第2章 年〜年

住石ホールディングス:過度経済力集中排除法による石炭専業化

1950年〜集中排除法の二分割指令による石炭一本への集中

1949年8月、井華鉱業は過度経済力集中排除法の指定を受けた。同月3日には二分割の決定指令が下った。金属鉱業部門を第二会社として設立するほか、土建部門と日用品調度部門は自発的に分離独立させることになった。1950年3月、金属部門は第二会社として分かれて現在の住友金属鉱山となり、土建と調度の二部門も別子建設と別子百貨店として発足した。残された井華鉱業は資本金2億9,000万円のまま、石炭一本の会社として新発足した。これに先立つ同年2月、本店は住友ゆかりの地である大阪から東京へ移った。1952年7月に財閥商号の禁止に関する政令が廃止されると、社名を住友石炭鉱業に改めた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [1]1949年8月に過度経済力集中排除法の指定を受けた
    • [4]1950年3月に金属部門を第二会社として分離(現在の住友金属鉱山)し、金属部門の付帯事業であった土建・調度の2部門を別子建設・別子百貨店として発足させた
    • [6]1950年2月に本店を住友ゆかりの地である大阪から東京に移転した
    • [7]1952年7月、財閥商号の禁止に関する政令の廃止に伴い社名を住友石炭鉱業に変更した
  • 証券 1949年
    • [2]1949年8月3日に二分割の決定指令を受けた
    • [3]金属鉱業部門を第二会社として設立するほか、土建部門と日用品調度部門を自発的に分離独立させることとした
    • [5]石炭部門は事前増資後の資本金2億9,000万円のまま井華鉱業として存続した

自社販売に移ったばかりの石炭業は、産業界の立ち直りが遅く需要も伸びないなかで苦境に置かれた。1949年9月に配炭公団が廃止され、自由販売に戻った直後のことである。状況を変えたのは1950年6月に起きた朝鮮動乱で、需要が一気に膨らみ、翌1951年には石炭ブームと呼ばれる活況となった。収益は大きく好転し、蓄えた資本で設備を大幅に改めることができた。資本金の増額は1949年11月に2億9,000万円、1952年10月に6億円と続いた。1952年6月期は売上高71億3,572万円に対し、営業利益7億3,843万円、当期純利益5億3,368万円を計上した。同期の石炭生産実績は半期で111万8,000屯に達した。公団の下では届かなかった高品位炭の値打ちが、自由炭価と戦争需要の重なったところで初めて数字になった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [8]産業界の復興は遅々として石炭の需要も多くはなく、自売早々の石炭業は苦難の歩みをつづけた
    • [9]1950年6月の朝鮮動乱の勃発に伴い需要は急速に伸び、翌1951年にはいわゆる石炭ブームを現出した
    • [10]収益状態が大いに改善され、資本蓄積も進んで大幅の設備改善を行うことができた
    • [11]資本金は1949年11月に2億9,000万円、1952年10月に6億円へ増額した
  • 株式会社年鑑 1953年版「住友石炭鉱業」
    • [12]1952年6月期の売上高は7,135,723千円、営業利益は738,433千円、当期純利益は533,682千円だった
    • [13]1952年1月から6月までの石炭生産実績は1,118,000屯だった

1953年に入ると石炭は生産過剰の様相を見せた。朝鮮動乱がもたらした好況が、しだいに冷え込んで下り坂に転じたのである。炭価を下げるため、通商産業省は割安な輸入炭や石油製品への切り替えを産業界に勧めた。1954年には貯炭が400万トンを超え、中小炭鉱が値を崩したことで大手も圧迫を受けた。こうした市況の落ち込みを見通して、住友石炭鉱業は竪坑の開鑿と坑内外の機械化による合理化工事に取り組んだ。あわせて寿命の尽きた新歌志内砿を1953年8月に、採算上不利な芳野浦砿を同年11月に、それぞれ好時期に閉山した。1954年度の生産実績は178万8,700屯で、全国出炭の4.2%を占めた。事業所は九州の忠隈・潜竜・唐津、北海道の赤平・奔別・弥生・奈井江・歌志内の8炭砿だった。保有鉱区は244鉱区、従業員数は約1万3,000名を数えた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [14]朝鮮動乱を契機とする活況はその後次第に軟化して下降の一路をたどり、1953年に入って生産過剰の様相を呈した
    • [17]かねてより市況の低迷を見越して竪坑開鑿、坑内外機械化等の合理化工事を推進した
    • [18]寿命の尽きた新歌志内砿を1953年8月に、採算上不利な芳野浦砿を同年11月にそれぞれ好時期に閉山した
    • [19]1954年度の生産実績は1,788,700屯で全国出炭の4.2%だった
    • [20]事業所は九州で忠隈・潜竜・唐津、北海道で赤平・奔別・弥生・奈井江・歌志内の8炭砿を操業していた
    • [21]保有鉱区は244鉱区、従業員数は約1万3,000名だった
  • 新日本経済 1954年
    • [15]通産省が割安な輸入炭や石油製品の利用を産業界にすすめるなど炭価引下げに乗り出した
    • [16]1954年時点で貯炭は400万トンを突破し、中小炭鉱の値くずしで大手筋が圧迫された
参考文献[1]-[21]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [1]1949年8月に過度経済力集中排除法の指定を受けた
    • [4]1950年3月に金属部門を第二会社として分離(現在の住友金属鉱山)し、金属部門の付帯事業であった土建・調度の2部門を別子建設・別子百貨店として発足させた
    • [6]1950年2月に本店を住友ゆかりの地である大阪から東京に移転した
    • [7]1952年7月、財閥商号の禁止に関する政令の廃止に伴い社名を住友石炭鉱業に変更した
    • [8]産業界の復興は遅々として石炭の需要も多くはなく、自売早々の石炭業は苦難の歩みをつづけた
    • [9]1950年6月の朝鮮動乱の勃発に伴い需要は急速に伸び、翌1951年にはいわゆる石炭ブームを現出した
    • [10]収益状態が大いに改善され、資本蓄積も進んで大幅の設備改善を行うことができた
    • [11]資本金は1949年11月に2億9,000万円、1952年10月に6億円へ増額した
    • [14]朝鮮動乱を契機とする活況はその後次第に軟化して下降の一路をたどり、1953年に入って生産過剰の様相を呈した
    • [17]かねてより市況の低迷を見越して竪坑開鑿、坑内外機械化等の合理化工事を推進した
    • [18]寿命の尽きた新歌志内砿を1953年8月に、採算上不利な芳野浦砿を同年11月にそれぞれ好時期に閉山した
    • [19]1954年度の生産実績は1,788,700屯で全国出炭の4.2%だった
    • [20]事業所は九州で忠隈・潜竜・唐津、北海道で赤平・奔別・弥生・奈井江・歌志内の8炭砿を操業していた
    • [21]保有鉱区は244鉱区、従業員数は約1万3,000名だった
  • 証券 1949年
    • [2]1949年8月3日に二分割の決定指令を受けた
    • [3]金属鉱業部門を第二会社として設立するほか、土建部門と日用品調度部門を自発的に分離独立させることとした
    • [5]石炭部門は事前増資後の資本金2億9,000万円のまま井華鉱業として存続した
  • 株式会社年鑑 1953年版「住友石炭鉱業」
    • [12]1952年6月期の売上高は7,135,723千円、営業利益は738,433千円、当期純利益は533,682千円だった
    • [13]1952年1月から6月までの石炭生産実績は1,118,000屯だった
  • 新日本経済 1954年
    • [15]通産省が割安な輸入炭や石油製品の利用を産業界にすすめるなど炭価引下げに乗り出した
    • [16]1954年時点で貯炭は400万トンを突破し、中小炭鉱の値くずしで大手筋が圧迫された

1956年〜赤平への集中投資と立坑斜坑併用への設計変更

住友石炭鉱業の競争優位は炭坑の若さと採炭能率の高さにあった。大手五社のなかでも採炭能率は太平洋炭礦と首位を争い、売上原価も三井や三菱より良好とされた。それを保つ山元の合理化促進には、今後も巨額の資金を要するとみられていた。資本金は1952年10月の6億円から1956年10月に12億円、1957年10月に24億円へと倍額増資を重ねて積み上げられた。1957年10月の倍額増資は借金過多の是正であるとともに、今後の資金的伸展力を培養する狙いを持つ措置と受け止められた。この増資の直前、1950年3月の分離以来社長の座にあった福永年久氏が1957年8月30日付で会長に退き、副社長の石松正鐵氏が社長に昇格した。福永氏は忠隈炭坑の機械係から九州と北海道の各鉱業所長を歴任した技術者で、後を継いだ石松氏も現場の長かった採鉱科の出身だった。

  • 日本経済新報 1958年
    • [22]住友石炭鉱業は大手五社の中でも炭坑が若く、採炭能率がずば抜けて良かった
    • [23]採炭能率は太平洋炭鉱と首位を争い、売上原価も三井・三菱より良好だった
    • [24]今後の山元の諸般の合理化促進には巨額の資金を要すると見られていた
    • [26]1957年10月の倍額増資は借金過多の是正と、今後の資金的伸展力を培養する狙いによる措置とみられた
    • [27]1957年8月30日付で福永年久が副社長から昇格した石松正鐵に社長を譲り会長となった。福永は1950年3月の石炭と金属鉱業の分離以来社長の地位にあった
    • [29]石松正鐵は1926年に九州帝国大学工学部採鉱科を卒えた、現場勤務の長い山育ちの技術畑だった
  • 株式会社年鑑 1959年版「住友石炭鉱業」
    • [25]資本金は1952年10月に6億円、1956年10月に12億円、1957年10月に24億円へ増資した
  • 新日本経済 1954年
    • [28]福永年久は1920年に九州帝国大学工学部機械工学科を卒えて住友総本店に入社し、忠隈炭坑の機械係から九州・北海道の各鉱業所長を歴任した

赤平炭砿は開発の途中で、当初の年産100万屯計画から200万屯計画へ引き上げられた。斜坑の垂直深度450メートル・延長1,600メートルを超えると巻上げが2段3段と増え、能率が落ちるため立坑が要った。ドイツ方式で実施すれば中央立坑はケージ立坑とスキップ立坑の2本が必要となり、当初はこの案がかなり検討されていた。運搬能力でベルトが立坑をしのぎ、長い物件の出し入れにも斜坑が向くとして、技術者の緑川国栄氏は当初からドイツ方式に反対した。長時間の停電が起きても鉱員が斜坑を歩いて自力で坑外に出られ、投資額も半分ですむ点も理由に加わった。緑川氏は長所と短所を書いた10数枚のビラを用意し、2、3回上京して説明した末に許可を得て、立坑斜坑併用案が採られた。1958年上期の生産実績は91万1,500屯で、120万屯の生産能力には達していない。

  • 炭鉱技術 1990年9-10月号「一生を住友石炭鉱業(株)と共に」(緑川国栄)
    • [30]赤平炭砿は中間において100万屯から200万屯計画に変わった
    • [31]採掘深度が斜坑の垂直深度450メートル・延長1,600メートルを超えると巻上げが2段3段と増え、人員の昇降時間も延びて能率が減少するため立坑が必要になる
    • [32]ドイツ方式で実施すれば中央立坑はケージ立坑とスキップ立坑の2本が必要となり、当初はドイツ方式の案がかなり検討されていた
    • [33]反対の理由は、運搬能力はベルトがまさること、長大物件の搬出入には斜坑が有利なことだった
    • [34]緑川国栄は当初からドイツ方式に反対した
    • [35]反対の理由には、長時間の停電事故等でも鉱員は斜坑を徒歩で自力出坑できること、投資が半分で済むことも含まれた
    • [36]利害得失を説明するため10数枚のビラを作成して2、3回上京して説明した結果許可となり、これが赤平炭砿の立坑斜坑併用案となった
  • 株式会社年鑑 1959年版「住友石炭鉱業」
    • [37]1958年1月から6月までの石炭生産実績は911,500屯で、生産能力は1,200,000屯だった

東京瓦斯との取引では灰分8%が規格とされていたが、赤平炭砿の製品は7%から11%の間で上下した。原因は、高品位原炭3層と低品位原炭2層を掘る多層採掘でありながら、洗炭を一本系統で混ぜて行っていたことにあった。原料炭には使えないと判断されて納炭が止まり、揚地にはおよそ2か月分の石炭が積み上がった。本社に呼び出された緑川氏は、赤平の炭が売れなくなれば会社は何で食べていくのかと社長から叱られた。そこで原料炭ポケット600屯を高低7対3の割合で仕切り、チップラーで時間ごとに転函して品位別に貯め、良いものと悪いものを分けて給炭する二色洗炭に改めた。実施の結果、灰分は5%から6%に安定し、全体の歩留りも10%上昇した。販売先は日本国有鉄道や電力5社、富士製鉄、大阪瓦斯と東京瓦斯に固定していた。

  • 炭鉱技術 1990年9-10月号「一生を住友石炭鉱業(株)と共に」(緑川国栄)
    • [38]東京ガスとの取引規格は灰分8%であったが、7%から11%という振れがあった
    • [39]赤平炭砿は高品位原炭3層・低品位原炭2層の多層採掘で、一本系統の混合洗炭のため製品品位のばらつきが発生した
    • [40]原料炭として使用不可となり納炭ストップという事態になり、約2か月分の送炭が揚地に山積みとなった
    • [41]社長より本社に呼びつけられ、赤平の炭を売れなくしたら会社は何で飯を食って行くのかと叱責を受けた
    • [42]原料炭ポケット600屯を高低割合7対3に間仕切りした
    • [43]チップラーで時間別に転函させて品位別に貯蔵し、良悪別に給炭する二色洗炭に切り替えた
    • [44]実施の結果、灰分は5%から6%に安定し、全体歩留りも10%の上昇となった
  • 株式会社年鑑 1964年版「住友石炭鉱業」
    • [45]主な販売先は日本国有鉄道、東京電力、関西電力、北海道電力、九州電力、東北電力、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄、住友金属工業、大阪瓦斯、東京瓦斯だった
参考文献[22]-[45]
  • 日本経済新報 1958年
    • [22]住友石炭鉱業は大手五社の中でも炭坑が若く、採炭能率がずば抜けて良かった
    • [23]採炭能率は太平洋炭鉱と首位を争い、売上原価も三井・三菱より良好だった
    • [24]今後の山元の諸般の合理化促進には巨額の資金を要すると見られていた
    • [26]1957年10月の倍額増資は借金過多の是正と、今後の資金的伸展力を培養する狙いによる措置とみられた
    • [27]1957年8月30日付で福永年久が副社長から昇格した石松正鐵に社長を譲り会長となった。福永は1950年3月の石炭と金属鉱業の分離以来社長の地位にあった
    • [29]石松正鐵は1926年に九州帝国大学工学部採鉱科を卒えた、現場勤務の長い山育ちの技術畑だった
  • 株式会社年鑑 1959年版「住友石炭鉱業」
    • [25]資本金は1952年10月に6億円、1956年10月に12億円、1957年10月に24億円へ増資した
    • [37]1958年1月から6月までの石炭生産実績は911,500屯で、生産能力は1,200,000屯だった
  • 新日本経済 1954年
    • [28]福永年久は1920年に九州帝国大学工学部機械工学科を卒えて住友総本店に入社し、忠隈炭坑の機械係から九州・北海道の各鉱業所長を歴任した
  • 炭鉱技術 1990年9-10月号「一生を住友石炭鉱業(株)と共に」(緑川国栄)
    • [30]赤平炭砿は中間において100万屯から200万屯計画に変わった
    • [31]採掘深度が斜坑の垂直深度450メートル・延長1,600メートルを超えると巻上げが2段3段と増え、人員の昇降時間も延びて能率が減少するため立坑が必要になる
    • [32]ドイツ方式で実施すれば中央立坑はケージ立坑とスキップ立坑の2本が必要となり、当初はドイツ方式の案がかなり検討されていた
    • [33]反対の理由は、運搬能力はベルトがまさること、長大物件の搬出入には斜坑が有利なことだった
    • [34]緑川国栄は当初からドイツ方式に反対した
    • [35]反対の理由には、長時間の停電事故等でも鉱員は斜坑を徒歩で自力出坑できること、投資が半分で済むことも含まれた
    • [36]利害得失を説明するため10数枚のビラを作成して2、3回上京して説明した結果許可となり、これが赤平炭砿の立坑斜坑併用案となった
    • [38]東京ガスとの取引規格は灰分8%であったが、7%から11%という振れがあった
    • [39]赤平炭砿は高品位原炭3層・低品位原炭2層の多層採掘で、一本系統の混合洗炭のため製品品位のばらつきが発生した
    • [40]原料炭として使用不可となり納炭ストップという事態になり、約2か月分の送炭が揚地に山積みとなった
    • [41]社長より本社に呼びつけられ、赤平の炭を売れなくしたら会社は何で飯を食って行くのかと叱責を受けた
    • [42]原料炭ポケット600屯を高低割合7対3に間仕切りした
    • [43]チップラーで時間別に転函させて品位別に貯蔵し、良悪別に給炭する二色洗炭に切り替えた
    • [44]実施の結果、灰分は5%から6%に安定し、全体歩留りも10%の上昇となった
  • 株式会社年鑑 1964年版「住友石炭鉱業」
    • [45]主な販売先は日本国有鉄道、東京電力、関西電力、北海道電力、九州電力、東北電力、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄、住友金属工業、大阪瓦斯、東京瓦斯だった

1960年〜石油とヒーターへの多角化から石炭専念への引き戻し

1960年7月、住友石炭鉱業は石油製品の販売を開始して多角経営に乗り出した。ヒーターの販売は1963年から始めた。1962年12月期の売上高は98億3,342万円、営業利益は2,510万円だった。前々期の1億3,057万円から2期で5分の1以下に落ちた。従業員は8,837人で、1958年の1万1,867人から3,000人余り減った。事業所も赤平と奔別の2鉱業所だけになり、1958年まで並んでいた九州の忠隈と潜竜は表から消えた。半期の石炭生産実績は136万700屯で、山を減らしながら出炭そのものは落ちていない。事業の内訳は、1968年の時点で石炭、重油、ヒーターほかとなった。

  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「住友石炭鉱業」
    • [46]1960年7月に石油製品の販売を開始して多角経営に乗り出した
    • [47]ヒーター販売は1963年からである
    • [53]1968年時点の事業は石炭、重油、ヒーター他である
  • 株式会社年鑑 1964年版「住友石炭鉱業」
    • [48]1962年12月期の売上高は9,833,428千円、営業利益は25,104千円だった
    • [49]1961年12月期の営業利益は130,573千円だった
    • [50]1962年12月末の従業員は8,837人で、1958年6月末は11,867人だった
    • [51]1962年時点の事業所は赤平鉱業所と奔別鉱業所で、1958年時点の赤平・奔別・忠隈・潜竜から九州の2鉱業所が外れた
    • [52]1962年7月から12月までの石炭生産実績は1,360,700屯だった

1967年3月期から1969年3月期までの5期、住友石炭鉱業は当期損失を出し続け、無配のままだった。1969年3月期の売上高は138億8,377万円、営業損失は4億5,734万円だった。繰越損失を含めた当期未処理損失は43億8,469万円に達し、資本合計は8億3,521万円まで痩せた。経常損益を支えたのは補助金で、営業外収益には石炭鉱山整理促進交付金10億2,082万円が計上された。元利補給金9億917万円と坑道掘進費補助金3億6,160万円も並んだ。1967年度から異常負債の肩代わりと坑道掘進助成金の支給が始まり、経営はある程度楽になるとみられていた。非能率炭鉱の整理は進み、生産は北海道の赤平・歌志内・奔別へ集中して、新政策では全山がビルド鉱に指定された。

  • 日本企業要覧 1969年版「住友石炭鉱業」
    • [54]1967年3月期・1967年9月期・1968年3月期・1968年9月期・1969年3月期の5期はいずれも純損失で、配当は0%だった
    • [55]1969年3月期の売上高は13,883,770千円、営業損失は457,344千円だった
    • [56]1969年3月期の当期未処理損失は4,384,694千円、資本合計は835,219千円だった
    • [57]1969年3月期の営業外収益には石炭鉱山整理促進交付金1,020,828千円が計上された
    • [58]1969年3月期の営業外収益には元利補給金909,173千円、坑道堀進費補助金361,604千円が計上された
    • [60]非能率炭鉱を整理して北海道の赤平・歌志内・奔別に生産を集中し、新政策によって全山ビルド鉱に指定された
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「住友石炭鉱業」
    • [59]1967年度から異常負債の肩代わりと坑道掘進助成金の支給により経営もある程度楽になるとされた

1969年1月1日、川副官次氏が石松正鐵氏からバトンを受けて社長に就いた。57歳で、石炭会社の社長としてはもっとも若かった。1911年9月に佐賀県で生まれ、1937年3月に九州帝国大学工学部を出て同年4月に住友炭砿へ入った人物である。1962年8月に取締役、1968年5月に副社長を経ての就任だった。1969年4月早々には、住友石炭年来の重荷であった杵島炭鉱の企業ぐるみ閉山をやり遂げた。続く8月1日には住石興産を発足させ、兼業部門の移管と関連子会社の統轄を委ねた。同じ期に石油・機器・石灰石の販売に関する営業の譲渡、管理職員の縮減、機構の簡素化、子会社の再編も進めた。9年前に広げた石油とヒーターの裾野は、赤字を埋める力にならないまま本体から切り離された。

  • 旬刊セキツウ 1969年「エネルギー人 住友石炭鉱業社長 川副官次氏」
    • [61]1969年元日に石松前社長からバトンタッチを受けて社長に就任した
    • [62]57歳で、石炭会社社長としてはもっとも若かった
    • [63]川副官次は1911年9月に佐賀県で生まれ、1937年3月に九州帝国大学工学部を卒業し、1937年4月に住友炭鉱へ入社した
    • [64]1962年8月に取締役、1964年8月に常務取締役、1968年5月に取締役副社長、1969年1月に取締役社長となった
    • [65]住友石炭年来の重荷であった杵島炭鉱株式会社の企業ぐるみ閉山を1969年4月早々にやり遂げた
    • [66]1969年8月1日に住石興産を発足させ、兼業部門の移管と関連子会社統轄を委せ、住友石炭鉱業としては石炭だけに専念することになった
  • 日本企業要覧 1969年版「住友石炭鉱業」
    • [67]1969年3月期には石油、機器及び石灰石の販売に関する営業の譲渡、管理職々員の縮減、機構の簡素化、子会社の再編とその独立体制の強化を推進した
参考文献[46]-[67]
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「住友石炭鉱業」
    • [46]1960年7月に石油製品の販売を開始して多角経営に乗り出した
    • [47]ヒーター販売は1963年からである
    • [53]1968年時点の事業は石炭、重油、ヒーター他である
    • [59]1967年度から異常負債の肩代わりと坑道掘進助成金の支給により経営もある程度楽になるとされた
  • 株式会社年鑑 1964年版「住友石炭鉱業」
    • [48]1962年12月期の売上高は9,833,428千円、営業利益は25,104千円だった
    • [49]1961年12月期の営業利益は130,573千円だった
    • [50]1962年12月末の従業員は8,837人で、1958年6月末は11,867人だった
    • [51]1962年時点の事業所は赤平鉱業所と奔別鉱業所で、1958年時点の赤平・奔別・忠隈・潜竜から九州の2鉱業所が外れた
    • [52]1962年7月から12月までの石炭生産実績は1,360,700屯だった
  • 日本企業要覧 1969年版「住友石炭鉱業」
    • [54]1967年3月期・1967年9月期・1968年3月期・1968年9月期・1969年3月期の5期はいずれも純損失で、配当は0%だった
    • [55]1969年3月期の売上高は13,883,770千円、営業損失は457,344千円だった
    • [56]1969年3月期の当期未処理損失は4,384,694千円、資本合計は835,219千円だった
    • [57]1969年3月期の営業外収益には石炭鉱山整理促進交付金1,020,828千円が計上された
    • [58]1969年3月期の営業外収益には元利補給金909,173千円、坑道堀進費補助金361,604千円が計上された
    • [60]非能率炭鉱を整理して北海道の赤平・歌志内・奔別に生産を集中し、新政策によって全山ビルド鉱に指定された
    • [67]1969年3月期には石油、機器及び石灰石の販売に関する営業の譲渡、管理職々員の縮減、機構の簡素化、子会社の再編とその独立体制の強化を推進した
  • 旬刊セキツウ 1969年「エネルギー人 住友石炭鉱業社長 川副官次氏」
    • [61]1969年元日に石松前社長からバトンタッチを受けて社長に就任した
    • [62]57歳で、石炭会社社長としてはもっとも若かった
    • [63]川副官次は1911年9月に佐賀県で生まれ、1937年3月に九州帝国大学工学部を卒業し、1937年4月に住友炭鉱へ入社した
    • [64]1962年8月に取締役、1964年8月に常務取締役、1968年5月に取締役副社長、1969年1月に取締役社長となった
    • [65]住友石炭年来の重荷であった杵島炭鉱株式会社の企業ぐるみ閉山を1969年4月早々にやり遂げた
    • [66]1969年8月1日に住石興産を発足させ、兼業部門の移管と関連子会社統轄を委せ、住友石炭鉱業としては石炭だけに専念することになった

筆者考察

住友石炭鉱業という社名は、集中排除法が作ったものである。1949年8月に過度経済力集中排除法の指定を受けた井華鉱業は、金属部門を第二会社として切り離して住友金属鉱山とし、土建と調度も別子建設と別子百貨店に出した。手元に残ったのは石炭だけだった。260年の鉱山経営で最も古い別子銅山は分けた側に付き、最も新しい北海道の炭鉱が本体に残る。選んだというより、分割の指令に沿って部門を並べ替えた結果として石炭専業の会社が立ち上がった。1952年に財閥商号の禁止が解けて名乗り直した住友石炭鉱業は、住友の名を取り戻した時点で、既に住友の祖業から切れていた。

石炭専業になってからの20年は、山を増やす時間ではなく減らす時間だった。1954年に九州3・北海道5の8炭砿と約1万3,000名を抱えていた体は、1962年に赤平と奔別の2鉱業所・8,837人まで縮む。その間に資本金を6億円から24億円へ倍額増資で積み上げたが、金は新しい山ではなく、赤平の立坑斜坑併用工事と二色洗炭の改造に向かった。残す山を決めて、そこへ資金と人を寄せる形である。1960年に始めた石油製品とヒーターの販売も、1969年には住石興産へ移して本体から外れた。掘る場所を絞り、売る物を絞り、最後に残ったのが赤平だった。

住友石炭鉱業の従業員数 1955年から1969年まで(人)

13,000 55年 11,867 58年 8,837 62年 8,017 69年
  • 出所は会社銀行八十年史 1955年版、株式会社年鑑 1959年版・1964年版、日本企業要覧 1969年版。

1950年〜1970年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 127 n/a 2 1.8% n/a n/a
1957年03月期 単体 175 +37.5% 5 3.3% n/a n/a
1958年03月期 単体 160 ▲8.4% 1 1.2% n/a n/a
1959年03月期 単体 168 +4.9% 2 1.5% n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a 2 n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 197 n/a 2 1.3% 1 n/a
1962年03月期 単体 193 ▲2.4% 2 1.2% 1 n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 半期合算

出典・参考

11件
出典・参考
  • 株式会社年鑑 1953年版「住友石炭鉱業」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
  • 株式会社年鑑 1959年版「住友石炭鉱業」
  • 株式会社年鑑 1964年版「住友石炭鉱業」
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「住友石炭鉱業」
  • 証券 1949年
  • 新日本経済 1954年
  • 日本経済新報 1958年
  • 日本企業要覧 1969年版「住友石炭鉱業」
  • 旬刊セキツウ 1969年「エネルギー人 住友石炭鉱業社長 川副官次氏」
  • 炭鉱技術 1990年9-10月号「一生を住友石炭鉱業(株)と共に」(緑川国栄)

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