ダイハツ1号車HA型の完成(1930年・ダイハツ工業の決断)

更新:
ダイハツ工業:業績の推移
売上高(億円)経常利益率(%)
エンジンの供給から三輪自動車の完成車製造への進出1930年12月、内燃機関メーカーの発動機製造(現ダイハツ工業)は、500cc型の三輪自動車「ダイハツ1号車HA型」を完成させた。創業から23年間、吸入ガス発動機やディーゼル機関、鉄道車両用機器を手がけてきた同社が、エンジンを積む車体まで自ら製造し、完成車へ参入した決断である。当時の社長は1926年1月に就任した高洲清二氏であった。

何をなぜ決めたか:エンジンの供給から三輪自動車の完成車製造への進出

概要

1930年12月、内燃機関メーカーの発動機製造(現ダイハツ工業)は、500cc型の三輪自動車「ダイハツ1号車HA型」を完成させた。創業から23年間、吸入ガス発動機やディーゼル機関、鉄道車両用機器を手がけてきた同社が、エンジンを積む車体まで自ら製造し、完成車へ参入した決断である。当時の社長は1926年1月に就任した高洲清二氏であった。

翌1931年3月には改良型のHB型を発売した。HB型は空冷4サイクル単気筒498ccのエンジンを積み、最大積載量は400kg、後輪はチェーンで駆動する小荷物向けの車であった。関係会社の日本エヤーブレーキと共同で「ツバサ号」の名で売った時期もあるが、共同製作は間もなく打ち切り、名称を「ダイハツ号」に戻している。

背景

昭和初期の緊縮政策で需要が減少するなか、同社は新製品の一つとしてオートバイ用ガソリンエンジンの開発を選び、350cc型を試作していた。当時の都市部では、英国などから輸入したオートバイ用エンジンをそのまま三輪車に載せて走らせる型が広がっていた。1930年4月、商工省が小型自動車の規格を改め、4サイクルエンジンの上限を500ccへ引き上げると、同社はすぐに500cc型の設計と製作に入った。

ところが、三輪自動車の組立業者は輸入エンジンを使い慣れていた。国産品が輸入品に劣らないと示されても、国内製エンジンを進んで採用しなかった。1930年8月の商工省の内外品対比展覧会で、同社のオートバイ用エンジンは優秀製品に選ばれている。それでも売り先が開けないため、同社は完成車の製造に踏み切った。

内容

初期の三輪車はオートバイの車体を延ばして後輪を2つにした構造で、チェーン駆動には強度と保守の面で弱点があった。同社は1931年8月、四輪自動車と同じ差動装置付きのシャフト・ドライブ式を三輪自動車で初めて採用した。1933年8月に内務省の自動車取締令が改正され、小型自動車の範囲が750ccまで広がって無試験免許となると、直ちに750ccエンジンの搭載車を出した。

販売の網も並行して整えた。1931年から1934年までの販売店は国内25店・海外3店の計28店で、傘下の特約店は108店であった。1933年6月には東日本の拠点として東京出張所を開設し、1937年ごろには販売店が国内28店・海外5店、特約店が131店まで増加している。

含意

出だしは順調ではなかった。不況と輸入業者との競争で、三輪自動車は当初の見込みほど売れなかった。会社としても1931年下期から3期続けて無配となり、配当の再開は1933年上期の3分を待った。その後は生産が伸び、年産は1931年の177台から1937年には5,122台に達して、同業者のなかで優位に立った。

三輪自動車は戦後の会社の中心にもなった。1950年前後には三輪自動車の販売高が全売上高の9割を占め、1953年8月には業界各社に先がけて延べ生産10万台を超えた。三輪貨物車では全国保有台数の32%を供給し、業界1位の位置にあった。

いつ何が起きたか12件
筆者考察
考察

考察:採用されないエンジンの完成車への転用

なぜ完成車だったのか。エンジンが組立業者に採用されないとき、値下げで販路を開拓する案や、エンジン事業から撤退する案もあったはずである。しかし組立業者が嫌ったのは価格ではなく、国産品という点そのものであった。性能を示しても採用されない以上、エンジンを確実に使ってもらう相手は自社しかない。1930年4月の規格改正で500ccまで無免許で乗れる市場が開け、同社はその規格に合わせたエンジンを既に設計していた。完成車への進出は、この2つが重なった時点で取れる最短の選択だったと思われる。

もっとも、完成車の製造はエンジンとは別の事業であった。車体の設計、販売店の網、修理の体制まで、新たに担うことになる。しかも輸入エンジンを使う組立業者は、そのまま完成車の競合相手になる。実際、発売直後は不況と輸入業者との競争で売れ行きが伸びず、会社は1931年下期から3期続けて無配となった。日本エヤーブレーキとの共同製作を早々に打ち切った経緯にも、販売の手探りが表れている。

結果として、この進出は成功であった。年産は1931年の177台から1937年に5,122台へ伸び、同業者のなかで優位に立った。戦後は三輪自動車の販売高が全売上高の9割を占め、1953年8月には業界で最初に延べ生産10万台を超えている。エンジンの売り先がなかったという弱みが、会社をエンジン専業から自動車メーカーへ変える起点になった。ただし売上の9割を1つの製品に依存する構造は、のちに四輪車への転換を急ぐ理由にもなったのだろう。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

数字で見る

ダイハツ工業:三輪自動車の生産台数の推移

ダイハツ工業:三輪自動車の生産台数の推移

三輪自動車生産台数(台)

三輪自動車の年産は1931年の177台から1935年には2,912台へ伸びた

ダイハツ工業:三輪自動車の生産台数の推移
(台)三輪自動車生産台数備考
1931年1773月にHB型を発売し、8月にシャフト・ドライブ式を採用
1932年667
1933年1,1138月の取締令改正で750ccエンジン搭載車を発売
1934年1,977
1935年2,912
出所:ダイハツ工業『六十年史』(1967年)資料編「年別・車種別生産台数」
出所:ダイハツ工業『六十年史』(1967年)資料編「年別・車種別生産台数」
参考文献

参考文献

参考

  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)第1部 第3章「5 三輪自動車『ダイハツ号』を完成」
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)第1部 第5章「3 戦時体制ますます強まる」
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)第1部 第4章「2 三輪車の生産軌道に乗る」
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)第1部 第4章「1 金融恐慌後の経営と推移」
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)資料編「年別・車種別生産台数」
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)第1部 第6章「2 賠償指定と占領下の再建」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)第1部 第3章「3 ディーゼル機関の技術導入」
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)第1部 第6章「3 三輪自動車の躍進と大型化」
  • ダイハツ工業 有価証券報告書「第175期(2016年3月期)【沿革】」

次に読む決断

同業他社の状況(自動車・部品)

免責事項およびポリシー