セブンイレブン・ジャパンは、コンビニエンスストアを日本に持ち込もうという発想から始まったのではない。1970年から1971年にかけて、親会社のイトーヨーカ堂は大型店の出店に苦しんでいた。地元商店街に共存共栄を申し入れるには、相手の商売がこの先どうなるのかを具体的に示さなければならない。そこで中小小売店の今後の方向を研究することにした、というのが鈴木敏文氏の説明である[1]。イトーヨーカ堂はこの1970年から、米国におけるコンビニエンスストアの実情と、日本で発展する可能性の有無を調査した[2]。設立の動機は新業態への意欲ではなく、本業の出店障害をどう取り除くかという課題の側にあった。
視察した本人の第一印象は芳しくなかった。鈴木氏は米国のコンビニエンスストアを最初に見たとき『雑貨屋みたいな変な店』[引用元]と感じたと語っている。関心が変わったのは、提携先となる米サウスランド社のセブンイレブンが当時すでに4,000店に達していると知ったとき[3]である。同社は1927年にトンプソン家が製氷会社として創業し、工場の傍らでパンや牛乳、卵を売る小売店を併設したところ繁盛したことからチェーン化を進め、1946年に店名をセブンイレブンとした[4]。1962年に500店、1965年に1,000店と伸び[5]、大型店の発達と並行してコンビニエンスストアも育っていた。
専門家の見立ては否定的だった。日本には住宅街の近くに多数の小売店があり、すでにコンビニエンスストアの役割を果たしている。ゆえに『中小小売店がもっと整理された後でないとだめだ』[引用元]という意見が、学者やコンサルタントには多かった[6]。鈴木氏はこれを現象面のとらえ方だと退けた。当時すでに問題になっていた小売業の生産性の低さが、その議論には入っていないというのが理由である。高度成長期には雇用条件の良いメーカーへ流通業から人が移っていたが、イトーヨーカ堂でさえ月に4日休むようになったのは1961年ごろから[7]だった。労働条件がそこまで劣後する産業に、生産性を上げる余地がないとは考えなかった。
1973年11月、イトーヨーカ堂は米サウスランド社とエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、その事業を担う子会社としてヨーク・セブン株式会社を設立した。同月20日の設立である[8]。導入したのは店舗の立地調査、店舗設計、設備レイアウト、品揃え、簿記会計システムまでを含む一式で、日本の実情に合わせた部分的な修正を加えたほかは、ほぼそのまま持ち込まれた。売場面積30坪から50坪ほどの小型店でありながら品揃えは約3,500品目、しかも長時間営業で年中無休という、日本には前例のない営業形態であった[9]。翌1974年5月15日、東京都江東区豊洲に加盟店の第1号が開業する[10]。酒販店からの転換であった。
開業当初の2店は、そのまま実験だった。豊洲の加盟店は売場面積82.5平方メートルで酒類を置き、生鮮三品を扱わない。翌6月に神奈川県相模原市へ開いた直営店はその倍の165平方メートルで、生鮮三品を扱い酒類を置かない[11]。立地によって来店時間がどう変わるか、品揃えはどうあるべきかを調べるための構成である。イトーヨーカ堂はこの結果を見て翌年以降の出店数を決めることとし、当面は1975年2月末までに15店を置く計画とした。その先には8年間で2,000店という青写真も描いている[12]。
大手の参入に、中小小売業からは反発が出た。『資本力を武器になぐり込む』[引用元]『大企業の横暴である』[引用元]という談話が当時の誌面に載っている[13]。しかし、加盟店の増加は速かった。年度ごとの増加数は1975年2月期に7店、1976年2月期に57店、1977年2月期に124店、1978年2月期に171店、1979年2月期に211店と積み上がり、1979年2月末の加盟店は570店に達した[14]。加盟前の業種では酒店が275店と全体の48.2%を占める。地域における知名度と、専売品を扱う強さを見込み、酒店を重点的に開拓した[15]。
拡大の途中で、契約そのものへの不満が表に出た。1977年、千葉県の加盟店が本部と関係のない問屋から商品を仕入れ、独自に販売を始める。酒販店からの転業で、以前から扱っていた酒類まで加盟後は粗利益の45%を本部に取られることに業を煮やしたためであった[16]。当時の契約は、売上金を毎日全額本部へ送金し、粗利益の45%を本部が取り、期間は15年という内容で、本部の拘束が強い[17]。この話が伝わると同業の加盟店も別仕入れを導入し、本部は契約の一部変更を検討する事態になる[18]。全面的に認めればコンビニエンスストアの前提が崩れる。加盟店の納得と本部の取り分をどう両立させるかは、この時点で表面化していた。
1978年、会社は名実ともに事業主体になった。1月に商号を株式会社セブンイレブン・ジャパンへ変更し、6月にはサウスランド社との契約の日本側当事者がイトーヨーカ堂から同社へ移る[19]。ライセンスを親会社経由で借りる立場から、自ら契約を持つ立場に変わった。加盟店は同じ1978年に500店を超えた[20]。1974年の15店計画から数えて4年、実験店の集合は全国規模のチェーンの体裁を整えている。仕入れは推薦問屋制を敷き、発注と支払いの代行を本部と各店を結んだオンラインで処理する一方、配送そのものは問屋に委ねた。多品種を少量ずつ運ぶには問屋に任せるほうが有利だと判断した[21]。
1979年10月15日、東京証券取引所市場第二部に上場した。公募は380万株で、幹事は野村証券以下6社が引き受けている[22]。上場直前の1979年2月末時点で、親会社イトーヨーカ堂は発行済株式1,620万株の62.54%を保有していた[23]。同時点の株主総数では99.75%を個人が占める一方、株式数では法人が7割を握っている[24]。上場に伴う380万株は新株の発行であり、発行済株式は2,000万株、資本金は10億円となった[25]。希薄化した後も親会社の持分は過半を超え、支配関係は動いていない。この構図は2005年の株式移転まで26年続くことになる。
数字の上では、子会社は親会社を上回っていた。1979年2月期の1平方メートルあたり売上高は全店舗平均で1,925千円で、イトーヨーカ堂の826千円の2.3倍にあたる。営業時間が1日最低16時間と長いことが、この差を生んだ。粗利益率も25.2%と、同社の22.6%を2.6ポイント上回る[26]。目玉商品を設けず、大量販売による安売りをしないという商品政策の差である[27]。営業総利益は1977年2月期の21億8,900万円から1978年2月期に48億4,800万円、1979年2月期には88億7,600万円へ伸び、営業利益も5億7,500万円から9億7,900万円、20億9,200万円と積み上がった[28]。加盟店の増加と既存店の粗利益率改善が同時に効いた。
上場時点の規模は、それでもまだ小さい。1979年2月末の自営店は21店で、その大半は開店前の加盟店主を教育するための訓練店であった。本体の従業員は372名にとどまる[29]。加盟店570店の売上高が699億円、自営店を含む全店舗売上高が725億円[30]という構造で、会社が計上するのは加盟店からの収入と自営店の売上総利益である。店舗網の大半も店員も自社では抱えず、契約と情報だけで売上を積み上げる会社だった。出店地域も東京、神奈川、埼玉、千葉の関東4都県で78.8%を占め、売上でも82.3%が関東に集中している[31]。全国チェーンと呼べる形ではまだなかった。
加盟店との関係は、粗利益の配分で決まった。本部が45%を取り、55%を店主に戻す。本部が負担したのは店内の設備と商品、水道光熱費の87%、テレビなどの広告費の全額である。店主が負担したのは人件費、店舗改装費の銀行返済、そして品減りが生じた場合の埋め合わせにほぼ限られた[32]。改装費は1店あたり1,500万円ほどで、会社の斡旋により返済期間15年ほどの銀行融資を受ける。在庫は原価で600万〜700万円、設備は800万円程度を本部が持った[33]。1978年2月期に固定比率と固定長期適合率が改善したのは、土地と建物を加盟店の負担に残したこと[34]に加え、収益が好調だったことと、同期の2度の増資で自己資本が厚くなったことによる。
45%は取りすぎではないか、という見方は当時からあった。鈴木氏は費用負担に加え、棚卸をすべて本部が行うこと、スーパーバイザー1人が7店舗を回って指導することを挙げ、妥当な率だと説明している[35]。もう一つの装置が最低保証で、各店に年額1,100万円を保証した[36]。内訳は改装費の銀行返済が年約200万円、パートを含む人件費と雑費が400万〜500万円、店主の生活費が400万〜500万円という積算である。加盟した人は他のことをやらないかぎり行き詰まらない、というのが本人の説明であった[37]。ただし実際の持ち出しは年間300万円程度が10店ほどにとどまり、本部の負担にはなっていない。
フランチャイズには自営店にない難しさがある。自営なら100店のうち10店の成績が悪くても全体で帳尻が合うが、加盟店では1,000店のうち1店の不振も問題になる。鈴木氏は発足以来5年間で10店舗が離脱したことを認めており、うち3店はこんなに儲かるならと自営に切り替えた店であった。看板を変えた途端に売上が減ったという[38]。残りは店主が人を使えない例で、レジを家族以外に任せられなければ朝7時から夜11時までの営業は続かない。以後、契約にあたっては店主の人間性を重視するようになる[39]。店舗が増え続けているかぎりは大丈夫と考えてほしい、と鈴木氏は投資家に語った[40]。相手の合意がなければ出店できない業態のためである。
扱う商品3,000〜3,500品目[41]は、スーパーマーケットと重ならないように選んだ。鈴木氏の定義では、スーパーマーケットは1日3回の食事の材料を買いに行く店であり、コンビニエンスストアは出来上がっていてすぐ口に入れられるものや、時間がないときにさっと買える店である。生鮮三品はスーパーなら肉も魚も100種類前後を置くが、この店では3〜4種類しか置かない[42]。売れ残りを夕方に値下げして売る商法もとらなかった。値下げを前提にすれば利益が出ないからである。生鮮を置けば職人を雇わねばならず、人件費で損益分岐点が上がる。当時混同されがちだったミニスーパーが客数のわりに儲からないのは、そこに理由があると鈴木氏は見ていた[43]。
粗利益は個々の商品で稼ぐのではなく、組み合わせで作る。当時の平均は25.2%で、免許品である酒やタバコ、米を扱う店ではどうしても下がる。これを引き上げたのが、コーヒーのような商品であった。1杯100円に対し原価は40円で、わかして2時間たてば捨てる仕組みにしても粗利益は60%になる[44]。鈴木氏はこれをマーチャンダイジング・ミックスと呼び、粗利益の大きいものを組み合わせて全体を高めるやり方だと説明した。スーパーが量に粗利益率を掛けるのに対し、この店は粗利益率に量を掛ける、という言い方もしている[45]。一方、スーパーにもある乾物のような商品は同じ値段で売った。安く見えるのはスーパーが全商品の5%ほどの目玉を交替で出すからである[46]。
組み合わせを維持するには、売れない商品を落とし続けなければならない。開業から1979年までの5年間に商品台帳へ登録された商品は8,000アイテムにのぼるが、そのとき使われていた台帳に残るのは半分の4,000アイテムであった[47]。スーパーマーケットではまず起きないことだ、と鈴木氏は述べている。扱う品目が少ないぶん1品あたりの販売シェアは高くなり、コカコーラの1リットル瓶では日本一の売上を記録した[48]。この入れ替えを支えるため、1982年にはPOSのデータへ商品別の売り切れ時刻の一覧を組み込み、単品管理を徹底させる[49]。売れ筋を探す道具というより、死に筋を落とすための道具であった。店舗数は1980年に1,000店、1983年には2,000店を超えている[50]。
セブンイレブン・ジャパンは鮮度の管理を早くから積み上げた。1979年からは製造時間をラベルに記入させ、1983年からは弁当・調理パンの1日3便体制を順次導入する。納入業者には18度に温度管理された生産ライン、仕分け場、保冷車の保有を条件として課した。1986年からは、18度の保冷ケースに置いていても売れ残りは納入後20時間で全量廃棄させている[51]。調理済み食品の鮮度管理では業界で最も進んでいるという自負が、社内にはあった[52]。この分野の伸びは早くから業績を支えており、米飯や調理パン、おでんといったレジまわりの商品が粗利益率を押し上げていた。
1988年11月7日、NHKの番組が弁当の鮮度を取り上げた。店頭の弁当に製造日だけのものと製造時間入りのものが混じっていること、表示があっても実際の製造時刻と2〜3時間ずれていることが報じられる[53]。緊急の立ち入り検査で判明したのは、集中出店している首都圏では工場ごとの割当量が多く、表示シールを大量に印字して貼るためにずれが生じるという構造であった。全国の大部分の納入業者ではずれは1時間以内である。翌日から表示を1時間ごとに切り替える応急処置をとった[54]が、鈴木氏は事態をより重く見た。
直前まで進めていた方針は逆向きだった。1980年ごろから首都圏では調理済み食品が毎年2割の売上増を続け、20数社の納入業者では追いつかなくなる[55]。そこで1984年以降、キユーピー、ハウス食品工業、伊藤ハム、味の素などに専用の協力工場を関東で設立させ[56]、1988年4月には三井物産と物流子会社を設立して配送の一本化に着手した。しかしその設計には、製造と配送の時間をどう縮めるかという視点が抜けていた。配送を集約すれば集荷に時間が食われ、強い業者へ生産を集めれば全体のリードタイムはかえって延びる[57]。そこで方針を地域分散へ切り替えた[58]。一本化計画は中止し、納入業者が自社製品を運ぶ形に戻す。工場では調理、炊飯、包装、仕分けを同時並行で処理し、製造時間を半分に縮める計画を立てた[59]。
1990年には全国約4,000店に達していた。1店の売場面積は30坪程度で、置ける商品は3,000〜3,500品目、しかも全品買い切りである[60]。選び損なえば在庫の負担がそのまま返ってくるから、絞り込むしかない。POSは売れ筋を見つける道具として語られることが多いが、この会社の使い方は逆であった。死に筋を徹底して排除した結果として売れ筋が浮かび上がる。鈴木氏は『死に筋はどこへ置いても死に筋』[引用元]と言い切っている。供給が過剰になっているのに客の欲しいものが店頭で手に入らないのは、店の大小の問題ではない、というのが本人の説明であった[61]。1990年夏には全加盟店のレジ端末を更新し、コンピューターも大型化する計画を立てている[62]。
選別の力は取引の力関係を変えた。1990年3月に発売されたキリンビールの『一番搾り』は3カ月足らずで500万ケースを出荷し、生産が追いつかない状態になる。約1,300店あった酒販免許店では欠品も生じた[63]が、取引中止を恐れる問屋がセブンイレブンへ優先的に回すことは珍しくなかった、とビールメーカーの営業担当者は語っている。キユーピーやエスビー食品のように専用の製造ラインを設けるメーカーも現れた[64]。商品が採用されるかどうかで他チェーンの扱いまで決まる以上、メーカーは売れ行きに神経質にならざるを得ない。品揃えが消費に敏感な20代へ絞られていた[65]ことも、その圧力を強めた。
摩擦も同時に起きている。1989年10月、創業以来の取引先であった食品問屋の明治屋との取引が打ち切られた。明治屋は年間100億円の取引先を失う[66]。共同配送センター建設に伴う費用負担への反発が引き金とされるが、小口・定時配送で欠品を許さない要求が採算に合わないという不満は以前からあった。倉庫を持たない以上、物流コストの上昇は納入側に寄る[67]。同じ時期、花王が導入した配送日を確定する新取引制度に対しても、この会社は最後まで抵抗した。1個単位の極小ロット配送を前提とする仕組みが骨抜きになりかねなかったからである。
ライセンス元のサウスランド社は、1987年に経営が傾いた。カナダの投資家から敵対的買収を仕掛けられ、防衛のため創業家のトンプソン家が自社株の公開買い付けに応じ、株式を買い戻して上場を廃止する。直後にブラックマンデーが起き、金融環境が悪化した[68]。資金調達のために発行した18億ドルのジャンク債は、年間約3億ドルの金利負担となって残る。店舗や自動車部品小売チェーン、化学工場を次々に売却し、日本のセブンイレブンには商標権を担保に410億円の実質的な債務保証を仰いだ。1989年12月にはハワイの58店舗を7,500万ドルで手放した[69]が、資産の切り売りはすぐ限界に達した。
1990年、サウスランド社は連邦破産法の申請を経て、イトーヨーカ堂グループへ4億3,000万ドルでの身売りを決めた。買収は1991年3月に完了し、出資比率は70.2%となる。資金はイトーヨーカ堂が51%、セブンイレブン・ジャパンが49%を分担した。3月20日、ダラスで開かれた新生サウスランドの第1回役員会で、イトーヨーカ堂社長の伊藤雅俊氏が会長に、鈴木氏が副会長に就いている[70]。フランチャイズ契約そのものは従来どおり残ったが、日本側が事実上の親会社になった[71]。ライセンスを与えた側の会社を、与えられた側が支配する関係へ入れ替わったことになる。
買収したのは不振の会社ではあったが、事業そのものが崩れていたわけではない。1990年12月期は2億7,600万ドルの期間損失を出している。しかし売上高は83億4,700万ドルで前年比1%の増収であり、北米の店舗も6,702店を保っていた[72]。経営悪化の主因はジャンク債の金利にあり、資本再編で普通株へ転換すれば負担は消える。ただし、同じ看板でも中身は違った[73]。日本では1店の商品数が3,000種類でファストフードと食品が売上の36%を占めるのに対し、米国は2,700種類で22%にとどまり、酒とタバコと清涼飲料が49%を占める[74]。運営も日本は8割が加盟店だが、米国は直営と加盟店が半々であった[75]。ハワイでは現地法人を設けてバイヤーを2人から10人にし、店内在庫を5割以下に圧縮している[76]。1995年、単品管理の移植は3年で軌道に乗ったと報じられた[77]。
| 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1973〜1978年大型店の摩擦から生まれた子会社が、5年で500店に届くまで | イトーヨーカ堂が米サウスランド社とライセンス契約を締結 | ★★ | ||
| イトーヨーカ堂の子会社としてヨーク・セブンを設立 | ★ | |||
| セブンイレブンの創業とフランチャイズ方式の採用 1973年、業界十位の総合スーパーだったイトーヨーカ堂が、米サウスランド社と提携してコンビニエンスストア『セブンイレブン』の国内展開権を取得し、翌1974年5月に東京・豊洲の酒屋を一号店として開業した経営判断。直営でなくフランチャイズを選び、零細な既存店の業態転換を軸に商圏を引き継いだ。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 店舗で24時間営業を開始 | ★★ | |||
| 鈴木敏文 | 鈴木敏文氏が社長に就任。同年に加盟店が累計500店を超える | ★ | ||
| 鈴木敏文 | セブンイレブン・ジャパンに商号変更 | ★ | ||
| 1979〜1985年親会社が過半を握ったまま上場した会社と、その配分の設計 | 鈴木敏文 | 親会社イトーヨーカ堂が過半を保有したままの東証二部上場 1979年10月15日、セブンイレブン・ジャパンが東京証券取引所市場第二部へ上場した。公募380万株により資本金は8億1,000万円から10億円となり、発行済株式総数は2,000万株になった。上場申請時の大株主はイトーヨーカ堂62.54%で、公募後も親会社の持分は過半を割っていない。幹事会員は野村証券以下6社であった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 鈴木敏文 | 店舗数が1,000店を突破 | ★ | ||
| 鈴木敏文 | POSシステムを導入 | ★★ | ||
| 鈴木敏文 | 商品別の売り切れ時刻を把握する単品管理の基盤を確立 | ★ | ||
| 鈴木敏文 | 弁当・調理パンの1日3便製造・配送体制の導入を開始 | ★★ | ||
| 鈴木敏文 | キユーピー、ハウス食品工業、プリマハム、伊藤ハム、味の素が専用協力工場を設立 | ★ | ||
| 1986〜1995年鮮度を供給体制に組み込み、単品管理で仕入れを握り、本家を買い戻すまで | 鈴木敏文 | 売れ残った調理済み食品を納入後20時間で全量廃棄する運用を開始 | ★ | |
| 鈴木敏文 | 弁当の製造時間表示と実際の製造時刻のずれをテレビ番組が報道 | ★★ | ||
| 鈴木敏文 | 製造・配送体制の全面的な見直しに着手 | ★ | ||
| 鈴木敏文 | 集中出店(ドミナント)を武器にした共同配送・単品管理と鮮度経営の確立 1980年代のセブン-イレブン・ジャパンが、特定地域に店を高密度で集中させるドミナント方式を土台に、温度帯別の共同配送・多頻度小口配送とPOSによる単品管理を組み上げ、弁当や調理パンの鮮度と欠品排除で競争を制した経営判断。1988年秋のNHKの鮮度批判を機に、製造・配送体制を総点検した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鈴木敏文 | 共同配送センターの費用負担をめぐり食品問屋の明治屋との取引を打ち切り | ★ | ||
| 鈴木敏文 | 全店にプリペイドカードを導入 | ★ | ||
| 鈴木敏文 | チェーン全店売上高が9,319億円、店舗数が4,353店に達する(1991年2月期) | ★ | ||
| 鈴木敏文 | ライセンス元である米サウスランド社の買収と、イトーヨーカ堂との共同出資による再建の引き受け 1991年3月、セブンイレブン・ジャパンが親会社イトーヨーカ堂とともに、経営破綻したライセンス元の米サウスランド社を4億3,000万ドル(約700億円)で買収し、出資比率70.2%を握った経営判断。資金の分担はイトーヨーカ堂51%、セブンイレブン・ジャパン49%であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鈴木敏文 | サウスランド社の出資比率70.2%を取得 | ★★ | ||
| 鈴木敏文 | 店舗数が5,000店を超える | ★ | ||
| 鈴木敏文 | サウスランド社の再建が軌道に乗り、単品管理の移植が3年で成果を示す | ★ | ||
| 1995〜2005年1万店と電子商取引、そして26年続いた親子上場の解消 | 鈴木敏文 | 第五次総合情報システムを導入 | ★ | |
| 鈴木敏文 | ソフトバンクなどとインターネット上での書籍販売を開始 | ★ | ||
| 鈴木敏文 | 店舗での支払いと受け取りを選べる方式を採用 | ★ | ||
| 鈴木敏文 | セブンドリーム・ドットコムの設立と、店舗網の電子商取引受け渡し拠点への転用 2000年2月、セブンイレブン・ジャパンはNEC、野村総合研究所、ソニー、三井物産、日本交通公社(JTB)など7社と資本金50億円の電子商取引会社セブンドリーム・ドットコムを設立し、51.0%を出資した。同年6月にサイトを開き、代金の支払いと商品の引き渡しを全国約8,000カ所の店舗で受け付ける設計をとった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鈴木敏文 | 電子商取引会社セブンドリーム・ドットコムを設立 | ★ | ||
| 鈴木敏文 | 路面1階への出店を原則とする方針を転換 | ★ | ||
| 鈴木敏文 | 国内店舗数が1万店を突破 | ★ | ||
| 鈴木敏文 | 3社共同株式移転によるセブン&アイ・ホールディングスの設立と親子上場の解消 2005年4月20日、イトーヨーカ堂は子会社のセブン-イレブン・ジャパン、デニーズジャパンとの共同株式移転により、9月1日付で持株会社セブン&アイ・ホールディングスを設立すると発表した。3社は同日付で上場を廃止し、持株会社が東京証券取引所市場第一部へ上場した。26年続いた親子上場が解消された経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鈴木敏文 | 持株会社セブン&アイ・HDが発足 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(セブンイレブン・ジャパン)