明治鉱業:満州・北海道への鉱区拡大と敗戦による在外事業場の喪失
1927年〜低品位炭を燃やす自家発電所と、満州西安炭砿
1919年4月に株式会社へ組織を変えた明治鉱業は、同年12月に資本金を2,000万円へ増額し、明治・赤池・豊国・高田・多久・安州の6砿を稼行していた。この陣容で迎えた欧州大戦後の世界的不況で石炭市況は悪化し、明治鉱業は事業場の縮小に入る。ただし縮めるだけの数年ではなく、手を入れた先は坑内の掘り方から選炭場の機械、坑外の電力にいたるまでの全段にわたった。売り物にならない低品位炭を自社の動力へ回すため自家発電所を建て、採炭方式の改善、選炭機の改造、資材の節約をあわせて不況対策に据えた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- [1]1919年4月に株式組織へ変更、同年12月に資本金2,000万円へ増資。当時の稼動炭砿は明治・赤池・豊国・高田・多久・安州の6砿
- [2]欧州大戦後の世界的不況により事業場の縮小を行った
- [3]低品位炭の活用を図る自家発電所を作り、採炭方式の改善・選炭機の改造・資材の節約等の不況対策を実施した
不況下でも鉱区の取得は続き、1927年には満州に西安炭砿を開設した。1912年の朝鮮安州炭砿開設、1914年の沙里院炭砿買収、1917年の大成炭砿譲受に続く外地の鉱区で、九州の炭田だけに産炭地を置かない構えは株式会社になった後も変わらない。この間の1929年5月、父の安川敬一郎氏から1918年4月に社長を引き継いで在任11年を数えていた松本健次郎氏が、社長を弟の安川清三郎氏に譲った。明治鉱業は炭坑のほかに明治紡績・安川電機製作所・黒崎窯業を関連事業として創立しており、経営は創業者である安川敬一郎氏の子らが担った。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- [4]1927年に満州西安炭砿を開設
- [5]1912年に朝鮮安州炭砿を開設、1914年に朝鮮沙里院炭砿を買収、1917年に朝鮮大成炭砿を譲り受けた
- [6]1918年4月、安川敬一郎が満70歳を機に引退し松本健次郎に社長を譲った
- [7]1929年5月、松本健次郎が社長を弟の安川清三郎に譲った
- [8]関連事業として明治紡績(合資)・安川電機製作所・黒崎窯業を相次いで創立した。松本健次郎は安川敬一郎の次子、安川清三郎はその弟
炭坑から上がった資金を、一族は別の業種へも回した。安川敬一郎氏は、貝島・麻生と並んで九州の炭田を開発した一人で、その石炭事業は収益を上げた。五男の安川第五郎氏が経営にあたった安川電機製作所は、明治鉱業を親会社として分かれた子会社だった。明治紡績と黒崎窯業も明治鉱業が起こした関連事業で、炭を掘る会社が紡績・電機・窯業を傘下に置いた。株式会社になる前から石炭以外の鉱種にも手を伸ばしており、九州と中国地方の各県、朝鮮の各地に金属鉱業の鉱区を買収した。1917年には八幡に合弁の九州製鋼所を設けた。1919年4月に株式会社となったときの払込資本金は800万円、公称資本金は1,000万円だった。明治鉱業はこの資本を土台に、炭坑と関連事業の双方を抱えた。
- 私の履歴書 安川第五郎(日本経済新聞社、1958年連載/経済人3所収)
- [9]安川敬一郎の石炭事業の成功が、一族が電機の事業を営む元手になった
- [10]安川敬一郎は貝島・麻生とともに九州の炭鉱を開発した一人で、その石炭事業は成功を収めた
- [11]安川電機は明治鉱業を親会社として別れてできた子会社。安川第五郎は安川敬一郎の五男で、安川電機の経営にあたった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- [12]関連事業として明治紡績(合資)・安川電機製作所・黒崎窯業を相次いで創立した
- [13]金属鉱業にも進出し、九州・中国の各県、朝鮮の各地に鉱区を買収した
- [14]大正6年、八幡に合弁の九州製鋼所を設立した
- [16]関連事業として明治紡績(合資)・安川電機製作所・黒崎窯業を相次いで創立した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「明治鉱業」
- [15]大正8年4月1日の設立時の資本金は8,000千円、公称資本金は10,000千円
参考文献[1]-[16]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- [1]1919年4月に株式組織へ変更、同年12月に資本金2,000万円へ増資。当時の稼動炭砿は明治・赤池・豊国・高田・多久・安州の6砿
- [2]欧州大戦後の世界的不況により事業場の縮小を行った
- [3]低品位炭の活用を図る自家発電所を作り、採炭方式の改善・選炭機の改造・資材の節約等の不況対策を実施した
- [4]1927年に満州西安炭砿を開設
- [5]1912年に朝鮮安州炭砿を開設、1914年に朝鮮沙里院炭砿を買収、1917年に朝鮮大成炭砿を譲り受けた
- [6]1918年4月、安川敬一郎が満70歳を機に引退し松本健次郎に社長を譲った
- [7]1929年5月、松本健次郎が社長を弟の安川清三郎に譲った
- [8]関連事業として明治紡績(合資)・安川電機製作所・黒崎窯業を相次いで創立した。松本健次郎は安川敬一郎の次子、安川清三郎はその弟
- [12]関連事業として明治紡績(合資)・安川電機製作所・黒崎窯業を相次いで創立した
- [13]金属鉱業にも進出し、九州・中国の各県、朝鮮の各地に鉱区を買収した
- [14]大正6年、八幡に合弁の九州製鋼所を設立した
- [16]関連事業として明治紡績(合資)・安川電機製作所・黒崎窯業を相次いで創立した
- 私の履歴書 安川第五郎(日本経済新聞社、1958年連載/経済人3所収)
- [9]安川敬一郎の石炭事業の成功が、一族が電機の事業を営む元手になった
- [10]安川敬一郎は貝島・麻生とともに九州の炭鉱を開発した一人で、その石炭事業は成功を収めた
- [11]安川電機は明治鉱業を親会社として別れてできた子会社。安川第五郎は安川敬一郎の五男で、安川電機の経営にあたった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「明治鉱業」
- [15]大正8年4月1日の設立時の資本金は8,000千円、公称資本金は10,000千円
1930年〜安川松本商店から譲り受けた営業権と、国策に手放した鉱区
明治鉱業の石炭は、1893年に石炭販売のため創立された安川松本商店を通じて、40年余りにわたり売られていた。産炭地は九州・朝鮮・満州に分かれていた。1930年1月、1918年前後に買収したまま手をつけずにいた北海道の雨竜鉱区で昭和炭砿を開き、10年余りを経て北海道がここに加わった。10年余り続いた不況は1931年の満州事変を機に消え、明治鉱業は1934年から増産に向かった。販売の面では1936年1月、安川松本商店の営業権を引き継いで営業部を設け、生産と販売を初めて一つにまとめた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- [17]1893年に安川松本商店を創立して販売に当らせた
- [18]1918年前後に北海道の雨竜鉱区を買収していた
- [19]1930年1月、雨竜鉱区に昭和炭砿を開設
- [20]満州事変の勃発に伴い10年余の不況を一掃し、1934年から増産態勢に移った
- [21]1936年1月、安川松本商店から営業権を譲り受けて営業部を新設し、初めて生産販売を一元化した
営業部を置いた翌月の1936年2月に安川清三郎社長が急逝し、跡を継いだのは松本健次郎氏の長男である松本幹一郎氏だった。松本幹一郎社長の代に入ると事業に対する国家的干与が強まり、明治鉱業は国策に従って朝鮮の大成炭砿と満州の西安炭砿を手放す。1917年に譲り受けた大成炭砿も、1927年に開いたばかりの西安炭砿も、開発した会社の手元には残らなかった。外地の鉱区を国策に削られる一方、内地では系列の整理が進み、1937年6月には子会社の平山炭砿を直接経営へ移して平山鉱業株式会社を合併した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- [22]1936年2月、安川清三郎社長が急逝した
- [23]安川清三郎の後を松本幹一郎(松本健次郎の長男)が継いだ
- [24]このころから事業に対する国家的干与が強くなり、大成炭砿・西安炭砿を国策に従って手離した
- [25]1917年(大正6年)に朝鮮の大成炭砿を譲り受け、1927年(昭和2年)に満州の西安炭砿を開設した
- [26]1937年6月、子会社の平山炭砿を直接経営に移した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「明治鉱業」
- [27]1937年6月、平山鉱業株式会社を合併
日華事変以後に石炭の需要が急増すると、国策で外地の2砿を手放した明治鉱業は、別の場所で鉱区を開き直す。1938年に西杵炭砿、1939年に庶路炭砿を開設し、華北の磁県炭砿の開発にも乗り出したことで、佐賀県北方の西杵鉱業所と北海道白糠の庶路鉱業所という九州と北海道の双方に新しい坑口が開いた。外地の鉱区は朝鮮・満州に華北を加えた3地域へ広がり、内地では明治・赤池・豊国・高田・多久に平山を加えた既設砿の上へ、西杵と庶路が積み上がった。掘る場所を増やし、売る経路を1936年に自社へ取り込んだ明治鉱業は、産炭から販売までを一本で握ったまま戦時に入った。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- [28]日華事変以後、石炭の需要は急増した
- [29]1938年に西杵炭砿、1939年に庶路炭砿を開設し、華北磁県炭砿の開発に乗り出した
- [31]内地の既設砿は明治・赤池・豊国・高田・多久の5砿に、1937年6月に直接経営へ移した平山炭砿を加えた陣容
- [32]1936年1月の営業部新設で生産販売を一元化した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「明治鉱業」
- [30]西杵鉱業所は佐賀県北方町、庶路鉱業所は北海道白糠町に所在
参考文献[17]-[32]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- [17]1893年に安川松本商店を創立して販売に当らせた
- [18]1918年前後に北海道の雨竜鉱区を買収していた
- [19]1930年1月、雨竜鉱区に昭和炭砿を開設
- [20]満州事変の勃発に伴い10年余の不況を一掃し、1934年から増産態勢に移った
- [21]1936年1月、安川松本商店から営業権を譲り受けて営業部を新設し、初めて生産販売を一元化した
- [22]1936年2月、安川清三郎社長が急逝した
- [23]安川清三郎の後を松本幹一郎(松本健次郎の長男)が継いだ
- [24]このころから事業に対する国家的干与が強くなり、大成炭砿・西安炭砿を国策に従って手離した
- [25]1917年(大正6年)に朝鮮の大成炭砿を譲り受け、1927年(昭和2年)に満州の西安炭砿を開設した
- [26]1937年6月、子会社の平山炭砿を直接経営に移した
- [28]日華事変以後、石炭の需要は急増した
- [29]1938年に西杵炭砿、1939年に庶路炭砿を開設し、華北磁県炭砿の開発に乗り出した
- [31]内地の既設砿は明治・赤池・豊国・高田・多久の5砿に、1937年6月に直接経営へ移した平山炭砿を加えた陣容
- [32]1936年1月の営業部新設で生産販売を一元化した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「明治鉱業」
- [27]1937年6月、平山鉱業株式会社を合併
- [30]西杵鉱業所は佐賀県北方町、庶路鉱業所は北海道白糠町に所在
1944年〜廃止した営業部と、敗戦で消えた在外事業場
1938年5月、明治鉱業は海水を利用する化学工業を起こしたものの、石炭の外に収益源を置くこの試みからは3年で手を引き、1941年に鐘淵実業へ譲渡している。海水を扱う工場を手放した明治鉱業に残ったのは九州・北海道と外地に散る炭砿で、石炭の増産が国策として求められるなか、会社は本業へ資本を積み増した。1940年10月の資本金3,000万円への増額は、1919年12月に2,000万円としてから21年ぶりの増資にあたり、1908年1月の設立時の500万円から数えれば37年で6倍の水準になる。公称資本金も同額の3,000万円に置かれ、明治鉱業はこの額のまま終戦を迎えた。鉱物の採掘加工・売買、問屋営業、輸送と並ぶ化学工業品の製造販売の一項は、工場を手放した10年後の定款にも残った。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- [33]1938年5月、海水利用の化学工業を起こした
- [34]1941年、海水利用の化学工業を鐘淵実業に譲渡した
- [35]1940年10月、資本金を3,000万円に増額した
- [36]1908年1月、明治鉱業株式合資会社を資本金500万円で設立
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「明治鉱業」
- [37]終戦時の資本金3,000万円、公称資本金3,000万円
- 株式会社年鑑 1951年版「明治鑛業」
- [38]1951年時点の営業目的は、1.鉱物の採掘加工及売買 2.鉱物の問屋営業 3.鉱物の輸送 4.化学工業品の製造及び販売 5.前各号に附帯する事業
戦局の推移に伴い明治鉱業は既設砿で増産措置を採り、開坑と買収も続けて1943年に立山炭砿を開設、1944年に上芦別炭砿、1945年に天道炭砿を買収して稼行に移した。増える一方だったのは坑口である。その坑口を増やした1944年は売り先を選ぶ余地を失った年でもあり、同年に石炭の販売が統制されて営業部は廃止に至った。安川松本商店から営業権を譲り受けて手にした販売機能を8年で失い、1893年の同商店創立以来、自前の売り先を握ることで石炭を捌いてきた会社は、掘る仕事だけを残して国の配炭機構の下に入った。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- [39]戦局の推移に伴い既設砿で増産措置を採った
- [40]1943年に立山炭砿を開設、1944年に上芦別炭砿、1945年に天道炭砿を買収稼行した
- [41]1944年に販売が統制され、営業部は廃止のやむなきに至った
- [42]1936年1月に安川松本商店から営業権を譲り受けて営業部を新設していた
- [43]1893年に安川松本商店を創立して石炭の販売に当らせた
1945年8月の終戦で明治鉱業は在外事業場を喪失し、1912年の朝鮮安州炭砿以来30年余りかけて朝鮮・満州・華北へ広げた鉱区が、一度に手を離れた。痛手はそれだけではなく、安川・松本両家の持株が物納と解放で失われて同族的性格は一変し、創業家の持分に支えられた会社が株式の分散した会社へ変わった。両家の持分を取りまとめてきた安川松本合名会社は、翌1946年4月に明治鉱業が合併した。加えて戦後に急騰した労働攻勢と鉱害賠償攻勢が、荒廃した炭砿の再建と同時に降りかかった。事業資金は事業家個人が単独で用意するものではなく、明治鉱業が多数の株主を擁する株式会社として運営されているのは父安川敬一郎氏の考え方の具現である——1957年の社史に松本健次郎元社長が寄せた一文である。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- [44]終戦によって在外事業場を喪失した
- [45]1912年の朝鮮安州炭砿開設以降、朝鮮・満州・華北に鉱区を広げた
- [46]安川・松本両家の持株は物納・解放され、同族的性格は一変した
- [48]戦後急騰した労働攻勢と鉱害賠償攻勢に対処しつつ、荒廃した炭砿の再建に苦闘が続いた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「明治鉱業」
- [47]昭和21年4月、安川松本(合名)を合併
- 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)「社史の刊行に寄せて」
- [49]松本健次郎は1957年の社史刊行に寄せた文で、事業資金は事業家個人が単独で用意するものではなく、明治鉱業が多数の株主を擁する株式会社として運営されているのは父安川敬一郎の考え方の具現だと記した
参考文献[33]-[49]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- [33]1938年5月、海水利用の化学工業を起こした
- [34]1941年、海水利用の化学工業を鐘淵実業に譲渡した
- [35]1940年10月、資本金を3,000万円に増額した
- [36]1908年1月、明治鉱業株式合資会社を資本金500万円で設立
- [39]戦局の推移に伴い既設砿で増産措置を採った
- [40]1943年に立山炭砿を開設、1944年に上芦別炭砿、1945年に天道炭砿を買収稼行した
- [41]1944年に販売が統制され、営業部は廃止のやむなきに至った
- [42]1936年1月に安川松本商店から営業権を譲り受けて営業部を新設していた
- [43]1893年に安川松本商店を創立して石炭の販売に当らせた
- [44]終戦によって在外事業場を喪失した
- [45]1912年の朝鮮安州炭砿開設以降、朝鮮・満州・華北に鉱区を広げた
- [46]安川・松本両家の持株は物納・解放され、同族的性格は一変した
- [48]戦後急騰した労働攻勢と鉱害賠償攻勢に対処しつつ、荒廃した炭砿の再建に苦闘が続いた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「明治鉱業」
- [37]終戦時の資本金3,000万円、公称資本金3,000万円
- [47]昭和21年4月、安川松本(合名)を合併
- 株式会社年鑑 1951年版「明治鑛業」
- [38]1951年時点の営業目的は、1.鉱物の採掘加工及売買 2.鉱物の問屋営業 3.鉱物の輸送 4.化学工業品の製造及び販売 5.前各号に附帯する事業
- 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)「社史の刊行に寄せて」
- [49]松本健次郎は1957年の社史刊行に寄せた文で、事業資金は事業家個人が単独で用意するものではなく、明治鉱業が多数の株主を擁する株式会社として運営されているのは父安川敬一郎の考え方の具現だと記した
筆者考察
明治鉱業が販売を自分の手に握っていた期間は、思いのほか短い。1893年の創立以来、一族の安川松本商店が明治鉱業の炭を売り、本体は掘ることに専念してきた。その営業権を譲り受けて営業部を置いたのが1936年1月で、生産と販売が初めて一つの会社に揃う。ところが1944年に石炭の販売が統制されると営業部は廃止され、会社に残ったのは掘る仕事だけになった。創業期から40年余りかけて外側に築いた経路は、本体へ取り込んだ8年後に国の配炭機構へ吸い上げられた。握った形にしたことが、そのまま取り上げられる形にもなった。
鉱区も同じ順序で手を離れた。明治鉱業は1912年の朝鮮安州炭砿から30年余りかけて朝鮮・満州・華北へ産炭地を広げたが、1917年に譲り受けた大成炭砿と1927年に開いた西安炭砿を国策に従って手放し、1945年8月の敗戦で在外事業場を一度に失った。不況の10年を自家発電所と選炭機の改造で凌ぎ、満州事変後の増産で取り返した会社は、掘る場所も売る相手も国が決める体制の下で、増えた坑口のほかに積めるものを持たなかった。加えて安川・松本両家の持株が物納と解放で失われ、創業家の持分に支えられた会社は株式の分散した会社へ変わった。戦後へ持ち越せたのは内地の坑口だけだった。
出典・参考
5件
- 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)「社史の刊行に寄せて」
- 株式会社年鑑 1951年版「明治鑛業」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「明治鉱業」
- 私の履歴書 安川第五郎(日本経済新聞社、1958年連載/経済人3所収)