{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"8022","company_name":"ミズノ","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/8022/","api_url":"/api/8022/history.json","updated":"2026-08-09","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/8022/","title":"ミズノの歴史概略","sections":[{"start_year":1906,"end_year":1936,"main_title":"丁稚奉公から始めた運動具商が、学生野球の主催と結んで販路を広げるまで","subsections":[{"title":"京都の織物問屋で商売を覚えた創業者","text":"水野利八氏の生家は大垣で建築業を営んでいた。利八氏が9歳のときに父が急逝し、家業は傾いた。利八氏は小学校高等科1年で学業を断念し、家を再興するには商人になるほかないと考えて、大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公に出た。4年の修業を経て京都の織物問屋・小堀商店へ移り、17歳で番頭格に抜擢された。三井呉服店京都仕入店へは56回足を運んでも取り合ってもらえず、57回目にようやく商談を許された。以後この店は小堀商店の最大の得意先となった。商売とは根気と努力だというのが、利八氏が後年まで繰り返した言葉である。奉公のかたわら利八氏は英語とアメリカの商法を独学した。機会をつかんでアメリカへ渡りたいという望みがあったからである。\n\n商用で第三高等学校のグラウンド近くを通りかかった利八氏は、三高野球部と神戸の外国人クラブの試合を目にした。外国人と知り合う機会になるかもしれないという軽い気持ちで見物の仲間入りをしたが、打球へ飛びつく選手と高く舞い上がる白球に引き込まれ、以後は三高のグラウンドへ通った。1904年に日露戦争が起こると利八氏も従軍したものの、病に倒れて帰還し、金沢の陸軍病院で5カ月の治療を受けて除隊した。そして1906年4月1日、大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業し、運動用の服装品などの製造販売を始めた。4月1日は現在もミズノの創立記念日である。","references":[{"title":"全人間への旅 : 私の履歴書（水野健次郎、日本経済新聞社、1990年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"美津濃 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 : 明治百年 第3編（1968年）「美津濃」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"スポーツは陸から海から大空へ : 水野利八物語（美津濃、1973年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"大会の主催と用具販売を結びつけた商法","text":"1912年5月、東京・神田区に東京支店を設けた。この頃の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋にあった。1910年に利八氏は大阪・北浜の紙問屋の娘、一色いち氏と結婚した。同志社女専英文科を卒業したいち氏は、語学力を生かしてアメリカのファッション雑誌やカタログを翻訳し、利八氏に海外の最新情報をもたらした。1913年10月には次男の健次郎氏が生まれた。同じ年の8月、美津濃は関西学生連合野球大会を主催した。この大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、現在の高校野球大会の母胎となった。1936年のベルリン・オリンピックに役員として参加した人物は後年、現地でも美津濃の名はよく知られていたと健次郎氏に語っている。\n\n利八氏は商品そのものも考案した。当時のワイシャツは襟と袖が分離しており、着用のたびに取り付ける必要があった。利八氏は襟と袖を一体化したシャツを作り、日露戦争の勝利にちなんで「勝ったシャツ」からカッターシャツと名付けた。スポーツ用の鞄をボストンバッグと呼んだのも利八氏で、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンといった名称も同氏の考案による。製造と資本の備えも進め、1921年7月に大阪市福島区で大阪工場が操業を始め、1923年7月には美津濃運動用品へ改組して資本金を150万円とした。1927年7月には大阪市東区に鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋が完成した。大阪で7番目の百尺ビルだった。","references":[{"title":"全人間への旅 : 私の履歴書（水野健次郎、日本経済新聞社、1990年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"美津濃 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 : 明治百年 第3編（1968年）「美津濃」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"スポーツは陸から海から大空へ : 水野利八物語（美津濃、1973年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1937,"end_year":1948,"main_title":"軍需工場への転換と、闇商売を断って公定価格で再建した戦後","subsections":[{"title":"グライダーの技術が呼び込んだ軍需","text":"美津濃はグライダーを製作しており、九州帝国大学の佐藤博教授が設計した美津濃301型ソアラーは滞空時間と飛行高度で日本記録を立てた。この事業歴から美津濃は軍部の目に留まり、工場は軍需品の生産へ振り向けられた。国策に沿って大陸にも会社を置き、満州の吉林に満州美津濃工業、上海に美津濃運動用品を設立した。1942年1月、社名を美津濃へ改めた。同年5月1日、健次郎氏は取締役として入社し、尼崎北工場長に就いた。工場ではスポーツ用品を作る余地はなく、飛行機のエンジン予熱用の覆い、搭乗員待機用の大型テント、パラシュート、無線操縦機などを生産した。\n\n三菱重工製の九六陸攻を将官用の輸送機に改造せよという命令が下り、兵員輸送用のグライダーの製造も命じられた。グライダーを曳航するには幅約100メートル、長さ1000メートルの滑走路が必要だった。そこで岐阜県養老町の町有グラウンドの払い下げを受け、総面積約15万坪の養老工場が1943年3月に完成した。ここでプロペラの製造と九六陸攻の改造にあたった。1機あたりの受注費用は1660円で、採算は合わなかった。1945年5月、健次郎氏が監督していた尼崎北工場は約80発の焼夷弾を受け、目の前で全焼した。資材も人手もなく工場は閉鎖された。同年8月15日、美津濃は操業を全面停止した。","references":[{"title":"全人間への旅 : 私の履歴書（水野健次郎、日本経済新聞社、1990年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"美津濃 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"闇を断ち、公定価格で商いを戻した再建","text":"終戦の夜、利八氏は「日本は終わった」と涙を流した。それでも1週間のうちに態勢を立て直し、業務再開を決めた。だが売る物がなく、グラブもミットも製造技術は世界水準にありながら、原料の皮革が入手できなかった。闇に手を出せば材料は手に入るが、利八氏は全社員を前に、美津濃は闇商売には一切手を染めてはならないと宣言した。健次郎氏は軍需品の材料だった帆布や絹の羽二重、グライダーの主材である台桧の転用許可を求めて上京した。監督官庁での申請は即座に認められ、帆布10万6千ヤールの有償支給を受けた。これで作ったリュックサックを公定価格で売り、食糧の買い出しに必需品となって飛ぶように売れた。\n\n次に配給の再生毛糸で硬式野球ボールを作った。1946年、中学野球が復活すると、主催者の朝日新聞社は美津濃にボールの納入を求めた。用具のない時代であり、投球専用と但し書きを付けたボールが全国大会へ供された。本業以外の仕事も引き受けた。財閥解体で三菱商事の機械部が宙に浮き、その依頼を受けて美津濃産業機械を設立し、工作機械を淀屋橋の本店に並べて売った。進駐軍のPXからは三越の4階にボウリング場を作れという注文が来た。当時の日本にボウリング場はなく、担当した社員の知識は英語の教材で読んだ一章だけだったが、養老工場での製材から始めて2レーンを納期ぎりぎりで仕上げた。\n\n労使の関係は難航し、1946年5月に大阪工場、8月に養老工場、1947年1月に大阪本社で労働組合が結成された。1948年の憲法記念日をめぐる対立では、組合が所定の手続きを踏まないまま24時間のストライキに入った。健次郎氏は法に基づいて1日分の賃金カットを通告し、組合は大阪地方労働委員会へ提訴したが、会社側の陳述が正当と判定された。対立のあと健次郎氏は労使の協調へ方針を定めた。400人の社員をいったん全員退職の形式として勤務年限に応じた退職金を支給し、その資金で1人50株ずつ株式を取得させて全社員を株主にした。フェアプレー、フレンドシップ、ファイティングスピリットの3Fが、この時から全社の方針となった。","references":[{"title":"全人間への旅 : 私の履歴書（水野健次郎、日本経済新聞社、1990年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"美津濃 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1949,"end_year":1987,"main_title":"輸入枠が開いたゴルフと株式上場、そして二代目が定めた国際化の方針","subsections":[{"title":"ドル割当が開いたゴルフ事業と上場","text":"1949年、美津濃は資本金を1000万円へ増資した。研究の体制も改め、セレクト科学研究所を技術研究部へ改組し、代表権を持つ副社長となっていた健次郎氏がその担当を兼ねた。健次郎氏は将来の命運を決めるのは研究部門だと考え、大阪大学の後輩や東京大学出身者を集めた。大阪大学を退官した仁田勇氏を最高顧問に、篠田軍治氏を顧問に迎えて指導を受けた。それまでスポーツ用品は古参の競技者の経験と勘に頼って作られてきたが、その上に科学を重ねれば、より良い物ができるという判断だった。良い物を作れというのが利八氏の口癖だった。研究部門の拡充は、その言葉に組織の形を与えるものだった。\n\n戦後の一時期、淀屋橋の本社ビルは米軍に接収され、ドルだけが通用するPXとなっていた。1953年、輸入品を円で販売できるオーバーシーズ・サプライ・ストアの制度が通産省で認定されると、健次郎氏はただちに申請した。戦前の実績と戦後の業態が審査でAランクと評価され、16万6千ドルの輸入枠が認められた。この割当でゴルフのシャフトを大量に輸入したことが、後年のゴルフ事業への道を開いた。販売の側では上場が続き、1961年10月に大阪証券取引所市場第二部、1962年12月に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場し、1972年7月には東京・大阪両取引所の市場第一部銘柄に指定された。このとき資本金は12億円だった。","references":[{"title":"全人間への旅 : 私の履歴書（水野健次郎、日本経済新聞社、1990年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"美津濃 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1963年1月号「新規上場会社紹介 美津濃株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"二代目への交代と創業者が遺した基金","text":"1968年4月1日の創立記念日、恒例の表彰式で利八氏は、今年は社長である自分が表彰するが来年からは副社長が行うと述べた。社長交代を内外へ示した言葉だった。役員会議でも利八氏は健次郎氏を議長席に着かせ、自分は脇の席へ移った。1969年の決算役員会議で利八氏は社長を退いて会長となり、株主総会で健次郎氏の社長就任が正式に決まった。このとき利八氏は83歳、健次郎氏は56歳である。健次郎氏は社内機構と人事の急な変革を避けた。父の代からの役員と社員が経営の近代化を急がれるのではないかと不安を抱くことを見越し、方針に馴染むまで刷新の速度を落とす道を選んだ。\n\n健次郎氏は経営の目標を国際化に置いた。国内の基盤を固めながらミズノのスポーツ品を五大陸へ広げるという方針を掲げ、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、メキシコに生産と販売の拠点を設け、東南アジアにも生産基地を置いた。役員と社員を国際人として育てることにも力を注ぎ、後年の役員にはアメリカ人が加わった。1970年3月9日、利八氏が84歳で死去した。3月25日に東本願寺難波別院で社葬が営まれ、住友銀行頭取の堀田庄三氏が葬儀委員長を務めた。自分の遺産を国のために使ってほしいというのが利八氏の遺言だった。持株260万株を基金として、1970年9月1日に財団法人水野スポーツ振興会が発足した。1977年2月9日には健次郎氏が自らの持株200万株を拠出し、財団法人水野国際スポーツ交流財団を設けた。\n\n社長を退く際の取締役会で、利八氏は動議を求めた。経営の実権はすべて社長に委ねるが、野球の硬式ボールだけは会長の仕事にしてほしいという内容だった。硬式球について利八氏には積年の関わりがある。各社の球でバウンドが一定しないと新聞記者に指摘され、バウンドの基準を考案して長くルールとして使われた。全国大会の関係者から地方の高校はボールを潤沢に使えないと訴えられると、業界に横行していた闇値を排し、物価統制令に基づく公定価格で供給し続けた。硬式球は戦後1個350円、1950年に450円へ改訂されたのち、物価が高騰するなかで23年間据え置かれた。利益は出ず、不採算部門の見直しは社長の職務であり、健次郎氏の頭には価格改訂がよぎっていた。利八氏はそれを見越して先手を打った。","references":[{"title":"全人間への旅 : 私の履歴書（水野健次郎、日本経済新聞社、1990年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"美津濃 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1963年1月号「新規上場会社紹介 美津濃株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1988,"end_year":2025,"main_title":"競技用品への依存が招いた首位陥落と、製造の分社を経た業績の立て直し","subsections":[{"title":"三代目のもとで進んだ拠点整備と海外展開","text":"1988年5月、健次郎氏の長男である正人氏が3代目の社長に就いた。拠点の整備が続き、1986年5月に台湾・台北へ戦後初の海外現地子会社を設け、1991年10月にカナダ、1992年9月に香港、1994年4月に中国・上海へ現地法人を置いた。1996年11月には米国ジョージア州にMIZUNO USAを設立した。1992年3月、大阪市住之江区に地上31階地下3階の新本社ミズノクリスタが完成し、事業を始めた。1995年1月に英国バークシャーとドイツ・ミュンヘン、1998年4月にフランス・ジャンティへ支店を開き、欧州の販売網を自前で持つ形をとった。\n\n2002年4月、養老工場を会社分割し、ミズノテクニクスへ事業を承継させた。戦時下に軍需のために建てられた工場が、60年を経て別法人の手に移ったことになる。製造子会社の再編はその後も続き、2010年にミズノウエルネスなど2社を統合してミズノスポーツサービスへ商号変更し、同年にミズノインダストリー四国と氷上を統合した。2013年1月にはミズノインダストリー波賀など製造子会社3社をミズノテクニクスへ統合し、2015年4月にミズノアパレルテクニクスも同社へ統合した。分散していた製造機能は、10年あまりをかけて1社へまとめられた。","references":[{"title":"美津濃 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2016年4月16日号「核心リポート04 国内と野球に執着 時代遅れの名門ミズノ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年9月30日号「トップの履歴書 ミズノ社長 水野明人」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"美津濃 有価証券報告書（連結財務諸表）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"野球とゴルフへの偏りが生んだ停滞","text":"2006年6月、正人氏の弟である明人氏が4代目の社長に就任した。米国イリノイ州のウエスレイアン大学を出て1975年に入社し、宣伝部から直営店、名古屋営業所長、経理本部、海外担当と各部門を経て、1994年から副社長として兄を支えた。創業100周年の年の交代である。明人氏は、規模が会社の価値を決めるわけではなく、なくなってはみんなが困る存在でいたいと語った。だが競技用品に偏った事業構成は、この時期すでに負担となっていた。国内のスポーツ人口が縮み、野球とゴルフの用品市場は横ばいのまま伸びを欠いた。\n\n競合は先に手を打っており、アシックスは2001年にゴルフ事業から撤退し、経営資源の大半をランニングへ集中させた。広告塔となる選手を置かず、世界各地のマラソン大会のスポンサーとなって市民ランナーへブランドを訴えた。デサントは街着用のアパレルとシューズを強化し、現地企画・生産品で韓国部門を収益の柱に育てた。ミズノは日本のトッププロから支持を集めた分、裾野の広い一般層をつかみ切れなかった。同社幹部は、有名選手やチームとの契約を重視し、それ以外はタブー視された感覚があったと振り返っている。野球の参加者は2005年の1250万人が10年で680万人まで減り、ゴルフ場でプレーする人口も10年間で3分の2になった。\n\n2016年時点で、かつて国内2強を競ったアシックスの売上高は4000億円を超え、ミズノは2000億円程度にとどまった。海外売上高比率はミズノの37%に対し、アシックスは76%、デサントは53%だった。野球用品の市場が米国と日本に限られるため生産地の選択肢が狭く、原価を下げにくいという指摘も業界内から出ていた。ミズノは同年2月に街着用のカジュアルシューズ「ミズノスポーツスタイル」、3月に「M|line」を投入した。ただし直営店を含む販売拠点は3月末で約50店にとどまった。総合企画室部長の佐野治氏は、事業ポートフォリオを見直す時期に来ており投資の転換を進める必要があると述べた。","references":[{"title":"美津濃 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2016年4月16日号「核心リポート04 国内と野球に執着 時代遅れの名門ミズノ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年9月30日号「トップの履歴書 ミズノ社長 水野明人」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"美津濃 有価証券報告書（連結財務諸表）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"買収と再編を重ねた近年の業績回復","text":"買収と再編も続き、2012年6月に体育器具のセノーを完全子会社化し、2020年5月にはシャープ産業の全株式を取得した。欧州の体制も組み直し、2021年1月にオランダへ統括会社MIZUNO EUROPEを設け、2025年1月にはイギリス・ドイツ・オランダで営んでいた支店事業をMIZUNO CORPORATION UKへ移した。支店を並べる形から、統括会社を置いて束ねる形へ改めたことになる。国内では2022年4月に東京証券取引所プライム市場へ移行した。海外拠点の設置は1986年の台湾に始まり、2021年のオランダまで35年にわたって続いた。\n\n連結売上高は2016年3月期の1960億円を頂点に減り、2020年3月期は1697億円、コロナ禍の2021年3月期は1504億円まで落ちた。ここが底となり、2022年3月期は1727億円、2023年3月期は2120億円と戻し、2024年3月期に2297億円、2025年3月期は2403億円となった。1960億円を最初に上回ったのは2023年3月期で、以後は3期続けて過去の水準を更新した。この間、2018年4月には大阪・茶屋町でMIZUNO OSAKA CHAYAMACHIが営業を始め、直営の売り場を通じて一般の消費者に接する経路も広げた。","references":[{"title":"美津濃 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2016年4月16日号「核心リポート04 国内と野球に執着 時代遅れの名門ミズノ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年9月30日号「トップの履歴書 ミズノ社長 水野明人」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"美津濃 有価証券報告書（連結財務諸表）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1913年に運動具商が自ら野球大会を主催したのか","a":"用具を売る前に、競技人口そのものを増やす必要があったためである。当時の日本では野球のボールもグラブも輸入品が中心で、美津濃商店は仕入れた用具を店頭に並べる立場にあった。水野利八氏は1911年の大阪実業団野球大会に続き、1913年8月1日に関西学生連合野球大会を主催した。関西一円の25校が参加し、優勝は大阪商業だった。この大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、現在の高校野球大会の母胎となった。競技を広げた先に用具の需要が生まれるという順序を、創業から7年で選んだことになる。"},{"q":"なぜ1945年の物資難のなかで闇取引を断ったのか","a":"公定価格の商いだけで立て直すほうが、積み上げてきた信用を保てると判断したためである。1945年8月15日に軍需生産を止めた美津濃には売る物がなく、グラブやミットの原料となる皮革は闇にしか無かった。水野利八氏は全社員を前に、闇商売への関与を禁じた。水野健次郎氏は軍需資材の転用許可を求めて上京し、帆布10万6千ヤールの有償支給を受けてリュックサックを作り、公定価格で販売した。戦前からの取引先が用具を送れと催促しても、利八氏は動かなかった。"},{"q":"なぜ2016年に競技用品偏重を改めてカジュアル領域へ広げたのか","a":"野球とゴルフに偏った事業構成では、縮む国内の競技人口を支えきれなくなったためである。野球の参加者は2005年の1250万人から10年で680万人へ減り、ゴルフ場でプレーする人口も10年間で3分の2になった。アシックスは2001年にゴルフ事業から撤退してランニングへ資源を集め、売上高でミズノを上回っていた。ミズノは2016年2月に街着向けのミズノスポーツスタイル、3月にM|lineを発売し、競技者以外へ売場を広げた。海外売上高比率が37%にとどまっていたことも、方針転換を促した。"}]},"auditVersion":2}