住石ホールディングス:庄司砿・忠隈砿の入手と北海道坂炭砿への進出
1893年〜別子銅山の住友総本店が九州で取得した2つの炭砿
住友の鉱業は、1691年に愛媛の別子銅山を銅商の泉屋吉左衛門が開発したことに始まる。別子は秋田の阿仁や尾去沢とともに御用銅山とされ、輸出銅の供出を義務づけられていた。維新の動乱では幕府の遺物とみなされて官軍に押収されかかったが、支配人の広瀬義右衛門が土佐藩の兵隊長へ幕府直営ではなく住友の山だと申し立て、稼業の継続を認めさせた。明治に入って住友総本店は石炭業への進出を企図し、1893年11月に九州の庄司砿を入手して石炭業に着手し、翌1894年4月には同じ九州の忠隈砿を入手して若松炭業所を設立した。
- 日本産業史 第1巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
- [1]元禄4年(1691年)に愛媛の別子銅山を銅商泉屋吉左衛門が開発し、この泉屋が住友である
- [2]別子は秋田の阿仁、尾去沢とともに御用銅山とされ、輸出銅の供出を義務づけられた
- [3]別子銅山は維新の動乱で幕府の遺物とみなされ官軍に押収されたが、支配人の広瀬義右衛門が土佐藩兵隊長に幕府直営ではなく住友の山だと説いて稼業を許された
- 住石ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [4]1893年11月に庄司砿(九州)を入手し石炭業に着手した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
- [5]1894年4月に忠隈砿(九州)を入手し、若松炭業所を設立して石炭業進出の基礎を樹立した
需要の増加に伴って住友の炭鉱は北海道へ移り、1924年10月に坂炭砿の経営に参加し、翌1925年10月に商号を住友坂炭砿へ改め、上歌志内砿と赤平砿の経営に乗り出した。1928年6月に住友九州炭砿を設立し、同年11月に潜竜砿を買収、同年12月から翌1929年1月にかけて北海道で歌志内・新歌志内・奔別・奈井江・上赤平の5鉱、九州で芳野浦砿を買収した。1930年4月には住友坂炭砿と住友九州炭砿を合併し、資本金1,500万円の住友炭砿を設立した。九州の2山から始まった石炭部門は、この時点で主力を北海道に置く鉱山群になった。
- 住石ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [6]1924年10月に坂炭砿株式会社(北海道)の経営に参加した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
- [7]1925年10月に坂炭砿株式会社の商号を住友坂炭砿株式会社に変更し、上歌志内砿・赤平砿の経営に乗り出した
- [8]1928年6月に住友九州炭砿株式会社を設立し、同年11月に潜竜砿を買収した
- [9]1928年12月から1929年1月にかけて北海道で歌志内・新歌志内・奔別・奈井江・上赤平の5鉱、九州で芳野浦砿を買収した
- [10]1930年4月に住友坂炭砿と住友九州炭砿を合併し、資本金1,500万円の住友炭砿を設立した
住友家の鉱業は別子銅山の開発から約260年続き、石炭業への進出を企図したのは明治に入ってからだった。九州筑豊炭田の忠隈砿は、明治27年から自家消費用として経営してきた山だった。住友はここで覚えた採炭を北海道へ持ち込み、大正末から昭和初めにかけて赤平砿や上歌志内砿の鉱区を買い進めた。石炭部門の本格的な進出は金属部門より大きく遅れた。1930年4月には住友坂炭砿と住友九州炭砿を合併して住友炭砿を設立し、北海道と九州の山を一社に統合した。北海道の鉱区を買い進める開発資金は、別子銅山の収益で賄うこととされた。銅で稼いだ金が石炭の設備へ流れる関係は、二つの部門を一社に収める後年の合併を用意した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
- [11]住友家は元禄年間の別子銅山開発から約260年にわたり鉱山経営を続け、明治年間に至って石炭業進出を企図した
- [15]昭和5年4月に住友坂炭砿と住友九州炭砿を合併して住友炭砿を設立し、石炭鉱業経営への確固たる地歩を固めるに至った
- 証券 1949年
- [12]九州筑豊炭田の忠隈砿は自家消費用として明治27年から経営していた
- [13]忠隈での経営の体験を生かして北海道に進出し、大正14年に赤平砿・上歌志内砿を買収した
- [14]石炭部門の本格的進出は金属部門に比べて遅れた
- [16]北海道の鉱区の開発資金は別子銅山の収益で賄うこととなった
参考文献[1]-[16]
- 日本産業史 第1巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
- [1]元禄4年(1691年)に愛媛の別子銅山を銅商泉屋吉左衛門が開発し、この泉屋が住友である
- [2]別子は秋田の阿仁、尾去沢とともに御用銅山とされ、輸出銅の供出を義務づけられた
- [3]別子銅山は維新の動乱で幕府の遺物とみなされ官軍に押収されたが、支配人の広瀬義右衛門が土佐藩兵隊長に幕府直営ではなく住友の山だと説いて稼業を許された
- 住石ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [4]1893年11月に庄司砿(九州)を入手し石炭業に着手した
- [6]1924年10月に坂炭砿株式会社(北海道)の経営に参加した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
- [5]1894年4月に忠隈砿(九州)を入手し、若松炭業所を設立して石炭業進出の基礎を樹立した
- [7]1925年10月に坂炭砿株式会社の商号を住友坂炭砿株式会社に変更し、上歌志内砿・赤平砿の経営に乗り出した
- [8]1928年6月に住友九州炭砿株式会社を設立し、同年11月に潜竜砿を買収した
- [9]1928年12月から1929年1月にかけて北海道で歌志内・新歌志内・奔別・奈井江・上赤平の5鉱、九州で芳野浦砿を買収した
- [10]1930年4月に住友坂炭砿と住友九州炭砿を合併し、資本金1,500万円の住友炭砿を設立した
- [11]住友家は元禄年間の別子銅山開発から約260年にわたり鉱山経営を続け、明治年間に至って石炭業進出を企図した
- [15]昭和5年4月に住友坂炭砿と住友九州炭砿を合併して住友炭砿を設立し、石炭鉱業経営への確固たる地歩を固めるに至った
- 証券 1949年
- [12]九州筑豊炭田の忠隈砿は自家消費用として明治27年から経営していた
- [13]忠隈での経営の体験を生かして北海道に進出し、大正14年に赤平砿・上歌志内砿を買収した
- [14]石炭部門の本格的進出は金属部門に比べて遅れた
- [16]北海道の鉱区の開発資金は別子銅山の収益で賄うこととなった
1928年〜上歌志内の爆発事故74人と輸入機械による機械化
1928年3月、緑川国栄氏は工業学校の機械科を卒業し、住友坂炭砿の上歌志内炭鉱へ入社した。同年8月5日の上歌志内炭砿の爆発事故では74人が犠牲になり、遺体の搬出完了までに14日を要したが、緑川氏は入坑前だったため難を逃れた。1929年から1930年にかけて、上歌志内では近代化と機械化に大きな投資が行われた。米国からは225馬力の横置2段空気圧縮機、岩粉製造設備、坑内防爆型の4屯蓄電池機関車2台、ドイツからは緩傾斜払用の空気動シェーカーコンベヤ50メートル分を輸入した。図面と説明書はすべて英文で、緑川氏は退社後に宿舎へ持ち帰って和訳し、これらを稼働させた。
- 炭鉱技術 1990年9-10月号「一生を住友石炭鉱業(株)と共に」(緑川国栄)
- [17]緑川国栄は工業学校機械科を卒業し、1928年3月に住友坂炭鉱上歌志内炭鉱へ就職した
- [18]1928年8月5日の上歌志内炭砿の爆発事故で74人の犠牲者が発生し、遺体搬出完了まで14日を要した。緑川は入坑前だったため難を逃れた
- [19]1929年から1930年にかけて近代化・機械化とともに増産態勢を整えるための大投資の年を迎えた
- [20]米国から225馬力横置2段空気圧縮機1台・岩粉製造設備1式・ドリルシャプナー1台・坑内防爆型4屯蓄電池機関車2台・充電設備1式、ドイツから緩傾斜払用空気動シェーカーコンベヤ1式50メートル分を輸入した
- [21]図面及び説明書はすべて英文だったため、勤務中の時間と退社後の宿舎で和訳し、これらすべてを稼働させた
緑川氏が水洗槽本体の製作設計を任されたのは、東京ガス向けにガス発生用と原料炭を洗炭して売ることを目指し、洗炭設備を設ける方針が立ったためである。それまでは塊炭と中塊を国鉄の機関車用に回し、粉炭は洗わずに鍛冶向けとして出していたが、出炭が伸びると鍛冶向けだけでは売上が増えなくなっていた。設計には九州の忠隈炭鉱から選炭係長が出張して加わり、緑川氏は日曜も休まず夜12時まで図面を引いた。発注先は九州の製作所で、設備は1929年12月20日の試運転からそのまま操業に入った。毎時45屯能力の鉄製バウム2台は北海道で初めてのもので、灰分8%を狙って8%から10%に振れる状態から、昼は操業、夜は12時まで改造作業を続けた。
- 炭鉱技術 1990年9-10月号「一生を住友石炭鉱業(株)と共に」(緑川国栄)
- [22]ガス発生用ならびに原料炭として洗炭のうえ東京ガスに販売する目途で洗炭設備を設置することになり、緑川が水洗槽本体の製作設計を担当した
- [23]塊炭・中塊は国鉄機関車用炭、粉炭は未洗のまま鍛冶用炭として販売していたが、鍛冶用だけでは販売が伸びなかった
- [24]九州忠隈炭鉱の選炭係長の出張を受け、夜は12時まで日曜もなく設計して九州の製作所に発注し、12月20日に試運転と同時に操業へ入った
- [25]毎時45屯能力の鉄製バウム2台は北海道で初めてのもので、灰分8%の規格に対し8%から10%という状況で、昼は操業、夜は12時まで改造作業を続けた
参考文献[17]-[25]
- [17]緑川国栄は工業学校機械科を卒業し、1928年3月に住友坂炭鉱上歌志内炭鉱へ就職した
- [18]1928年8月5日の上歌志内炭砿の爆発事故で74人の犠牲者が発生し、遺体搬出完了まで14日を要した。緑川は入坑前だったため難を逃れた
- [19]1929年から1930年にかけて近代化・機械化とともに増産態勢を整えるための大投資の年を迎えた
- [20]米国から225馬力横置2段空気圧縮機1台・岩粉製造設備1式・ドリルシャプナー1台・坑内防爆型4屯蓄電池機関車2台・充電設備1式、ドイツから緩傾斜払用空気動シェーカーコンベヤ1式50メートル分を輸入した
- [21]図面及び説明書はすべて英文だったため、勤務中の時間と退社後の宿舎で和訳し、これらすべてを稼働させた
- [22]ガス発生用ならびに原料炭として洗炭のうえ東京ガスに販売する目途で洗炭設備を設置することになり、緑川が水洗槽本体の製作設計を担当した
- [23]塊炭・中塊は国鉄機関車用炭、粉炭は未洗のまま鍛冶用炭として販売していたが、鍛冶用だけでは販売が伸びなかった
- [24]九州忠隈炭鉱の選炭係長の出張を受け、夜は12時まで日曜もなく設計して九州の製作所に発注し、12月20日に試運転と同時に操業へ入った
- [25]毎時45屯能力の鉄製バウム2台は北海道で初めてのもので、灰分8%の規格に対し8%から10%という状況で、昼は操業、夜は12時まで改造作業を続けた
1932年〜石炭鉱業連合会の出炭制限と住友鉱業への合併
1921年10月、全国の炭鉱主は石炭鉱業連合会を設立して同年5月に確認した出炭制限の実行を主要業務とし、制限率は北海道が20%、常磐が12.5%、筑豊その他が17%に及んだ。露天掘りでコストの低い撫順炭の移入も圧力となり、1932年には販売統制機関の昭和石炭株式会社が生まれた。不況は同時に合理化と大規模炭鉱への集中を進め、年産10万トン以下の炭鉱が生産に占める比重は1921年の27%から1931年に15%まで下がり、年産100万トン以上の大型炭鉱は1921年の1炭鉱・全生産の6%から1936年には8炭鉱・27%に増えた。労務者は1919年の34万8,000人から1932年に13万8,000人へ減り、出炭能率は1人1日7.5トンから16.8トンに上がった。住友による歌志内と芳の浦の取得も、この時期の鉱区再編にあたる。
- 日本産業史 第1巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石炭-長い苦難、自主統制」
- [26]1921年10月に石炭鉱業連合会を設立し、同年5月の出炭制限協定(北海道20%、常磐12.5%、筑豊その他17%)の実行を主要業務とした
- [27]露天掘りでコストの低い撫順炭の移入が外部からの圧力となり、1932年に販売統制機関の昭和石炭株式会社が設立された
- [28]年産10万トン以下の炭鉱の生産比重は1921年の27%から1931年までに15%へ下がり、年産100万トン以上の大型炭鉱は1921年に1つ・全生産の6%だったものが1936年には8炭鉱・27%になった
- [29]労務者は1919年の34万8,000人をピークに1932年は13万8,000人へ激減し、出炭能率は1人1日7.5トンから16.8トンに上昇した
- [30]鉱区の再編成が進み、住友の歌志内、芳の浦の取得あるいは経営参加がこの時期に行われた
1937年6月、住友炭砿は住友別子鉱山と合併し、資本金2,700万円の住友鉱業となった。1927年6月設立の住友別子鉱山は主として別子銅山を経営しており、合併は石炭と金属を一社にまとめて増産を進める狙いだった。同じ1937年8月、住友最後の鉱区である赤平に年産100万屯の炭鉱を開発することが決まり、緑川氏らは農家の一室に身を寄せ、12坪の納家1棟を仮事務所として坑内外の施設計画に入った。翌1938年1月に坑口の開鑿へ着工したが、戦時態勢のため10馬力前後の小型電気ホイスト1台さえ手に入らず、斜坑60メートルまでカグラサンで木製炭車1車を巻き上げた。赤平が年産25万屯に達するまでに6年を要した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
- [31]1937年6月に住友別子鉱山株式会社と合併し、商号を住友鉱業株式会社に変更した(資本金2,700万円)
- [32]住友別子鉱山は1927年設立で主として別子銅山の経営を行ってきた会社であり、総合経営による強力な増産態勢を整えるための合併だった
- 炭鉱技術 1990年9-10月号「一生を住友石炭鉱業(株)と共に」(緑川国栄)
- [33]1937年8月に住友最後の鉱区である赤平へ年産100万屯の大炭砿を開発することになり、赤平の農家の一室に厄介になり納家12坪1棟を仮事務所として坑内外の施設計画に入った
- [34]1938年1月に坑口開鑿と坑外諸施設工事へ着工したが、戦時態勢のため10馬力前後の小型電気ホイスト1台がなかなか手に入らず、斜坑60メートルまでカグラサンで木製炭車1車を巻き上げた
- [35]6年を経過して坑内外の設備が整い、年産25万屯程度になった
戦時下で住友鉱業は規模を拡大し、1941年7月に資本金を5,000万円へ、1943年11月に8,000万円へ増やし、1944年6月に九州の唐津砿、1945年5月に北海道の弥生砿を買収して増産に努めた。軍の委嘱により、フィリピン、セレベス、ジャワなど南方のニッケル鉱山と炭田の開発にも従事した。敗戦後は財閥解体により、1946年1月に社名を井華鉱業へ変更した。1949年9月には、それまで住友一族と住友関係会社の所有で公開されていなかった株式が一般に売り出され、株式の分散化が進んだ。同年10月、井華鉱業は東京・大阪両証券取引所に株式を上場した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
- [36]1941年7月に資本金を5,000万円、1943年11月に8,000万円に増加し、1944年6月に九州唐津砿、1945年5月に北海道弥生砿をそれぞれ買収して石炭の増産に努めた
- [37]軍の委嘱によりフィリピン、セレベス、ジャワ等南方におけるニッケル鉱山、炭田の開発にも従事した
- [38]占領下における経済民主化の一環としての財閥解体により、1946年1月に社名を井華鉱業に変更した
- [39]1949年9月、従来住友一族・住友関係会社の所有に属し公開されていなかった株式が一般に売り出され、株式の分散化が行われた
- 住石ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [40]1949年10月に東京・大阪両証券取引所に株式を上場した
1949年10月に上場した時点の井華鉱業は、石炭の月産15万屯で全国出炭量の約4.2%を占め、業界第4位にあった。出炭の内訳は九州が30%、北海道が70%だった。北海道炭の平均品位は6,875カロリーで全国第一位、九州炭を含めた平均でも6,584カロリーと、全国平均を大きく上回った。ガス発生炉用炭と原料用炭が産出量の46.8%を占め、販売高の64%以上は永年固定した大口需要先が引き取った。もっとも石炭は基礎物資として低価格に抑えられ、価格差補給金と損失補償金による出炭政策が3年余り続いた。優秀炭でも採算は合わず、政府補償を差し引いて1億9,000余万円の赤字融資が残った。同年9月には配炭公団が廃止され、完全な自由企業の姿に復した。品位の高さと需要先の固さは、統制が外れて初めて値段に映る資産だった。
- 証券 1949年
- [41]1949年時点の石炭部門の月産は15万屯で全国出炭量の約4.2%を占め、業界第4位だった
- [42]出炭量の地区別内訳は九州30%、北海道70%だった
- [43]北海道炭の平均品位は6,875カロリーで全国第一位、九州炭を含めた平均品位は6,584カロリーで、全国平均5,690カロリーを上回った
- [44]ガス発生炉用炭と原料用炭が産出量の46.8%(1949年7月実績)を占め、全販売高の64%以上が永年の固定的な大口優良需要先だった
- [45]石炭は基礎物資として低価格に抑えられ、価格差補給金・損失補償金制の出炭政策が3か年余り続いた
- [46]政府補償を差し引いて1億9,000余万円の赤字融資が残った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
- [47]1949年9月の配炭公団の廃止により完全な自由企業の姿に復した
参考文献[26]-[47]
- 日本産業史 第1巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石炭-長い苦難、自主統制」
- [26]1921年10月に石炭鉱業連合会を設立し、同年5月の出炭制限協定(北海道20%、常磐12.5%、筑豊その他17%)の実行を主要業務とした
- [27]露天掘りでコストの低い撫順炭の移入が外部からの圧力となり、1932年に販売統制機関の昭和石炭株式会社が設立された
- [28]年産10万トン以下の炭鉱の生産比重は1921年の27%から1931年までに15%へ下がり、年産100万トン以上の大型炭鉱は1921年に1つ・全生産の6%だったものが1936年には8炭鉱・27%になった
- [29]労務者は1919年の34万8,000人をピークに1932年は13万8,000人へ激減し、出炭能率は1人1日7.5トンから16.8トンに上昇した
- [30]鉱区の再編成が進み、住友の歌志内、芳の浦の取得あるいは経営参加がこの時期に行われた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
- [31]1937年6月に住友別子鉱山株式会社と合併し、商号を住友鉱業株式会社に変更した(資本金2,700万円)
- [32]住友別子鉱山は1927年設立で主として別子銅山の経営を行ってきた会社であり、総合経営による強力な増産態勢を整えるための合併だった
- [36]1941年7月に資本金を5,000万円、1943年11月に8,000万円に増加し、1944年6月に九州唐津砿、1945年5月に北海道弥生砿をそれぞれ買収して石炭の増産に努めた
- [37]軍の委嘱によりフィリピン、セレベス、ジャワ等南方におけるニッケル鉱山、炭田の開発にも従事した
- [38]占領下における経済民主化の一環としての財閥解体により、1946年1月に社名を井華鉱業に変更した
- [39]1949年9月、従来住友一族・住友関係会社の所有に属し公開されていなかった株式が一般に売り出され、株式の分散化が行われた
- [47]1949年9月の配炭公団の廃止により完全な自由企業の姿に復した
- [33]1937年8月に住友最後の鉱区である赤平へ年産100万屯の大炭砿を開発することになり、赤平の農家の一室に厄介になり納家12坪1棟を仮事務所として坑内外の施設計画に入った
- [34]1938年1月に坑口開鑿と坑外諸施設工事へ着工したが、戦時態勢のため10馬力前後の小型電気ホイスト1台がなかなか手に入らず、斜坑60メートルまでカグラサンで木製炭車1車を巻き上げた
- [35]6年を経過して坑内外の設備が整い、年産25万屯程度になった
- 住石ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [40]1949年10月に東京・大阪両証券取引所に株式を上場した
- 証券 1949年
- [41]1949年時点の石炭部門の月産は15万屯で全国出炭量の約4.2%を占め、業界第4位だった
- [42]出炭量の地区別内訳は九州30%、北海道70%だった
- [43]北海道炭の平均品位は6,875カロリーで全国第一位、九州炭を含めた平均品位は6,584カロリーで、全国平均5,690カロリーを上回った
- [44]ガス発生炉用炭と原料用炭が産出量の46.8%(1949年7月実績)を占め、全販売高の64%以上が永年の固定的な大口優良需要先だった
- [45]石炭は基礎物資として低価格に抑えられ、価格差補給金・損失補償金制の出炭政策が3か年余り続いた
- [46]政府補償を差し引いて1億9,000余万円の赤字融資が残った
筆者考察
住友が石炭に出たのは、銅で稼いだ金の置き場を探したからである。元禄以来260年にわたって別子銅山を掘り続けた住友総本店は、明治26年に九州の庄司砿、翌年に忠隈砿を買って石炭業へ入った。忠隈は自家消費用の山として始まり、そこで覚えた採炭を大正末から北海道へ持ち込む形になった。買った山を数えれば、歌志内・新歌志内・奔別・奈井江・上赤平と、1928年末からの1か月で5鉱に達する。その資金は別子銅山の収益で賄われた。金属が石炭の設備に化ける流れを一つの会社に収めたのが、1937年の住友炭砿と住友別子鉱山の合併だった。
戦後の井華鉱業が持っていたのは、掘る力よりも売り先だった。北海道炭の平均品位6,875カロリーは全国第一位で、ガス発生炉用炭と原料用炭が産出の46.8%を占め、販売高の64%以上は永年動かない大口需要先が引き取っていた。ところが石炭は基礎物資として値段を抑えられ、価格差補給金と損失補償金の下では優秀炭ほど割を食う。1949年に1億9,000余万円の赤字融資が残ったのは、掘り方が悪かったからではない。同年9月に配炭公団が廃止されて自由炭価に戻ったとき、初めて品位の差が値段の差になった。株式を上場したのは、その翌月である。
- 出所は会社銀行八十年史 1955年版、証券 1949年。
出典・参考
6件
- 住石ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
- 日本産業史 第1巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
- 日本産業史 第1巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石炭-長い苦難、自主統制」
- 証券 1949年
- 炭鉱技術 1990年9-10月号「一生を住友石炭鉱業(株)と共に」(緑川国栄)