重要な意思決定
198210月

インド国営企業マルチに出資

背景

大手が見送ったインド国民車計画とスズキの参画

1977年にインドのガンジー首相の息子であるサンジャイ・ガンジー氏は、国民向けの安価な乗用車を量産する構想を掲げてマルチ社を設立し、デリー近郊グルガオンに工場用地を確保して建設に着手した。しかし工場の本格稼働を前にサンジャイ氏が飛行機事故で急逝したため、父であるインディラ・ガンジー首相がマルチ社を国営企業として引き取ることになった。乗用車の量産技術を持たないインド政府は、外国の自動車メーカーから技術と資本を導入する方針へと転換した。

インド政府はルノーやトヨタをはじめとする各国の大手完成車メーカーに合弁の打診を行った。しかしトヨタは北米での現地生産に経営資源を集中しており、ルノーなど欧州勢との交渉も条件面で折り合わなかった。1980年代初頭のインドは外資規制が厳しく、乗用車の年間販売台数も限られた小規模市場であったため、大手メーカーにとって合弁に見合う投資収益を見込むことが困難であった。大手が相次いで見送る中、合弁相手は容易に見つからなかった。

大手メーカーが相次いで参入を見送る中、インド政府の代表団が来日して提携先を模索した際に名乗りを上げたのが、スズキの鈴木修社長であった。国内では軽自動車で首位の座にあったスズキだが、トヨタや日産が支配する乗用車市場全体での地位は下位であった。鈴木修氏は大手が関心を示さない途上国市場にこそ後発企業の商機があると判断し、アルトで培った安価な小型車の量産技術を武器にマルチ社との合弁交渉に臨んだ。

決断

技術者300名の派遣とマルチ800の量産開始

1982年10月にスズキはインド国営企業マルチ社の株式26%を取得し、合弁契約を締結した。出資比率26%はインド政府が過半を保持する構成であり、形式上の経営主導権はインド側にあった。しかしインド政府は乗用車の量産技術を持たなかったため、スズキが生産技術と品質管理の両面で実質的な指導を担う体制が構築された。合弁の形態は対等な出資ではなく、技術供与と引き換えに市場参入の権利を得るという構図であった。

スズキは日本から技術者約300名をグルガオン工場に派遣し、生産ラインの立ち上げと現地従業員の技術指導に着手した。初代工場長として1983年に赴任した技術者が目にしたのは、床に砂漠の砂が50センチ積もり野生の猿が走り回る工場の光景であった。3ヶ月後に生産を開始するという計画に対して、生産設備の据え付けから品質管理基準の確立まで、日本の製造方式をインドの環境に一から移植する作業が求められた。

1983年12月にグルガオン工場は量産第1号車「マルチ800」の出荷を開始した。マルチ800はスズキが日本国内で販売する軽自動車「アルト」をベースとした小型乗用車であり、インドの道路環境と消費者の購買力に適合するよう仕様を調整した車種であった。47万円のアルトで培った「装備を最小限に抑えて安価に仕上げる」という設計思想は、所得水準の低いインド市場における国民車の要件と合致した。

結果

年産10万台の達成とインド乗用車市場の過半占有

1987年度にマルチ社は合弁設立からわずか5年で黒字転換を果たし、グルガオン工場は年産10万台の生産体制を確立した。当時のインド国内における乗用車の年間生産台数は約16万台であり、マルチ社1社で市場全体の約60%を占有するに至った。外資規制と国内産業保護を掲げてきたインド政府にとって、マルチの急成長は政策転換の正当性を裏づける実例となり、国会議員の約7割が工場を視察したと伝えられている。

マルチ社の参入以前、インドの乗用車市場は長期にわたり停滞していた。1970年から1983年の13年間で年間生産台数は3万5000台から4万5000台へ微増したにとどまり、既存メーカーは数十年にわたりモデルチェンジすら行わない状態であった。マルチ800の投入が市場に競争原理を持ち込み、国産メーカーのヒンドスタン・モーターズやプレミエ・オートヒルズが数十年ぶりにモデルチェンジに着手するなど、インドの自動車産業全体に変化をもたらした。

1990年代にかけてグルガオン工場に第2工場(1994年)と第3工場(1999年)を増設し、1996年には年産30万台体制を構築した。スズキはインド政府の要請と自社の増産投資に伴い、マルチ社への出資比率を当初の26%から40%、さらに50%へと段階的に引き上げた。増産に必要な設備投資の資金をスズキ自らが負担する形で出資を積み増し、合弁パートナーから経営の主導権を握る株主へと立場を変えていった。