島津製作所航空機器部門の新設と航空機・防衛装備品分野への参入

戦後に平和産業へ戻った理化学器械メーカーは、なぜ再び航空へ向かったか

時期 1956年10月
意思決定者(推定) 鈴木庸輔 社長
論点 戦中技術の行き先と事業の柱の追加
概要
1956年10月、島津製作所は航空機器部門を新設し、航空機の計器類や油圧装置、自衛隊機向け装備品を手がける航空・防衛の分野へ入った。第二次世界大戦中の軍需品製造で得た技術を土台とし、計測機器・医用機器に続く事業の柱として置いた。翌1957年の事業部制採用と重なる、組織の組み替えの一部でもあった。
背景
京都は空襲を受けず、島津製作所は工場も機械も人材も戦前のまま残して復興需要を受けた。1947年に電子顕微鏡を国内で初めて商品化するなど新製品を次々に出す一方、採算より技術を重んじる気風を社内に抱えていた。
内容
軍需品製造の経験をもとに航空機器部門を設け、航空機の計器類・油圧装置・自衛隊機向け装備品の国産化に取り組んだ。『企業の歴史 : 明治百年』は、戦後に製造を始めた品目としてジェット機部品を挙げている。
含意
航空機器の構成比は1961年3月期の7.4%から2025年3月期の7%まで動いていない。規模では最も小さい事業でありながら、1994年の米アライドシグナルとの包括提携や1998年の矢嶋英敏社長の就任は、この部門から生まれた。
筆者の見解

7%が七十年動かなかったこと

防衛の需要を早くから押さえた先見と読むのは、筋道を単純にしすぎる。1956年の島津製作所にあったのは、戦中の軍需品製造で身につけた計測と油圧の技術、空襲を免れてそのまま残った工場と人材、そして「むずかしいけどうからん仕事」を引き受けてきた技術尊重の気風であった。航空機器部門は、その手持ちを置く場所として選ばれている。市場を見つけたというより、技術の行き先を用意した判断だったとみることができる。

もっとも、この部門が会社を支えたとは言いがたい。1961年3月期に7.4%だった構成比は、2025年3月期でも7%で、七十年近く動いていない。1970年代に同社が赤字へ落ちたとき、経営を立て直したのはCTや環境試験装置といった新製品であった。それでも1994年の米アライドシグナルとの提携も、1998年の矢嶋英敏社長の就任も、この小さな部門から出ている。事業の値打ちは構成比だけでは測れないといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

戦災を免れた工場と、戦中に蓄えた技術

島津製作所は1875年に学術実験用の理化学器械の修理と製造から出発し、1917年9月に個人経営を離れて株式会社へ改組した。エックス線装置や蓄電池、材料試験機、化繊用のギヤポンプへと品目を広げ、第二次世界大戦中は軍需品の製造にも従事して1944年に紫野工場を開設している。京都は空襲を受けず、工場も機械も人材もそのまま残った。のちに社長・会長を務める上西亮二氏は、経済復興で需要は黙っていても出てきたと振り返っている[1][2]

敗戦後は平和産業への復帰が進み、1947年には電子顕微鏡を日本で最初に商品化した。放射線測定器、合成繊維製造装置、ベータトロン、ラジオアイソトープ治療装置と新しい製品が次々に加わり、1949年5月には東京証券取引所へ上場している。ただし二代目島津源蔵氏の掲げた「科学立国、発明報国」の理念は社内に根を張っていた。上西氏は後年、技術尊重・学界尊重の気風のもとで「むずかしいけどうからん仕事」を引き受けてきたと述べている[3][4][5]

決断

軍需品の経験を航空機器へ移す

1956年10月、島津製作所は航空機器部門を新設した。第二次世界大戦中の軍需品製造で得た経験を土台に、戦後の航空機・防衛装備品の国産化にあわせて、航空機の計器類や油圧装置、自衛隊機向けの装備品を手がける領域へ入った。『企業の歴史 : 明治百年』は、戦後に製造を始めた品目として、放射線測定器や五〇万ボルト超高圧電子顕微鏡と並べてジェット機部品を挙げている。計測機器と医用機器に続く柱を、手持ちの技術の延長線上に置いた[6][7]

部門の新設は、組織の組み替えとも重なっていた。翌1957年、同社は事業部制を採用する。上西亮二氏は後年、経営革新の意欲はあったが表面だけで内容がともなわなかったと語り、事業部が独自に人も投資も動かせず、権限がないまま利益責任だけが曖昧になったと述べている。事業部ごとに別会社とする案が検討されたこともあったが、信用度や営業の重複を理由に立ち消えた。航空機器部門は、この不完全な事業部制のもとで走り出した[8]

結果

最も小さい事業として残る

部門の実績は早くから数字に表れた。1961年3月期の半期決算で、航空機器の売上高は3億8933万円、全社の7.4%を占めている。1975年3月期の半期でも25億3700万円・8%と、比率はほとんど動かない。1979年の日経ビジネスが載せた部門別売上高の8年間の推移でも、航空機器は計測機器・精密機械・産業機械・医用機器の下に置かれた、いちばん薄い帯であり続けた[9][10][11]

その間、会社そのものは苦境にあった。1976年3月期の経常損益は1億2200万円の赤字に転落し、土地や有価証券の売却で利益を計上する「売り食い」に陥る。1971年5月に社長へ就いた上西亮二氏は繊維機械や歯車関係から撤収し、棚卸資産の圧縮と交際費の削減を重ねた。業績を押し上げたのはCTや環境試験装置といった新製品で、航空機器はこの整理の対象にならないまま残った[12][13][14]

部門が育てた人材と取引

1977年に日本航空機製造から島津製作所へ移った矢嶋英敏氏は、航空機向けの空調装置や動力装置を扱う航空・宇宙部門を一貫して担当し、古巣の防衛庁にも売り込みをかけた。1994年には航空・自動車機器大手の米アライドシグナルの航空機器部門との包括提携をまとめ、部門トップとして調印に臨んでいる。1998年7月、矢嶋氏は社長に就任した。京都大学以外の出身者も中途入社からの社長も、同社では前例の少ない人事であった[15][16]

矢嶋社長は在任中に創業以来初の赤字決算を計上して経営改革に取り組んだ。会長となった2007年には、YS-11の販売責任者を務めた経験から、開発費の三分の一しか見ない政府の支援では民間機は続かないと述べ、MRJの事業会社ができれば島津製作所も出資するとも語った。2025年3月期の航空機器セグメントは連結売上386億円、防衛省向けのフライト・コントロールやコックピット表示装置を主力とする。全社に占める比率は7%であった[17][18]

出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 日経ビジネス 1979年4月9日号「島津製作所 “カネ”は切るが、“ヒト”切らずに再起」
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号「禍を福に転じた『私の失敗哲学』上西亮二・島津製作所会長」
  • 日経ビジネス 1998年7月13日号「新社長登場 矢嶋英敏氏[島津製作所]航空機営業で鍛えた国際派、いざ離陸へ」
  • 週刊東洋経済 2007年8月11日号「第2特集 沸騰する航空機産業 記録ずくめ『787』ニッポン力の証明」
  • 島津製作所 有価証券報告書【沿革】
  • 島津製作所 有価証券報告書(2025年3月期・連結)
  • 株式会社年鑑(昭和37年版)
  • 会社年鑑(1976年版)

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