重要な意思決定
199410月

恵比寿ガーデンプレイスを開業

背景

100年を経た恵比寿工場と都市化の制約

1889年、日本麦酒醸造は渋谷村(現・目黒区三田)にビール醸造場を建設した。水源と物流を考慮した立地であり、翌年には「ヱビスビール」の生産が開始された。ヱビスは都市部の需要と結び付いて成長し、やがてその工場名が地名「恵比寿」として定着するほどの存在感を持つに至った。 しかし100年の間に東京は膨張し、工場周辺は住宅化・商業化が進んだ。拡張余地を失った恵比寿工場は、1980年代には設備の老朽化と生産効率の低下が顕在化していた。ビール事業がシェア20%前後で停滞する中、工場の近代化に投資する合理性は薄れていった。 同時期、東京都では恵比寿地区の再開発構想が具体化しつつあった。工場用地は都心における大規模開発の好適地として注目され、行政・民間双方から土地利用の再検討が求められるようになった。生産拠点としての合理性が後退する一方で、不動産としての資産価値が前面に出てきた局面であった。

決断

工場閉鎖と不動産事業への転換

1986年、サッポロビールは恵比寿工場の閉鎖と千葉工場への機能移転を決定した。同時に跡地開発を担う恵比寿開発株式会社を設立し、跡地の活用に着手した。この判断は生産拠点の再配置にとどまらず、保有不動産を収益基盤として再構築する事業転換であった。 開発にあたり、居住区域は分譲する一方、オフィスや商業施設については売却せず自社で保有・管理する方針が採られた。短期的な売却益ではなく、長期にわたる賃貸収入を選択した判断であり、サッポロはこの時点で不動産賃貸事業に本格参入したと整理できる。 当時の社長・高桑義高は「先輩から受け継いだ財産を最善の方法で活用し、後輩に引き継ぐ」との認識を示しており、土地を売却せず運用によって次世代に渡すという思想が、意思決定の基底にあった。

結果

安定収益の獲得と「資産リッチ企業」への変質

1994年10月、恵比寿工場跡地にオフィス・商業施設・住宅・ホテルからなる複合施設「恵比寿ガーデンプレイス」が開業した。居住区域の分譲は計画通りに進み、オフィス・商業部分はサッポロが保有を継続して安定的な賃貸収入を生む資産として定着した。 この結果、サッポロはビール事業に依存しない収益源を確保し、キャッシュフローの安定性を高めた。不動産事業は連結利益の過半を占めるようになり、ビール事業の低迷を覆い隠す構造が形成された。 一方で、収益規模に比して大規模な不動産を貸借対照表に抱える構造は、資本効率の観点から課題を内包することになる。企業価値に占める「保有資産価値」の比重が高まり、事業会社でありながら資産運用会社的な性格を帯びた。この構造は2000年代以降、アクティビスト投資家の関心を引く遠因となった。