ダイハツ工業国産エンジンを積んだ三輪自動車の完成車製作への進出

エンジンを売るか、車を作るか——国産エンジンが採用されなかった内燃機関メーカーの選択

時期 1930年12月
意思決定者(推定) 発動機製造 経営陣
論点 内燃機関事業から完成車事業への進出
概要
1930年12月、内燃機関メーカーの発動機製造(現ダイハツ工業)が、500型ダイハツ三輪一号車HA型を完成させ、三輪自動車の完成車製作へ進んだ経営判断。初めて国産エンジンを搭載した三輪自動車であり、国産三輪自動車の嚆矢となった。
背景
昭和初期の三輪自動車は外国製オートバイエンジンを車体に架装したものが流行しており、心臓部は輸入品に頼っていた。同社はそのガソリンエンジンの国産化に着目して試作研究を重ねたが、輸入エンジンに慣れた三輪車組立業者は国産エンジンを採用しなかった。
内容
エンジンを供給する道が閉ざされたため、同社は自ら完成車を製作する側へ回った。1930年12月に500型ダイハツ三輪一号車HA型が完成し、その後は小型自動車の法令改正もあって車種を広げ、標準車のほかに大型車も製作した。1937年12月には池田工場の建設へ着手している。
含意
部品の売り手が完成車の作り手へ回る選択は、既存の取引先である組立業者と競合する立場に自らを置くことでもあった。戦後の三輪自動車は同社の全生産高の約90%を占め、三輪貨物車では全国保有台数の32%を供給して業界第一位に立った。
筆者の見解

売り先のない技術をどう使ったか

この判断は、輸入エンジンに慣れた組立業者が国産エンジンを買わなかったという事実から始まっている。部品メーカーが完成車へ進むのは、既存の顧客と競合する道でもあった。同社はそれを承知で車体まで手がけ、1930年12月に500型ダイハツ三輪一号車HA型を世に出している。エンジンの売り先が無いなら自分で車を作るという解き方は、内燃機関の技術を自前で持つ会社にしか取れない選択であったとみることができる。

ただ、この選択が長く効いたわけではない。三輪車は戦後の道路と燃料の事情に支えられた輸送手段であり、四輪トラックが普及すれば需要を明け渡す製品であった。全生産高の約90%を三輪車が占めた1955年の姿は、強さであると同時に一本足でもある。同社が1957年のミゼット、1958年のベスタと立て続けに四輪へ手を打ったのは、首位にある間に次を作る必要を認めていたからだとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

内燃機関メーカーと、輸入エンジンに頼る三輪車市場

発動機製造は1907年の設立以来、吸入ガス機関を主力とする内燃機関メーカーであった。1918年に鉄道省へバキュームシリンダーを納入したのを機に鉄道車両用機器へ事業を広げ、同じ年には大阪砲兵工廠から民間自動車製作指導工場に指定されて軍用自動車の試作品2両を受注している。1922年には米国のR・M・ヴィット社と技術提携し、超ディーゼル発動機の製造販売権を取得した。自動車そのものは、まだ受託の試作にとどまっていた[1][2]

昭和初期の三輪自動車は、英国製をはじめとする外国製オートバイエンジンを車体に架装したものが流行していた。荷物を運ぶ小型の輸送手段として市場は立ち上がりつつあったが、心臓部のエンジンは輸入品に頼る構造にあった。同社はそのガソリンエンジンの国産化に着目し、試作と研究を重ねていた。エンジンメーカーとして架装用のエンジンを供給する道が、最初に見えていた道であった[3]

決断

エンジンが売れないなら車を作る

ところが当時の三輪車組立業者は輸入エンジンの扱いに慣れており、同社の国産エンジンを採用しなかった。エンジンだけを作って売る道は、そこで閉ざされたことになる。そこで同社は、自ら三輪自動車の完成車を製作する側へ回った。1930年12月、500型ダイハツ三輪一号車HA型が完成する。初めて国産エンジンを積んだ三輪自動車であり、国産三輪自動車の嚆矢となった[4][5]

部品の売り手が完成車の作り手へ回るこの選択は、既存の取引先である組立業者と競合する立場に自らを置くことでもあった。同社はその後、小型自動車の法令改正もあって車種を広げ、標準車のほかに大型車も製作している。三輪車の需要は年を追って増え、1937年12月には池田工場の建設に着手して1939年5月に竣工させた。大阪の内燃機関メーカーは、この十年ほどで自動車の量産企業へ姿を変えた[6][7]

結果

戦後の三輪トラックでの首位

戦後の三輪自動車は、当時の道路と燃料の事情に合う輸送手段として需要が伸びた。1953年8月、同社は業界各社に先んじて延生産台数10万台を突破する。同じ1953年の三輪トラックの生産台数を見ると、ダイハツ工業の20,123台に対して東洋工業が19,785台、新三菱重工業が6,808台であった。国産エンジンが採用されなかったことから始まった完成車製作は、20年あまりで市場の先頭に立った[8][9]

1955年時点で三輪自動車は同社の全生産高の約90%を占め、三輪貨物車では全国保有台数の32%を供給していた。1955年4月期の総売上高は49億2000万円に達している。もっとも、三輪車への集中はそのまま次の課題になった。四輪車が普及していく1950年代後半、同社は1957年に軽三輪ミゼットを、1958年に小型四輪トラックのベスタを出し、三輪車メーカーから四輪車メーカーへ進んだ[10][11]

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
  • 証券 1953年(9)(49)「日本内燃機製造株式会社」
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】

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