第1章 年〜年

明治鉱業:筑豊の炭坑業創業と1908年の3炭砿統一による明治鉱業設立

1871年〜佐賀の乱で家業となった相田・東谷の狸掘り

1871年7月、廃藩置県で世禄を失った筑前福岡藩士の松本潜・幾島徳の兄弟は家業として炭坑業を選び、発意を兄の松本潜氏が、経営の実務を弟の幾島徳氏が受け持った。末弟の安川敬一郎氏は1869年に藩命で京都、翌年に静岡へ留学し、1871年には一介の民間書生として東京へ出て、1872年7月から慶応義塾に学んだ。学問で身を立てる準備を断ち切ったのは1874年2月の佐賀の乱で、官軍の小隊長として出征した幾島徳氏が筑肥の境の三瀬峠で戦死した。悲報に接した安川敬一郎氏は学をなげうって帰郷し、徳永・松本・幾島・安川の四家族の生活を維持する家業として、松本潜氏とともに炭坑業に携わった。

  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)
    • [1]1871年7月、廃藩置県による世禄制度廃止に際し、筑前福岡藩士の松本潜・幾島徳の兄弟が家業として炭坑業を選んだ
    • [2]炭坑業は兄の松本潜が発意し、経営の実務は弟の幾島徳が担当した
    • [3]安川敬一郎は1869年に藩命で京都、1870年に静岡へ留学し、1871年に東京へ出て私塾に学び、1872年7月に慶応義塾へ入学した
    • [4]1874年2月、幾島徳が佐賀の乱に官軍の小隊長として出征し、筑肥の境の三瀬峠で戦死した
    • [5]安川敬一郎は学業を捨てて帰郷し、徳永・松本・幾島・安川四家族の生活維持のための家業として松本潜とともに炭坑業に携わった

松本潜氏は嘉麻・穂波二郡の大区長として飯塚に勤めながら、穂波郡相田村の相田炭坑を担当し、安川敬一郎氏には鞍手郡西川村長谷の東谷炭坑が割り当てられた。兄弟が受け継いだ坑は、当時の筑豊でよく見られた狸掘り式の小さなものだった。炭坑を経営した経験のなかった安川敬一郎氏は、長雨で製塩用の石炭が売れなくなったことも重なって事業に失敗し、立ち直れないほどの窮地に陥った。手を差し伸べたのは博多の商人 堺惣平氏である。松本潜氏と旧知の間柄で債権者でもあった堺氏は、一、二回の交渉で前債の返済を待つことを認め、新しい計画に要る資金の融通も引き受けた。安川敬一郎氏はこの時を境に、整理が済めば再び上京するという志を捨て、生涯を炭坑業に捧げると決めた。

  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)
    • [6]松本潜は嘉麻・穂波二郡の大区長として飯塚に在勤しつつ穂波郡相田村の相田炭坑を、安川敬一郎は鞍手郡西川村長谷の東谷炭坑を経営した
    • [7]相田炭坑・東谷炭坑はいずれも当時の筑豊諸炭坑の例にもれずいわゆる狸掘り式の小規模なものだった
    • [8]炭坑経営が未経験の安川敬一郎は長雨による製塩用石炭の需要減退もあって一敗地に塗れ、起つこともできぬほどの苦境に陥った
    • [10]安川敬一郎が再上京の志を捨て、事業に専念して終生炭坑業に就く決心を固めたのはこのときからだった
  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)(安川敬一郎『撫松餘韻』796頁の引用)
    • [9]博多の商人 堺(加野)惣平は松本潜と旧知の債権者で、一、二回の交渉で前債の停滞を猶予し新計画への資金融通にも応じた

1875年には製塩業も好況を呈して前年の失敗を体験に変えた家業が立ち直り、1880年には松本潜氏が官を辞して芦屋に移り、炭坑業に専念した。炭坑業に対する金融業者の信用はこの頃まで乏しく、兄弟は二、三の地方の金貸業者に無理を頼んで融通を受けながら経営をつないでいた。兄弟が相田炭坑の調査を任せたのは、官営三池炭坑の技師ボッター氏で、福岡県令 渡邊淸氏が招いた人物である。良質の石炭が埋まっているとわかったため、1880年には嘉麻郡相田・庄司両村にまたがる形で鉱区を広げ、伊藤傳六・中野徳次郎の両名に現場を任せて高雄・伊岐須の両炭坑を開いた。相田鉱区は1884年、鉱山局技師 山際永吾氏の調べをもとに72万余坪まで拡張された。高雄炭坑では生産費の削減をねらって疏水工事が進められ、1884年から1885年にかけて完成を見た。

  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)
    • [11]1875年には製塩業も好況を呈し、前年の失敗の体験を活かして家業を立ち直らせた
    • [12]1880年、松本潜は官を辞して芦屋に移転し、安川敬一郎とともに炭坑業に専念した
    • [13]この時期までは炭坑業に対する金融業者の信用が薄く、地方二、三の金貸業者から無理に融通を受けて経営を継続していた
    • [14]福岡県令 渡邊淸が招いた官営三池炭坑技師ボッターに相田炭坑を調査させ良質炭が判明したため、1880年に嘉麻郡相田・庄司両村にまたがる鉱区を拡張し、伊藤傳六・中野徳次郎を現場担当者として高雄・伊岐須の両炭坑を起業した
    • [15]1884年、鉱山局技師 山際永吾の調査に基づき相田鉱区を72万余坪に拡大し、生産費削減のため1884〜1885年にかけ高雄炭坑の疏水工事を竣工させた
参考文献[1]-[15]
  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)
    • [1]1871年7月、廃藩置県による世禄制度廃止に際し、筑前福岡藩士の松本潜・幾島徳の兄弟が家業として炭坑業を選んだ
    • [2]炭坑業は兄の松本潜が発意し、経営の実務は弟の幾島徳が担当した
    • [3]安川敬一郎は1869年に藩命で京都、1870年に静岡へ留学し、1871年に東京へ出て私塾に学び、1872年7月に慶応義塾へ入学した
    • [4]1874年2月、幾島徳が佐賀の乱に官軍の小隊長として出征し、筑肥の境の三瀬峠で戦死した
    • [5]安川敬一郎は学業を捨てて帰郷し、徳永・松本・幾島・安川四家族の生活維持のための家業として松本潜とともに炭坑業に携わった
    • [6]松本潜は嘉麻・穂波二郡の大区長として飯塚に在勤しつつ穂波郡相田村の相田炭坑を、安川敬一郎は鞍手郡西川村長谷の東谷炭坑を経営した
    • [7]相田炭坑・東谷炭坑はいずれも当時の筑豊諸炭坑の例にもれずいわゆる狸掘り式の小規模なものだった
    • [8]炭坑経営が未経験の安川敬一郎は長雨による製塩用石炭の需要減退もあって一敗地に塗れ、起つこともできぬほどの苦境に陥った
    • [10]安川敬一郎が再上京の志を捨て、事業に専念して終生炭坑業に就く決心を固めたのはこのときからだった
    • [11]1875年には製塩業も好況を呈し、前年の失敗の体験を活かして家業を立ち直らせた
    • [12]1880年、松本潜は官を辞して芦屋に移転し、安川敬一郎とともに炭坑業に専念した
    • [13]この時期までは炭坑業に対する金融業者の信用が薄く、地方二、三の金貸業者から無理に融通を受けて経営を継続していた
    • [14]福岡県令 渡邊淸が招いた官営三池炭坑技師ボッターに相田炭坑を調査させ良質炭が判明したため、1880年に嘉麻郡相田・庄司両村にまたがる鉱区を拡張し、伊藤傳六・中野徳次郎を現場担当者として高雄・伊岐須の両炭坑を起業した
    • [15]1884年、鉱山局技師 山際永吾の調査に基づき相田鉱区を72万余坪に拡大し、生産費削減のため1884〜1885年にかけ高雄炭坑の疏水工事を竣工させた
  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)(安川敬一郎『撫松餘韻』796頁の引用)
    • [9]博多の商人 堺(加野)惣平は松本潜と旧知の債権者で、一、二回の交渉で前債の停滞を猶予し新計画への資金融通にも応じた

1877年〜安川商店・若松築港・赤池鉱山学校という自前の経路

石炭を掘る経路より先に売る経路を自分の手に置いた安川敬一郎氏は、1877年、遠賀郡芦屋町に石炭販売店の安川商店を出店し、事務所には松本平内氏が創立した焚石会所の跡を充てている。1885年に神戸へ支店を出したのは、外国船焚料炭を扱う問屋の不正が筑豊炭の声価に及ぶことを嫌い、その粛正を念願したためだった。筑豊炭の搬出で芦屋より有利な若松へは1886年に本店を移して大阪支店を増設し、1888年には門司支店を開設した。1893年夏、米国留学を中途で切り上げて帰朝した松本健次郎氏が家業に加わり、仲買商を介する神戸流の販売を避けて外国商人との直接取引を根本方針に据えた。1894年の総輸出高は13万4,000余屯に達し、1899年2月には安川商店を安川松本商店と改めた。

  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)
    • [16]1877年、遠賀郡芦屋町に石炭販売店の安川商店を開業し、事務所には松本平内が創立した焚石会所跡を充てた
    • [17]1885年の神戸支店開設は、外国船焚料炭の大口物を扱う問屋の不正が筑豊炭の声価に及ぶことを憂え、その粛正を念願したことによる
    • [18]1886年、筑豊炭搬出で芦屋より若松が優位と考えて本店を若松に移し大阪支店を増設、1888年には門司支店を開設した
    • [19]1893年夏、米国留学の中途で一時帰朝した松本健次郎が再留学を断念して家業に参加し、神戸流の仲買商を仲介とする販売を避けて外国商人と直接取引する根本方針を立てた
    • [20]1894年の総輸出高は明治・相田・赤池を合わせ13万4,000余屯に達した。1899年2月に安川商店を安川松本商店と改めた

掘る以外への関与は、家業がまだ小規模の域を出ない時期から始まっている。筑豊が1885年に海軍予備炭田に指定されると、安川敬一郎氏は業界を代表して民間への開放を求めて陳情し、1889年12月には豊国炭砿の鉱区指定が解かれた。洞海湾の価値に目をつけた安川氏は、1888年に同志とともに若松港を築く計画を立てた。土木技術者 古市公威氏らが加わって若松築港株式会社ができ、のちに同社社長となる白石直治氏らの指導で港は完成した。1889年からは、筑豊炭田を開くうえで欠かせない輸送手段として、筑豊鉄道の建設にも力を入れた。1897年創設の八幡製鉄所では、工場を今の場所に置くよう働きかけている。

  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)「社史の刊行に寄せて」
    • [21]1885年に筑豊へ海軍予備炭田の指定が行われた際、業界を代表して民間への解放を陳情し解除させた。豊国炭砿の鉱区指定は1889年12月に解除された
    • [22]洞海湾の重要性に着目した安川敬一郎は1888年に同志と若松港の築港計画を立て、古市公威らの参画を得て若松築港株式会社を設立し、のちの同社社長 白石直治らの指導援助のもとに良港を完成させた
    • [23]1889年から、筑豊炭田開発に不可欠な輸送機関として筑豊鉄道の建設に力を注いだ
    • [24]1897年に創設された八幡製鉄所の工場敷地を現在地に選定させるため尽力した

1899年2月、安川敬一郎氏は他社に先駆けて明治第一坑の納屋制度を廃し、直轄制度に切り替えたうえで、ほかの坑にも順に広げた。納屋制度とは坑夫の募集と取締りを納屋頭に任せる仕組みで、坑夫は賃金から差し引かれるうえ、採炭切符で支払われたため炭砿の分配所でも幾重にも搾取されていた。その切符による支払いも1900年6月に廃し、現金で払うよう改めた。中堅の技術員を育てるため、1902年4月に赤池炭砿へ私立赤池鉱山学校が置かれた。二カ年制で、日本で最初の炭砿技術員養成所である。日露戦争後の好景気で旧債を返し終え、鉄道国有化に伴う鉄道株の買上げで得た270余万円の公債も加えて400万円近くが手元に残った。安川氏はそこから基金330万円と敷地7万8,000余坪を寄附し、1907年6月に明治専門学校を設立した。1909年4月に開校し、1920年に財団の一切を政府へ献納したこの学校が、いまの九州工業大学である。

  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)
    • [25]1899年2月、安川敬一郎は他に先んじて明治第一坑の納屋制度を廃止し直轄制度に改め、順次他の坑にも実施した
    • [26]納屋制度では納屋頭が賃金から一定歩合の控除金と賄料を徴収し、賃金は採炭切符(山札)で払われ、坑夫は炭砿の分配所で二重三重に搾取される仕組みだった
    • [27]1900年6月、採炭切符制をやめて現金払いに改めた
    • [28]1902年4月、中堅技術員養成のため赤池炭砿に二カ年制の私立赤池鉱山学校を設立。日本最初の炭砿技術員養成所で被服・食費等を一切支給した
    • [29]日露戦争の好況で旧債を完済し、鉄道国有に伴う鉄道株買上げの公債270余万円と合わせて400万円近くが手許に残り、1907年6月に基金330万円・敷地7万8,000余坪を寄附して明治専門学校の財団法人設立の認可を受けた
    • [30]明治専門学校は1909年4月に開校し、1920年に財団の一切を政府へ献納、戦後の学制改革で九州工業大学となった
参考文献[16]-[30]
  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)
    • [16]1877年、遠賀郡芦屋町に石炭販売店の安川商店を開業し、事務所には松本平内が創立した焚石会所跡を充てた
    • [17]1885年の神戸支店開設は、外国船焚料炭の大口物を扱う問屋の不正が筑豊炭の声価に及ぶことを憂え、その粛正を念願したことによる
    • [18]1886年、筑豊炭搬出で芦屋より若松が優位と考えて本店を若松に移し大阪支店を増設、1888年には門司支店を開設した
    • [19]1893年夏、米国留学の中途で一時帰朝した松本健次郎が再留学を断念して家業に参加し、神戸流の仲買商を仲介とする販売を避けて外国商人と直接取引する根本方針を立てた
    • [20]1894年の総輸出高は明治・相田・赤池を合わせ13万4,000余屯に達した。1899年2月に安川商店を安川松本商店と改めた
    • [25]1899年2月、安川敬一郎は他に先んじて明治第一坑の納屋制度を廃止し直轄制度に改め、順次他の坑にも実施した
    • [26]納屋制度では納屋頭が賃金から一定歩合の控除金と賄料を徴収し、賃金は採炭切符(山札)で払われ、坑夫は炭砿の分配所で二重三重に搾取される仕組みだった
    • [27]1900年6月、採炭切符制をやめて現金払いに改めた
    • [28]1902年4月、中堅技術員養成のため赤池炭砿に二カ年制の私立赤池鉱山学校を設立。日本最初の炭砿技術員養成所で被服・食費等を一切支給した
    • [29]日露戦争の好況で旧債を完済し、鉄道国有に伴う鉄道株買上げの公債270余万円と合わせて400万円近くが手許に残り、1907年6月に基金330万円・敷地7万8,000余坪を寄附して明治専門学校の財団法人設立の認可を受けた
    • [30]明治専門学校は1909年4月に開校し、1920年に財団の一切を政府へ献納、戦後の学制改革で九州工業大学となった
  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)「社史の刊行に寄せて」
    • [21]1885年に筑豊へ海軍予備炭田の指定が行われた際、業界を代表して民間への解放を陳情し解除させた。豊国炭砿の鉱区指定は1889年12月に解除された
    • [22]洞海湾の重要性に着目した安川敬一郎は1888年に同志と若松港の築港計画を立て、古市公威らの参画を得て若松築港株式会社を設立し、のちの同社社長 白石直治らの指導援助のもとに良港を完成させた
    • [23]1889年から、筑豊炭田開発に不可欠な輸送機関として筑豊鉄道の建設に力を注いだ
    • [24]1897年に創設された八幡製鉄所の工場敷地を現在地に選定させるため尽力した

1896年〜365名を失った豊国炭砿の引受けと明治鉱業の設立

1896年4月、安川敬一郎氏は大城炭坑の設備拡充に要する資金を確保するため、大阪の松本重太郎・田中市兵衛・野田吉兵衛ら17名と資本金30万円の明治炭坑株式会社を創立し、大城炭坑を明治第一坑と改めた。しかし純出資者の立場に立つ大阪側とは意見の齟齬が続いた。1899年5月、八幡製鉄所の創設に伴って政府から譲渡を申し込まれた高雄炭砿を130万円で手放し、1898年に谷茂平・今西林三郎と組んで100万円で引き受けた田川炭砿も、1900年3月に三井鉱山合名会社へ165万円で売り渡している。この資金で1901年5月に平岡浩太郎氏の赤池炭砿持分を40万円で引き受け、1902年11月には明治炭坑の株式を一手に集めて会社を任意解散し、全事業を個人の所有に戻した。

  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)
    • [31]1896年4月、大城炭坑の近代的設備拡充等に必要な資金を確保するため、大阪の松本重太郎・田中市兵衛・野田吉兵衛ら17名と資本金30万円の明治炭坑株式会社を創立し、大城炭坑を明治炭坑(明治第一坑)と改称した
    • [32]明治炭坑株式会社では純出資者的立場に立つ大阪側との間に意見の齟齬をきたし、融和協調を欠いていた
    • [33]1899年5月、八幡製鉄所創設に伴う政府の申し込みで高雄炭砿を130万円で譲渡。1898年に谷茂平・今西林三郎と田川採炭組を作り100万円で引き受けた田川炭砿は、1900年3月に三井鉱山合名会社へ165万円で譲渡した
    • [34]高雄・田川の売却資金で1901年5月に平岡浩太郎の赤池炭砿持分を40万円で引き受けて専有し、1902年11月に安川敬一郎が明治炭坑の株式を一手に集めて会社を任意解散、全事業を自己名義とした

1907年7月20日、平岡浩太郎氏の遺族が経営する豊国炭砿でガス爆発が起き、殉職者は1899年6月の210名を上回る365名に達した。安川敬一郎氏は、1888年から赤池炭砿を共同経営した平岡浩太郎氏との間柄と遺族の懇請から、債権者の三井家に引き受けさせようと動いた。200万円を価格とし平岡家維持に要する80万円を三井が預かる条件で朝吹英二氏と交渉し、井上馨・金子堅太郎にも仲介を頼んだものの、交渉は不調に終わった。そこで同じ条件のまま自ら引き受けると決め、9月4日には三井が債権54万4,000円のうち10万円を切り捨てて決着したが、長年築いた基盤一切を賭けた引受けであり、莫大な債務を残した。

  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)
    • [35]1907年7月20日、豊国炭砿で再度のガス爆発が発生し、殉職者は前回(1899年6月の210名)を遙かに上回る365名に達した
    • [36]安川敬一郎は1888年(明治21年)に平岡浩太郎と共同して赤池炭砿の経営を始め、水魚の交りで固く結ばれた間柄だった。豊国炭砿を自営する意思のない平岡家遺族の懇請もあり、債権者である三井に引き受けてもらうため八方奔走した
    • [37]安川敬一郎は1888年から平岡浩太郎と赤池炭砿を共同経営した間柄と遺族の懇請から債権者の三井家への引受けを図り、200万円を価格とし平岡家維持に要する80万円を三井が預かる条件で朝吹英二と交渉、井上馨・金子堅太郎にも仲介を依頼したが不成功に終わった
    • [38]安川敬一郎は三井へ提示した条件そのままで自ら引き受けることを決意し、1907年9月4日に三井が債権54万4,000円のうち10万円を切り捨てて豊国炭砿の引受問題が解決した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
    • [39]豊国炭坑の引受けは事業的には長年築いた基盤一切を賭けたもので、そのため莫大な債務を負った

1908年1月、安川敬一郎氏は明治・赤池・豊国の3炭砿を統一して資本金500万円の明治鉱業株式合資会社を設立し、自ら社長に、次子の松本健次郎氏を副社長に登用した。負債を抱えたまま出発した新会社が当面した大仕事は豊国炭砿の復旧と整備で、日露戦争後の国力伸張に伴って事業は伸び、1912年に朝鮮の安州炭砿、1913年に多久炭砿と高田炭砿を開設した。1918年4月、安川敬一郎氏は満70歳を機に引退して松本健次郎氏が社長を承継し、同年12月に資本金を1,000万円へ増額、1919年1月には本社を戸畑へ移し、4月には株式会社へと組織を改めた。変わったのは法人格で、商号は1908年の設立以来 明治鉱業のまま、当時の稼動炭砿は明治・赤池・豊国・高田・多久・安州の6砿を数えた。1919年12月には資本金をさらに2,000万円へ増資している。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
    • [40]1908年1月、安川敬一郎は明治鉱業(株式合資)を設立して社長となり、次子の松本健次郎を副社長とした。資本金500万円、明治・赤池・豊国の3砿
    • [41]明治鉱業が当面した大仕事は豊国炭砿の復旧と整備だった
    • [42]日露戦争後の国力伸張に伴い事業は飛躍し、1912年に朝鮮安州炭砿、1913年に多久炭砿・高田炭砿を開設した
    • [43]1918年4月、安川敬一郎は満70歳を機に引退し、松本健次郎に社長を譲った
    • [44]1918年12月に資本金を1,000万円へ増額、1919年1月に本社を戸畑へ移転、同年4月に株式組織へ変更した
    • [45]株式組織変更当時の稼動炭砿は明治・赤池・豊国・高田・多久・安州の6砿だった
    • [46]1919年12月、資本金をさらに2,000万円に増資した
参考文献[31]-[46]
  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)
    • [31]1896年4月、大城炭坑の近代的設備拡充等に必要な資金を確保するため、大阪の松本重太郎・田中市兵衛・野田吉兵衛ら17名と資本金30万円の明治炭坑株式会社を創立し、大城炭坑を明治炭坑(明治第一坑)と改称した
    • [32]明治炭坑株式会社では純出資者的立場に立つ大阪側との間に意見の齟齬をきたし、融和協調を欠いていた
    • [33]1899年5月、八幡製鉄所創設に伴う政府の申し込みで高雄炭砿を130万円で譲渡。1898年に谷茂平・今西林三郎と田川採炭組を作り100万円で引き受けた田川炭砿は、1900年3月に三井鉱山合名会社へ165万円で譲渡した
    • [34]高雄・田川の売却資金で1901年5月に平岡浩太郎の赤池炭砿持分を40万円で引き受けて専有し、1902年11月に安川敬一郎が明治炭坑の株式を一手に集めて会社を任意解散、全事業を自己名義とした
    • [35]1907年7月20日、豊国炭砿で再度のガス爆発が発生し、殉職者は前回(1899年6月の210名)を遙かに上回る365名に達した
    • [36]安川敬一郎は1888年(明治21年)に平岡浩太郎と共同して赤池炭砿の経営を始め、水魚の交りで固く結ばれた間柄だった。豊国炭砿を自営する意思のない平岡家遺族の懇請もあり、債権者である三井に引き受けてもらうため八方奔走した
    • [37]安川敬一郎は1888年から平岡浩太郎と赤池炭砿を共同経営した間柄と遺族の懇請から債権者の三井家への引受けを図り、200万円を価格とし平岡家維持に要する80万円を三井が預かる条件で朝吹英二と交渉、井上馨・金子堅太郎にも仲介を依頼したが不成功に終わった
    • [38]安川敬一郎は三井へ提示した条件そのままで自ら引き受けることを決意し、1907年9月4日に三井が債権54万4,000円のうち10万円を切り捨てて豊国炭砿の引受問題が解決した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
    • [39]豊国炭坑の引受けは事業的には長年築いた基盤一切を賭けたもので、そのため莫大な債務を負った
    • [40]1908年1月、安川敬一郎は明治鉱業(株式合資)を設立して社長となり、次子の松本健次郎を副社長とした。資本金500万円、明治・赤池・豊国の3砿
    • [41]明治鉱業が当面した大仕事は豊国炭砿の復旧と整備だった
    • [42]日露戦争後の国力伸張に伴い事業は飛躍し、1912年に朝鮮安州炭砿、1913年に多久炭砿・高田炭砿を開設した
    • [43]1918年4月、安川敬一郎は満70歳を機に引退し、松本健次郎に社長を譲った
    • [44]1918年12月に資本金を1,000万円へ増額、1919年1月に本社を戸畑へ移転、同年4月に株式組織へ変更した
    • [45]株式組織変更当時の稼動炭砿は明治・赤池・豊国・高田・多久・安州の6砿だった
    • [46]1919年12月、資本金をさらに2,000万円に増資した

筆者考察

炭坑業で先に押さえるべきものは、坑そのものではなかった。石炭は掘る者が多く、質で抜きん出ることも難しいため、優劣は坑の外で決まる。1874年の佐賀の乱で兄を失って帰郷した安川敬一郎氏が手を付けたのは、掘る場所を増やすことではなく、炭を渡す先を自分で持つことだった。1877年に芦屋へ石炭販売店を出し、1885年に神戸、1886年に若松と大阪、1888年に門司へ支店を伸ばす。1888年には若松築港に出資し、1889年からは筑豊鉄道の建設に加わった。積み出す港も運ぶ線路も、業界の共有物として使うのではなく、自ら作る側へ回っている。

その備えが試されたのが、1907年7月の豊国炭砿のガス爆発である。殉職365名を出した坑は、平岡浩太郎氏の遺族にも債権者の三井家にも抱えきれず、安川敬一郎氏が長年築いた基盤一切を賭けて引き受け、莫大な債務を負った。事故を起こした坑を買うという判断が成り立ったのは、復旧させた炭を売る先と運ぶ手段を、すでに自分の側に持っていたからだろう。翌1908年1月、明治・赤池・豊国の3砿は資本金500万円の明治鉱業へまとめられた。坑を増やして大きくなった会社ではなく、坑の外側を先に作ったから坑を引き受けられた会社である。

明治鉱業の資本金 1908年〜1919年(万円)

500 1908 1,000 1918 2,000 1919
  • 1908年1月の設立時が500万円、1918年12月に1,000万円、1919年12月に2,000万円。
  • 出所は会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項。

出典・参考

4件
出典・参考
  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)
  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)(安川敬一郎『撫松餘韻』796頁の引用)
  • 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)「社史の刊行に寄せて」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項

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