重要な意思決定
19664月

呉羽紡績と合併

背景

繊維業の過当競争と呉羽紡績からの合併申し入れ

1960年代、日本の繊維業界は合成繊維の普及と過当競争により、中堅以下の紡績メーカーの経営環境が厳しさを増していた。各社とも生産規模の維持と収益性の確保を両立させることが困難となり、業界内での企業統合が再び活発化する局面に入っていた。

呉羽紡績は1929年に伊藤忠の創業家によって設立された繊維メーカーであり、北陸地方を中心に呉羽・入膳・大町・豊科・井波・坂祝・庄川の各工場を稼働していた。従業員数は約1万4,000名に達していたが、繊維事業の競争激化を受けて単独での成長に限界を感じ、上位企業との合併を模索していた。呉羽紡績の伊藤恭一社長は東洋紡績の谷口豊三郎社長に対して合併を申し入れ、交渉が開始された。

決断

東洋紡を存続会社とする合併とナイロン設備の取得

1965年8月、東洋紡績と呉羽紡績は合併を発表した。東洋紡を存続会社とし、呉羽紡績の株式10株に対して東洋紡績の株式8株を割り当てる条件が決定された。東洋紡の従業員数は約1万9,000名、呉羽紡の従業員数は約1万4,000名であり、合併後は従業員3万3,000名の繊維メーカーとなった。

東洋紡にとって合併の実利は、呉羽紡績が保有するナイロン生産設備の取得にあった。呉羽紡績は1960年にナイロンへの参入を果たしており、東洋紡よりも先行していた。東洋紡は合成繊維においてポリエステルへの参入が遅れた経緯を持ち、ナイロンでも設備を持たない状態であった。合併によってナイロン設備を自前で新設するコストと時間を回避し、合成繊維のラインナップを補完する狙いがあった。

結果

従業員3.3万名体制での営業開始と繊維再編の帰結

1966年4月26日に合併が完了し、商号を「東洋紡績」として営業を開始した。北陸地方の工場群が東洋紡の生産拠点に加わり、綿紡績・合成繊維・化学繊維にわたる生産体制が拡充された。合併直後の東洋紡は、紡績業界で最大級の従業員規模を擁する企業となった。

この合併は、1960年代に進行した繊維業界の再編の一つであった。谷口社長は合併発表時に「イギリスではマンチェスターの繊維産業がICIとコートルズの2大資本に集約された」と述べ、日本の繊維業界にも同様の集約が不可避であるとの認識を示していた。繊維事業の過当競争を企業統合で乗り越えるという判断は、この時点では業界全体の趨勢に沿った対応であった。