ピジョンの前身は1948年に創業した哺乳器メーカー[1]であり、当時としては目新しいアメリカ式の哺乳ビンを作っていた。ただし経営は成り立っておらず、1か月の売上高が23万円しかないのに月給の支払いが20万円から25万円にのぼる[2]状態だった。仲田祐一氏がこの会社への経営参加を持ちかけられたのは1951年[3]で、内情を知ったときにはすでに引き返せないところまで足を踏み入れていた。前任者との争いは訴訟が20数種類にのぼり、仲田祐一氏自身も裁判所から職務遂行停止命令を2回受けた[4]。支配権を握ったのは1955年前後[5]で、そのうえで1957年8月15日、神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立[6]した。
仲田祐一氏は1910年6月23日に新潟県直江津市で生まれ[7]、1926年に県立直江津農商学校を出て神戸の近藤忠商店に入った[8]。室内装飾品の製造販売を扱う店で、1935年まで勤めて室内装飾と家具の知識を身につけた[9]。その後は大連の幾久屋百貨店で家具・内装飾部の主任[10]を務め、大陸で土地を売買して1945年ごろには10万坪を超える農園の所有者[11]になっていた。ところが戦局の悪化に伴って新潟の資産まで整理して大連へ移したため、敗戦とともに無一物となる[12]。1945年5月に現地召集を受け、ソ満国境ムーリンの部隊に配属された同期の召集兵13名のうち、生き残ったのは2名[13]だった。ソ連軍に捕らえられシベリアへ送られ、日本へ帰ったのは1947年7月[14]である。
仲田祐一氏が引き受けた市場は、小さな作り手が多数ひしめく状態にあった。哺乳器と乳首を作って売っていたメーカーは30社ほど[15][16]あったが、全国ブランドとして売っていたのはピジョンを含む数社にすぎず、大半は地域のガラス製造業者やゴム製造業者が地元の卸店の名前で売る商品[17]だった。仲田祐一氏はこの構造のなかで、単品の作り分けではなく品ぞろえで違いを出す方を選んだ[18]。哺乳器を軸に、調乳・洗浄・消毒までの用品をひととおり扱い、授乳に関わる道具をまとめて供給する形[19]をとった。乳幼児の発達段階に合わせ、ミルクの容量別・流量別に使い分けられる商品を並べた[20]のもこの時期である。
品ぞろえと並ぶもう一方の手立ては、母親が最初に育児を教わる場所を押さえることだった[21]。乳業メーカーと組んで病院・産院に商品を持ち込み、マタニティ雑誌・ベビー雑誌やテレビの広告[22]と合わせて、育児に携わる人への知名度を上げていった。規格の面でも足場を固めており、ピジョンの『キャップ式哺乳器』の規格は1967年にJIS規格へ認定[23]された。営業拠点も増やし、1958年の東京出張所[24]を皮切りに、1963年に大阪、1964年に福岡、1965年に名古屋と札幌、1967年に広島、1968年に仙台[25]と、全国主要7都市へ広げた[26]。
商品の設計そのものも仲田祐一社長の手から出ていた。実用新案は300種類にのぼり[27][28]、哺乳器・調乳器具・離乳用品・育児用品・洗浄消毒器具[29]のほとんどに社長のアイデアが入っていた。新潟へ墓参に帰った際に手にした醤油ビンから乳児用のジュースのみ器を考案した[30]という逸話も残る。乳房と乳首については数年にわたって実地の研究を続け、対象は千人近くにのぼったとされ、『週刊文春』はこれを『オッパイ社長奮戦す』の見出しで取り上げた[31]。商品化の判断には順序があり、どういう商品が求められているか、いくらなら売れるか、利益がどれだけ出るか、将来性があるか、の順[32]で考えると仲田祐一社長は述べた。
1960年代後半から1970年代初めにかけて、特殊調整粉乳の普及と第二次ベビーブーム[33]がピジョンの品ぞろえと重なった。売上高は1965年の9億円から1966年11億円、1967年16億円、1968年20億円、1969年23億円と伸び、1970年には30億円[34]と、6年間で3倍強[35]に達した。1971年時点のシェアは哺乳器が93%、おしゃぶりが80%、洗浄消毒器具が72%、紙おむつが45%[36]で、哺乳器に限ればアメリカの3社に次ぐ世界第4位にあり、ヨーロッパに肩を並べるメーカーは見当たらない[37]とされた。人工栄養で赤ちゃんを育てる家庭が増えたことで、ピジョンの名は母親のあいだで広く知られる商標[38]になった。
1971年末には千葉県の市川工場の裏に建坪およそ3,000坪の倉庫を建てる計画[39]があったが、主力の哺乳器を1か所に置かず東西に分けて保管する方針[40]をとった。火事で供給が止まれば世の中に迷惑をかけることになる[41]、というのが仲田祐一社長の説明である。1970年10月10日には多年の研究活動によって東京都から表彰[42]を受けた。従業員は300名を超え、社員持株制度や社員の海外派遣による研修制度も導入[43]した。商号は1966年6月にピジョン株式会社へ改めており[44]、哺乳器本舗という創業時の看板からは離れていた。
もっとも、この独占には条件が付いていた。育児用品の分野に有力企業が入ってこなかったのは[45]、ピジョンが強かったことに加えて、その規模の市場に大手が目をつけていなかったから[46]でもある。売上が30億円から40億円、50億円へと上がれば[47]、事情は変わりうる。独占的な地位を支えた実用新案も一定の期間が来れば公開せざるをえず、資本自由化のもとでは海外の有力企業が日本へ進出することも見込まれた[48]。社内にも危うさがあり、重役のほとんどが血族で固められていた[49]。これまでのエネルギーが主として仲田祐一社長個人によるものであるだけに、その次をどうするかが最大の問題[50]として残された。
縮んだのは市場の母数[51]のほうだった。出生数は第二次ベビーブーム期の209万人を頂点として減少に転じ、1993年には118万5,000人ほどまで落ちた[52]。20年ほどで4割以上が失われたにもかかわらず、ピジョンの売上高は伸び続けた[53]。ピジョンはこの間に海外へ拠点を置き、1978年2月にシンガポールでPIGEON SINGAPORE PTE.LTD.[54]を、1990年9月にタイでTHAI PIGEON CO.,LTD.を設立[55]した。国内では離乳関連用品のシステムカップ『マグマグ』、スキンケア用品のお尻ふき用ウエットティッシュ『おしりナップ』、電子体温計といった商品を投入[56]した。
哺乳器専業のメーカーだったピジョン[57]は育児用品の総合メーカーへ変わり[58]、さらに高齢者と女性向けの失禁介護用品、マタニティ用品まで領域を広げた。1989年9月には茨城県稲敷郡に筑波事業所を設けて物流体制を整え[59]、1991年4月には茨城県筑波郡に常総研究所を新設[60]して研究開発の体制を厚くした。1993年4月には常総研究所の中に託児所『ピジョンランド』を開いた[61]。筑波事業所には東日本物流センター[62]を置いている。幼児の心の発達を身体の発達以上の問題として突き詰めなければ、21世紀に向けた良い商品は開発できないという考え[63]に基づく施設だった。
広げた品目のすべてが残ったわけではない。1971年に45%のシェアを持っていた紙おむつ[64]は、日本で最初に売り出したのがピジョンだったにもかかわらず、1978年にプロクター・アンド・ギャンブルが参入するとほとんどのシェアを失った[65]。品質でP&Gの製品が優れていたことは確かだが、母親の意見を聞いて改良点に気付いていれば紙おむつはドル箱になっていたかもしれない[66]、と後年に同社の担当者は語っている。この反省が消費者モニター制度の整備につながった[67]。哺乳器と乳首でも1989年時点のシェアは71.8%で、ジェクスが23.1%[68]で続いた。ベビー石けんは牛乳石鹸の33.2%に対し33.0%、母乳パッドはピップフジモトの50.6%に対し37.8%[69]で、哺乳器以外では首位を取れていなかった。
1983年、仲田祐一社長の長男である仲田洋一氏が社長に就いた。入れ替えの成果が数字に出たのは1994年1月期である[70]。売上高240億5,800万円、営業利益15億9,600万円、経常利益10億9,900万円、当期利益4億6,900万円[71]と増収増益になった。牽引したのはスキンケア用品の『おしりナップ』で、前期比350%増[72]という伸びを示した。ウエットティッシュの分野ではユニ・チャームと和光堂が大きなシェアを持っていたが、ピジョンは新規参入から1年かからずにトップへ出た[73]。片手で取り出せて簡単にふきとれるという、母親の使い勝手を良くした点が評価された結果[74]だと仲田洋一社長は述べた。同じ期には介護用品の失禁関連用品も売上を伸ばした[75]。
介護用品はベビー用品と勝手が違った。50代から60代でも病弱な人がいれば[76]、80歳を過ぎても50代の体力と知力を持つ人もいて、対象の輪郭が定まらない[77]。失禁に悩む人は多いのに自分からは言い出さないため、需要が表に出ず商品開発も遅れていた[78]。高齢者にとって失禁は生理的な現象だという理解が広まるにつれ、体の機能の衰えを補う『快適パンツ』などが相次いで開発され[79]、売上が伸びた。1994年1月期時点で介護用品は売上構成比の10%を占め、育児用品の90%と並ぶ[80]もう一方の柱になった。ピジョンはさらに妊娠判定検査薬『プレサイン』を発売し、薬品分野へ参入[81]した。
1995年1月期の売上高270億7,500万円[82][83]の内訳は、スキンケア用品が92億4,200万円で34.1%、授乳関連用品が66億100万円で24.4%、介護関連用品が28億9,100万円で10.7%、おむつ用品が22億1,300万円で8.2%、離乳関連用品が18億円で6.6%[84]だった。設立以来の商品である授乳関連よりも、『おしりナップ』など消耗品を中心とするスキンケア用品の比率が高くなった[85]。売上高は1986年1月期の145億4,700万円から1995年1月期の270億7,500万円へほぼ倍増[86]しており、出生数が減り続けるなかでの倍増だった。
ピジョンの商品は薬局・デパート・スーパーで売られてきた[87]が、1986年と1993年の業態別構成比を比べると、薬局が65%から58%へ、デパートが5%から2%へ、スーパーが19%から15%へ下がり、量販専門店とホームセンターを含む『その他』が11%から25%へ上がった[88]。売場面積150坪から300坪のスーパードラッグが急ピッチで出店を増やしたことで、従来の30坪から50坪の薬局では2本から3本だった育児用品の棚が、一気に20本から30本になった[89]。大型ドラッグストアの売上構成比は、ピジョンの区分で1993年1月期の8.7%から1997年1月期には23.8%へ上がった[90]。
ピジョンは外注生産を採り、哺乳器の組み立てと乳首の孔明け処理などを除くほとんどの工程を、1995年1月時点で115社の協力メーカーと生産子会社のピジョンホームプロダクツが担っていた[91]。自社の生産設備に縛られないため、市場のニーズへ柔軟に対応できた[92]。販売は15社の特約代理店と、医療用品卸業者を主とする64社の会員店を使うルート販売[93]である。消費者へのメール調査、母親モニター制度、消費動向の聞き取り、病院・産院への訪問といった市場調査[94]で需要をつかみ、新製品を投入して潜在需要を掘り起こした。
ピジョンは1988年9月に日本証券業協会東京地区協会へ株式を店頭登録し[95]、1995年7月に東京証券取引所市場第二部へ上場、1997年7月に第一部へ指定替え[96]となった。上場時点の大株主は仲田興業が41.8%、あさひ銀行が4.2%、ナカタコーポレーションが3.9%、従業員持株会が2.8%[97]で、創業家の持株会社が支配的な地位を保っていた。1996年の時価発行公募増資では46億9,400万円を調達[98]し、自己資本比率は前期の47%台から58.3%へ、流動比率は182%から248%へ改善[99]した。1997年1月期の売上高は312億800万円、経常利益は20億6,600万円だった[100]。ただし営業利益は21億1,400万円で前期比1.6%減であり、原価率が61.4%から62.8%へ上がっている[101]。
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|---|---|---|---|---|
| 1957〜1973年引揚げ者が引き受けた哺乳器メーカーと国内シェア9割の独占(1957〜1973) | 破綻状態の哺乳器メーカーへの経営参加と支配権の掌握、株式会社ピジョン哺乳器本舗の設立 1951年に経営参加した哺乳器メーカーで前任者と争い、訴訟20数種類と2度の職務遂行停止命令を経て1955年前後に支配権を握ったうえで、1957年8月15日に神奈川県茅ヶ崎市へ株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立した経営判断。シベリア抑留から1947年に帰国した仲田祐一氏が主導した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 本社を東京都千代田区へ移転 | ★ | |||
| 東京出張所(現・東日本支店)を開設 | ★ | |||
| 大阪出張所(現・西日本支店)を開設 | ★ | |||
| 福岡出張所(現・福岡支店)を開設 | ★ | |||
| 名古屋出張所(現・中部支店)を開設 | ★ | |||
| 札幌出張所を開設 | ★ | |||
| 商号をピジョンへ変更 | ★★ | |||
| 広島出張所を開設 | ★ | |||
| 仙台出張所を開設 | ★ | |||
| 1974〜1997年出生数の減少下で哺乳器専業から育児用品の総合メーカーへ(1974〜1997) | シンガポールに PIGEON SINGAPORE を設立 | ★★ | ||
| 仲田洋一氏が社長に就任 | ★★ | |||
| ピジョンホームプロダクツを設立 | ★ | |||
| 日本証券業協会東京地区協会に株式を店頭登録 | ★ | |||
| 哺乳器専業からの品目入れ替えと、育児用品の総合メーカーへの転換 出生数が1974年の209万人を頂点に減り始めたのに対し、ピジョンが哺乳器と乳首の専業から離乳用品・スキンケア用品・ベビーフード・介護用品へ品目を入れ替え、育児用品の総合メーカーへ移した経営判断。1983年に社長へ就いた仲田洋一氏が、先代からの不文律を外して新規分野の攻略を進めた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 茨城県稲敷郡に筑波事業所を新設 | ★ | |||
| タイに THAI PIGEON を設立 | ★ | |||
| 茨城県筑波郡に常総研究所(現・中央研究所)を新設 | ★ | |||
| 常総研究所内に託児所「ピジョンランド」を開設 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に株式を上場 | ★ | |||
| フクヨー茨城の株式を取得 | ★ | |||
| 茨城県常陸太田市に常陸太田物流センターを新設 | ★ | |||
| タイに PIGEON INDUSTRIES(THAILAND) を設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |||
| 1998〜2009年保育事業への参入とつまずき、上海と米国への出資(1998〜2009) | 兵庫県神崎郡に神崎物流センターを新設 | ★ | ||
| ピジョンキッズワールド(現・ピジョンハーツ)を設立 | ★ | |||
| ナカタコーポレーションと合併 | ★ | |||
| ピジョン真中を設立 | ★ | |||
| 中国への進出と国家衛生部と共同の母乳育児相談室の開設、海外売上高比率5割への移行 出生数が減る国内で次の柱が定まらないなか、ピジョンが2002年4月に上海へ進出し、2009年に中国国家衛生部と共同で全土の主要病院に母乳育児相談室を開設して、価格でも広告でもない経路で中国にブランドを作った経営判断。海外売上高比率は2015年1月期に53%へ達した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| ピー・エイチ・ピー兵庫の株式を株式交換で取得 | ★ | |||
| 介護用品の多比良(現・ピジョンタヒラ)を子会社化 | ★★ | |||
| 国立病院機構の院内保育一括受託による保育事業への本格参入と、14年後の受託終了 2004年4月、ピジョンが独立行政法人へ移行した国立病院機構の院内保育施設の運営を一括受託し、育児用品に次ぐ事業として保育へ本格参入した経営判断。従前の保育士600人余りを転籍で引き受けての参入であり、一括受託は2018年3月の契約満了まで14年続いた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 米国の LANSINOH LABORATORIES を子会社化 | ★★★ | |||
| 大越昭夫 | 中国に PIGEON MANUFACTURING(SHANGHAI) を設立 | ★ | ||
| 大越昭夫 | 本社を東京都中央区へ移転 | ★ | ||
| 大越昭夫 | 中国に PIGEON INDUSTRIES(CHANGZHOU) を設立 | ★ | ||
| 大越昭夫 | インドに PIGEON INDIA を設立 | ★ | ||
| 2010〜2025年中国を軸に売上1000億円へ、そして市場の変調(2010〜2025) | 大越昭夫 | トルコに LANSINOH の医療機器会社を設立 | ★ | |
| 大越昭夫 | マレーシアの PIGEON MALAYSIA(TRADING) 株式を取得 | ★ | ||
| 大越昭夫 | LANSINOH が HealthQuest の全株式を取得 | ★ | ||
| 大越昭夫 | LANSINOH が HealthQuest を吸収合併 | ★ | ||
| 大越昭夫 | DOUBLEHEART を設立 | ★ | ||
| 山下茂 | ピジョンウィルと合併 | ★ | ||
| 山下茂 | ブラジルに LANSINOH の子会社を設立 | ★ | ||
| 山下茂 | ベルギーに LANSINOH の販売会社を設立 | ★ | ||
| 山下茂 | 上海に LANSINOH の販売会社を設立 | ★ | ||
| 山下茂 | インドネシアの PT PIGEON INDONESIA を子会社化 | ★ | ||
| 北澤憲政 | PT PIGEON BABY LAB INDONESIA の株式を取得 | ★ | ||
| 北澤憲政 | ブラジルの LANSINOH 子会社の全株式を譲渡 | ★ | ||
| 北澤憲政 | PHP茨城をピジョンマニュファクチャリング茨城に商号変更 | ★ | ||
| 北澤憲政 | PHP兵庫をピジョンマニュファクチャリング兵庫に商号変更 | ★ | ||
| 北澤憲政 | 香港に LANSINOH の販売会社を設立 | ★ | ||
| 北澤憲政 | 英国に LANSINOH の販売会社を設立 | ★ | ||
| 北澤憲政 | 米国に PIGEON AMERICA を設立 | ★ | ||
| 北澤憲政 | フランスに LANSINOH の販売会社を設立 | ★ | ||
| 北澤憲政 | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ | ||
| 北澤憲政 | 中国事業の「高成長」から「安定成長」への位置づけ変更と、米州・欧州への成長投資の集中 連結営業利益が2019年1月期の196億円から2023年12月期の107億円へほぼ半減するなか、ピジョンが2023年2月の第8次中期経営計画で中国事業を『高成長』から『安定成長』へ置き直し、哺乳器・乳首とベビースキンケアへ商品を絞って収益を立て直し、2026年2月の第9次中期経営計画で成長の中心を米州・欧州へ移した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北澤憲政 | ケニアに PIGEON BABY LAB KENYA を設立 | ★ | ||
| 北澤憲政 | ピジョン真中の全株式を譲渡 | ★ | ||
| 北澤憲政 | 香港に PIGEON HONG KONG を設立 | ★ | ||
| 矢野亮 | 札幌・仙台・広島の3営業所を閉鎖 | ★ |
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事実根拠:出所(ピジョン)