ファミリーマート西友によるファミリーマート株1,350億円の譲渡と、伊藤忠商事グループへの移行
親会社の資金繰りで売りに出された成長企業は、総合商社の傘下で何を立て直せたか
- 概要
- 1998年2月4日、西友が保有するファミリーマート株2,862万株を1,350億円で伊藤忠商事へ譲渡することで合意し、同年3月にファミリーマートは伊藤忠グループへ移った。譲渡後の持株比率は伊藤忠グループが30.6%、西友グループが17.2%となり、筆頭株主が入れ替わった。
- 背景
- 西友は系列ノンバンクの東京シティファイナンスが抱えた1,360億円の不良債権を肩代わりしており、その原資としてファミリーマート株を切り売りしてきた。ファミリーマート自身も1995年度からの大量出店で不採算店を増やし、1997年度の新店の平均日販は38.9万円にとどまっていた。
- 内容
- 総額1,350億円の投資は伊藤忠商事の丹羽宇一郎社長が自ら旗を振ったものであった。買い手は前年11月に4,000億〜5,000億円の不良資産を開示し、1997年度下期に1,500億円の特別損失を計上する途中にあった。ファミリーマートは移行に際してセゾングループ企業株の評価損63億円を計上した。
- 含意
- 株価は買収後に下がり、2001年3月末で伊藤忠商事は830億円の含み損を抱えた。ファミリーマートは2002年2月期に500店を閉鎖し、2001年5月の人事で旧セゾン系をほぼ入れ替えた。資本の移動が経営の中身に及ぶまでには3年余りを要した。
名義の交代と、実態の交代
ファミリーマートの初代社長は伊藤忠商事出身の沖正一郎氏で、以後の歴代トップも例外なく伊藤忠商事から来ていた。1998年に1,350億円で動いたのは、経営を担う人の系譜ではなく株式の名義のほうである。セゾングループは資金繰りに追われて手放し、伊藤忠商事は1,500億円の特別損失を計上する最中にその名義を引き取った。双方にとって、余裕のあるうちに交わされた取引ではなかった。
名義が変わったあとの3年間、数字は好転しなかった。既存店売上高は1998年から前年を下回り続け、2000年度には創業以来はじめての経常減益に陥り、伊藤忠商事は2001年3月末に830億円の含み損を抱えた。500店の閉鎖に踏み切ったのも、業界内で遅すぎたと評される段階になってからである。旧セゾン系をほぼ入れ替えた人事は買収の3年3カ月後にあたり、資本の移動が経営の中身を入れ替えるまでには、それだけの時間がかかったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
セゾングループが売り手に回るまで
西友は1997年9月1日の経営方針発表会で、大がかりな再建計画を打ち出した。次期社長に内定していた渡邊紀征氏は自らを戦犯の一人と呼んで自己批判から話を始め、木内政雄副社長と森岡薫副社長は、下期の予算を達成できなければ再起不能になると社内に訴えた。計画の柱は全店舗数の2割にあたる42店の閉鎖で、売上高は1,000億円減る見込みだった[1]。
売り手が急いだ理由は、系列ノンバンクの東京シティファイナンスにあった。同社はバブル期の企業向け融資に失敗して1,360億円の不良債権を抱え、3年で611億円を償却したものの、その負担は全額を西友が肩代わりしていた。原資に充てられたのがファミリーマート株であり、西友は成長を続ける子会社の株式を切り売りしながら、ノンバンクの穴を埋めてきた[2]。
出店を急いだ業界3位の内実
買われる側のファミリーマートにも不採算店が積み上がっていた。1995年度から1997年度にかけて年500店近い大量出店に走り、それまでの年200店程度から一気にペースを上げた。審査の甘さは同業に知られており、自分たちが見限った物件に軒並みファミリーマートが出店していた、と競合チェーンの間で語り草になっていた。1997年度の新店の平均日販は38.9万円で、セブン-イレブンの54.2万円に遠く及ばなかった[3]。
それでも収益は出ていた。1981年9月に西友ストアーから営業と資産の譲渡を受けて発足したこの会社は、1998年2月期には全国に約5,000店を構えるコンビニ業界3位に育ち、経常利益は250億円を上回る見込みまで来ていた。西友にとっては手元に残る数少ない優良資産であり、売れる資産から順に手放す段になれば、真っ先に売られる資産だった[4][5]。
決断
1,350億円の株式譲渡
1998年2月4日、西友は保有するファミリーマート株2,862万株を1,350億円で伊藤忠商事へ売却することで合意した。譲渡後の持株比率は伊藤忠グループが30.6%、西友グループが17.2%となり、筆頭株主が入れ替わった。西友は同じ日に、セゾングループが1988年に2,800億円で買収したインターコンチネンタルホテルズ・アンド・リゾーツについても、売却交渉中であることを明らかにしている[6]。
買い手の伊藤忠商事は、その3カ月前に自らの不良資産を開示したばかりだった。1997年11月17日、バブル期に積み上げた不良資産は4,000億〜5,000億円、処分すれば2,000億円の損失が出ると公表し、1997年度下期に1,500億円の特別損失を計上する方針を示している。年間利益の15年分にあたる。保有株の含み益は1,500億円、剰余金は500億円しか残っていなかった[7]。
商社が筆頭株主になるという選択
総額1,350億円の投資は、丹羽宇一郎社長が主導した。伊藤忠商事にとってこの買い取りは、まったくの他人の会社を抱え込む話ではなかった。ファミリーマートは西友のコンビニエンスストア事業部として発足したが、事業化を実際に引っ張ったのは伊藤忠商事出身の沖正一郎氏で、初代社長を務めて以降、歴代トップはすべて伊藤忠商事から送り込まれていた[8]。
沖氏は、バブル期に親会社であるセゾングループの大幹部を介して株や土地の話が山ほど持ち込まれても、首を賭けて抵抗したと述懐している。資本の親と経営の実体は、この時点ですでにずれていた。1998年3月に伊藤忠グループへ移るにあたり、ファミリーマートはかつて救済のために引き受けたセゾングループ企業の株式について63億円の評価損を計上し、旧グループとの資本関係を清算した[9][10]。
結果
社長交代と500店閉鎖
経営陣の入れ替えは段階を踏んだ。伊藤忠商事で食品部門を歩んだ田邉充夫氏は、1998年10月に非常勤顧問、1999年5月に副社長を経て、同年10月に社長へ就いた。就任後に最も力を注いだのは日販40万円以下の不採算店のテコ入れで、年400店に達したこともある出店を200店程度に絞り、新店より既存店の充実を優先した。座右の銘として「チェンジ・オア・ダイ」を掲げた[11]。
2001年2月26日、ファミリーマートは2002年2月期に不採算店500店を閉鎖すると発表した。全店の約1割にあたり、新店450店を差し引けば大手コンビニで初の店舗純減となる。1998年から既存店売上高は前年を下回り続け、販促費を投じても伸びず、2000年度には創業以来はじめての経常減益に陥っていた。フランチャイズでは本部主導の大量閉鎖は禁じ手とされ、業界内には遅すぎたという評も出た[12][13]。
重要ポストの入れ替えと供給体制の作り直し
体制の入れ替えは2001年5月の人事で決着した。店舗開発・運営から商品に至る重要ポストに伊藤忠商事出身者を据え、旧セゾン系をほぼ入れ替えたうえで、生え抜きを引き立てた。商品面では、2000年6月に伊藤忠商事から移った松丸正明執行役員食品部長が全国100カ所の食品製造会社と工場を回り、取引先の選別と集約を進めた。系列卸の西野商事も関東に物流センターを4カ所立ち上げている[14]。
一方、出資した側の帳簿は痛んだままだった。ファミリーマートの株価は買収後に下がり、2001年3月末で伊藤忠商事は830億円の含み損を抱えた。それでも2000年度決算に評価損は計上されていない。住江漠副社長は、毎期確実に利益を出しておりバランスシートも傷んでいないため必要ない、と説明した。2002年3月に社長へ就いた上田準二氏も伊藤忠商事の出身で、就任の報告に丹羽宇一郎社長は全面的に賛成だと応じている[15][16]。
- 週刊東洋経済 1997年11月29日号「流通崩壊 西友 復活に向けた最後の大技 効率追求型リストラが陥った「縮小均衡のワナ」から脱出できるか」
- 週刊東洋経済 1997年12月6日号「伊藤忠 一周遅れのバブル総決算 懲りない「土地投資」で財務内容はスッカラカン」
- 週刊東洋経済 1998年2月14日号「西友 Fマートを売却 銀行の圧力で「虎の子」を次々と手放す」
- 週刊東洋経済 1998年6月27日号「迷走するコンビニ紛争 店舗増殖 バブルのツケが回った」
- 週刊東洋経済 2000年1月22日号「トップの履歴書 ファミリーマート社長 田邉充夫「エース」登場。セブンの牙城を崩せるか」
- 週刊東洋経済 2001年3月10日号「曲がり角 ファミリーマートが500店を閉鎖。過当競争ますます鮮明に」
- 週刊東洋経済 2001年6月16日号「企業レポート 負の連鎖避けられるか 500店閉鎖の賭け ファミリーマート」
- 週刊東洋経済 2002年5月18日号「トップの履歴書 ファミリーマート社長 上田準二 現場主義貫き改革推進」
- ファミリーマート 有価証券報告書【沿革】