重要な意思決定
19499月

日本麦酒を発足

背景

大日本麦酒の市場支配と戦後の集中排除

1906年の三社合同によって成立した大日本麦酒は、戦前を通じて国内ビール市場の約77%を占める寡占企業であった。「サッポロ」「ヱビス」「アサヒ」の主要ブランドを傘下に収め、全国に生産・販売網を展開する統合体制は、競合をキリンビールのみに限定する構造をもたらしていた。 戦後、GHQは経済運営における競争環境の整備を方針とし、特定企業への市場集中を抑制する立場を採った。大日本麦酒は財閥ではなかったが、国民的消費財であるビール市場における高い集中度が問題視され、過度経済力集中排除法の適用対象とされた。 占領政策の下で、市場統合による効率性は分離すべき集中として再定義された。大日本麦酒にとっては、長年にわたって構築してきた統合運営モデルを解体し、分割後の個別企業として市場に臨むことを求められる局面であった。

決断

1949年9月、大日本麦酒の二社分割

1949年9月1日、大日本麦酒は解散し、朝日麦酒と日本麦酒の二社が発足した。自主的な再編ではなく、占領政策に基づく制度的決定であった。 分割にあたり、生産拠点は地域別に配分された。日本麦酒は目黒・川口・札幌・名古屋の各工場を継承し、東日本と北海道を地盤とした。朝日麦酒は吹田・西宮・博多の各工場を引き継ぎ、西日本を軸とする体制を採った。生産能力はほぼ均等に分割された。 ブランドについては、日本麦酒が「サッポロビール」と「ヱビスビール」を、朝日麦酒が「アサヒビール」をそれぞれ引き継いだ。統合体制の下で補完関係にあった経営資源が、分割後は単独で競争力を発揮する必要に迫られることになった。

結果

新ブランド投入とシェア低下の起点

分割後、日本麦酒は戦前に認知されていた「サッポロ」「ヱビス」の両ブランドを即座に使用せず、「ニッポンビール」という新ブランドで市場に参入した。全国統一ブランドを新たに構築する意図であったが、戦前の記憶と結び付かない名称は消費者と流通の双方に浸透しなかった。 販売現場では旧ブランドとの関係を説明する手間が生じ、認知形成に時間を要した。一方、キリンビールは戦前からの単一ブランドを維持したまま家庭向け市場を中心に販路を拡大し、両社の差は需要構造の変化とともに広がっていった。 結果として日本麦酒の国内シェアは低下を続け、1956年には27.1%で業界3位となった。1957年にサッポロビールの商標を復活させた後もこの順位は固定化され、1949年の分割とその後のブランド判断が、サッポロの長期的な市場地位を規定する起点となった。