはある。多角化は、後年の経営難のなかで思いついた延命策ではなく、創業期から会社に組み込まれていた。",
          "references": [
            {
              "title": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、東洋経済新報社、1955年）「北海道炭礦汽船」の項",
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            {
              "title": "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥の形成」「電力－基幹産業へ歩む」「製糖－新渡戸局長と台湾糖」「水産－沿岸から沖合へ」",
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            {
              "title": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年／日本経済新聞1960年6月連載）",
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            {
              "title": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏［北炭社長］」",
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          "factBasis": [
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              {
                "fact": "1889年11月18日に堀基が資本金650万円で北海道炭礦鉄道を創立し、同年12月から営業を開始した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712/1/440",
                "genbun": "1889年11月18日、堀基氏が資本金650万円で北海道炭礦鉄道を創立した。"
              },
              {
                "fact": "元手は政府から払下げを受けた幌内炭山と付属の運炭鉄道だった",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712/1/440",
                "genbun": "元手は、政府から払下げを受けた幌内炭山と、小樽と幌内を結ぶ付属の運炭鉄道である。"
              },
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                "fact": "1890年4月に空知、同年6月に夕張の二炭山を開発し、室蘭港に至る線路を新設して北海道中央幹線を完成させた",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712/1/440",
                "genbun": "同年12月から営業を開始し、翌1890年4月に空知、6月に夕張の二炭山を開発した。"
              },
              {
                "fact": "明治22年11月の創立時に堀基が社長、園田実徳が理事に就き、常議員として徳川義礼・渋沢栄一・高島嘉右衛門・田中平八・吉川泰二郎・北村英一郎が、検査役に金井信之が就任した",
                "source": "北海道炭礦汽船株式会社七十年史（1958年）第五部 資料 歴代役員表",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2487258",
                "genbun": "創立時の常議員には徳川義礼氏・渋沢栄一氏・高島嘉右衛門氏らが名を連ね、皇室も宮内省内蔵頭名義で1万株を出資して筆頭株主となった。"
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              {
                "fact": "会社は自らの使命を「北海道開拓の一翼をになうこと」と規定していた",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712/1/440",
                "genbun": "会社は自らの使命を「北海道開拓の一翼をになうこと」と規定しており、この自己規定は民間企業の事業目的というより、国策の代行者としての宣言に近い。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "石炭供給により道内諸産業の興隆を促し、上海・香港など海外にまで市場を開拓した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712/1/440",
                "genbun": "石炭の供給によって道内の諸産業を興し、市場は上海や香港まで届いた。"
              },
              {
                "fact": "コークス製造・山林造植・電灯電力供給・製鉄製鋼へ進出し、北海道を農業立地から鉱工業立地へ転換させたと自ら記している",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712/1/440",
                "genbun": "その結果を同社自身は、北海道を「未開の農業立地より、鉱工業立地へと一大転換せしめた」と総括している。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "1899年、三井銀行の株式買占めによる経営権の移動",
          "text": "発足から10年で、会社の持ち主が変わった。1899年、三井銀行が北海道炭礦鉄道の株式を大量に買い入れ、経営権を手中におさめている。三井にとってこの買収は単独の案件ではなかった。三井は三池に加えて1892年に山野を買収しており、幌内の掌握によって銀行・物産・鉱山の三位一体が完成したと産業史は記す。田川の買収は、その翌年の1900年にあたる。北海道開拓を掲げて出発した会社は、10年で財閥の資源部門という位置を与えられた。以後の北炭は、資本の論理と国策の論理という二つの筋書きを同時に背負う。三井が人事と資本を握り、国が石炭政策で事業の枠を決める関係は、1995年の破綻まで続いた。\n\nこの資本関係は、40年後に一人の人物を北炭へ送り込む経路になる。1940年2月、三井合名の島田勝之助氏が磯村豊太郎氏の死去を受けて北炭会長に迎えられ、その秘書だった萩原吉太郎氏が随行して移籍した。萩原氏は三井合名を2月15日に去っている。本社勤めを捨てる決断について、本人は「まるで都落ちのような気がしてさびしかった」と書き残した。移籍後の1年をあえて仕事をせずに過ごし、本社にも現業所にも顔を出して人に覚えられることに費やしたという。北炭を17年にわたって率い、最後に社運を賭ける経営者は、自らの志望ではなく三井の人事の都合でこの会社に来た。",
          "references": [
            {
              "title": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、東洋経済新報社、1955年）「北海道炭礦汽船」の項",
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            {
              "title": "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥の形成」「電力－基幹産業へ歩む」「製糖－新渡戸局長と台湾糖」「水産－沿岸から沖合へ」",
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              {
                "fact": "1899年に三井銀行が北海道炭礦鉄道の株式を大量に買い入れ、経営権を手中におさめた",
                "source": "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥の形成」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095821",
                "genbun": "1899年、三井銀行が北海道炭礦鉄道の株式を大量に買い入れ、経営権を手中におさめている。"
              },
              {
                "fact": "三井は同年に幌内炭鉱を株の買い占めで事実上支配し、銀行・物産・鉱山の三位一体を完成させた",
                "source": "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）",
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                "genbun": "三井は三池に加えて1892年に山野を買収しており、幌内の掌握によって銀行・物産・鉱山の三位一体が完成したと産業史は記す。田川の買収は、その翌年の1900年にあたる。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1940年2月、磯村豊太郎の死去を受けて島田勝之助が北炭会長に迎えられ、萩原吉太郎が随行して2月15日に三井合名を去った",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "1940年2月、三井合名の島田勝之助氏が磯村豊太郎氏の死去を受けて北炭会長に迎えられ、その秘書だった萩原吉太郎氏が随行して移籍した。"
              },
              {
                "fact": "萩原吉太郎は北炭移籍当初の心境を「まるで都落ちのような気がしてさびしかった」と書いている",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "本社勤めを捨てる決断について、本人は「まるで都落ちのような気がしてさびしかった」と書き残した。"
              },
              {
                "fact": "萩原吉太郎は移籍後の1年間をあえて遊んで過ごし、ヤマにも足を運んで社内に自分を知ってもらうことに充てた",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "移籍後の1年をあえて仕事をせずに過ごし、本社にも現業所にも顔を出して人に覚えられることに費やしたという。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "鉄道国有化と、社名に「汽船」が加わった転身",
          "text": "1906年10月、鉄道国有法により社有鉄道が国に買い上げられた。創業の二本柱の一方を失った会社は、社名を北海道炭礦汽船と改め、主力を炭砿経営と回漕業に集中させている。買収された路線は、現在のJR函館本線などの一部にあたる。手放したのは単なる資産ではなく、自社の石炭を自社の線路で港まで運ぶという創業以来の仕組みそのものだった。代わりに拡張したのが海運で、太平洋戦争の直前には所有船舶が21隻・8万5千トンに達している。社名の「汽船」は、鉄道を失った代償として選び直した事業を指す。国策によって生まれた会社が、国策によって事業の形を変えられた最初の例になった。\n\n鉄道の売却代金は、石炭と鉄鋼を結ぶ事業に投じられた。1907年11月、北炭は室蘭に日本製鋼所を設立している。自社の粘結炭を原料炭として使う垂直統合の構想だったが、この試みは成功しなかった。1909年には噴火湾一帯の砂鉄を原料とする製銑事業を輪西で計画したものの、わずか2か月で中止し、1913年から鉄鉱石に原料を切り替えて再出発している。同じ1913年、北炭は三井の団琢磨氏を会長に迎えた。鉄鋼進出のつまずきが、三井による経営関与をさらに深める結果を招いている。もっとも、日本製鋼所も輪西製鉄所も会社としては生き残り、前者は現在も存続し、後者は富士製鉄輪西へと引き継がれた。ただし北炭自身は代償を払っている。鉄道の売却剰余金を株主への分配に回して資本の蓄積を怠り、残りを不慣れな製鉄・製鋼へ固定した結果、1910年上期には70万円の欠損を出して創業以来の連続配当が途切れた。",
          "references": [
            {
              "title": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、東洋経済新報社、1955年）「北海道炭礦汽船」の項",
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                "fact": "1906年10月に社有鉄道が国有に帰し、社名を北海道炭砿汽船と改称して炭砿経営と回漕業に主力を集中した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
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              },
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                "fact": "買収された鉄道は現在のJR函館本線の一部にあたる",
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                "genbun": "買収された路線は、現在のJR函館本線などの一部にあたる。"
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              {
                "fact": "所有船舶は逐次増加し太平洋戦争直前に21隻8万5千トンに達した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
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                "genbun": "代わりに拡張したのが海運で、太平洋戦争の直前には所有船舶が21隻・8万5千トンに達している。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "鉄道部門を国に買い上げられた資金で明治40年（1907年）に日本製鋼所を設立し、石炭＝鉄鋼の関連をつけようとしたが失敗、大正2年（1913年）に三井の団琢磨を会長に迎えた",
                "source": "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「電力－基幹産業へ歩む」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095821",
                "genbun": "1907年11月、北炭は室蘭に日本製鋼所を設立している。"
              },
              {
                "fact": "明治42年（1909年）に北炭が噴火湾一帯の砂鉄を原料とする製銑事業を輪西で計画したが2か月で中止し、大正2年から鉄鉱石に原料を切り替えて再出発した",
                "source": "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「製糖－新渡戸局長と台湾糖」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095821",
                "genbun": "1909年には噴火湾一帯の砂鉄を原料とする製銑事業を輪西で計画したものの、わずか2か月で中止し、1913年から鉄鉱石に原料を切り替えて再出発している。"
              },
              {
                "fact": "鉄道国有で生じた売却剰余金を株主に分配して資本の蓄積を怠り、鉄道業に代わる製鉄・製鋼へ多額の資金を固定した結果、明治43年（1910年）上期に70万円の欠損を生じ、創業以来連続していた配当が途切れて無配に転落した",
                "source": "北海道炭礦汽船株式会社七十年史（1958年）第三部第一編第二章 経理",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2487258",
                "genbun": "鉄道の売却剰余金を株主への分配に回して資本の蓄積を怠り、残りを不慣れな製鉄・製鋼へ固定した結果、1910年上期には70万円の欠損を出して創業以来の連続配当が途切れた。"
              },
              {
                "fact": "輪西製鉄所は富士製鉄輪西に発展した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712/1/440",
                "genbun": "もっとも、日本製鋼所も輪西製鉄所も会社としては生き残り、前者は現在も存続し、後者は富士製鉄輪西へと引き継がれた。"
              },
              {
                "fact": "新日本製鉄の室蘭製鉄所も日本製鋼所も、元をたどれば北炭の子会社から出発したと野々村郁雄は述べている",
                "source": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏［北炭社長］」",
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                "genbun": "1907年11月、北炭は室蘭に日本製鋼所を設立している。"
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    {
      "start_year": 1914,
      "end_year": 1954,
      "main_title": "北海道に会社を撒いた多角化、汽船部門の消滅、そして戦後の労使",
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        {
          "title": "北海道に会社を撒く、という事業のかたち",
          "text": "戦前の北炭は、石炭を掘るだけの会社ではなかった。同社が設立した会社を並べると、日本製鋼所（1907年11月）、夕張鉄道（1924年1月）、輪西製鉄所（1931年9月）、室蘭電灯（1933年1月）、夕張製作所（1938年1月）、天塩鉄道（1939年5月）が並ぶ。鉄鋼、鉄道、電力、機械という顔ぶれで、北海道の重工業と社会基盤の骨格の相当部分が、この一社から分岐している。輪西製鉄所は富士製鉄輪西へ、室蘭電灯は北海道電力へと引き継がれた。昭和戦前期の三井合名の系統図では、北炭は王子製紙・鐘紡と並ぶ傍系企業として記載されている。財閥の一部でありながら、自らも小さな財閥のように会社を産む立場にあった。\n\nその多角化が、1943年12月に一つ削られる。海務院の勧めにより、北炭は所有船舶21隻8万5千トンの全部を三井船舶に現物出資した。以後の同社は「石炭の採掘並びに販売に専念して今日に至つている」と自ら記している。鉄道は1906年に、船は1943年に手放し、残ったのは石炭という一本の柱だけになった。しかもその柱は健全ではない。戦時中の大増産は国家的要請によるもので、無理な採掘の結果として坑内は荒廃を招いた。終戦時の北炭は、事業の幅を戦争のあいだに二度削られ、唯一残った事業も傷んだ状態で戦後を迎えている。戦後の北炭は、石炭一本の会社として再出発する。",
          "references": [
            {
              "title": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、東洋経済新報社、1955年）「北海道炭礦汽船」の項",
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            {
              "title": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年／日本経済新聞1960年6月連載）",
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            {
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            {
              "title": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「石炭－増産から合理化へ」",
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              {
                "fact": "北炭が設立した会社に日本製鋼所（明治40年11月）、夕張鉄道（大正13年1月）、輪西製鉄所（昭和6年9月）、室蘭電灯（昭和8年1月）、夕張製作所（昭和13年1月）、天塩鉄道（昭和14年5月）がある",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
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                "genbun": "同社が設立した会社を並べると、日本製鋼所（1907年11月）、夕張鉄道（1924年1月）、輪西製鉄所（1931年9月）、室蘭電灯（1933年1月）、夕張製作所（1938年1月）、天塩鉄道（1939年5月）が並ぶ。"
              },
              {
                "fact": "輪西製鉄所は富士製鉄輪西に発展し、室蘭電灯は北海道電力に吸収された",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
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                "genbun": "輪西製鉄所は富士製鉄輪西へ、室蘭電灯は北海道電力へと引き継がれた。"
              },
              {
                "fact": "昭和戦前期の三井合名の傍系に王子製紙・北海道炭礦汽船・鐘紡が並ぶ",
                "source": "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）",
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                "genbun": "昭和戦前期の三井合名の系統図では、北炭は王子製紙・鐘紡と並ぶ傍系企業として記載されている。"
              }
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            [
              {
                "fact": "昭和18年12月、海務院の勧めにより全船舶を三井船舶に現物出資し、以後は石炭の採掘並びに販売に専念した",
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              {
                "fact": "戦時中の国家的要請に基づく大増産のため坑内は荒廃を招いた",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
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                "genbun": "戦時中の大増産は国家的要請によるもので、無理な採掘の結果として坑内は荒廃を招いた。"
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        },
        {
          "title": "五月争議と、「人事権よりも人道が優先する」という一言",
          "text": "終戦直後、人事部長だった萩原吉太郎氏は2割の人員整理を計画した。外地からの引揚者が不況のさなかに帰国して路頭に迷うことを避けるため、国内にいる者を先に整理しておくという判断による。実施は1割7分から8分にとどまり、辞めた者の多くはそれぞれ新しい職を得たと本人は書いている。同時に萩原氏は「これからの企業は正常な労組をつくらなければならない」と考え、人事部長みずから組合の結成を説いた。人事の責任者が組合づくりを勧めれば、御用組合をつくる腹づもりだと疑われる。実際にそう誤解され、萩原氏はあわてたと記している。\n\n1946年春、北炭は世間の注目を集めた大争議に直面する。組合の要求は20数項目に及び、幌内では所長を排除して生産管理に入っていた。会社側が人事権を盾に押し返そうとする席で、萩原氏は「実は\"人事権\"なんて考えたことがない」と述べ、人道が人事権に優先すると主張して解雇の撤回に応じている。組合側は沸き、会社側は静まり返った。重役のなかには辞めさせろといきまく者も出ている。萩原氏は復職者の人選そのものを組合に一任し、今度は組合幹部が退職者に詰め寄られる立場に回ったことで、最も厄介な問題が片づいた。北炭が長く「組合に甘い」と評される労使関係は、この場面から始まっている。\n\n財閥解体は、この会社の統治にも直接届いた。1947年に重役が総退陣し、萩原氏が常務に就いている。三井の持株はすべて持株会社整理委員会に押さえられていたため株主総会が開けず、GHQの許可が下りたのは総会開始の1時間前だった。許可が遅れた一因は、萩原氏の常務就任を阻もうとする匿名の投書にあったという。就任からわずか2か月後、萩原氏は追放令違反の容疑で4日間の取り調べを受ける。追放中の島田氏に自動車と月5万円の家賃を提供した件について、隠さずに三井銀行の小切手と会社の帳簿を示して事情を説明し、無罪放免となった。財閥解体の実務は、こうした個別の折衝の積み重ねとして進んだ。",
          "references": [
            {
              "title": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、東洋経済新報社、1955年）「北海道炭礦汽船」の項",
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              },
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                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
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          ]
        },
        {
          "title": "傾斜生産の優良鉱から、輸入炭と重油の圧迫へ",
          "text": "戦後復興期の石炭は、国家の最優先資源だった。傾斜生産方式のもとで資材と復金融資が炭鉱に集中的に投じられ、当時の優良・モデル炭鉱として北炭の清水沢が名を連ねている。萩原氏はこの新鉱の開発に強い期待を寄せ、原料炭の確保は北炭のためだけでなく国家の将来に必要だと説いて日本興業銀行にかけあった。ところが留守中の重役会が投資を取りやめると決め、さらに社内から日本開発銀行に「あんな男にまかせておけば、きっと北炭をつぶしてしまう」という中傷が持ち込まれて、1年近く融資の道が閉ざされている。清水沢炭砿と平和第二炭砿が完工して営業出炭を始めたのは1954年8月だった。\n\n好況は長く続かなかった。石炭界は1951年から52年の好況を境に、輸入炭と重油の圧迫、デフレ政策の浸透によって需要が細り、貯炭は累増して炭価は低落した。北炭は人員と設備の配置転換、高能率炭砿への生産集約、坑内外施設の合理化で応じ、1952年9月には鉱員4,004名と社員547名、あわせて4,551名を解雇した。萩原氏にとって、終戦直後・レッドパージに次ぐ3度目の首切りだった。1955年時点の同社は資本金10億円、夕張・平和・幌内・空知の4鉱業所が9炭砿を統轄し、平均7,000カロリーを超える「わが国随一の高品位炭」を掲げていた。主力の夕張炭砿は発熱量8,000カロリーの粘結炭を日産4,100トン産出し、すべての切羽でカッペ採炭を実施する機械化の先端にあった。",
          "references": [
            {
              "title": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、東洋経済新報社、1955年）「北海道炭礦汽船」の項",
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              "title": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年／日本経済新聞1960年6月連載）",
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                "fact": "傾斜生産による資材投入と復金融資により、明治・佐賀・北炭・清水沢などが当時の優良・モデル炭鉱として姿を現した",
                "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）",
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                "genbun": "傾斜生産方式のもとで資材と復金融資が炭鉱に集中的に投じられ、当時の優良・モデル炭鉱として北炭の清水沢が名を連ねている。"
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              {
                "fact": "清水沢の新鉱開発をめぐり留守中の重役会が取りやめを決め、社内から開銀へ中傷が持ち込まれて1年近く融資がつかなかった",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "ところが留守中の重役会が投資を取りやめると決め、さらに社内から日本開発銀行に「あんな男にまかせておけば、きっと北炭をつぶしてしまう」という中傷が持ち込まれて、1年近く融資の道が閉ざされている。"
              },
              {
                "fact": "清水沢炭砿と平和第二炭砿は昭和29年7月に全工事を完了し、8月から営業出炭を開始した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712/1/440",
                "genbun": "清水沢炭砿と平和第二炭砿が完工して営業出炭を始めたのは1954年8月だった。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "石炭界は昭和26、27年の好況を境に輸入炭・重油の圧迫とデフレ政策の影響で需要が低調となり、貯炭が累増し炭価が低落した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712/1/440",
                "genbun": "石炭界は1951年から52年の好況を境に、輸入炭と重油の圧迫、デフレ政策の浸透によって需要が細り、貯炭は累増して炭価は低落した。"
              },
              {
                "fact": "1952年8月24日の企業合理化実施要綱にもとづき、9月19日に鉱員4,004名、24日に社員547名（課長代理以上51名・係長以下496名）の希望退職募集を打ち切った。萩原吉太郎は終戦直後・レッドパージに次ぐ3度目の整理と回想している",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "北炭は人員と設備の配置転換、高能率炭砿への生産集約、坑内外施設の合理化で応じ、1952年9月には鉱員4,004名と社員547名、あわせて4,551名を解雇した。"
              },
              {
                "fact": "主力の夕張炭砿は発熱量8,000カロリーの粘結炭を日産4,100トン産出し、すべての切羽でカッペ採炭を実施していた",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712/1/440",
                "genbun": "主力の夕張炭砿は発熱量8,000カロリーの粘結炭を日産4,100トン産出し、すべての切羽でカッペ採炭を実施する機械化の先端にあった。"
              }
            ]
          ]
        }
      ]
    },
    {
      "start_year": 1955,
      "end_year": 1969,
      "main_title": "燃料革命を1955年に予言した経営者と、脱石炭という課題",
      "subsections": [
        {
          "title": "就任早々に「石炭は斜陽産業になる」と言った社長",
          "text": "1955年7月8日、島田勝之助氏の健康悪化を受けて萩原吉太郎氏が社長に就任した。就任時の石炭界は上向きだったが、萩原氏は逆に警戒している。「世界のエネルギー情勢から遠からず石炭は斜陽産業になる。どんどん重油に食われていくだろう。これはもう単なる景気の問題ではなくて、燃料革命だ」。この認識を1955年の就任時に持っていたと、本人が1960年の連載で回想している。以後40年の判断は、この前提のうえで評価される。北炭の失敗は、斜陽化を知らなかったことによるものではない。知ったうえで打った手が、結果として当たらなかった。\n\n危機の認識に対して、萩原氏はまず時間を買った。向こう10年間の安定販売を確保するため、東京瓦斯と富士製鉄をはじめとする需要家と長期契約を結んでいる。当時の業界はこれを「しろうとは困ったものだ。これから上がろうというときに、みずから炭価を押えるようなことをするなんて、まるで気違いざただ」と酷評した。値上がり益を放棄して数量の確実性を取る契約は、市況が上がると信じる者にとっては愚策に見える。だが斜陽産業の側にいると認めるなら、順序は逆になる。契約先はその後10社を超え、萩原氏自身が「北炭の大きな強味」と評価するに至った。この営業方針の転換に伴い、営業担当の常務と営業部長は勇退している。",
          "references": [
            {
              "title": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年／日本経済新聞1960年6月連載）",
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            {
              "title": "日経ビジネス 1981年4月20日号「北炭化成工業 石炭技術を緑化に生かして急成長」",
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            {
              "title": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏［北炭社長］」",
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            {
              "title": "日経ビジネス 1975年7月21日号「北海道炭礦汽船。新鉱で\"私企業\"に返り咲けるか」",
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            {
              "title": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「運輸－大量輸送時代の到来」",
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          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "昭和30年7月8日に萩原吉太郎が社長に就任した",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "1955年7月8日、島田勝之助氏の健康悪化を受けて萩原吉太郎氏が社長に就任した。"
              },
              {
                "fact": "萩原吉太郎は社長就任早々に「燃料革命」を予言し、石炭が斜陽産業になると述べた",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "「世界のエネルギー情勢から遠からず石炭は斜陽産業になる。どんどん重油に食われていくだろう。これはもう単なる景気の問題ではなくて、燃料革命だ」。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "向こう10年間の安定販売を確保するため東京瓦斯・富士製鉄と長期契約を結び、のちに10社を超えた",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "向こう10年間の安定販売を確保するため、東京瓦斯と富士製鉄をはじめとする需要家と長期契約を結んでいる。"
              },
              {
                "fact": "業界は「しろうとは困ったものだ。これから上がろうというときに、みずから炭価を押えるようなことをするなんて、まるで気違いざただ」と批判した",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "当時の業界はこれを「しろうとは困ったものだ。これから上がろうというときに、みずから炭価を押えるようなことをするなんて、まるで気違いざただ」と酷評した。"
              },
              {
                "fact": "新しい営業方針を推進するため営業畑担当の福谷常務と讃岐営業部長が勇退した",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "この営業方針の転換に伴い、営業担当の常務と営業部長は勇退している。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "石炭化学という答えと、緑化事業に残ったその帰結",
          "text": "10年の猶予のあいだに何をするか。萩原氏の答えは石炭化学だった。石炭を燃料としてではなく化学原料として使う道を開くという構想である。医師の武見太郎氏に相談を持ちかけ、亀山直人氏を訪ねている。亀山氏は「石炭から直接化学原料をつくろうという行き方は現在の日本学界の力をもってしては困難だ。現に世界のどこでもやっていないじゃないか」と一度は断った。萩原氏は「もし事業化に失敗しても、少なくとも学問の進歩に役立ち、おのれを知るに役立つ」と食い下がり、1年の検討を経て可能性ありとの結論を得ている。1956年10月、東大・北大・工業技術院の権威を集めた委員会を母体に、科学研究所の一棟を借りて石炭化学研究室が発足した。亀山氏が初代所長に就き、同時に埼玉県戸田町へ約1万坪を購入して自前の研究所の建設が始まっている。\n\n1958年3月、研究は新築の戸田町の研究所へ移った。荒川のほとりに数億円を投じたこの研究所は所員250人を擁し、石炭の水添分解と酸化、膨潤炭を主要テーマに掲げている。しかし当時は油と石炭の価格差が開く一方の時代で、事業化には届かなかった。1965年、北炭は研究所を廃止し、腐植酸アンモニア肥料「フミゾール」と脱臭剤「エスタン」の2商品を持たせて北炭化成工業として分離独立させている。緑化工事への入口は分社前にあった。まだ北炭の研究所だった1963年に三井不動産から飛砂対策の相談を受けたことがきっかけで、分社後の北炭化成工業は1980年度に緑化5億5,000万円・肥料4億5,100万円・公害防止装置6億円・薬剤5億300万円の4本柱を持つ総合緑化企業に育った。脱石炭という課題への答えは、本体ではなく分家に残った。北炭が本体で試みた脱石炭のうち、事業として続いたのはこれだけである。",
          "references": [
            {
              "title": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年／日本経済新聞1960年6月連載）",
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            {
              "title": "日経ビジネス 1981年4月20日号「北炭化成工業 石炭技術を緑化に生かして急成長」",
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            {
              "title": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏［北炭社長］」",
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              {
                "fact": "昭和31年に石炭化学研究所が生まれ、亀山直人が初代所長になった",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "1956年10月、東大・北大・工業技術院の権威を集めた委員会を母体に、科学研究所の一棟を借りて石炭化学研究室が発足した。亀山氏が初代所長に就き、同時に埼玉県戸田町へ約1万坪を購入して自前の研究所の建設が始まっている。"
              },
              {
                "fact": "初代所長の亀山直人は、昭和31年10月から科学研究所内の一棟に石炭化学研究室を設けて研究に着手し、同時に埼玉県戸田町に約1万坪を購入して化学研究所の建設を開始、昭和33年3月に新築の戸田町の研究所へ移転したと記している。私の履歴書の「三十一年」と日経ビジネスの「昭和33年」は、この二段階のそれぞれを指しており矛盾しない",
                "source": "北海道炭礦汽船株式会社七十年史（1958年）第四部 特輯 亀山直人「石炭化学について」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2487258",
                "genbun": "1956年10月、東大・北大・工業技術院の権威を集めた委員会を母体に、科学研究所の一棟を借りて石炭化学研究室が発足した。亀山氏が初代所長に就き、同時に埼玉県戸田町へ約1万坪を購入して自前の研究所の建設が始まっている。"
              },
              {
                "fact": "亀山直人は当初「石炭から直接化学原料をつくろうという行き方は現在の日本学界の力をもってしては困難だ。現に世界のどこでもやっていないじゃないか」と断った",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "亀山氏は「石炭から直接化学原料をつくろうという行き方は現在の日本学界の力をもってしては困難だ。現に世界のどこでもやっていないじゃないか」と一度は断った。"
              },
              {
                "fact": "萩原吉太郎は日本医師会会長の武見太郎に着想を打ち明けて相談した",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "医師の武見太郎氏に相談を持ちかけ、亀山直人氏を訪ねている。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "石炭化学研究所は所員250人を有し、石炭液化や酸化分解を主要テーマとした",
                "source": "日経ビジネス 1981年4月20日号「北炭化成工業 石炭技術を緑化に生かして急成長」",
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                "genbun": "1958年3月、研究は新築の戸田町の研究所へ移った。荒川のほとりに数億円を投じたこの研究所は所員250人を擁し、石炭の水添分解と酸化、膨潤炭を主要テーマに掲げている。"
              },
              {
                "fact": "昭和40年に研究所を廃止し、フミゾールとエスタンを持たせて北炭化成工業として分離独立した",
                "source": "日経ビジネス 1981年4月20日号「北炭化成工業 石炭技術を緑化に生かして急成長」",
                "url": null,
                "genbun": "1965年、北炭は研究所を廃止し、腐植酸アンモニア肥料「フミゾール」と脱臭剤「エスタン」の2商品を持たせて北炭化成工業として分離独立させている。"
              },
              {
                "fact": "1980年度の北炭化成工業の売上は緑化5億5,000万円・肥料4億5,100万円・公害防止装置6億円・薬剤5億300万円の4本柱だった",
                "source": "日経ビジネス 1981年4月20日号「北炭化成工業 石炭技術を緑化に生かして急成長」",
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                "genbun": "まだ北炭の研究所だった1963年に三井不動産から飛砂対策の相談を受けたことがきっかけで、分社後の北炭化成工業は1980年度に緑化5億5,000万円・肥料4億5,100万円・公害防止装置6億円・薬剤5億300万円の4本柱を持つ総合緑化企業に育った。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "2万4,000人という絶頂期の規模と、業界からの孤立",
          "text": "1960年ごろの北炭は、会社としての絶頂にあった。18炭鉱を持って年産約600万トンを掘り、国内出炭5,500万トンの1割以上を占めている。従業員は社員4,000人・鉱員2万人の計2万4,000人。株式や不動産の含み益は上場企業中10位以内に入る時期もあった。国内石炭生産は1961年度の5,440万トンを頂点として、以後減少に転じる。多角化も進んだ。同社は1958年の時点で札幌・摩周湖・支笏湖などでホテルを経営しており、1969年にはレジャー部門で170億円を稼いで石炭部門の約半分に達したと産業史は記す。石炭以外の柱を育てるという課題に対して、この時点の答えは相応の規模に達していた。\n\n一方で萩原氏は業界のなかで孤立を深めた。1958年12月、期末手当交渉で中央労働委員会会長の職権あっせんを受けるか否かをめぐり、日本石炭鉱業経営者協議会の社長会議は13対1で拒否に傾いた。萩原氏は単独であっせんを受けると宣言し、その場で脱会している。経協への復帰は1960年4月まで待たねばならなかった。1959年秋には西独・フランス・イギリス・アメリカを回って各国の石炭政策を調べ、帰国後ただちに運賃補助を柱とする意見書を政府に提出している。自民党幹部は賛成しながら実現に至らず、翌年に西独が同様の政策を実施した。萩原氏は「政府たのむに足らず」と書き、業界救済から自社防衛へ関心を移している。以後の萩原氏は業界全体の救済を求めることをやめ、北炭一社の資金と炭層に手を打った。",
          "references": [
            {
              "title": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年／日本経済新聞1960年6月連載）",
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              "title": "日経ビジネス 1981年4月20日号「北炭化成工業 石炭技術を緑化に生かして急成長」",
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              "title": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏［北炭社長］」",
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              "title": "日経ビジネス 1975年7月21日号「北海道炭礦汽船。新鉱で\"私企業\"に返り咲けるか」",
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                "source": "日経ビジネス 1975年7月21日号「新鉱で\"私企業\"に返り咲けるか」",
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                "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「運輸－大量輸送時代の到来」",
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                "genbun": "同社は1958年の時点で札幌・摩周湖・支笏湖などでホテルを経営しており、1969年にはレジャー部門で170億円を稼いで石炭部門の約半分に達したと産業史は記す。"
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                "fact": "昭和33年12月、職権あっせんの受諾をめぐり13対1で対立し、萩原吉太郎は単独であっせんを受けると宣言してその場で経協を脱会した。復帰は昭和35年4月",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
                "genbun": "1958年12月、期末手当交渉で中央労働委員会会長の職権あっせんを受けるか否かをめぐり、日本石炭鉱業経営者協議会の社長会議は13対1で拒否に傾いた。"
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                "fact": "欧米視察後に運賃補助を含む意見書を政府に提出したが実現せず、西独が先に運賃補助政策を実施したため「政府たのむに足らず」と痛感した",
                "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
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                "genbun": "萩原氏は「政府たのむに足らず」と書き、業界救済から自社防衛へ関心を移している。"
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      "start_year": 1969,
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      "main_title": "夕張新炭鉱への賭け、二つの災害、そして106年の終わり",
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          "title": "政策に忠実だった賭け ── 夕張新炭鉱への着手と誤算",
          "text": "1963年の第1次石炭政策は、炭鉱のスクラップ・アンド・ビルドを掲げていた。老朽鉱を潰し、高能率鉱を建てて油に対抗するという方針である。北炭はこの政策に忠実だった。1969年に夕張新炭鉱の開発構想を打ち出し、翌1970年秋に開発工事へ着手している。海抜下600メートル、地表から800メートル以上深い炭層を一気に採炭する構想は世界にも例が少なく、鉱員1人当たり月産90トンという能率は全国平均71.8トンを大きく引き離す計画だった。経済埋蔵量は8,100万トンと見積もられ、年産150万トンなら54年間掘れる計算になる。鉱員の住まいも鉄筋コンクリートの3DKに改め、住居費と光熱費を無料とした。\n\n同時代の条件に照らせば、この決断には筋が通っていた。北炭の夕張炭は流動性に優れ、鉄鋼用の原料炭として理想的な品質を持つ。堅く緻密なコークスができるため、新日本製鉄・日本鋼管・東京瓦斯が炭鉱開発の融資に応じている。学者のなかにも「これほど優良な石炭は眠らせておかないで掘るべきである」と言う者がいた。国は政策として高能率鉱の建設を求め、需要家は資金を出し、資源としての評価も高い。三つの条件が揃っていた。誤算は、このうち最も動かないと思われた品質の優位が、技術によって無効化された点にある。流動性の悪い輸入炭からでも鉄が作れるようになれば、あとは安い方が選ばれる。優位の源泉そのものが消えた。\n\n工事は最初から狂った。資材の搬入と石炭の積出しのために掘った2本の斜坑が異常湧水に見舞われ、独自の止水工法を開発して切り抜けたものの、出炭開始は当初予定より2年近く遅れている。その工法は1974年度の全国炭鉱技術会賞を受けるほどの水準にあったが、遅延の間の資材費高騰も重なり、160億円と見込んだ開発費は306億円に膨らんだ。出炭が始まる4年も前の1971年、北炭は開発費の負担によって債務超過に陥っている。1972年に萩原氏は社長を辞任するが、新鉱の生産性が上がらないと見るや会長として復帰し、70歳を超えた身で現場に立って坑夫を鼓舞したという逸話が残る。辞めた社長が会長として現場に戻るところまで、新鉱の不振は進んでいた。",
          "references": [
            {
              "title": "日経ビジネス 1975年7月21日号「北海道炭礦汽船。新鉱で\"私企業\"に返り咲けるか」（和田折郎）",
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            {
              "title": "日経ビジネス 1990年1月1日号「軌跡 下田信夫氏（北炭幌内炭鉱労働組合執行委員長）割り切れぬ閉山対策の非情さ」",
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              "title": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏［北炭社長］石炭に賭けた会社の寿命。106年の歴史に幕を引く」",
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          "text": "1975年6月末、夕張新炭鉱が営業出炭を開始した。3か月前に平和炭鉱を閉山し、閉山関係費43億3,900万円を特別損失に計上している。同期の決算は営業損失47億1,700万円、経常損失60億1,500万円、当期損失103億5,400万円で、累積赤字は344億5,700万円に達した。営業外収益70億6,300万円の大部分は国の補助金と交付金であり、元利補給金12億3,000万円・再建交付金17億4,500万円・安定補給金17億6,400万円などの合計60億5,800万円は、資本金70億2,207万円に迫る規模になる。借入金は長期538億円・短期142億円の計680億円。従業員は社員1,254人・鉱員5,257人の6,511人だった。\n\n同時代の評価は冷ややかだった。日経ビジネスは新鉱の技術水準を認めたうえで「石炭産業を私企業ベースで考えるのは無理である」と書き、「夕張新鉱の開発で北炭の経営がどうなるという段階ではもはやない」と結んでいる。会社の存立が国の補助金の設計に依存していれば、経営判断の余地はその分だけ狭まる。もっとも、北炭の側にも言い分はあった。脱石炭に必要な資金は補助金からは出ず、掘って稼ぐ以外に680億円を返す当てもない。新鉱を途中でやめる選択肢は、財務的にはすでに閉じていた。野々村郁雄氏も後年「新鉱開発を途中でやめるわけにはいかず、75年には出炭にこぎ着けました」と述べている。合理的な撤退が不可能になる地点を、会社は4年前に通り過ぎていた。\n\n1975年11月、三笠市の幌内炭鉱でガス爆発事故が発生し、24人が死亡した。坑内を水没させて鎮火させたのち、2年をかけて水を抜き坑道を復旧している。遺族への補償を含む再建費用は200億円に上った。夕張新鉱の306億円と幌内の200億円という二つの支出が同時に財務にのしかかり、1978年、北炭は夕張・真谷地・幌内の3山を分離独立させて、本体は炭鉱を一つも営業しない委託販売会社となる。個々の炭鉱に自立意識を持たせて生産性を上げる狙いもあったが、成果は出なかった。創業以来はじめて、北炭本体はヤマを持たない会社になっている。以後の本体は、子会社への債務保証を通じて損失だけを引き受ける立場に置かれた。",
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              "caption": "1974年度に国から受けた補助金・交付金は合計60億5,800万円。資本金70億2,207万円に迫る額を1年で受け取っていた\n安定補給金17億6,400万円と再建交付金17億4,500万円が二本柱で、この2つだけで資本金の半分に達する"
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              "caption": "夕張新炭鉱の開発費は当初見込み160億円に対し実績306億円。膨らんだ146億円だけで、当時の資本金70億円の2倍を超える\n幌内ガス爆発の再建費用200億円と夕張新鉱ガス突出の災害費用200億円が続き、脱石炭に回す余力が失われた"
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                "source": "日経ビジネス 1975年7月21日号「新鉱で\"私企業\"に返り咲けるか」",
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                "genbun": "元利補給金12億3,000万円・再建交付金17億4,500万円・安定補給金17億6,400万円などの合計60億5,800万円は、資本金70億2,207万円に迫る規模になる。"
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              {
                "fact": "昭和50年3月期末の借入金は長期538億円余・短期142億円余の合計680億円、従業員は社員1,254人・鉱員5,257人の合計6,511人だった",
                "source": "日経ビジネス 1975年7月21日号「新鉱で\"私企業\"に返り咲けるか」",
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                "genbun": "借入金は長期538億円・短期142億円の計680億円。従業員は社員1,254人・鉱員5,257人の6,511人だった。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "日経ビジネスは「いずれにしても、石炭産業を私企業ベースで考えるのは無理である」「夕張新鉱の開発で北炭の経営がどうなるという段階ではもはやないのである」と結論づけた",
                "source": "日経ビジネス 1975年7月21日号「新鉱で\"私企業\"に返り咲けるか」",
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                "genbun": "日経ビジネスは新鉱の技術水準を認めたうえで「石炭産業を私企業ベースで考えるのは無理である」と書き、「夕張新鉱の開発で北炭の経営がどうなるという段階ではもはやない」と結んでいる。"
              },
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                "fact": "野々村郁雄は「しかし、新鉱開発を途中でやめるわけにはいかず、75年には出炭にこぎ着けました」と述べている",
                "source": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る」",
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                "genbun": "野々村郁雄氏も後年「新鉱開発を途中でやめるわけにはいかず、75年には出炭にこぎ着けました」と述べている。"
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            [
              {
                "fact": "1975年11月に三笠市の幌内炭鉱でガス爆発事故が発生して24人が死亡し、坑内を水没させたのち2年かけて復旧、遺族補償を含む再建費用は200億円だった",
                "source": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る」",
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                "genbun": "1975年11月、三笠市の幌内炭鉱でガス爆発事故が発生し、24人が死亡した。"
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                "fact": "1978年に夕張・真谷地・幌内の3山を分離独立させ、北炭自身は炭鉱を1つも営業しない委託販売だけの会社になった",
                "source": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る」",
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                "genbun": "1978年、北炭は夕張・真谷地・幌内の3山を分離独立させて、本体は炭鉱を一つも営業しない委託販売会社となる。"
              },
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                "fact": "子会社への債務保証は1995年時点で320億円あった",
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                "genbun": "以後の本体は、子会社への債務保証を通じて損失だけを引き受ける立場に置かれた。"
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            ]
          ]
        },
        {
          "title": "93人の死者から会社更生法まで ── 106年の終わり",
          "text": "1981年、北炭夕張新炭鉱でガス突出事故が発生し、93人が死亡した。日本の炭鉱事故史上で最大規模の犠牲者を出した災害である。新鉱は生産を再開しないまま1982年に閉山し、災害費用だけで200億円を要した。306億円を投じ、11年をかけて掘り、一度も採算に乗せられなかった賭けが終わっている。野々村郁雄氏は後年、この災害が「決定的で、北炭は脱石炭に方向転換する最後の余力を失った」と総括した。分離した3山は順に消え、1987年に真谷地が、1989年9月29日には最古のヤマである幌内が閉山して1,000人を超える従業員が職を失った。1889年の創業の元手そのものだった幌内が、100年で尽きたことになる。\n\n幌内には、退職者に支払われていない未払い労務債が一時70億円まで積み上がっていた。労働組合の下田信夫氏は「三菱など他の炭鉱には見られないこの問題はいずれ自分たちにも降りかかってくる」と述べ、ヤマの存続を求めるよりも労務債の回収と退職条件を優先する方針を採っている。閉山から2か月の時点で再就職が決まったのは約110人にとどまり、そのうち地元三笠市に決まったのは30人ほどだった。ピーク時に6万人を超えた三笠市の人口は2万人を割り込んでいる。下田氏は「少なくとも『北炭』の名に誇りなんてありませんよ」と語った。\n\n1992年に社長へ就いた野々村郁雄氏は、同年10月に取締役6人によるタスクフォースを設けて会社の畳み方の検討に入り、会議は100回を超えた。引き金は最後に残った空知炭鉱で、閉山に必要な炭労ベースの退職金41億円のうち、閉山交付金で賄えない20億円の原資がグループのどこにもなかった。1995年2月3日に空知炭鉱が、2月5日に北炭本体が会社更生法の適用を申請している。株式売買のある平日を避けて日曜を選び、目立たないよう裏門から地裁に入った。1994年3月期末の累積損失850億円・債務超過780億円に子会社への債務保証320億円を加えると、実質的な債務超過は1,000億円を超える。最盛期に2万4,000人を数えた社員は、役員を含めて30人足らずになった。",
          "references": [
            {
              "title": "日経ビジネス 1975年7月21日号「北海道炭礦汽船。新鉱で\"私企業\"に返り咲けるか」（和田折郎）",
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            },
            {
              "title": "日経ビジネス 1990年1月1日号「軌跡 下田信夫氏（北炭幌内炭鉱労働組合執行委員長）割り切れぬ閉山対策の非情さ」",
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            {
              "title": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏［北炭社長］石炭に賭けた会社の寿命。106年の歴史に幕を引く」",
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            {
              "title": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
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              "caption": "1960年ごろに社員4,000人・鉱員2万人の計2万4,000人を数えた従業員は、1975年3月末に6,511人まで減った\n会社更生法申請後は役員を含めて30人足らず。35年で規模の800分の1になった"
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                "genbun": "分離した3山は順に消え、1987年に真谷地が、1989年9月29日には最古のヤマである幌内が閉山して1,000人を超える従業員が職を失った。"
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  "summary": {
    "title": "サマリー",
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    "qa": [
      {
        "q": "なぜ1889年に国策として発足した北海道炭礦鉄道は、1899年に三井の傘下へ入ったのか",
        "a": "創業の元手は、政府から払下げを受けた幌内炭山と小樽－幌内間の運炭鉄道だった。1889年11月18日に堀基氏が資本金650万円で創立した会社は、空知と夕張を開発して室蘭港まで線路を延ばし、北海道中央幹線を完成させている。掘る手段と運ぶ手段を同時に握る資産は、財閥にとって買う価値が高い。1899年、三井銀行が株式を大量に買い入れて経営権を掌握した。三井は幌内の掌握によって銀行・物産・鉱山の三位一体を完成させている。開拓の請負人を掲げた会社は、10年で財閥の資源部門になった。",
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            "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）",
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          },
          {
            "fact": "1899年に三井銀行が北海道炭礦鉄道の株式を大量に買い入れ、同社の経営権を手中におさめた",
            "source": "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥の形成」",
            "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095821",
            "genbun": "1899年、三井銀行が株式を大量に買い入れて経営権を掌握した。"
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          {
            "fact": "三井は1899年に幌内炭鉱を株の買い占めで事実上支配し、銀行・物産・鉱山の三位一体を完成させた",
            "source": "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）",
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            "genbun": "三井は幌内の掌握によって銀行・物産・鉱山の三位一体を完成させている。"
          }
        ]
      },
      {
        "q": "なぜ1955年に石炭の斜陽化を予言していた北炭が、1970年に国内炭へ306億円を投じたのか",
        "a": "萩原吉太郎氏は1955年7月の社長就任直後に「世界のエネルギー情勢から遠からず石炭は斜陽産業になる」と述べ、燃料革命だと診断していた。東京瓦斯・富士製鉄と10年の長期契約を結んで数量を確保し、1956年に石炭化学研究所を設けたが、事業化に届かず1965年に廃止された。買った10年で答えが出ないまま、手元には評価の高い夕張炭だけが残る。そこへ国が第1次石炭政策でスクラップ・アンド・ビルドを求め、新日本製鉄・日本鋼管・東京瓦斯が開発資金を融資した。斜陽化を知らなかったのではなく、知ったうえで本業に賭けた。",
        "factBasis": [
          {
            "fact": "萩原吉太郎は1955年の社長就任直後に「燃料革命」を予言し、石炭が斜陽産業になると述べた",
            "source": "私の履歴書 経済人5「萩原吉太郎」（日本経済新聞社、1980年／日本経済新聞1960年6月連載）",
            "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938572",
            "genbun": "萩原吉太郎氏は1955年7月の社長就任直後に「世界のエネルギー情勢から遠からず石炭は斜陽産業になる」と述べ、燃料革命だと診断していた。"
          },
          {
            "fact": "石炭化学研究所は所員250人を有したが油炭格差が開く時代で事業化に至らず、昭和40年に廃止して北炭化成工業として分離独立した",
            "source": "日経ビジネス 1981年4月20日号「北炭化成工業 石炭技術を緑化に生かして急成長」",
            "url": null,
            "genbun": "東京瓦斯・富士製鉄と10年の長期契約を結んで数量を確保し、1956年に石炭化学研究所を設けたが、事業化に届かず1965年に廃止された。"
          },
          {
            "fact": "1963年の第1次石炭政策はスクラップ・アンド・ビルドを掲げ、夕張炭は鉄鋼用原料炭として理想的な品質だったため新日本製鉄・NKK・東京瓦斯が炭鉱開発の融資をした",
            "source": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏［北炭社長］」",
            "url": null,
            "genbun": "そこへ国が第1次石炭政策でスクラップ・アンド・ビルドを求め、新日本製鉄・日本鋼管・東京瓦斯が開発資金を融資した。"
          }
        ]
      },
      {
        "q": "1995年に106年の会社を終わらせた原因は、国の石炭政策か、それとも経営の判断か",
        "a": "最後の社長である野々村郁雄氏は、経営の側に責任を置いた。三菱マテリアル・三井鉱山・住友石炭鉱業などを挙げ、「要するに脱石炭を早くからどう進めたか、なのです。国がどうのこうの、というのじゃない」と結んでいる。実際の経過も一つの原因には収まらない。夕張新炭鉱の開発費306億円、1975年の幌内ガス爆発の再建費用200億円、1981年の夕張ガス突出の災害費用200億円が重なり、1971年に落ちた債務超過から抜け出せなかった。1995年2月5日、創立106年目に会社更生法を申請している。",
        "factBasis": [
          {
            "fact": "野々村郁雄は三菱マテリアル・三井鉱山・住友石炭鉱業・宇部興産・日鉄鉱業・常磐興産を挙げて産業構造の転換に直面したのは北炭だけではないとし、「要するに脱石炭を早くからどう進めたか、なのです。国がどうのこうの、というのじゃない」と述べた",
            "source": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏［北炭社長］」",
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            "genbun": "三菱マテリアル・三井鉱山・住友石炭鉱業などを挙げ、「要するに脱石炭を早くからどう進めたか、なのです。国がどうのこうの、というのじゃない」と結んでいる。"
          },
          {
            "fact": "夕張新鉱の開発費は306億円、1975年11月の幌内ガス爆発の再建費用は200億円、1981年の夕張ガス突出の災害費用は200億円で、1971年に債務超過へ転落した",
            "source": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏［北炭社長］」",
            "url": null,
            "genbun": "夕張新炭鉱の開発費306億円、1975年の幌内ガス爆発の再建費用200億円、1981年の夕張ガス突出の災害費用200億円が重なり、1971年に落ちた債務超過から抜け出せなかった。"
          },
          {
            "fact": "創立106年目の1995年2月5日に会社更生法を東京地裁に申請した。1994年3月期末の実質的な債務超過額は1,000億円を超えていた",
            "source": "日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏［北炭社長］」",
            "url": null,
            "genbun": "1995年2月5日、創立106年目に会社更生法を申請している。"
          }
        ]
      }
    ]
  }
}
