ピジョン の歴史

更新: Author:

創業 1957年
創業者 仲田祐一
創業地 神奈川県茅ヶ崎市
創業
1957年8月15日、仲田祐一が神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立した。前身は1948年創業の哺乳器メーカーで、1か月の売上高が23万円しかないのに月給の支払いが20万円から25万円にのぼる状態にあった。シベリア抑留を経て1947年7月に帰国し、大連に築いた資産を失っていた仲田は1951年に経営参加を持ちかけられ、20数種類の訴訟と2度の職務遂行停止命令を経て支配権を握った。哺乳器と乳首を作る同業は当時30社ほどあり、大半は地元の卸店の名で売る地域のガラス・ゴム業者だった。仲田は単品を競うのではなく調乳・洗浄・消毒まで一式を並べる品ぞろえを選び、1966年6月に商号をピジョンへ改めた。
決断
顧客の数が減る市場で、赤ちゃん一人あたりの売上を増やす方を選んだ。出生数は第二次ベビーブーム期の209万人を頂点に減り続け、1993年には118万5,000人ほどになった。ピジョンの哺乳器シェアは1971年の93%から1989年に71.8%へ下がり、1971年に45%を持っていた紙おむつは1978年のプロクター・アンド・ギャンブル参入でほとんど失われている。1986年8月に母親約200人のモニター集団を組織し、1988年9月の中長期商品戦略で耐久品の哺乳器から消耗品と隣接領域へ品目を入れ替える方針を決めた。ウエットティッシュのおしりナップは参入から1年かからず先行2社を抜き、1995年1月期にはスキンケア用品92億円が授乳関連用品66億円を上回った。母数が4割減るあいだに売上が倍増したのは、一人が使う品目を増やしたからである。
現況
中国とシンガポールで売上の47%、セグメント利益の75%を出している。2025年12月期の連結売上高は1,091億円、営業利益は131億円だった。事業別では中国が売上411億円・利益105億円で最も大きく、日本は売上364億円に対し利益26億円にとどまる。米州・欧州を担うランシノは売上219億円・利益15億円、シンガポールは売上98億円・利益21億円である。中国の比重は2002年4月の中国進出と国家衛生部と共同の母乳育児相談室の開設から積み上がったもので、値下げでも広告でもなく病産院での指導を通じて作られた。2023年には出生数の減少と地場ブランドの台頭、処理水の海洋放出に伴う買い控えで中国売上が前年同期比43%減となり、中国事業の位置づけを高成長から安定成長へ改めて、成長投資の中心を米州・欧州へ移した。
競合
哺乳器と乳首で9割を保った会社が、隣の品目では首位を取れなかった。1971年のシェアは哺乳器93%、おしゃぶり80%、洗浄消毒器具72%だったが、1989年時点のベビー石けんは牛乳石鹸の33.2%に対し33.0%、母乳パッドはピップフジモトの50.6%に対し37.8%で、いずれも2位に置かれた。日本で最初に紙おむつを売り出しながら、1978年に参入したプロクター・アンド・ギャンブルと、パンツ型紙おむつで市場を広げたユニ・チャームに市場を明け渡している。育児用品の外へ出た保育でも、2004年4月に国立病院機構の院内保育園113か所を一括受託して首位に立ったが、2018年3月末で契約が満了した。品ぞろえで広げた領域はどれも首位を取れず、2026年からの成長戦略は創業の哺乳器へ戻っている。
ピジョン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年1月期2025年12月期

創業ストーリー 引揚げ者が引き受けた哺乳器メーカーと国内シェア9割の独占(1957〜1973) (1957年〜)

シベリア抑留から帰った男が引き受けた月商23万円の会社

ピジョンの前身は1948年に創業した哺乳器メーカー[1]であり、当時としては目新しいアメリカ式の哺乳ビンを作っていた。ただし経営は成り立っておらず、1か月の売上高が23万円しかないのに月給の支払いが20万円から25万円にのぼる[2]状態だった。仲田祐一氏がこの会社への経営参加を持ちかけられたのは1951年[3]で、内情を知ったときにはすでに引き返せないところまで足を踏み入れていた。前任者との争いは訴訟が20数種類にのぼり、仲田祐一氏自身も裁判所から職務遂行停止命令を2回受けた[4]。支配権を握ったのは1955年前後[5]で、そのうえで1957年8月15日、神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立[6]した。

    • [1]ピジョンは1948年(昭和23年)の創業。アメリカ式の哺乳ビンを製造していた
    • [2]経営参加当時、月商23万円に対し月給の支払いが20〜25万円だった
    • [3]仲田祐一氏がピジョンへ経営参加したのは1951年(昭和26年)
    • [4]前任者との訴訟は20数種類、職務遂行停止命令を2回受けた
    • [5]支配権の掌握は1955年(昭和30年)前後
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1957年8月15日 神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立

仲田祐一氏は1910年6月23日に新潟県直江津市で生まれ[7]、1926年に県立直江津農商学校を出て神戸の近藤忠商店に入った[8]。室内装飾品の製造販売を扱う店で、1935年まで勤めて室内装飾と家具の知識を身につけた[9]。その後は大連の幾久屋百貨店で家具・内装飾部の主任[10]を務め、大陸で土地を売買して1945年ごろには10万坪を超える農園の所有者[11]になっていた。ところが戦局の悪化に伴って新潟の資産まで整理して大連へ移したため、敗戦とともに無一物となる[12]。1945年5月に現地召集を受け、ソ満国境ムーリンの部隊に配属された同期の召集兵13名のうち、生き残ったのは2名[13]だった。ソ連軍に捕らえられシベリアへ送られ、日本へ帰ったのは1947年7月[14]である。

    • [7]仲田祐一氏は1910年(明治43年)6月23日に新潟県直江津市で生まれた
    • [8]1926年(大正15年)直江津農商学校を卒業し神戸の近藤忠商店へ入店、1935年まで勤務
    • [9]神戸の近藤忠商店はテーブル掛け・カーテンなどの室内装飾品の製造販売を行う店で、仲田祐一氏は昭和10年(1935年)まで勤め、室内装飾と家具についての専門的な知識を身につけた
    • [10]大連の幾久屋百貨店で家具・内装飾部の主任を務めた
    • [11]大連での土地取引により1945年ごろには10万坪を超える農園を所有していた
    • [12]戦局が熾烈になると新潟にもっていた資産を整理して大連へ移しており、これは結果として大失敗で、終戦で内地に帰ったときはまったくの無一物になった
    • [13]1945年5月に現地召集。同期の召集兵13名のうち生還は2名
    • [14]シベリア抑留を経て1947年(昭和22年)7月に帰国

仲田祐一氏が引き受けた市場は、小さな作り手が多数ひしめく状態にあった。哺乳器と乳首を作って売っていたメーカーは30社ほど[15][16]あったが、全国ブランドとして売っていたのはピジョンを含む数社にすぎず、大半は地域のガラス製造業者やゴム製造業者が地元の卸店の名前で売る商品[17]だった。仲田祐一氏はこの構造のなかで、単品の作り分けではなく品ぞろえで違いを出す方を選んだ[18]。哺乳器を軸に、調乳・洗浄・消毒までの用品をひととおり扱い、授乳に関わる道具をまとめて供給する形[19]をとった。乳幼児の発達段階に合わせ、ミルクの容量別・流量別に使い分けられる商品を並べた[20]のもこの時期である。

    • [15]当時、哺乳器・乳首の製造販売を行っていたメーカーは30社程度
    • [16]設立当時、哺乳器・乳首の製造販売を行っていたメーカーは30社程度で、そのうちナショナルブランドとして販売していたのは同社を含む数社のみだった
    • [17]ナショナルブランドとして販売していたのはピジョンを含む数社のみ、大半は地域のガラス・ゴム製造メーカーによる地域卸店ブランドだった
    • [18]授乳関連用品をトータルに取り扱うことにより、同業他社との商品性による差別化を図った
    • [19]哺乳器に関連する調乳・洗浄・消毒用品まで商品展開し、授乳関連用品をトータルに扱うことで同業他社と差別化した
    • [20]乳幼児の発達段階に合わせてミルクの容量別・流量別に使い分けられる商品をラインナップした
    • [1]ピジョンは1948年(昭和23年)の創業。アメリカ式の哺乳ビンを製造していた
    • [2]経営参加当時、月商23万円に対し月給の支払いが20〜25万円だった
    • [3]仲田祐一氏がピジョンへ経営参加したのは1951年(昭和26年)
    • [4]前任者との訴訟は20数種類、職務遂行停止命令を2回受けた
    • [5]支配権の掌握は1955年(昭和30年)前後
    • [7]仲田祐一氏は1910年(明治43年)6月23日に新潟県直江津市で生まれた
    • [8]1926年(大正15年)直江津農商学校を卒業し神戸の近藤忠商店へ入店、1935年まで勤務
    • [9]神戸の近藤忠商店はテーブル掛け・カーテンなどの室内装飾品の製造販売を行う店で、仲田祐一氏は昭和10年(1935年)まで勤め、室内装飾と家具についての専門的な知識を身につけた
    • [10]大連の幾久屋百貨店で家具・内装飾部の主任を務めた
    • [11]大連での土地取引により1945年ごろには10万坪を超える農園を所有していた
    • [12]戦局が熾烈になると新潟にもっていた資産を整理して大連へ移しており、これは結果として大失敗で、終戦で内地に帰ったときはまったくの無一物になった
    • [13]1945年5月に現地召集。同期の召集兵13名のうち生還は2名
    • [14]シベリア抑留を経て1947年(昭和22年)7月に帰国
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1957年8月15日 神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立
    • [15]当時、哺乳器・乳首の製造販売を行っていたメーカーは30社程度
    • [16]設立当時、哺乳器・乳首の製造販売を行っていたメーカーは30社程度で、そのうちナショナルブランドとして販売していたのは同社を含む数社のみだった
    • [17]ナショナルブランドとして販売していたのはピジョンを含む数社のみ、大半は地域のガラス・ゴム製造メーカーによる地域卸店ブランドだった
    • [18]授乳関連用品をトータルに取り扱うことにより、同業他社との商品性による差別化を図った
    • [19]哺乳器に関連する調乳・洗浄・消毒用品まで商品展開し、授乳関連用品をトータルに扱うことで同業他社と差別化した
    • [20]乳幼児の発達段階に合わせてミルクの容量別・流量別に使い分けられる商品をラインナップした

病・産院への普及活動とJIS規格の取得による全国ブランド化

品ぞろえと並ぶもう一方の手立ては、母親が最初に育児を教わる場所を押さえることだった[21]。乳業メーカーと組んで病院・産院に商品を持ち込み、マタニティ雑誌・ベビー雑誌やテレビの広告[22]と合わせて、育児に携わる人への知名度を上げていった。規格の面でも足場を固めており、ピジョンの『キャップ式哺乳器』の規格は1967年にJIS規格へ認定[23]された。営業拠点も増やし、1958年の東京出張所[24]を皮切りに、1963年に大阪、1964年に福岡、1965年に名古屋と札幌、1967年に広島、1968年に仙台[25]と、全国主要7都市へ広げた[26]

    • [21]乳業メーカーとのタイアップにより、育児の原点である病・産院への商品普及活動を進めた
    • [22]乳業メーカーとのタイアップにより病・産院への商品普及活動を行い、マタニティ・ベビー雑誌やテレビでの広告宣伝を積極的に進めた
    • [23]「キャップ式哺乳器」の規格が1967年(昭和42年)にJIS規格に認定された
    • [26]昭和40年代後半には哺乳器・乳首市場で80%の占有率を得るとともに営業拠点を全国主要7都市に展開した
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1958年3月 東京出張所(現・東日本支店)を開設
    • [25]1963年1月 大阪出張所、1964年9月 福岡出張所、1965年7月 名古屋出張所、1965年8月 札幌出張所、1967年4月 広島出張所、1968年6月 仙台出張所を開設

商品の設計そのものも仲田祐一社長の手から出ていた。実用新案は300種類にのぼり[27][28]、哺乳器・調乳器具・離乳用品・育児用品・洗浄消毒器具[29]のほとんどに社長のアイデアが入っていた。新潟へ墓参に帰った際に手にした醤油ビンから乳児用のジュースのみ器を考案した[30]という逸話も残る。乳房と乳首については数年にわたって実地の研究を続け、対象は千人近くにのぼったとされ、『週刊文春』はこれを『オッパイ社長奮戦す』の見出しで取り上げた[31]。商品化の判断には順序があり、どういう商品が求められているか、いくらなら売れるか、利益がどれだけ出るか、将来性があるか、の順[32]で考えると仲田祐一社長は述べた。

    • [27]実用新案は300種類にのぼり、主要製品のほとんどに仲田社長のアイデアが盛り込まれている
    • [28]同社が売り出している主要製品のほとんどすべてに仲田社長のアイデアが盛り込まれており、その成果は実用新案という形で300種類にのぼっている
    • [29]主要製品は哺乳器、調乳器具、離乳用品、育児用品、洗浄消毒器具
    • [30]新潟へ墓参に帰ったとき手にした醤油ビンから乳児用のジュースのみ器を考案した
    • [31]乳房と乳首の実地研究の対象は千人に近いとされ、『週刊文春』が「オッパイ社長奮戦す」として紹介した
    • [32]商品開発は①どういう商品が要求されているか②どのくらいの金額なら売れるか③利益がどのくらい出るか④将来性があるか、の順で作られると仲田社長は述べた
    • [21]乳業メーカーとのタイアップにより、育児の原点である病・産院への商品普及活動を進めた
    • [22]乳業メーカーとのタイアップにより病・産院への商品普及活動を行い、マタニティ・ベビー雑誌やテレビでの広告宣伝を積極的に進めた
    • [23]「キャップ式哺乳器」の規格が1967年(昭和42年)にJIS規格に認定された
    • [26]昭和40年代後半には哺乳器・乳首市場で80%の占有率を得るとともに営業拠点を全国主要7都市に展開した
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1958年3月 東京出張所(現・東日本支店)を開設
    • [25]1963年1月 大阪出張所、1964年9月 福岡出張所、1965年7月 名古屋出張所、1965年8月 札幌出張所、1967年4月 広島出張所、1968年6月 仙台出張所を開設
    • [27]実用新案は300種類にのぼり、主要製品のほとんどに仲田社長のアイデアが盛り込まれている
    • [28]同社が売り出している主要製品のほとんどすべてに仲田社長のアイデアが盛り込まれており、その成果は実用新案という形で300種類にのぼっている
    • [29]主要製品は哺乳器、調乳器具、離乳用品、育児用品、洗浄消毒器具
    • [30]新潟へ墓参に帰ったとき手にした醤油ビンから乳児用のジュースのみ器を考案した
    • [31]乳房と乳首の実地研究の対象は千人に近いとされ、『週刊文春』が「オッパイ社長奮戦す」として紹介した
    • [32]商品開発は①どういう商品が要求されているか②どのくらいの金額なら売れるか③利益がどのくらい出るか④将来性があるか、の順で作られると仲田社長は述べた

第二次ベビーブーム下で哺乳器シェア93%に達した独占状態

1960年代後半から1970年代初めにかけて、特殊調整粉乳の普及と第二次ベビーブーム[33]がピジョンの品ぞろえと重なった。売上高は1965年の9億円から1966年11億円、1967年16億円、1968年20億円、1969年23億円と伸び、1970年には30億円[34]と、6年間で3倍強[35]に達した。1971年時点のシェアは哺乳器が93%、おしゃぶりが80%、洗浄消毒器具が72%、紙おむつが45%[36]で、哺乳器に限ればアメリカの3社に次ぐ世界第4位にあり、ヨーロッパに肩を並べるメーカーは見当たらない[37]とされた。人工栄養で赤ちゃんを育てる家庭が増えたことで、ピジョンの名は母親のあいだで広く知られる商標[38]になった。

    • [33]昭和40年代後半の特殊調整粉乳の流行と第二次ベビーブームが同社の取り組みと相まって市場地位を確立させた
    • [34]売上高は1965年9億円、1966年11億円、1967年16億円、1968年20億円、1969年23億円、1970年30億円と推移した
    • [35]売上高は昭和45年(1970年)に30億円に達し、6年間で3倍強の売上増をみせた
    • [36]1971年時点のシェアは哺乳器93%、おしゃぶり80%、洗浄消毒器具72%、紙おむつ45%
    • [37]哺乳器ではアメリカの3社に次ぐ世界第4位で、ヨーロッパに肩を並べるメーカーは見当たらないとされた
    • [38]さいきんのお母さん方は人工栄養で赤ちゃんを育てることが多いから、ピジョンという名前は大変に有名なブランドとなっている

1971年末には千葉県の市川工場の裏に建坪およそ3,000坪の倉庫を建てる計画[39]があったが、主力の哺乳器を1か所に置かず東西に分けて保管する方針[40]をとった。火事で供給が止まれば世の中に迷惑をかけることになる[41]、というのが仲田祐一社長の説明である。1970年10月10日には多年の研究活動によって東京都から表彰[42]を受けた。従業員は300名を超え、社員持株制度や社員の海外派遣による研修制度も導入[43]した。商号は1966年6月にピジョン株式会社へ改めており[44]、哺乳器本舗という創業時の看板からは離れていた。

    • [39]1971年末に千葉県の市川工場の裏へ建坪約3,000坪の倉庫を建設する予定だった
    • [40]主力製品の哺乳器は1か所に置かず東西に分けて倉庫の両側に置く方針だった。火災で供給が止まると世の中に迷惑をかけるためと仲田社長は説明した
    • [41]万一火事にでもなって供給ができなくなったら大変世の中に迷惑をかけることになる、というのが倉庫を東西に分ける理由だと仲田社長は答えた
    • [42]1970年10月10日、多年の研究活動により東京都から表彰を受けた
    • [43]従業員は300名を超えていた。社員持株制度と社員の海外派遣による研修制度を導入した
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1966年6月 商号をピジョン株式会社に変更

もっとも、この独占には条件が付いていた。育児用品の分野に有力企業が入ってこなかったのは[45]、ピジョンが強かったことに加えて、その規模の市場に大手が目をつけていなかったから[46]でもある。売上が30億円から40億円、50億円へと上がれば[47]、事情は変わりうる。独占的な地位を支えた実用新案も一定の期間が来れば公開せざるをえず、資本自由化のもとでは海外の有力企業が日本へ進出することも見込まれた[48]。社内にも危うさがあり、重役のほとんどが血族で固められていた[49]。これまでのエネルギーが主として仲田祐一社長個人によるものであるだけに、その次をどうするかが最大の問題[50]として残された。

    • [45]従来は育児用品の分野に有力な企業が入ってこなかった。ピジョンが強力であったことと、それほど強力な企業がこの分野に目をつけなかったからである
    • [46]育児用品分野に有力企業が参入しなかったのは、ピジョンが強力だったことと、有力企業がこの分野に目をつけなかったことによる
    • [47]売上が30億円から40億円、50億円へ上がれば有力企業がこの分野に目をつける可能性が指摘された
    • [48]独占的地位を守る実用新案も一定の時間が来れば公開せざるをえず、資本自由化により海外の有力企業の日本進出も予想された
    • [49]重役のほとんどが血族で固められている点が懸念材料として挙げられた
    • [50]これまでのエネルギーが主として仲田社長個人によるものであるだけに、ポスト・ナカタが問題だと指摘された
    • [33]昭和40年代後半の特殊調整粉乳の流行と第二次ベビーブームが同社の取り組みと相まって市場地位を確立させた
    • [34]売上高は1965年9億円、1966年11億円、1967年16億円、1968年20億円、1969年23億円、1970年30億円と推移した
    • [35]売上高は昭和45年(1970年)に30億円に達し、6年間で3倍強の売上増をみせた
    • [36]1971年時点のシェアは哺乳器93%、おしゃぶり80%、洗浄消毒器具72%、紙おむつ45%
    • [37]哺乳器ではアメリカの3社に次ぐ世界第4位で、ヨーロッパに肩を並べるメーカーは見当たらないとされた
    • [38]さいきんのお母さん方は人工栄養で赤ちゃんを育てることが多いから、ピジョンという名前は大変に有名なブランドとなっている
    • [39]1971年末に千葉県の市川工場の裏へ建坪約3,000坪の倉庫を建設する予定だった
    • [40]主力製品の哺乳器は1か所に置かず東西に分けて倉庫の両側に置く方針だった。火災で供給が止まると世の中に迷惑をかけるためと仲田社長は説明した
    • [41]万一火事にでもなって供給ができなくなったら大変世の中に迷惑をかけることになる、というのが倉庫を東西に分ける理由だと仲田社長は答えた
    • [42]1970年10月10日、多年の研究活動により東京都から表彰を受けた
    • [43]従業員は300名を超えていた。社員持株制度と社員の海外派遣による研修制度を導入した
    • [45]従来は育児用品の分野に有力な企業が入ってこなかった。ピジョンが強力であったことと、それほど強力な企業がこの分野に目をつけなかったからである
    • [46]育児用品分野に有力企業が参入しなかったのは、ピジョンが強力だったことと、有力企業がこの分野に目をつけなかったことによる
    • [47]売上が30億円から40億円、50億円へ上がれば有力企業がこの分野に目をつける可能性が指摘された
    • [48]独占的地位を守る実用新案も一定の時間が来れば公開せざるをえず、資本自由化により海外の有力企業の日本進出も予想された
    • [49]重役のほとんどが血族で固められている点が懸念材料として挙げられた
    • [50]これまでのエネルギーが主として仲田社長個人によるものであるだけに、ポスト・ナカタが問題だと指摘された
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1966年6月 商号をピジョン株式会社に変更

出生数が減り続けるなかでの品目の入れ替え

縮んだのは市場の母数[51]のほうだった。出生数は第二次ベビーブーム期の209万人を頂点として減少に転じ、1993年には118万5,000人ほどまで落ちた[52]。20年ほどで4割以上が失われたにもかかわらず、ピジョンの売上高は伸び続けた[53]。ピジョンはこの間に海外へ拠点を置き、1978年2月にシンガポールでPIGEON SINGAPORE PTE.LTD.[54]を、1990年9月にタイでTHAI PIGEON CO.,LTD.を設立[55]した。国内では離乳関連用品のシステムカップ『マグマグ』、スキンケア用品のお尻ふき用ウエットティッシュ『おしりナップ』、電子体温計といった商品を投入[56]した。

    • [51]減少したのは出生数であり、ピジョンの売上高は同期間に伸びている
    • [53]出生数が減少傾向であるにもかかわらず売上高は昭61.1期145億4,700万円から平7.1期270億7,500万円へほぼ倍増した
    • [56]出生数減少下でシステムカップ「マグマグ」、お尻ふき用ウエットティッシュ「おしりナップ」、電子体温計などの高付加価値商品へ進出した
    • [52]出生数は第二次ベビーブーム期の209万人がピークで、1993年には118万5,000人ほどまで減少した
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1978年2月 PIGEON SINGAPORE PTE.LTD. を設立
    • [55]1990年9月 THAI PIGEON CO.,LTD. を設立

哺乳器専業のメーカーだったピジョン[57]は育児用品の総合メーカーへ変わり[58]、さらに高齢者と女性向けの失禁介護用品、マタニティ用品まで領域を広げた。1989年9月には茨城県稲敷郡に筑波事業所を設けて物流体制を整え[59]、1991年4月には茨城県筑波郡に常総研究所を新設[60]して研究開発の体制を厚くした。1993年4月には常総研究所の中に託児所『ピジョンランド』を開いた[61]。筑波事業所には東日本物流センター[62]を置いている。幼児の心の発達を身体の発達以上の問題として突き詰めなければ、21世紀に向けた良い商品は開発できないという考え[63]に基づく施設だった。

    • [57]高付加価値商品への進出により業容の拡大に努め、哺乳器専業メーカーから育児用品の総合メーカーへの脱却をはたした
    • [58]哺乳器専業メーカーから育児用品の総合メーカーへの脱却をはたし、失禁介護用品・マタニティ用品まで事業領域を広げた
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1989年9月 茨城県稲敷郡に筑波事業所を新設し物流体制を整備した
    • [60]1991年4月 茨城県筑波郡に常総研究所(現・中央研究所)を新設した
    • [61]1993年4月 常総研究所内に託児所「ピジョンランド」を開設した
  • ピジョン 有価証券報告書(主要な設備の状況)
    • [62]東日本物流センターは筑波事業所内に設置されている
    • [63]幼児の心の発達を身体の発達以上の問題として突き詰めない限り21世紀に向けた良い商品は開発できないという考えに基づく施設だと仲田社長は説明した

広げた品目のすべてが残ったわけではない。1971年に45%のシェアを持っていた紙おむつ[64]は、日本で最初に売り出したのがピジョンだったにもかかわらず、1978年にプロクター・アンド・ギャンブルが参入するとほとんどのシェアを失った[65]。品質でP&Gの製品が優れていたことは確かだが、母親の意見を聞いて改良点に気付いていれば紙おむつはドル箱になっていたかもしれない[66]、と後年に同社の担当者は語っている。この反省が消費者モニター制度の整備につながった[67]。哺乳器と乳首でも1989年時点のシェアは71.8%で、ジェクスが23.1%[68]で続いた。ベビー石けんは牛乳石鹸の33.2%に対し33.0%、母乳パッドはピップフジモトの50.6%に対し37.8%[69]で、哺乳器以外では首位を取れていなかった。

  • 日経ビジネス 1989年1月30日号 No.517
    • [64]1971年時点で紙おむつのシェアは45%だったが、その後P&Gの参入でほとんど失った
    • [65]ピジョンが12年前に日本で最初に販売を始めた紙おむつは、1978年にプロクター・アンド・ギャンブルが参入したことでほとんどシェアを失った
    • [66]品質でP&G製品が優れていたことは確かだが、母親の意見を聞き改良点に気付いていれば紙おむつは今頃ピジョンのドル箱になっていたかもしれないと石川氏は述べた
    • [67]紙おむつでの失敗が、母親の意見を吸い上げる消費者モニター制度の導入につながった
    • [68]1989年時点のほ乳器・ゴム乳首のシェアはピジョン71.8%、ジェクス23.1%
    • [69]ベビー石けんは牛乳石鹸33.2%に対しピジョン33.0%、母乳パッドはピップフジモト50.6%に対し37.8%で首位ではなかった
    • [51]減少したのは出生数であり、ピジョンの売上高は同期間に伸びている
    • [53]出生数が減少傾向であるにもかかわらず売上高は昭61.1期145億4,700万円から平7.1期270億7,500万円へほぼ倍増した
    • [56]出生数減少下でシステムカップ「マグマグ」、お尻ふき用ウエットティッシュ「おしりナップ」、電子体温計などの高付加価値商品へ進出した
    • [57]高付加価値商品への進出により業容の拡大に努め、哺乳器専業メーカーから育児用品の総合メーカーへの脱却をはたした
    • [58]哺乳器専業メーカーから育児用品の総合メーカーへの脱却をはたし、失禁介護用品・マタニティ用品まで事業領域を広げた
    • [52]出生数は第二次ベビーブーム期の209万人がピークで、1993年には118万5,000人ほどまで減少した
    • [63]幼児の心の発達を身体の発達以上の問題として突き詰めない限り21世紀に向けた良い商品は開発できないという考えに基づく施設だと仲田社長は説明した
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1978年2月 PIGEON SINGAPORE PTE.LTD. を設立
    • [55]1990年9月 THAI PIGEON CO.,LTD. を設立
    • [59]1989年9月 茨城県稲敷郡に筑波事業所を新設し物流体制を整備した
    • [60]1991年4月 茨城県筑波郡に常総研究所(現・中央研究所)を新設した
    • [61]1993年4月 常総研究所内に託児所「ピジョンランド」を開設した
  • ピジョン 有価証券報告書(主要な設備の状況)
    • [62]東日本物流センターは筑波事業所内に設置されている
  • 日経ビジネス 1989年1月30日号 No.517
    • [64]1971年時点で紙おむつのシェアは45%だったが、その後P&Gの参入でほとんど失った
    • [65]ピジョンが12年前に日本で最初に販売を始めた紙おむつは、1978年にプロクター・アンド・ギャンブルが参入したことでほとんどシェアを失った
    • [66]品質でP&G製品が優れていたことは確かだが、母親の意見を聞き改良点に気付いていれば紙おむつは今頃ピジョンのドル箱になっていたかもしれないと石川氏は述べた
    • [67]紙おむつでの失敗が、母親の意見を吸い上げる消費者モニター制度の導入につながった
    • [68]1989年時点のほ乳器・ゴム乳首のシェアはピジョン71.8%、ジェクス23.1%
    • [69]ベビー石けんは牛乳石鹸33.2%に対しピジョン33.0%、母乳パッドはピップフジモト50.6%に対し37.8%で首位ではなかった

おしりナップで先行2社を1年かからず抜いた消耗品への参入

1983年、仲田祐一社長の長男である仲田洋一氏が社長に就いた。入れ替えの成果が数字に出たのは1994年1月期である[70]。売上高240億5,800万円、営業利益15億9,600万円、経常利益10億9,900万円、当期利益4億6,900万円[71]と増収増益になった。牽引したのはスキンケア用品の『おしりナップ』で、前期比350%増[72]という伸びを示した。ウエットティッシュの分野ではユニ・チャームと和光堂が大きなシェアを持っていたが、ピジョンは新規参入から1年かからずにトップへ出た[73]。片手で取り出せて簡単にふきとれるという、母親の使い勝手を良くした点が評価された結果[74]だと仲田洋一社長は述べた。同じ期には介護用品の失禁関連用品も売上を伸ばした[75]

  • 日経ビジネス 1996年9月2日号 No.855
    • [70]1983年に仲田祐一氏の長男である仲田洋一氏が社長に就任し、それまでの不文律による方針が変わった
    • [71]1994年1月期は売上高240億5,800万円(前期比9.9%増)、営業利益15億9,600万円(同26.3%増)、経常利益10億9,900万円(同45.8%増)、当期利益4億6,900万円(同99.3%増)
    • [72]「おしりナップ」は1994年1月期に前期比350%増となった
    • [73]ウエットティッシュ分野ではユニ・チャームと和光堂が大きなシェアを持っていたが、新規参入から1年かからずトップへ躍り出た
    • [74]片手で取り出せ簡単にふきとれるという使い勝手の良さが好評を得た結果だと仲田社長は述べた
    • [75]1994年1月期は品目別で「おしりナップ」がヒットしたのをはじめ、介護用品の失禁関連用品が順調に売上を伸ばした

介護用品はベビー用品と勝手が違った。50代から60代でも病弱な人がいれば[76]、80歳を過ぎても50代の体力と知力を持つ人もいて、対象の輪郭が定まらない[77]。失禁に悩む人は多いのに自分からは言い出さないため、需要が表に出ず商品開発も遅れていた[78]。高齢者にとって失禁は生理的な現象だという理解が広まるにつれ、体の機能の衰えを補う『快適パンツ』などが相次いで開発され[79]、売上が伸びた。1994年1月期時点で介護用品は売上構成比の10%を占め、育児用品の90%と並ぶ[80]もう一方の柱になった。ピジョンはさらに妊娠判定検査薬『プレサイン』を発売し、薬品分野へ参入[81]した。

    • [76]高齢者等の介護関係商品は50〜60歳台でも病弱な人がいる一方、80歳を過ぎても50歳台の体力・知力をもつ人もいるようにとらえどころがなく、対応が非常に難しい分野だと仲田社長は述べた
    • [77]介護関係商品は50〜60代でも病弱な人がいる一方80歳を過ぎても元気な人がいるためとらえどころがなく、対応が難しい分野だと仲田社長は述べた
    • [78]失禁に悩む人は多いのに自分から言わないため表に出ず、商品開発が遅れた
    • [79]高齢者の体の機能の衰えをカバーする「快適パンツ」など介護用品が相次いで開発され売上を伸ばした
    • [80]1994年1月期時点で育児用品が売上高構成比90%、高齢者等の介護用品が10%を占めた
    • [81]付加価値の高い商品づくりの一環として妊娠判定検査薬「プレサイン」を発売し薬品関係へ参入した

1995年1月期の売上高270億7,500万円[82][83]の内訳は、スキンケア用品が92億4,200万円で34.1%、授乳関連用品が66億100万円で24.4%、介護関連用品が28億9,100万円で10.7%、おむつ用品が22億1,300万円で8.2%、離乳関連用品が18億円で6.6%[84]だった。設立以来の商品である授乳関連よりも、『おしりナップ』など消耗品を中心とするスキンケア用品の比率が高くなった[85]。売上高は1986年1月期の145億4,700万円から1995年1月期の270億7,500万円へほぼ倍増[86]しており、出生数が減り続けるなかでの倍増だった。

    • [82]1995年1月期の売上高は270億7,500万円
    • [83]平成7年1月期の売上高は270億7,500万円で、部門別の構成比が示された
    • [84]部門別はスキンケア用品92億4,200万円(34.1%)、授乳関連用品66億100万円(24.4%)、介護関連用品28億9,100万円(10.7%)、おむつ用品22億1,300万円(8.2%)、離乳関連用品18億円(6.6%)
    • [85]設立以来の商品である授乳関連商品よりスキンケア用品の比率が高くなったのが最近の傾向とされた
    • [86]売上高は昭和61年1月期の145億4,700万円から平成7年1月期の270億7,500万円へほぼ倍増した
  • 日経ビジネス 1996年9月2日号 No.855
    • [70]1983年に仲田祐一氏の長男である仲田洋一氏が社長に就任し、それまでの不文律による方針が変わった
    • [71]1994年1月期は売上高240億5,800万円(前期比9.9%増)、営業利益15億9,600万円(同26.3%増)、経常利益10億9,900万円(同45.8%増)、当期利益4億6,900万円(同99.3%増)
    • [72]「おしりナップ」は1994年1月期に前期比350%増となった
    • [73]ウエットティッシュ分野ではユニ・チャームと和光堂が大きなシェアを持っていたが、新規参入から1年かからずトップへ躍り出た
    • [74]片手で取り出せ簡単にふきとれるという使い勝手の良さが好評を得た結果だと仲田社長は述べた
    • [75]1994年1月期は品目別で「おしりナップ」がヒットしたのをはじめ、介護用品の失禁関連用品が順調に売上を伸ばした
    • [76]高齢者等の介護関係商品は50〜60歳台でも病弱な人がいる一方、80歳を過ぎても50歳台の体力・知力をもつ人もいるようにとらえどころがなく、対応が非常に難しい分野だと仲田社長は述べた
    • [77]介護関係商品は50〜60代でも病弱な人がいる一方80歳を過ぎても元気な人がいるためとらえどころがなく、対応が難しい分野だと仲田社長は述べた
    • [78]失禁に悩む人は多いのに自分から言わないため表に出ず、商品開発が遅れた
    • [79]高齢者の体の機能の衰えをカバーする「快適パンツ」など介護用品が相次いで開発され売上を伸ばした
    • [80]1994年1月期時点で育児用品が売上高構成比90%、高齢者等の介護用品が10%を占めた
    • [81]付加価値の高い商品づくりの一環として妊娠判定検査薬「プレサイン」を発売し薬品関係へ参入した
    • [82]1995年1月期の売上高は270億7,500万円
    • [83]平成7年1月期の売上高は270億7,500万円で、部門別の構成比が示された
    • [84]部門別はスキンケア用品92億4,200万円(34.1%)、授乳関連用品66億100万円(24.4%)、介護関連用品28億9,100万円(10.7%)、おむつ用品22億1,300万円(8.2%)、離乳関連用品18億円(6.6%)
    • [85]設立以来の商品である授乳関連商品よりスキンケア用品の比率が高くなったのが最近の傾向とされた
    • [86]売上高は昭和61年1月期の145億4,700万円から平成7年1月期の270億7,500万円へほぼ倍増した

売り場の交代に対応した生産・販売体制と株式公開

ピジョンの商品は薬局・デパート・スーパーで売られてきた[87]が、1986年と1993年の業態別構成比を比べると、薬局が65%から58%へ、デパートが5%から2%へ、スーパーが19%から15%へ下がり、量販専門店とホームセンターを含む『その他』が11%から25%へ上がった[88]。売場面積150坪から300坪のスーパードラッグが急ピッチで出店を増やしたことで、従来の30坪から50坪の薬局では2本から3本だった育児用品の棚が、一気に20本から30本になった[89]。大型ドラッグストアの売上構成比は、ピジョンの区分で1993年1月期の8.7%から1997年1月期には23.8%へ上がった[90]

ピジョンは外注生産を採り、哺乳器の組み立てと乳首の孔明け処理などを除くほとんどの工程を、1995年1月時点で115社の協力メーカーと生産子会社のピジョンホームプロダクツが担っていた[91]。自社の生産設備に縛られないため、市場のニーズへ柔軟に対応できた[92]。販売は15社の特約代理店と、医療用品卸業者を主とする64社の会員店を使うルート販売[93]である。消費者へのメール調査、母親モニター制度、消費動向の聞き取り、病院・産院への訪問といった市場調査[94]で需要をつかみ、新製品を投入して潜在需要を掘り起こした。

    • [91]外注生産を採用し、哺乳器の組み立て・乳首の孔明け処理等を除くほとんどの工程を1995年1月現在115社の協力メーカーと生産子会社ピジョンホームプロダクツが行っていた
    • [92]自社生産設備に拘束されない生産体制が市場ニーズへの柔軟な対応を可能にしていた
    • [93]販売は15社の特約代理店と主に医療用品卸業者である64社の会員店を用いたルート販売が主体だった
    • [94]消費者へのメール調査、母親モニター制度、消費動向の聞き取り調査、病・産院への訪問活動できめ細かく需要を把握し、新製品を投入して潜在需要を喚起した

ピジョンは1988年9月に日本証券業協会東京地区協会へ株式を店頭登録し[95]、1995年7月に東京証券取引所市場第二部へ上場、1997年7月に第一部へ指定替え[96]となった。上場時点の大株主は仲田興業が41.8%、あさひ銀行が4.2%、ナカタコーポレーションが3.9%、従業員持株会が2.8%[97]で、創業家の持株会社が支配的な地位を保っていた。1996年の時価発行公募増資では46億9,400万円を調達[98]し、自己資本比率は前期の47%台から58.3%へ、流動比率は182%から248%へ改善[99]した。1997年1月期の売上高は312億800万円、経常利益は20億6,600万円だった[100]。ただし営業利益は21億1,400万円で前期比1.6%減であり、原価率が61.4%から62.8%へ上がっている[101]

    • [95]昭和63年(1988年)9月に株式を日本証券業協会に店頭登録した
    • [97]1995年3月22日現在の大株主は仲田興業5,506千株(41.8%)、あさひ銀行546千株(4.2%)、ナカタコーポレーション514千株(3.9%)、従業員持株会362千株(2.8%)
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [96]1988年9月 日本証券業協会東京地区協会に株式を店頭登録、1995年7月 東京証券取引所市場第二部に上場、1997年7月 第一部に指定
    • [98]1996年の時価発行公募増資で46億9,400万円を調達した
    • [99]自己資本比率は前期47%台から当期末58.3%へ、流動比率は前期182%から当期248%へ改善した
    • [100]平成9年1月期の売上高は31,208百万円、経常利益2,066百万円
    • [101]1997年1月期の売上高31,208百万円、経常利益2,066百万円(前期比6.1%増)、営業利益2,114百万円(同1.6%減)。原価率は前期61.4%から当期62.8%へ上昇
    • [87]同社の商品は従来、主として薬局、デパート、スーパーで売られてきたが、小売業態の変化による影響が大きいと仲田社長は述べた
    • [88]1986年と1993年の業態別構成比は薬局65%→58%、デパート5%→2%、スーパー19%→15%、その他11%→25%
    • [89]150〜300坪のスーパードラッグの台頭で、従来30〜50坪の薬局で2〜3本だった棚が一気に20〜30本になった
    • [90]大型ドラッグストア(CD1)の売上構成比は36期の8.7%から40期の23.8%へ上昇した
    • [98]1996年の時価発行公募増資で46億9,400万円を調達した
    • [99]自己資本比率は前期47%台から当期末58.3%へ、流動比率は前期182%から当期248%へ改善した
    • [100]平成9年1月期の売上高は31,208百万円、経常利益2,066百万円
    • [101]1997年1月期の売上高31,208百万円、経常利益2,066百万円(前期比6.1%増)、営業利益2,114百万円(同1.6%減)。原価率は前期61.4%から当期62.8%へ上昇
    • [91]外注生産を採用し、哺乳器の組み立て・乳首の孔明け処理等を除くほとんどの工程を1995年1月現在115社の協力メーカーと生産子会社ピジョンホームプロダクツが行っていた
    • [92]自社生産設備に拘束されない生産体制が市場ニーズへの柔軟な対応を可能にしていた
    • [93]販売は15社の特約代理店と主に医療用品卸業者である64社の会員店を用いたルート販売が主体だった
    • [94]消費者へのメール調査、母親モニター制度、消費動向の聞き取り調査、病・産院への訪問活動できめ細かく需要を把握し、新製品を投入して潜在需要を喚起した
    • [95]昭和63年(1988年)9月に株式を日本証券業協会に店頭登録した
    • [97]1995年3月22日現在の大株主は仲田興業5,506千株(41.8%)、あさひ銀行546千株(4.2%)、ナカタコーポレーション514千株(3.9%)、従業員持株会362千株(2.8%)
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [96]1988年9月 日本証券業協会東京地区協会に株式を店頭登録、1995年7月 東京証券取引所市場第二部に上場、1997年7月 第一部に指定

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

ピジョンの沿革1957〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1957〜1973年引揚げ者が引き受けた哺乳器メーカーと国内シェア9割の独占(1957〜1973)破綻状態の哺乳器メーカーへの経営参加と支配権の掌握、株式会社ピジョン哺乳器本舗の設立

1951年に経営参加した哺乳器メーカーで前任者と争い、訴訟20数種類と2度の職務遂行停止命令を経て1955年前後に支配権を握ったうえで、1957年8月15日に神奈川県茅ヶ崎市へ株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立した経営判断。シベリア抑留から1947年に帰国した仲田祐一氏が主導した。

詳細を読む
★★★
本社を東京都千代田区へ移転
東京出張所(現・東日本支店)を開設
大阪出張所(現・西日本支店)を開設
福岡出張所(現・福岡支店)を開設
名古屋出張所(現・中部支店)を開設
札幌出張所を開設
商号をピジョンへ変更★★
広島出張所を開設
仙台出張所を開設
1974〜1997年出生数の減少下で哺乳器専業から育児用品の総合メーカーへ(1974〜1997)シンガポールに PIGEON SINGAPORE を設立★★
仲田洋一氏が社長に就任★★
ピジョンホームプロダクツを設立
日本証券業協会東京地区協会に株式を店頭登録
哺乳器専業からの品目入れ替えと、育児用品の総合メーカーへの転換

出生数が1974年の209万人を頂点に減り始めたのに対し、ピジョンが哺乳器と乳首の専業から離乳用品・スキンケア用品・ベビーフード・介護用品へ品目を入れ替え、育児用品の総合メーカーへ移した経営判断。1983年に社長へ就いた仲田洋一氏が、先代からの不文律を外して新規分野の攻略を進めた。

詳細を読む
★★★
茨城県稲敷郡に筑波事業所を新設
タイに THAI PIGEON を設立
茨城県筑波郡に常総研究所(現・中央研究所)を新設
常総研究所内に託児所「ピジョンランド」を開設
東京証券取引所市場第二部に株式を上場
フクヨー茨城の株式を取得
茨城県常陸太田市に常陸太田物流センターを新設
タイに PIGEON INDUSTRIES(THAILAND) を設立
東京証券取引所市場第一部に指定
1998〜2009年保育事業への参入とつまずき、上海と米国への出資(1998〜2009)兵庫県神崎郡に神崎物流センターを新設
ピジョンキッズワールド(現・ピジョンハーツ)を設立
ナカタコーポレーションと合併
ピジョン真中を設立
中国への進出と国家衛生部と共同の母乳育児相談室の開設、海外売上高比率5割への移行

出生数が減る国内で次の柱が定まらないなか、ピジョンが2002年4月に上海へ進出し、2009年に中国国家衛生部と共同で全土の主要病院に母乳育児相談室を開設して、価格でも広告でもない経路で中国にブランドを作った経営判断。海外売上高比率は2015年1月期に53%へ達した。

詳細を読む
★★★
ピー・エイチ・ピー兵庫の株式を株式交換で取得
介護用品の多比良(現・ピジョンタヒラ)を子会社化★★
国立病院機構の院内保育一括受託による保育事業への本格参入と、14年後の受託終了

2004年4月、ピジョンが独立行政法人へ移行した国立病院機構の院内保育施設の運営を一括受託し、育児用品に次ぐ事業として保育へ本格参入した経営判断。従前の保育士600人余りを転籍で引き受けての参入であり、一括受託は2018年3月の契約満了まで14年続いた。

詳細を読む
★★★
米国の LANSINOH LABORATORIES を子会社化★★★
大越昭夫中国に PIGEON MANUFACTURING(SHANGHAI) を設立
大越昭夫本社を東京都中央区へ移転
大越昭夫中国に PIGEON INDUSTRIES(CHANGZHOU) を設立
大越昭夫インドに PIGEON INDIA を設立
2010〜2025年中国を軸に売上1000億円へ、そして市場の変調(2010〜2025)大越昭夫トルコに LANSINOH の医療機器会社を設立
大越昭夫マレーシアの PIGEON MALAYSIA(TRADING) 株式を取得
大越昭夫LANSINOH が HealthQuest の全株式を取得
大越昭夫LANSINOH が HealthQuest を吸収合併
大越昭夫DOUBLEHEART を設立
山下茂ピジョンウィルと合併
山下茂ブラジルに LANSINOH の子会社を設立
山下茂ベルギーに LANSINOH の販売会社を設立
山下茂上海に LANSINOH の販売会社を設立
山下茂インドネシアの PT PIGEON INDONESIA を子会社化
北澤憲政PT PIGEON BABY LAB INDONESIA の株式を取得
北澤憲政ブラジルの LANSINOH 子会社の全株式を譲渡
北澤憲政PHP茨城をピジョンマニュファクチャリング茨城に商号変更
北澤憲政PHP兵庫をピジョンマニュファクチャリング兵庫に商号変更
北澤憲政香港に LANSINOH の販売会社を設立
北澤憲政英国に LANSINOH の販売会社を設立
北澤憲政米国に PIGEON AMERICA を設立
北澤憲政フランスに LANSINOH の販売会社を設立
北澤憲政東京証券取引所プライム市場へ移行
北澤憲政中国事業の「高成長」から「安定成長」への位置づけ変更と、米州・欧州への成長投資の集中

連結営業利益が2019年1月期の196億円から2023年12月期の107億円へほぼ半減するなか、ピジョンが2023年2月の第8次中期経営計画で中国事業を『高成長』から『安定成長』へ置き直し、哺乳器・乳首とベビースキンケアへ商品を絞って収益を立て直し、2026年2月の第9次中期経営計画で成長の中心を米州・欧州へ移した経営判断。

詳細を読む
★★★
北澤憲政ケニアに PIGEON BABY LAB KENYA を設立
北澤憲政ピジョン真中の全株式を譲渡
北澤憲政香港に PIGEON HONG KONG を設立
矢野亮札幌・仙台・広島の3営業所を閉鎖
出典・参考

免責事項およびポリシー