セブンイレブン・ジャパン の歴史

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創業 1973年
母体 イトーヨーカ堂
創業地 東京都千代田区
創業
1973年11月、イトーヨーカ堂が米サウスランド社とライセンス契約を結び、これを担う株式会社ヨーク・セブンを東京都千代田区に設立した。動機は新業態への意欲ではなく、大型店の出店が地元商店街の反対で進まないことにあった。共存共栄の道筋を相手へ示すため、鈴木敏文氏は中小小売店の整理が先だという学者やコンサルタントの反対を退けている。1974年5月に東京都江東区豊洲へ1号店を開設し、1978年に商号をセブン-イレブン・ジャパンへ改めた。ただし当初の契約は粗利益の45%を本部が取り期間15年という本部優位の内容で、1977年には千葉県の加盟店が別仕入れに走っている。
決断
自前で店を持たない形を、上場したあとも崩さなかった。土地と建物の資金は加盟店が負担し、本部が持つのは冷蔵庫や陳列棚と商品に限られる。営業規模に比例した投資資金が要らないこの構造のまま、1979年10月15日に親会社が過半を保有したまま東証二部へ上場した。公募380万株で資本金は10億円となったが、得たのは資金というより加盟店を募る側の信用であった。1980年に1,000店、1983年に2,000店を超え、1982年にはPOSへ商品別の売り切れ時刻を組み込んで単品管理を徹底する。1991年3月にはライセンス元の米サウスランド社を買収し、店を持たない会社が本家の直営網ごと抱える側へ回った。
現況
上場会社としての歴史だけが、2005年に終わった。9月1日、イトーヨーカ堂・デニーズジャパンとの3社共同株式移転で持株会社セブン&アイ・ホールディングスが発足し、親会社が自ら持株会社の傘下へ入ったのと同時に、この会社は上場を廃止した。社名も法人格も店舗網も残り、消えたのは市場で株式が売買される地位である。上場最終期にあたる2005年2月期のチェーン全店売上高は2兆4,408億円で、上場前年度の725億円から26年で34倍になっていた。2026年2月期の国内コンビニエンスストア事業は営業収益9,121億円・セグメント利益2,225億円で、グループのセグメント利益合計4,902億円の45%を1社で生んでいる。
競合
本部が持ったのは店ではなく、売れない商品を落とす仕組みだった。1979年2月期の1平方メートルあたり売上高は1,925千円で、親会社イトーヨーカ堂の826千円の2.3倍にあたる。粗利益率も25.2%と2.6ポイント上回った。特売による安売りをせず、営業時間の長さと品目の絞り込みで売場の効率を上げたためである。開業から1979年までに登録した8,000品目のうち台帳に残ったのは4,000品目で、入れ替えの速さがそのまま棚の鮮度になった。2000年2月には店舗網を電子商取引の受け渡し拠点に転用し、家庭への配送投資を負わずにネット通販へ応じている。2009年にam/pmを取得して店舗を自社ブランドへ一本化したファミリーマートのように同業が買収で店数を増やすなか、この会社は1店の中身を入れ替える速さで規模を作った。

設立ストーリー 大型店の摩擦から生まれた子会社が、5年で500店に届くまで (1973年〜)

大型店の摩擦から生まれた子会社が、5年で500店に届くまで

大型店を出すために、中小店の行き先を調べた

セブンイレブン・ジャパンは、コンビニエンスストアを日本に持ち込もうという発想から始まったのではない。1970年から1971年にかけて、親会社のイトーヨーカ堂は大型店の出店に苦しんでいた。地元商店街に共存共栄を申し入れるには、相手の商売がこの先どうなるのかを具体的に示さなければならない。そこで中小小売店の今後の方向を研究することにした、というのが鈴木敏文氏の説明である[1]。イトーヨーカ堂はこの1970年から、米国におけるコンビニエンスストアの実情と、日本で発展する可能性の有無を調査した[2]。設立の動機は新業態への意欲ではなく、本業の出店障害をどう取り除くかという課題の側にあった。

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
    • [1]鈴木敏文は「45〜46年当時、イトーヨーカ堂は大型店舗を出すのにたいへん苦労した。地元商店街の人たちに共存共栄でやっていきたいと申し入れるについては、その具体的な方法を提案しなければならず、中小小売店の今後の方向を研究することにしたのが動機である」と述べている
  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [2]イトーヨーカ堂は昭和45年(1970年)からコンビニエンス・ストア事業について米国内の実情および日本における発展の可能性等の調査・研究を行った

視察した本人の第一印象は芳しくなかった。鈴木氏は米国のコンビニエンスストアを最初に見たとき『雑貨屋みたいな変な店』[引用元]と感じたと語っている。関心が変わったのは、提携先となる米サウスランド社のセブンイレブンが当時すでに4,000店に達していると知ったとき[3]である。同社は1927年にトンプソン家が製氷会社として創業し、工場の傍らでパンや牛乳、卵を売る小売店を併設したところ繁盛したことからチェーン化を進め、1946年に店名をセブンイレブンとした[4]。1962年に500店、1965年に1,000店と伸び[5]、大型店の発達と並行してコンビニエンスストアも育っていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
    • [3]鈴木敏文は米国のコンビニエンス・ストアを最初に見たときの印象を「正直にいって『雑貨屋みたいな変な店』というものだった」と述べ、米国のセブンイレブンが当時すでに4,000店に達していると知って関心を強めたと語った
    • [5]鈴木敏文は米サウスランド社について「62年に500店、65年に1,000店となったが、こうした大型店の発展と同時に、コンビニエンス・ストアも伸びてきた」と説明した
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号
    • [4]サウスランド社は1927年にトンプソン家が設立し、当初は小さな製氷会社だったが工場の傍らにパンや牛乳・卵などを売る小規模な店をつくったところ繁盛してチェーン化を進め、1946年に店名を「セブンイレブン」とした

専門家の見立ては否定的だった。日本には住宅街の近くに多数の小売店があり、すでにコンビニエンスストアの役割を果たしている。ゆえに『中小小売店がもっと整理された後でないとだめだ』[引用元]という意見が、学者やコンサルタントには多かった[6]。鈴木氏はこれを現象面のとらえ方だと退けた。当時すでに問題になっていた小売業の生産性の低さが、その議論には入っていないというのが理由である。高度成長期には雇用条件の良いメーカーへ流通業から人が移っていたが、イトーヨーカ堂でさえ月に4日休むようになったのは1961年ごろから[7]だった。労働条件がそこまで劣後する産業に、生産性を上げる余地がないとは考えなかった。

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
    • [6]鈴木敏文は、学者・コンサルタントから「中小小売店がもっと整理された後でないとだめだ」という意見が多かったが「それが納得できなかった。現象的なとらえ方で、当時すでに問題になっていた小売店の生産性の悪さの面からの見方がなされていなかったからである」と述べた
    • [7]高度成長時代には雇用条件の良いメーカーへ流通業から人が移って行く状況となり、小売業では休日が月に一度という状態が続いて月に4日休むようになったのはイトーヨーカ堂でも昭和36年(1961年)ごろからであった
  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
    • [1]鈴木敏文は「45〜46年当時、イトーヨーカ堂は大型店舗を出すのにたいへん苦労した。地元商店街の人たちに共存共栄でやっていきたいと申し入れるについては、その具体的な方法を提案しなければならず、中小小売店の今後の方向を研究することにしたのが動機である」と述べている
    • [3]鈴木敏文は米国のコンビニエンス・ストアを最初に見たときの印象を「正直にいって『雑貨屋みたいな変な店』というものだった」と述べ、米国のセブンイレブンが当時すでに4,000店に達していると知って関心を強めたと語った
    • [5]鈴木敏文は米サウスランド社について「62年に500店、65年に1,000店となったが、こうした大型店の発展と同時に、コンビニエンス・ストアも伸びてきた」と説明した
    • [6]鈴木敏文は、学者・コンサルタントから「中小小売店がもっと整理された後でないとだめだ」という意見が多かったが「それが納得できなかった。現象的なとらえ方で、当時すでに問題になっていた小売店の生産性の悪さの面からの見方がなされていなかったからである」と述べた
    • [7]高度成長時代には雇用条件の良いメーカーへ流通業から人が移って行く状況となり、小売業では休日が月に一度という状態が続いて月に4日休むようになったのはイトーヨーカ堂でも昭和36年(1961年)ごろからであった
  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [2]イトーヨーカ堂は昭和45年(1970年)からコンビニエンス・ストア事業について米国内の実情および日本における発展の可能性等の調査・研究を行った
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号
    • [4]サウスランド社は1927年にトンプソン家が設立し、当初は小さな製氷会社だったが工場の傍らにパンや牛乳・卵などを売る小規模な店をつくったところ繁盛してチェーン化を進め、1946年に店名を「セブンイレブン」とした

実験店を二つ置き、条件を変えて確かめる

1973年11月、イトーヨーカ堂は米サウスランド社とエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、その事業を担う子会社としてヨーク・セブン株式会社を設立した。同月20日の設立である[8]。導入したのは店舗の立地調査、店舗設計、設備レイアウト、品揃え、簿記会計システムまでを含む一式で、日本の実情に合わせた部分的な修正を加えたほかは、ほぼそのまま持ち込まれた。売場面積30坪から50坪ほどの小型店でありながら品揃えは約3,500品目、しかも長時間営業で年中無休という、日本には前例のない営業形態であった[9]。翌1974年5月15日、東京都江東区豊洲に加盟店の第1号が開業する[10]。酒販店からの転換であった。

  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [8]昭和48年11月にイトーヨーカ堂とザ・サウスランド社との間でエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、同事業を展開するための会社としてヨーク・セブン株式会社が同年11月20日に設立された
    • [9]コンビニエンス・ストア事業は売場面積が30坪から50坪程度の小型店でありながら品揃え数は約3,500品目と豊富で、長時間営業かつ年中無休という日本では前例のない営業形態であった
    • [10]契約に基づきザ・サウスランド社の経営ノウハウ(立地調査・店舗設計・設備レイアウト・品揃え・簿記会計システム等)を日本の実情に合わせ若干の部分的修正を加えたうえでほぼそのまま導入し、昭和49年5月に東京都江東区豊洲でチェーン加盟店第1号を開業した。鈴木敏文は開業日を昭和49年5月15日と述べている

開業当初の2店は、そのまま実験だった。豊洲の加盟店は売場面積82.5平方メートルで酒類を置き、生鮮三品を扱わない。翌6月に神奈川県相模原市へ開いた直営店はその倍の165平方メートルで、生鮮三品を扱い酒類を置かない[11]。立地によって来店時間がどう変わるか、品揃えはどうあるべきかを調べるための構成である。イトーヨーカ堂はこの結果を見て翌年以降の出店数を決めることとし、当面は1975年2月末までに15店を置く計画とした。その先には8年間で2,000店という青写真も描いている[12]

  • 日経ビジネス 1974年7月22日号
    • [11]直営店(相模原市)は売り場面積165平方メートルで生鮮3品を扱い酒類を置かず、フランチャイジー店(豊洲)は売り場面積が半分の82.5平方メートルで酒類を置く代わりに生鮮3品を扱わないという実験色の濃い構成とした
    • [12]決算期にあたる1975年2月末までに合計15店をつくる計画で、これらはいずれも実験店であり、イトーヨーカ堂は今後8年間でフランチャイジーを中心に2,000店のコンビニエンス・ストアを配置する青写真を描いていた

大手の参入に、中小小売業からは反発が出た。『資本力を武器になぐり込む』[引用元]『大企業の横暴である』[引用元]という談話が当時の誌面に載っている[13]。しかし、加盟店の増加は速かった。年度ごとの増加数は1975年2月期に7店、1976年2月期に57店、1977年2月期に124店、1978年2月期に171店、1979年2月期に211店と積み上がり、1979年2月末の加盟店は570店に達した[14]。加盟前の業種では酒店が275店と全体の48.2%を占める。地域における知名度と、専売品を扱う強さを見込み、酒店を重点的に開拓した[15]

  • 日経ビジネス 1974年7月22日号
    • [13]中小小売業側からは「中小商店がようやくコンビニエンス・ストアに明るい方向を見いだしかけた矢先に資本力を武器になぐり込む」「大企業の横暴である」との談話が寄せられた
  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [14]加盟店増加の足取りは昭50.2期7店、昭51.2期57店、昭52.2期124店、昭53.2期171店、昭54.2期211店で、昭54.2期には総数570店の加盟店を数えるに至った
    • [15]加盟店の加盟前の従事業種では酒店経営が275店と全体の48.2%を占め、これは同社が加盟店の勧誘にあたって地域における知名度、専売品を扱っている強さなどから酒店を重点的に開拓したことによる
  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [8]昭和48年11月にイトーヨーカ堂とザ・サウスランド社との間でエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、同事業を展開するための会社としてヨーク・セブン株式会社が同年11月20日に設立された
    • [9]コンビニエンス・ストア事業は売場面積が30坪から50坪程度の小型店でありながら品揃え数は約3,500品目と豊富で、長時間営業かつ年中無休という日本では前例のない営業形態であった
    • [10]契約に基づきザ・サウスランド社の経営ノウハウ(立地調査・店舗設計・設備レイアウト・品揃え・簿記会計システム等)を日本の実情に合わせ若干の部分的修正を加えたうえでほぼそのまま導入し、昭和49年5月に東京都江東区豊洲でチェーン加盟店第1号を開業した。鈴木敏文は開業日を昭和49年5月15日と述べている
    • [14]加盟店増加の足取りは昭50.2期7店、昭51.2期57店、昭52.2期124店、昭53.2期171店、昭54.2期211店で、昭54.2期には総数570店の加盟店を数えるに至った
    • [15]加盟店の加盟前の従事業種では酒店経営が275店と全体の48.2%を占め、これは同社が加盟店の勧誘にあたって地域における知名度、専売品を扱っている強さなどから酒店を重点的に開拓したことによる
  • 日経ビジネス 1974年7月22日号
    • [11]直営店(相模原市)は売り場面積165平方メートルで生鮮3品を扱い酒類を置かず、フランチャイジー店(豊洲)は売り場面積が半分の82.5平方メートルで酒類を置く代わりに生鮮3品を扱わないという実験色の濃い構成とした
    • [12]決算期にあたる1975年2月末までに合計15店をつくる計画で、これらはいずれも実験店であり、イトーヨーカ堂は今後8年間でフランチャイジーを中心に2,000店のコンビニエンス・ストアを配置する青写真を描いていた
    • [13]中小小売業側からは「中小商店がようやくコンビニエンス・ストアに明るい方向を見いだしかけた矢先に資本力を武器になぐり込む」「大企業の横暴である」との談話が寄せられた

契約への不満が表に出て、事業主体として自立する

拡大の途中で、契約そのものへの不満が表に出た。1977年、千葉県の加盟店が本部と関係のない問屋から商品を仕入れ、独自に販売を始める。酒販店からの転業で、以前から扱っていた酒類まで加盟後は粗利益の45%を本部に取られることに業を煮やしたためであった[16]。当時の契約は、売上金を毎日全額本部へ送金し、粗利益の45%を本部が取り、期間は15年という内容で、本部の拘束が強い[17]。この話が伝わると同業の加盟店も別仕入れを導入し、本部は契約の一部変更を検討する事態になる[18]。全面的に認めればコンビニエンスストアの前提が崩れる。加盟店の納得と本部の取り分をどう両立させるかは、この時点で表面化していた。

  • 日経ビジネス 1977年7月18日号
    • [16]1977年、イトーヨーカ堂系列下のセブンイレブンで、酒販店から転業した千葉県の加盟店が、以前から扱っていた酒類まで加盟後は粗利益の45%を本部に取られることに業を煮やし、本部とは関係のない別の問屋から商品を仕入れて販売を始めた
    • [17]フランチャイズ契約の内容は「売上金を毎日全額本部へ送金する」「全売上高の粗利益の45%は本部が取る」「契約期間は15年」で、本部の拘束が極めて強かった
    • [18]同業の加盟店も我先にと別仕入れ方式を導入したため、セブンイレブンもシステムの一部変更を検討し始めたが、全面的に認めればコンビニエンスストアのコンセプトが崩れる可能性があった

1978年、会社は名実ともに事業主体になった。1月に商号を株式会社セブンイレブン・ジャパンへ変更し、6月にはサウスランド社との契約の日本側当事者がイトーヨーカ堂から同社へ移る[19]。ライセンスを親会社経由で借りる立場から、自ら契約を持つ立場に変わった。加盟店は同じ1978年に500店を超えた[20]。1974年の15店計画から数えて4年、実験店の集合は全国規模のチェーンの体裁を整えている。仕入れは推薦問屋制を敷き、発注と支払いの代行を本部と各店を結んだオンラインで処理する一方、配送そのものは問屋に委ねた。多品種を少量ずつ運ぶには問屋に任せるほうが有利だと判断した[21]

  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [19]昭和53年1月に商号を「株式会社セブンイレブン・ジャパン」と変更し、昭和53年6月にザ・サウスランド社とのエリアサービスおよびライセンス契約の日本側の契約者がイトーヨーカ堂から同社に変更された
    • [21]一括大量仕入により仕入価格と仕入コストの低減を図るため推薦問屋制を設け、個々の加盟店・自営店の仕入の大部分を同社と各店舗を結んだオンラインシステムで発注業務・支払業務を代行した。各店舗への配送は仕入先問屋に依存し、これは少量多品目のため多頻度にわたる配送を問屋に任せたほうが有利との判断に基づいていた
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
    • [20]加盟店は昭和53年(1978年)に500店を達成し、昭和55年には1,000店を突破した
  • 日経ビジネス 1977年7月18日号
    • [16]1977年、イトーヨーカ堂系列下のセブンイレブンで、酒販店から転業した千葉県の加盟店が、以前から扱っていた酒類まで加盟後は粗利益の45%を本部に取られることに業を煮やし、本部とは関係のない別の問屋から商品を仕入れて販売を始めた
    • [17]フランチャイズ契約の内容は「売上金を毎日全額本部へ送金する」「全売上高の粗利益の45%は本部が取る」「契約期間は15年」で、本部の拘束が極めて強かった
    • [18]同業の加盟店も我先にと別仕入れ方式を導入したため、セブンイレブンもシステムの一部変更を検討し始めたが、全面的に認めればコンビニエンスストアのコンセプトが崩れる可能性があった
  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [19]昭和53年1月に商号を「株式会社セブンイレブン・ジャパン」と変更し、昭和53年6月にザ・サウスランド社とのエリアサービスおよびライセンス契約の日本側の契約者がイトーヨーカ堂から同社に変更された
    • [21]一括大量仕入により仕入価格と仕入コストの低減を図るため推薦問屋制を設け、個々の加盟店・自営店の仕入の大部分を同社と各店舗を結んだオンラインシステムで発注業務・支払業務を代行した。各店舗への配送は仕入先問屋に依存し、これは少量多品目のため多頻度にわたる配送を問屋に任せたほうが有利との判断に基づいていた
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
    • [20]加盟店は昭和53年(1978年)に500店を達成し、昭和55年には1,000店を突破した

親会社が過半を握ったまま上場した会社と、その配分の設計

親会社が過半を握ったまま株式を公開する

1979年10月15日、東京証券取引所市場第二部に上場した。公募は380万株で、幹事は野村証券以下6社が引き受けている[22]。上場直前の1979年2月末時点で、親会社イトーヨーカ堂は発行済株式1,620万株の62.54%を保有していた[23]。同時点の株主総数では99.75%を個人が占める一方、株式数では法人が7割を握っている[24]。上場に伴う380万株は新株の発行であり、発行済株式は2,000万株、資本金は10億円となった[25]。希薄化した後も親会社の持分は過半を超え、支配関係は動いていない。この構図は2005年の株式移転まで26年続くことになる。

  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [22]上場年月日は昭和54年10月15日、銘柄コード8183、所属は市場第二部で、資本金は1,000,000千円、公募は3,800,000株、幹事会員は野村証券・山一証券・日興証券・大和証券・和光証券・山種証券であった
    • [23]昭和54年2月28日現在の大株主はイトーヨーカ堂62.54%、ヨークマート4.30%、伊藤雅俊4.30%、中央建設エンジニアリング3.09%、鈴木敏文1.85%、清水秀雄1.23%であり、同時点の株式総数は16,200,000株であった
    • [24]昭和54年2月28日現在の株式分布状況では、個人その他が株主総数の99.75%を占める一方、所有株式数では70.56%がその他の法人であった
    • [25]資本の変遷では昭和53年2月16日時点の資本金810,000千円が、昭和54年10月15日の増加資本金190,000千円により1,000,000千円となった。額面50円・発行数20,000千株で、備考に「昭54.10.15 3,800千株公募」と記載されている

数字の上では、子会社は親会社を上回っていた。1979年2月期の1平方メートルあたり売上高は全店舗平均で1,925千円で、イトーヨーカ堂の826千円の2.3倍にあたる。営業時間が1日最低16時間と長いことが、この差を生んだ。粗利益率も25.2%と、同社の22.6%を2.6ポイント上回る[26]。目玉商品を設けず、大量販売による安売りをしないという商品政策の差である[27]。営業総利益は1977年2月期の21億8,900万円から1978年2月期に48億4,800万円、1979年2月期には88億7,600万円へ伸び、営業利益も5億7,500万円から9億7,900万円、20億9,200万円と積み上がった[28]。加盟店の増加と既存店の粗利益率改善が同時に効いた。

  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [26]1平方メートル当たりの売上高は全店舗平均で1,925千円(昭54.2期)となり、親会社であるイトーヨーカ堂の826千円を大きく上回った。粗利益率も25.2%とイトーヨーカ堂の22.6%を2.6ポイント上回った
    • [27]高い粗利益率の理由として、目玉商品を設けない、大量販売による安売りをしない、商品の陳列方法等の工夫によって高い粗利益の実現に努力していることが挙げられた。1平方メートル当たり売上高が高いのはセブンイレブン店舗の営業時間が1日最低16時間と長いことによる
    • [28]営業総利益は昭52.2期2,189百万円、昭53.2期4,848百万円、昭54.2期8,876百万円、営業利益は昭52.2期575百万円、昭53.2期979百万円、昭54.2期2,092百万円と推移した

上場時点の規模は、それでもまだ小さい。1979年2月末の自営店は21店で、その大半は開店前の加盟店主を教育するための訓練店であった。本体の従業員は372名にとどまる[29]。加盟店570店の売上高が699億円、自営店を含む全店舗売上高が725億円[30]という構造で、会社が計上するのは加盟店からの収入と自営店の売上総利益である。店舗網の大半も店員も自社では抱えず、契約と情報だけで売上を積み上げる会社だった。出店地域も東京、神奈川、埼玉、千葉の関東4都県で78.8%を占め、売上でも82.3%が関東に集中している[31]。全国チェーンと呼べる形ではまだなかった。

  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [29]昭54.2期時点で加盟店570店、自営店21店、従業員数372名であり、自営店は開店前の加盟店主の教育等のためのトレーニング・ストアであった
    • [30]加盟店増加に伴って加盟店売上高も増加し、昭54.2期で699億円、自営店も含めた全店舗売上高は725億円に達した
    • [31]昭54.2期末現在の加盟店570店および自営店21店の地域別出店状況は東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県の関東地域で78.8%を占め、地域別売上高も関東中心で82.3%を占めた
  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [22]上場年月日は昭和54年10月15日、銘柄コード8183、所属は市場第二部で、資本金は1,000,000千円、公募は3,800,000株、幹事会員は野村証券・山一証券・日興証券・大和証券・和光証券・山種証券であった
    • [23]昭和54年2月28日現在の大株主はイトーヨーカ堂62.54%、ヨークマート4.30%、伊藤雅俊4.30%、中央建設エンジニアリング3.09%、鈴木敏文1.85%、清水秀雄1.23%であり、同時点の株式総数は16,200,000株であった
    • [24]昭和54年2月28日現在の株式分布状況では、個人その他が株主総数の99.75%を占める一方、所有株式数では70.56%がその他の法人であった
    • [25]資本の変遷では昭和53年2月16日時点の資本金810,000千円が、昭和54年10月15日の増加資本金190,000千円により1,000,000千円となった。額面50円・発行数20,000千株で、備考に「昭54.10.15 3,800千株公募」と記載されている
    • [26]1平方メートル当たりの売上高は全店舗平均で1,925千円(昭54.2期)となり、親会社であるイトーヨーカ堂の826千円を大きく上回った。粗利益率も25.2%とイトーヨーカ堂の22.6%を2.6ポイント上回った
    • [27]高い粗利益率の理由として、目玉商品を設けない、大量販売による安売りをしない、商品の陳列方法等の工夫によって高い粗利益の実現に努力していることが挙げられた。1平方メートル当たり売上高が高いのはセブンイレブン店舗の営業時間が1日最低16時間と長いことによる
    • [28]営業総利益は昭52.2期2,189百万円、昭53.2期4,848百万円、昭54.2期8,876百万円、営業利益は昭52.2期575百万円、昭53.2期979百万円、昭54.2期2,092百万円と推移した
    • [29]昭54.2期時点で加盟店570店、自営店21店、従業員数372名であり、自営店は開店前の加盟店主の教育等のためのトレーニング・ストアであった
    • [30]加盟店増加に伴って加盟店売上高も増加し、昭54.2期で699億円、自営店も含めた全店舗売上高は725億円に達した
    • [31]昭54.2期末現在の加盟店570店および自営店21店の地域別出店状況は東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県の関東地域で78.8%を占め、地域別売上高も関東中心で82.3%を占めた

粗利益を45対55で割り、最低保証を1,100万円に置く

加盟店との関係は、粗利益の配分で決まった。本部が45%を取り、55%を店主に戻す。本部が負担したのは店内の設備と商品、水道光熱費の87%、テレビなどの広告費の全額である。店主が負担したのは人件費、店舗改装費の銀行返済、そして品減りが生じた場合の埋め合わせにほぼ限られた[32]。改装費は1店あたり1,500万円ほどで、会社の斡旋により返済期間15年ほどの銀行融資を受ける。在庫は原価で600万〜700万円、設備は800万円程度を本部が持った[33]。1978年2月期に固定比率と固定長期適合率が改善したのは、土地と建物を加盟店の負担に残したこと[34]に加え、収益が好調だったことと、同期の2度の増資で自己資本が厚くなったことによる。

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
    • [32]加盟店は毎月の売り上げ金額をいったん本部に送金し、荒利額の45%を本部が取り55%を店主に戻す。本部がもつ費用には設備のほか水道光熱費の87%、TVなど広告代の全部が含まれ、店主が負担するのは人件費、店舗改装費の銀行への返済、品減りが生じた場合の埋め合わせ程度であった
    • [33]店の改装は店主が行い費用は1,500万円ぐらいで、会社のあっせんで銀行から返済期間15年ぐらいのローンを受ける。店内の設備と商品はすべて本部が持ち、在庫は原価で600〜700万円、設備は800万円程度であった
  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [34]昭53.2期に固定比率・固定長期適合率が大きく改善した理由として、加盟店の店舗設備資金のうち同社が負担する部分は加盟店に貸与する冷蔵庫・陳列棚等のみであり、資金負担の大きい土地・建物の建築資金などは加盟店の負担にしたため営業規模に比例して多額の投資資金を必要としなかったことが挙げられた

45%は取りすぎではないか、という見方は当時からあった。鈴木氏は費用負担に加え、棚卸をすべて本部が行うこと、スーパーバイザー1人が7店舗を回って指導することを挙げ、妥当な率だと説明している[35]。もう一つの装置が最低保証で、各店に年額1,100万円を保証した[36]。内訳は改装費の銀行返済が年約200万円、パートを含む人件費と雑費が400万〜500万円、店主の生活費が400万〜500万円という積算である。加盟した人は他のことをやらないかぎり行き詰まらない、というのが本人の説明であった[37]。ただし実際の持ち出しは年間300万円程度が10店ほどにとどまり、本部の負担にはなっていない。

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
    • [35]鈴木敏文は本部が荒利の45%を取ることについて「前述の費用負担に加え棚卸はすべて本部がやるので店の負担にならないこと、スーパーバイザーが1人で7店舗を持ちぐるぐる回ってコンサルティングしていることなどを勘案すると、これは妥当な率である」と説明した
    • [36]各店に最低1,100万円の保証を与えており、内訳は店舗改装費の銀行返済が年に約200万円、パートを含めた人件費と雑費が400〜500万円、店主の生活費が400〜500万円という計算による。実際の持ち出しは年間せいぜい300万円程度で、それも年に10店舗ぐらいであった
    • [37]鈴木敏文は「セブンイレブンに加盟した人は、他のことをやらないかぎり、絶対にお手上げになることはない」と述べた

フランチャイズには自営店にない難しさがある。自営なら100店のうち10店の成績が悪くても全体で帳尻が合うが、加盟店では1,000店のうち1店の不振も問題になる。鈴木氏は発足以来5年間で10店舗が離脱したことを認めており、うち3店はこんなに儲かるならと自営に切り替えた店であった。看板を変えた途端に売上が減ったという[38]。残りは店主が人を使えない例で、レジを家族以外に任せられなければ朝7時から夜11時までの営業は続かない。以後、契約にあたっては店主の人間性を重視するようになる[39]。店舗が増え続けているかぎりは大丈夫と考えてほしい、と鈴木氏は投資家に語った[40]。相手の合意がなければ出店できない業態のためである。

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
    • [38]セブンイレブンは当時720店舗で、発足以来5年間に10店舗がやめており、このうち3店舗は「こんなにもうかるなら」と自営に切り替えたもので、看板をかえて1カ月あたりからどんどん売り上げが減った
    • [39]鈴木敏文は離脱のもう一つの理由を「店主が人を使えないというケース」とし、レジを家族以外の人にまかせられなければ朝7時から夜11時までの営業を続けられないため、最近は契約にあたって店主の人間性を重視していると述べた
    • [40]鈴木敏文は「今後、皆さんがセブンイレブンを見る場合、店舗が増え続けているかぎりは大丈夫と考えていただきたい。自営店なら問題点があろうと出店しようと思えば出せるが、フランチャイズの場合は、相手の合意があって初めて出せるものだからである」と述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
    • [32]加盟店は毎月の売り上げ金額をいったん本部に送金し、荒利額の45%を本部が取り55%を店主に戻す。本部がもつ費用には設備のほか水道光熱費の87%、TVなど広告代の全部が含まれ、店主が負担するのは人件費、店舗改装費の銀行への返済、品減りが生じた場合の埋め合わせ程度であった
    • [33]店の改装は店主が行い費用は1,500万円ぐらいで、会社のあっせんで銀行から返済期間15年ぐらいのローンを受ける。店内の設備と商品はすべて本部が持ち、在庫は原価で600〜700万円、設備は800万円程度であった
    • [35]鈴木敏文は本部が荒利の45%を取ることについて「前述の費用負担に加え棚卸はすべて本部がやるので店の負担にならないこと、スーパーバイザーが1人で7店舗を持ちぐるぐる回ってコンサルティングしていることなどを勘案すると、これは妥当な率である」と説明した
    • [36]各店に最低1,100万円の保証を与えており、内訳は店舗改装費の銀行返済が年に約200万円、パートを含めた人件費と雑費が400〜500万円、店主の生活費が400〜500万円という計算による。実際の持ち出しは年間せいぜい300万円程度で、それも年に10店舗ぐらいであった
    • [37]鈴木敏文は「セブンイレブンに加盟した人は、他のことをやらないかぎり、絶対にお手上げになることはない」と述べた
    • [38]セブンイレブンは当時720店舗で、発足以来5年間に10店舗がやめており、このうち3店舗は「こんなにもうかるなら」と自営に切り替えたもので、看板をかえて1カ月あたりからどんどん売り上げが減った
    • [39]鈴木敏文は離脱のもう一つの理由を「店主が人を使えないというケース」とし、レジを家族以外の人にまかせられなければ朝7時から夜11時までの営業を続けられないため、最近は契約にあたって店主の人間性を重視していると述べた
    • [40]鈴木敏文は「今後、皆さんがセブンイレブンを見る場合、店舗が増え続けているかぎりは大丈夫と考えていただきたい。自営店なら問題点があろうと出店しようと思えば出せるが、フランチャイズの場合は、相手の合意があって初めて出せるものだからである」と述べた
  • 証券 1979年31(10)(367)
    • [34]昭53.2期に固定比率・固定長期適合率が大きく改善した理由として、加盟店の店舗設備資金のうち同社が負担する部分は加盟店に貸与する冷蔵庫・陳列棚等のみであり、資金負担の大きい土地・建物の建築資金などは加盟店の負担にしたため営業規模に比例して多額の投資資金を必要としなかったことが挙げられた

売れる量ではなく、売れる組み合わせを設計する

扱う商品3,000〜3,500品目[41]は、スーパーマーケットと重ならないように選んだ。鈴木氏の定義では、スーパーマーケットは1日3回の食事の材料を買いに行く店であり、コンビニエンスストアは出来上がっていてすぐ口に入れられるものや、時間がないときにさっと買える店である。生鮮三品はスーパーなら肉も魚も100種類前後を置くが、この店では3〜4種類しか置かない[42]。売れ残りを夕方に値下げして売る商法もとらなかった。値下げを前提にすれば利益が出ないからである。生鮮を置けば職人を雇わねばならず、人件費で損益分岐点が上がる。当時混同されがちだったミニスーパーが客数のわりに儲からないのは、そこに理由があると鈴木氏は見ていた[43]

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
    • [41]コンビニエンス・ストアの商品アイテムは日本も米国も3,000〜3,500程度で、「消費者が買って1時間以内に消費する(使う)商品」を扱う
    • [42]鈴木敏文は「スーパー・マーケットは毎日の3回の食事の材料を買いに行く店、コンビニエンス・ストアは出来上がっていてすぐに口に入れられるものや、時間がないときに思いついてさっと買える店」と定義し、スーパーが生鮮三品で肉80〜100種類・魚100種類程度を置くのに対しコンビニエンス・ストアはいずれも3〜4種類だと述べた
    • [43]鈴木敏文はミニ・スーパーについて「客がたくさん入っている割に収益が出ないという店が多い。これは生鮮三品を置くと職人を雇わなければならず、人件費がかさんで損益分岐点が高くなるためである」と述べ、スーパーが売れ残った生鮮三品を夕方に安くして売るのに対しコンビニエンス・ストアがそれをやったら絶対に利益は上がらないと説明した

粗利益は個々の商品で稼ぐのではなく、組み合わせで作る。当時の平均は25.2%で、免許品である酒やタバコ、米を扱う店ではどうしても下がる。これを引き上げたのが、コーヒーのような商品であった。1杯100円に対し原価は40円で、わかして2時間たてば捨てる仕組みにしても粗利益は60%になる[44]。鈴木氏はこれをマーチャンダイジング・ミックスと呼び、粗利益の大きいものを組み合わせて全体を高めるやり方だと説明した。スーパーが量に粗利益率を掛けるのに対し、この店は粗利益率に量を掛ける、という言い方もしている[45]。一方、スーパーにもある乾物のような商品は同じ値段で売った。安く見えるのはスーパーが全商品の5%ほどの目玉を交替で出すからである[46]

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
    • [44]セブンイレブンの荒利益は平均25.2%で、30%を超えている店もあるが酒・タバコ・米などの免許品を扱っているところは低くなる。コーヒーは1杯100円で原価40円、わかして2時間たてば捨てる仕組みにしており荒利益は60%であった
    • [45]鈴木敏文は「マーチャンダイジング・ミックス、つまり荒利益の大きい物を組み合わせて販売することによって全体の荒利益を高めるというのが、コンビニエンス商法のやり方だ」と述べ、スーパーが「量×荒利益率」に重点を置くのに対しセブンイレブンは「荒利益率×量」に比重を置くと説明した
    • [46]鈴木敏文は「スーパー・マーケットにもあるドライ食品的な物は、スーパー・マーケットの通常価格と同じ値段で売っている。スーパーのほうが安いと感じている人が多いが、これはスーパーが目玉商品を出すからだ。目玉は全商品の5%程度」と述べた

組み合わせを維持するには、売れない商品を落とし続けなければならない。開業から1979年までの5年間に商品台帳へ登録された商品は8,000アイテムにのぼるが、そのとき使われていた台帳に残るのは半分の4,000アイテムであった[47]。スーパーマーケットではまず起きないことだ、と鈴木氏は述べている。扱う品目が少ないぶん1品あたりの販売シェアは高くなり、コカコーラの1リットル瓶では日本一の売上を記録した[48]。この入れ替えを支えるため、1982年にはPOSのデータへ商品別の売り切れ時刻の一覧を組み込み、単品管理を徹底させる[49]。売れ筋を探す道具というより、死に筋を落とすための道具であった。店舗数は1980年に1,000店、1983年には2,000店を超えている[50]

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
    • [47]1号店開業から1979年までに商品台帳に登録された商品は全部で8,000アイテムにのぼるが、当時使われている台帳に登録されているのはその半分の4,000アイテムで、鈴木敏文は「たった5年の間に4,000アイテムが消えた」「スーパー・マーケットの場合、まずこういうことはない」と述べた
    • [48]鈴木敏文は、イトーヨーカ堂の売上高が約5,000億円で25〜30万アイテムを扱うのに対しセブンイレブンは売上高約1,000億円で3,000アイテムそこそこであるため1単品当たりのシェアが非常に高くなるとし、「コカコーラの1リットルびんの売り上げは、セブンイレブンが日本で1番だ」と述べた
  • 日経ビジネス 1989年2月13日号
    • [49]1982年にPOSデータへ「デイリー商品別売り切れ時刻一覧」を盛りこみ単品管理を徹底させた
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
    • [50]店舗数は昭和55年(1980年)に1,000店を突破し、創業10年目の昭和58年(1983年)には2,000店を超えた
  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
    • [41]コンビニエンス・ストアの商品アイテムは日本も米国も3,000〜3,500程度で、「消費者が買って1時間以内に消費する(使う)商品」を扱う
    • [42]鈴木敏文は「スーパー・マーケットは毎日の3回の食事の材料を買いに行く店、コンビニエンス・ストアは出来上がっていてすぐに口に入れられるものや、時間がないときに思いついてさっと買える店」と定義し、スーパーが生鮮三品で肉80〜100種類・魚100種類程度を置くのに対しコンビニエンス・ストアはいずれも3〜4種類だと述べた
    • [43]鈴木敏文はミニ・スーパーについて「客がたくさん入っている割に収益が出ないという店が多い。これは生鮮三品を置くと職人を雇わなければならず、人件費がかさんで損益分岐点が高くなるためである」と述べ、スーパーが売れ残った生鮮三品を夕方に安くして売るのに対しコンビニエンス・ストアがそれをやったら絶対に利益は上がらないと説明した
    • [44]セブンイレブンの荒利益は平均25.2%で、30%を超えている店もあるが酒・タバコ・米などの免許品を扱っているところは低くなる。コーヒーは1杯100円で原価40円、わかして2時間たてば捨てる仕組みにしており荒利益は60%であった
    • [45]鈴木敏文は「マーチャンダイジング・ミックス、つまり荒利益の大きい物を組み合わせて販売することによって全体の荒利益を高めるというのが、コンビニエンス商法のやり方だ」と述べ、スーパーが「量×荒利益率」に重点を置くのに対しセブンイレブンは「荒利益率×量」に比重を置くと説明した
    • [46]鈴木敏文は「スーパー・マーケットにもあるドライ食品的な物は、スーパー・マーケットの通常価格と同じ値段で売っている。スーパーのほうが安いと感じている人が多いが、これはスーパーが目玉商品を出すからだ。目玉は全商品の5%程度」と述べた
    • [47]1号店開業から1979年までに商品台帳に登録された商品は全部で8,000アイテムにのぼるが、当時使われている台帳に登録されているのはその半分の4,000アイテムで、鈴木敏文は「たった5年の間に4,000アイテムが消えた」「スーパー・マーケットの場合、まずこういうことはない」と述べた
    • [48]鈴木敏文は、イトーヨーカ堂の売上高が約5,000億円で25〜30万アイテムを扱うのに対しセブンイレブンは売上高約1,000億円で3,000アイテムそこそこであるため1単品当たりのシェアが非常に高くなるとし、「コカコーラの1リットルびんの売り上げは、セブンイレブンが日本で1番だ」と述べた
  • 日経ビジネス 1989年2月13日号
    • [49]1982年にPOSデータへ「デイリー商品別売り切れ時刻一覧」を盛りこみ単品管理を徹底させた
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
    • [50]店舗数は昭和55年(1980年)に1,000店を突破し、創業10年目の昭和58年(1983年)には2,000店を超えた

鮮度を供給体制に組み込み、単品管理で仕入れを握り、本家を買い戻すまで

積み上げた鮮度管理が崩れ、供給体制を分散へ組み替える

セブンイレブン・ジャパンは鮮度の管理を早くから積み上げた。1979年からは製造時間をラベルに記入させ、1983年からは弁当・調理パンの1日3便体制を順次導入する。納入業者には18度に温度管理された生産ライン、仕分け場、保冷車の保有を条件として課した。1986年からは、18度の保冷ケースに置いていても売れ残りは納入後20時間で全量廃棄させている[51]。調理済み食品の鮮度管理では業界で最も進んでいるという自負が、社内にはあった[52]。この分野の伸びは早くから業績を支えており、米飯や調理パン、おでんといったレジまわりの商品が粗利益率を押し上げていた。

  • 日経ビジネス 1989年2月13日号
    • [51]ベンダーの選別にあたっては18度に温度管理された生産ライン、仕分け場、保冷車を所有することを条件とし、1983年から徐々に1日3便体制の導入を進め、1979年から製造時間をラベルに記入させ、1986年からは18度保冷ケースに置いていても売れ残りは納入後20時間ですべて廃棄するようにさせた
    • [52]弁当・調理パンの1日3便製造・配送網の全国整備も目前に迫り、調理済み食品の鮮度管理にはCVS業界で最も先進的な取り組みをしているとの自負があった。調理済み食品(米飯・調理パンおよびおでん等のレジまわり食品)は業績の伸びの原動力となっていた

1988年11月7日、NHKの番組が弁当の鮮度を取り上げた。店頭の弁当に製造日だけのものと製造時間入りのものが混じっていること、表示があっても実際の製造時刻と2〜3時間ずれていることが報じられる[53]。緊急の立ち入り検査で判明したのは、集中出店している首都圏では工場ごとの割当量が多く、表示シールを大量に印字して貼るためにずれが生じるという構造であった。全国の大部分の納入業者ではずれは1時間以内である。翌日から表示を1時間ごとに切り替える応急処置をとった[54]が、鈴木氏は事態をより重く見た。

  • 日経ビジネス 1989年2月13日号
    • [53]1988年11月7日にNHK「おはようジャーナル」が「点検・調理済み食品」と題してコンビニエンスストアの弁当の鮮度を取り上げ、製造日だけが表示されているものと製造日と製造時間が入れられているものが混じっていること、表示時間と実際の製造時間に2〜3時間のズレがあることを報じた
    • [54]緊急立ち入り検査の結果、全国の大部分のベンダーでは表示のズレは1時間以内だが、店舗を集中出店している首都圏では各工場の割り当て製造量が多く、製造時間表示シールを大量印字して貼りつけるため最大2〜3時間のズレが生じることが判明し、セブンイレブンは番組放映の翌日から弁当の製造時間表示をすべて1時間ごとに切り替えた

直前まで進めていた方針は逆向きだった。1980年ごろから首都圏では調理済み食品が毎年2割の売上増を続け、20数社の納入業者では追いつかなくなる[55]。そこで1984年以降、キユーピー、ハウス食品工業、伊藤ハム、味の素などに専用の協力工場を関東で設立させ[56]、1988年4月には三井物産と物流子会社を設立して配送の一本化に着手した。しかしその設計には、製造と配送の時間をどう縮めるかという視点が抜けていた。配送を集約すれば集荷に時間が食われ、強い業者へ生産を集めれば全体のリードタイムはかえって延びる[57]。そこで方針を地域分散へ切り替えた[58]。一本化計画は中止し、納入業者が自社製品を運ぶ形に戻す。工場では調理、炊飯、包装、仕分けを同時並行で処理し、製造時間を半分に縮める計画を立てた[59]

  • 日経ビジネス 1989年2月13日号
    • [55]1980年頃から首都圏では調理済み食品が毎年2割の売り上げ増が続き、それまでに育成してきた20数社のベンダーだけでは対応できなくなった。彼らのほとんどが中小企業であり拡大のテンポには資金・人材面で天井があった
    • [56]1984年以来、キユーピー、ハウス食品工業、プリマハム、伊藤ハム、味の素、スギヨといった企業に関東地区で次々とセブンイレブン専用協力工場を設立させた
    • [57]全工場の生産リードタイムを平均して短縮するには強い業者への生産集中はむしろマイナスになり、配送もトランス・フリートに一本化すると各ベンダーからの集荷に時間が食われ結果として配送時間は長くなるという矛盾があった
    • [58]岩国修一常務は「調味料や缶詰など一般の加工食品は鮮度を厳しく問われないから製造・配送をなるべく集中しスケール・メリットを享受した方がよい。しかし調理済み食品は『新鮮さ』が新たな付加価値を生み出すから、作業は可能な限り分散し製造・配送のリードタイムの短縮に力点を置くのが望ましい」と説明した
    • [59]おかずの調理・炊飯・パッキング・包装・仕分けを従来の順番処理から同時並行処理に変えて製造時間を2分の1に短縮し、工場の稼働率を腹八分に保ち臨界点に達したらラインを増強せず分工場を作るよう指導した。配送一本化計画は一旦中止し、以前どおりベンダーが自社製品を配送することにした
  • 日経ビジネス 1989年2月13日号
    • [51]ベンダーの選別にあたっては18度に温度管理された生産ライン、仕分け場、保冷車を所有することを条件とし、1983年から徐々に1日3便体制の導入を進め、1979年から製造時間をラベルに記入させ、1986年からは18度保冷ケースに置いていても売れ残りは納入後20時間ですべて廃棄するようにさせた
    • [52]弁当・調理パンの1日3便製造・配送網の全国整備も目前に迫り、調理済み食品の鮮度管理にはCVS業界で最も先進的な取り組みをしているとの自負があった。調理済み食品(米飯・調理パンおよびおでん等のレジまわり食品)は業績の伸びの原動力となっていた
    • [53]1988年11月7日にNHK「おはようジャーナル」が「点検・調理済み食品」と題してコンビニエンスストアの弁当の鮮度を取り上げ、製造日だけが表示されているものと製造日と製造時間が入れられているものが混じっていること、表示時間と実際の製造時間に2〜3時間のズレがあることを報じた
    • [54]緊急立ち入り検査の結果、全国の大部分のベンダーでは表示のズレは1時間以内だが、店舗を集中出店している首都圏では各工場の割り当て製造量が多く、製造時間表示シールを大量印字して貼りつけるため最大2〜3時間のズレが生じることが判明し、セブンイレブンは番組放映の翌日から弁当の製造時間表示をすべて1時間ごとに切り替えた
    • [55]1980年頃から首都圏では調理済み食品が毎年2割の売り上げ増が続き、それまでに育成してきた20数社のベンダーだけでは対応できなくなった。彼らのほとんどが中小企業であり拡大のテンポには資金・人材面で天井があった
    • [56]1984年以来、キユーピー、ハウス食品工業、プリマハム、伊藤ハム、味の素、スギヨといった企業に関東地区で次々とセブンイレブン専用協力工場を設立させた
    • [57]全工場の生産リードタイムを平均して短縮するには強い業者への生産集中はむしろマイナスになり、配送もトランス・フリートに一本化すると各ベンダーからの集荷に時間が食われ結果として配送時間は長くなるという矛盾があった
    • [58]岩国修一常務は「調味料や缶詰など一般の加工食品は鮮度を厳しく問われないから製造・配送をなるべく集中しスケール・メリットを享受した方がよい。しかし調理済み食品は『新鮮さ』が新たな付加価値を生み出すから、作業は可能な限り分散し製造・配送のリードタイムの短縮に力点を置くのが望ましい」と説明した
    • [59]おかずの調理・炊飯・パッキング・包装・仕分けを従来の順番処理から同時並行処理に変えて製造時間を2分の1に短縮し、工場の稼働率を腹八分に保ち臨界点に達したらラインを増強せず分工場を作るよう指導した。配送一本化計画は一旦中止し、以前どおりベンダーが自社製品を配送することにした

死に筋を落とす仕組みが、取引の立場を入れ替える

1990年には全国約4,000店に達していた。1店の売場面積は30坪程度で、置ける商品は3,000〜3,500品目、しかも全品買い切りである[60]。選び損なえば在庫の負担がそのまま返ってくるから、絞り込むしかない。POSは売れ筋を見つける道具として語られることが多いが、この会社の使い方は逆であった。死に筋を徹底して排除した結果として売れ筋が浮かび上がる。鈴木氏は『死に筋はどこへ置いても死に筋』[引用元]と言い切っている。供給が過剰になっているのに客の欲しいものが店頭で手に入らないのは、店の大小の問題ではない、というのが本人の説明であった[61]。1990年夏には全加盟店のレジ端末を更新し、コンピューターも大型化する計画を立てている[62]

  • 日経ビジネス 1990年6月11日号増刊
    • [60]1店舗当たりの平均売り場面積がわずか30坪のセブンイレブンでは発売される商品をすべて陳列することは不可能で、加盟店が取り扱う商品アイテムは3,000〜3,500品目、全品買い切りを原則とするため商品選択に失敗すれば在庫負担のリスクが大きい。全国に約4,000店を展開していた
    • [61]鈴木敏文は死に筋として店頭から排除された商品が他の小売りルートで売れるかという問いに対し「死に筋はどこへ置いても死に筋」と述べ、「今や需給が完全に逆転し供給過剰の時代。にもかかわらずお客が本当に欲しいものはなかなか店頭で手に入らない。これは店舗が大きい小さいの問題ではない」と語った
    • [62]セブンイレブン・ジャパンは1990年夏から全加盟店のレジ端末を更新するとともにコンピューターを大型化しPOSシステムのレベルアップを図った

選別の力は取引の力関係を変えた。1990年3月に発売されたキリンビールの『一番搾り』は3カ月足らずで500万ケースを出荷し、生産が追いつかない状態になる。約1,300店あった酒販免許店では欠品も生じた[63]が、取引中止を恐れる問屋がセブンイレブンへ優先的に回すことは珍しくなかった、とビールメーカーの営業担当者は語っている。キユーピーやエスビー食品のように専用の製造ラインを設けるメーカーも現れた[64]。商品が採用されるかどうかで他チェーンの扱いまで決まる以上、メーカーは売れ行きに神経質にならざるを得ない。品揃えが消費に敏感な20代へ絞られていた[65]ことも、その圧力を強めた。

  • 日経ビジネス 1990年6月11日号増刊
    • [63]キリンビールが1990年3月から売り出した「一番搾り」は3カ月足らずで500万ケース、大びん換算で1億本を出荷し、生産が追いつかない状態となった。セブンイレブンの酒販免許店(当時約1,300店)の中には欠品が生じる所も出た
    • [64]あるビールメーカーの営業マンは「セブンイレブンが取り扱うかどうかで他のコンビニが扱うかどうかも決まる。取引中止が怖いから問屋レベルではセブンイレブンだけに優先的に回すことはザラ」と語り、キユーピーやエスビー食品のように専用の工場製造ラインを設けているメーカーも珍しくなかった
    • [65]品揃えは消費の動向に敏感な20代の若者にターゲットを絞っているため、メーカーはセブンイレブンでの商品の売れ行きに神経質にならざるを得ず、メーカーからは商品共同開発の提案がしょっちゅう持ち込まれる状態であった

摩擦も同時に起きている。1989年10月、創業以来の取引先であった食品問屋の明治屋との取引が打ち切られた。明治屋は年間100億円の取引先を失う[66]。共同配送センター建設に伴う費用負担への反発が引き金とされるが、小口・定時配送で欠品を許さない要求が採算に合わないという不満は以前からあった。倉庫を持たない以上、物流コストの上昇は納入側に寄る[67]。同じ時期、花王が導入した配送日を確定する新取引制度に対しても、この会社は最後まで抵抗した。1個単位の極小ロット配送を前提とする仕組みが骨抜きになりかねなかったからである。

  • 日経ビジネス 1990年6月11日号増刊
    • [66]1989年10月にセブンイレブン・ジャパンと食品問屋・明治屋の取引中止事件が起きた。明治屋はセブンイレブン創業以来の付き合いだったが、取引中止で年間100億円もの取引先を失った
    • [67]明治屋が共同配送センター建設に伴うコスト負担に反発したのが引き金といわれるが、以前から明治屋は「小口定時配送・欠品なし」を要求するセブンイレブンのカンバン方式に対応するのは採算的に引き合わないと不満を強めていた。納入側からは「セブンイレブンは自分で倉庫は持たないから物流コストの上昇は全部我々の方にシワ寄せされる」との不満も出ていた
  • 日経ビジネス 1990年6月11日号増刊
    • [60]1店舗当たりの平均売り場面積がわずか30坪のセブンイレブンでは発売される商品をすべて陳列することは不可能で、加盟店が取り扱う商品アイテムは3,000〜3,500品目、全品買い切りを原則とするため商品選択に失敗すれば在庫負担のリスクが大きい。全国に約4,000店を展開していた
    • [61]鈴木敏文は死に筋として店頭から排除された商品が他の小売りルートで売れるかという問いに対し「死に筋はどこへ置いても死に筋」と述べ、「今や需給が完全に逆転し供給過剰の時代。にもかかわらずお客が本当に欲しいものはなかなか店頭で手に入らない。これは店舗が大きい小さいの問題ではない」と語った
    • [62]セブンイレブン・ジャパンは1990年夏から全加盟店のレジ端末を更新するとともにコンピューターを大型化しPOSシステムのレベルアップを図った
    • [63]キリンビールが1990年3月から売り出した「一番搾り」は3カ月足らずで500万ケース、大びん換算で1億本を出荷し、生産が追いつかない状態となった。セブンイレブンの酒販免許店(当時約1,300店)の中には欠品が生じる所も出た
    • [64]あるビールメーカーの営業マンは「セブンイレブンが取り扱うかどうかで他のコンビニが扱うかどうかも決まる。取引中止が怖いから問屋レベルではセブンイレブンだけに優先的に回すことはザラ」と語り、キユーピーやエスビー食品のように専用の工場製造ラインを設けているメーカーも珍しくなかった
    • [65]品揃えは消費の動向に敏感な20代の若者にターゲットを絞っているため、メーカーはセブンイレブンでの商品の売れ行きに神経質にならざるを得ず、メーカーからは商品共同開発の提案がしょっちゅう持ち込まれる状態であった
    • [66]1989年10月にセブンイレブン・ジャパンと食品問屋・明治屋の取引中止事件が起きた。明治屋はセブンイレブン創業以来の付き合いだったが、取引中止で年間100億円もの取引先を失った
    • [67]明治屋が共同配送センター建設に伴うコスト負担に反発したのが引き金といわれるが、以前から明治屋は「小口定時配送・欠品なし」を要求するセブンイレブンのカンバン方式に対応するのは採算的に引き合わないと不満を強めていた。納入側からは「セブンイレブンは自分で倉庫は持たないから物流コストの上昇は全部我々の方にシワ寄せされる」との不満も出ていた

本家が借金で行き詰まり、分家がこれを買い取る

ライセンス元のサウスランド社は、1987年に経営が傾いた。カナダの投資家から敵対的買収を仕掛けられ、防衛のため創業家のトンプソン家が自社株の公開買い付けに応じ、株式を買い戻して上場を廃止する。直後にブラックマンデーが起き、金融環境が悪化した[68]。資金調達のために発行した18億ドルのジャンク債は、年間約3億ドルの金利負担となって残る。店舗や自動車部品小売チェーン、化学工場を次々に売却し、日本のセブンイレブンには商標権を担保に410億円の実質的な債務保証を仰いだ。1989年12月にはハワイの58店舗を7,500万ドルで手放した[69]が、資産の切り売りはすぐ限界に達した。

  • 日経ビジネス 1991年4月29日号
    • [68]サウスランド社の経営悪化は1987年にカナダの投資家に敵対的買収を仕掛けられ、防衛手段として創業者のトンプソン家が自社株の公開買い付けで応じたことに始まる。株式を買い戻して上場を廃止した直後にブラックマンデーに見舞われ金融環境が悪化した
    • [69]資金調達のため総額18億ドルのジャンク債を発行したが年間約3億ドルの金利を背負い、店舗や系列の自動車部品小売りチェーン、化学工場などの事業を次々と売却、日本のセブンイレブンに商標権を担保にした410億円の実質的な債務保証を受けるとともに、1989年12月にはハワイの58店舗を7,500万ドル(105億円)で売却した

1990年、サウスランド社は連邦破産法の申請を経て、イトーヨーカ堂グループへ4億3,000万ドルでの身売りを決めた。買収は1991年3月に完了し、出資比率は70.2%となる。資金はイトーヨーカ堂が51%、セブンイレブン・ジャパンが49%を分担した。3月20日、ダラスで開かれた新生サウスランドの第1回役員会で、イトーヨーカ堂社長の伊藤雅俊氏が会長に、鈴木氏が副会長に就いている[70]。フランチャイズ契約そのものは従来どおり残ったが、日本側が事実上の親会社になった[71]。ライセンスを与えた側の会社を、与えられた側が支配する関係へ入れ替わったことになる。

  • 日経ビジネス 1991年4月29日号
    • [70]1991年3月20日にダラスで新生サウスランドの第1回役員会が開かれ、伊藤雅俊社長が会長、鈴木敏文副社長が副会長に就任した
    • [71]サウスランド社は1990年に連邦破産法の申請をしたうえでイトーヨーカ堂グループに4億3,000万ドル(約700億円)で身売りを決め、出資比率は70.2%となった。グループ内の資金分担はイトーヨーカ堂51%、セブンイレブン・ジャパン49%で、セブンイレブンがサ社と結んでいるフランチャイズ契約はそのままだが日本側が事実上の親会社になった

買収したのは不振の会社ではあったが、事業そのものが崩れていたわけではない。1990年12月期は2億7,600万ドルの期間損失を出している。しかし売上高は83億4,700万ドルで前年比1%の増収であり、北米の店舗も6,702店を保っていた[72]。経営悪化の主因はジャンク債の金利にあり、資本再編で普通株へ転換すれば負担は消える。ただし、同じ看板でも中身は違った[73]。日本では1店の商品数が3,000種類でファストフードと食品が売上の36%を占めるのに対し、米国は2,700種類で22%にとどまり、酒とタバコと清涼飲料が49%を占める[74]。運営も日本は8割が加盟店だが、米国は直営と加盟店が半々であった[75]。ハワイでは現地法人を設けてバイヤーを2人から10人にし、店内在庫を5割以下に圧縮している[76]。1995年、単品管理の移植は3年で軌道に乗ったと報じられた[77]

  • 日経ビジネス 1991年4月29日号
    • [72]サウスランド社の1990年12月期は約2億7,600万ドルの期間損失を出したものの売上高は83億4,700万ドルで前年に比べ約1%伸びており、社員数は約3万5,000人、北米の店舗数は6,702店であった
    • [73]鈴木敏文は「日本のシステムをそのまま米国に持ち込めるとは思っていない」と強調し「日本人スタッフは常駐させない方針」と述べた。また「買収後では親から子への命令になってしまうから」として1991年2月から3月にかけてサウスランド社側に日本を視察してもらった
    • [74]1店舗当たりの平均商品数は日本が3,000種類、米国は2,700種類で、商品構成は日本のセブンイレブンがファーストフードと食品で売り上げの36%を占めるのに対し米国は22%(ガソリン売り上げを除く)、酒・タバコ・清涼飲料は日本21%に対し米国49%であった
    • [75]日本は店舗の80%はオーナーが管理するフランチャイズ店だが、米国は直営店とフランチャイズ店が半数ずつで、他企業に本部運営をゆだねるエリア・フランチャイズの形態もあった
    • [76]ハワイ店を買収したセブンイレブンは現地法人を設立しバイヤーを10人体制にするなど本部組織作りに着手、1990年6月には実験店舗2店を指定して日々の販売量・在庫量を調査した。商品数を1,700〜1,800品目から2,700〜2,800品目に増やし、店内在庫額は従来の5割以下に圧縮、発注をケース単位から個数単位に変え、配送頻度は週1回から2回に増やした
  • 日経ビジネス 1995年1月9日号
    • [77]米サウスランド社の再建について、単品管理を切り札として3年で軌道に乗ったと報じられた
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号
    • [68]サウスランド社の経営悪化は1987年にカナダの投資家に敵対的買収を仕掛けられ、防衛手段として創業者のトンプソン家が自社株の公開買い付けで応じたことに始まる。株式を買い戻して上場を廃止した直後にブラックマンデーに見舞われ金融環境が悪化した
    • [69]資金調達のため総額18億ドルのジャンク債を発行したが年間約3億ドルの金利を背負い、店舗や系列の自動車部品小売りチェーン、化学工場などの事業を次々と売却、日本のセブンイレブンに商標権を担保にした410億円の実質的な債務保証を受けるとともに、1989年12月にはハワイの58店舗を7,500万ドル(105億円)で売却した
    • [70]1991年3月20日にダラスで新生サウスランドの第1回役員会が開かれ、伊藤雅俊社長が会長、鈴木敏文副社長が副会長に就任した
    • [71]サウスランド社は1990年に連邦破産法の申請をしたうえでイトーヨーカ堂グループに4億3,000万ドル(約700億円)で身売りを決め、出資比率は70.2%となった。グループ内の資金分担はイトーヨーカ堂51%、セブンイレブン・ジャパン49%で、セブンイレブンがサ社と結んでいるフランチャイズ契約はそのままだが日本側が事実上の親会社になった
    • [72]サウスランド社の1990年12月期は約2億7,600万ドルの期間損失を出したものの売上高は83億4,700万ドルで前年に比べ約1%伸びており、社員数は約3万5,000人、北米の店舗数は6,702店であった
    • [73]鈴木敏文は「日本のシステムをそのまま米国に持ち込めるとは思っていない」と強調し「日本人スタッフは常駐させない方針」と述べた。また「買収後では親から子への命令になってしまうから」として1991年2月から3月にかけてサウスランド社側に日本を視察してもらった
    • [74]1店舗当たりの平均商品数は日本が3,000種類、米国は2,700種類で、商品構成は日本のセブンイレブンがファーストフードと食品で売り上げの36%を占めるのに対し米国は22%(ガソリン売り上げを除く)、酒・タバコ・清涼飲料は日本21%に対し米国49%であった
    • [75]日本は店舗の80%はオーナーが管理するフランチャイズ店だが、米国は直営店とフランチャイズ店が半数ずつで、他企業に本部運営をゆだねるエリア・フランチャイズの形態もあった
    • [76]ハワイ店を買収したセブンイレブンは現地法人を設立しバイヤーを10人体制にするなど本部組織作りに着手、1990年6月には実験店舗2店を指定して日々の販売量・在庫量を調査した。商品数を1,700〜1,800品目から2,700〜2,800品目に増やし、店内在庫額は従来の5割以下に圧縮、発注をケース単位から個数単位に変え、配送頻度は週1回から2回に増やした
  • 日経ビジネス 1995年1月9日号
    • [77]米サウスランド社の再建について、単品管理を切り札として3年で軌道に乗ったと報じられた

1万店と電子商取引、そして26年続いた親子上場の解消

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セブンイレブン・ジャパンの沿革1973〜2005年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1973〜1978年大型店の摩擦から生まれた子会社が、5年で500店に届くまでイトーヨーカ堂が米サウスランド社とライセンス契約を締結★★
イトーヨーカ堂の子会社としてヨーク・セブンを設立
セブンイレブンの創業とフランチャイズ方式の採用

1973年、業界十位の総合スーパーだったイトーヨーカ堂が、米サウスランド社と提携してコンビニエンスストア『セブンイレブン』の国内展開権を取得し、翌1974年5月に東京・豊洲の酒屋を一号店として開業した経営判断。直営でなくフランチャイズを選び、零細な既存店の業態転換を軸に商圏を引き継いだ。

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★★★
店舗で24時間営業を開始★★
鈴木敏文鈴木敏文氏が社長に就任。同年に加盟店が累計500店を超える
鈴木敏文セブンイレブン・ジャパンに商号変更
1979〜1985年親会社が過半を握ったまま上場した会社と、その配分の設計鈴木敏文親会社イトーヨーカ堂が過半を保有したままの東証二部上場

1979年10月15日、セブンイレブン・ジャパンが東京証券取引所市場第二部へ上場した。公募380万株により資本金は8億1,000万円から10億円となり、発行済株式総数は2,000万株になった。上場申請時の大株主はイトーヨーカ堂62.54%で、公募後も親会社の持分は過半を割っていない。幹事会員は野村証券以下6社であった。

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★★★
鈴木敏文店舗数が1,000店を突破
鈴木敏文POSシステムを導入★★
鈴木敏文商品別の売り切れ時刻を把握する単品管理の基盤を確立
鈴木敏文弁当・調理パンの1日3便製造・配送体制の導入を開始★★
鈴木敏文キユーピー、ハウス食品工業、プリマハム、伊藤ハム、味の素が専用協力工場を設立
1986〜1995年鮮度を供給体制に組み込み、単品管理で仕入れを握り、本家を買い戻すまで鈴木敏文売れ残った調理済み食品を納入後20時間で全量廃棄する運用を開始
鈴木敏文弁当の製造時間表示と実際の製造時刻のずれをテレビ番組が報道★★
鈴木敏文製造・配送体制の全面的な見直しに着手
鈴木敏文集中出店(ドミナント)を武器にした共同配送・単品管理と鮮度経営の確立

1980年代のセブン-イレブン・ジャパンが、特定地域に店を高密度で集中させるドミナント方式を土台に、温度帯別の共同配送・多頻度小口配送とPOSによる単品管理を組み上げ、弁当や調理パンの鮮度と欠品排除で競争を制した経営判断。1988年秋のNHKの鮮度批判を機に、製造・配送体制を総点検した。

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★★★
鈴木敏文共同配送センターの費用負担をめぐり食品問屋の明治屋との取引を打ち切り
鈴木敏文全店にプリペイドカードを導入
鈴木敏文チェーン全店売上高が9,319億円、店舗数が4,353店に達する(1991年2月期)
鈴木敏文ライセンス元である米サウスランド社の買収と、イトーヨーカ堂との共同出資による再建の引き受け

1991年3月、セブンイレブン・ジャパンが親会社イトーヨーカ堂とともに、経営破綻したライセンス元の米サウスランド社を4億3,000万ドル(約700億円)で買収し、出資比率70.2%を握った経営判断。資金の分担はイトーヨーカ堂51%、セブンイレブン・ジャパン49%であった。

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★★★
鈴木敏文サウスランド社の出資比率70.2%を取得★★
鈴木敏文店舗数が5,000店を超える
鈴木敏文サウスランド社の再建が軌道に乗り、単品管理の移植が3年で成果を示す
1995〜2005年1万店と電子商取引、そして26年続いた親子上場の解消鈴木敏文第五次総合情報システムを導入
鈴木敏文ソフトバンクなどとインターネット上での書籍販売を開始
鈴木敏文店舗での支払いと受け取りを選べる方式を採用
鈴木敏文セブンドリーム・ドットコムの設立と、店舗網の電子商取引受け渡し拠点への転用

2000年2月、セブンイレブン・ジャパンはNEC、野村総合研究所、ソニー、三井物産、日本交通公社(JTB)など7社と資本金50億円の電子商取引会社セブンドリーム・ドットコムを設立し、51.0%を出資した。同年6月にサイトを開き、代金の支払いと商品の引き渡しを全国約8,000カ所の店舗で受け付ける設計をとった。

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★★★
鈴木敏文電子商取引会社セブンドリーム・ドットコムを設立
鈴木敏文路面1階への出店を原則とする方針を転換
鈴木敏文国内店舗数が1万店を突破
鈴木敏文3社共同株式移転によるセブン&アイ・ホールディングスの設立と親子上場の解消

2005年4月20日、イトーヨーカ堂は子会社のセブン-イレブン・ジャパン、デニーズジャパンとの共同株式移転により、9月1日付で持株会社セブン&アイ・ホールディングスを設立すると発表した。3社は同日付で上場を廃止し、持株会社が東京証券取引所市場第一部へ上場した。26年続いた親子上場が解消された経営判断である。

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★★★
鈴木敏文持株会社セブン&アイ・HDが発足★★
出典・参考
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
  • 日経ビジネス 1974年7月22日号
  • 日経ビジネス 1977年7月18日号
  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)
  • 日経ビジネス 1989年2月13日号
  • 日経ビジネス 1990年6月11日号増刊
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号
  • 日経ビジネス 1995年1月9日号
  • 証券 1979年31(10)(367)

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