{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"jp-ibm","company_name":"日本アイ・ビー・エム","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/jp-ibm/","api_url":"/api/jp-ibm/history.json","updated":"2026-08-12","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/jp-ibm/","title":"日本アイ・ビー・エムの歴史概略","sections":[{"start_year":1923,"end_year":1937,"main_title":"日本陶器の受注処理に始まり、日本法人の設立に至る十四年（1923〜1937）","subsections":[{"title":"洋食器の受注をさばけず、統計機械にたどり着いた出張","text":"1923年10月、日本陶器の取締役兼支配人だった加藤理三郎氏は、生産管理の合理化策を調べるためニューヨークへ出張した。同社の高級洋食器は皿やカップの種類と個数を顧客が組み合わせて注文する形をとり、大正期に売上が伸びるにつれ、伝票の仕分けと原価計算に百人を超える珠算係の女子社員を充てても追いつかなくなっていた。相談を受けた森村ブラザース商会の中山武夫副支配人は、英語力に優れた笹村氏と水品浩氏の2名を選んで加藤氏に同行させた。三人が足を運んだビジネスショーには、C-T-R社とパワーズ社のパンチ式統計会計機械が並んでいた。数回にわたり会場で資料を集めた結果、名古屋工場の停滞を解くのはこの機械だと見当をつけた。\n\n最終調査を任された水品氏は、穿孔機・分類機・印刷統計機のそれぞれについて性能と賃貸料、販売形態を比較し、ホレリス式に軍配を上げた。調査機関に依頼したうえで自らも両社へ何度も足を運び、会社の理念や指導者の人柄、財務状況、社外の評価まで確かめた末の結論だった。ところが契約に赴いた水品氏に、IBMのブレイトマイヤー副社長は断りを告げる。同社の統計機はすべて賃貸方式であり、日本に代理店がない以上、保守ができないという理由である。すでに日本陶器は機械を据える事務室の配置まで整えて待っていた。引き下がれなくなった水品氏は、自分にその保守技術を教えてほしいと申し出た。\n\n申し出は受け入れられ、水品氏はエンディコット工場で三カ月あまりの実習に入った。半日は工場技師から機械工学と電気理論の講義を受け、半日は現場でドライバーの握り方から教わった。営業職から保守技術員への転換である。実習の間に、水品氏の構想は日本陶器一社を超えた。この機械の働きを必要とする官庁や会社は国内にも数多くあるはずで、自分たちの力で普及させられれば日本の進歩に役立つはずだと考えた。構想を森村ブラザースとIBMの双方に持ちかけると異存はなく、1925年5月21日、森村ブラザース取締役の中山武夫氏とブレイトマイヤー副社長のあいだで、極東における代理店契約が結ばれた。","references":[{"title":"岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩－創業期 日本アイ・ビー・エム（株）社長」城西国際大学紀要","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"名城論叢 第6巻第4号（2006年3月）谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム50年史（日本アイ・ビー・エム、1988年）序章 創立前史","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム50年史（日本アイ・ビー・エム、1988年）第1章 日本ワットソン統計会計機械株式会社と創業時代","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"政財界を集めた展示会と、代理店権の黒澤商店への移管","text":"1925年9月、第一号機が日本陶器名古屋事務所に据えられた。45桁丸穴式のパンチカードによる加算専用機で、日米間の電圧と周波数の差を調整したため稼働は翌年へずれ込んだ。代理店となった森村商事は年5台の契約義務を負っており、水品氏は東京へのデモンストレーション機の設置も申請したが、幹部は常設機の追加注文には慎重だった。結局、名古屋へ納めた集計作表機を一時借り受けて展示会を準備した。これに先立ち、三菱造船から2台の注文が入る。欧州大戦後の造船不況を克服するため早くから給与計算にカードを使ってきた同社は、船舶と舶用機器の原価計算事務全般へ機械化を広げようとしていた。\n\n1926年11月19日から2週間、東京・日本橋の森村銀行4階で国内初のIBM機械展示会が開かれた。森村開作社長は諸官庁や大手銀行、保険会社へ案内状を送り、日本銀行総裁をはじめ政府と大企業の要人が大勢集まった。ところが申込者は事実上皆無だった。理由は3つある。契約が賃貸方式であり当時の商慣行に馴染まなかったこと、学卒幹部職員の初任給が100円を下回る賃金水準では人手で集計するほうが安かったこと、そして統計会計機一式の月額賃貸料590円が、最も高価なモンロー式計算機の取得価格500円をも上回っていたことである。水品氏は展示会の直後に有望と見た会社を訪ねて回ったが、契約はひとつも取れなかった。\n\n展示会の成果を誰よりも期待していた森村開作社長は、この結果に深く失望した。当時の財界には欧州大戦後の不況と関東大震災からの復興に対処するため本業へ戻れという動きがあり、森村商事は着手したばかりのこの事業を断念する。残る代理店契約の期間と、日本陶器・三菱造船への保守をどう継ぐかが問題として残り、森村社長はニューヨーク時代からの知己で事務機械用品の輸入販売を手がけていた黒澤貞次郎氏に相談を持ちかけた。1927年1月、代理権は黒澤商店へ移り、水品氏も同店へ移籍した。年間最低契約台数の条項は外された。ブレイトマイヤー副社長が、機械の漸進的な普及を待つ方針へ転じたためである。","references":[{"title":"岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩－創業期 日本アイ・ビー・エム（株）社長」城西国際大学紀要","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"名城論叢 第6巻第4号（2006年3月）谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム50年史（日本アイ・ビー・エム、1988年）序章 創立前史","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム50年史（日本アイ・ビー・エム、1988年）第1章 日本ワットソン統計会計機械株式会社と創業時代","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"軍需と官庁が支えた受注、そして日本法人の設立","text":"黒澤商店へ移った水品氏は、新たに用意したカタログと機種別の賃貸料一覧を携えて客先を回った。受注は軍と官庁から届く。呉海軍工廠は1927年9月に総務部、翌年10月に会計部へ統計会計機一式を据え、会計部のものはギャングパンチと複写パンチを含むフルセットで、1928年には砲熕工事の原価計算に使われた。海軍は建艦中の戦艦長門の戦闘力を高める艦体改装設計にも米国海軍に先駆けてこの機械を用いており、納入経路は日本陶器名古屋工場を経由する形で秘匿された。1928年には内閣統計局が第二次国勢調査のためキーパンチ31台を含む47台を発注した。黒沢商店は1901年の創業直後からコンプトメーター計算機を扱い、大正の初めにはバロース計算機も販売しており、事務機械の販路をすでに持っていた。\n\n民間からの注文は続かなかった。1927年から1933年までの7年間、水品氏の営業日誌には千代田生命保険へ1930年1月以降10数カ月にわたり日参した記録が残るが、契約には至っていない。記載のある約50社も同様だった。1929年の世界恐慌は日本企業に徹底した経費削減を強い、1931年には三菱造船の長崎・神戸両造船所が解約を申し入れた。潮目が変わったのは1934年のIBM405の登場である。角孔80桁カードは丸孔45桁を性能で圧倒し、同年に日本生命と帝国生命が相次いで採用した。黒澤商店に代理権が移ってからの11年間で水品氏が得た受注は15件である。\n\n1937年6月17日、IBMは日本法人として日本ワットソン統計会計機械株式会社を設立した。資本金50万円は実際にはIBMの全額払い込みであり、発起人の持ち株は名義上の出資にすぎない。本店は明治以来の外資系企業が集まる横浜市中区山下町に置かれ、白い木造二階建ての正面には社是の「THINK」が掲げられた。渋沢栄一氏の孫にあたる渋沢智雄氏が非常勤の社長に就き、代表取締役兼技術顧問にはベルギー出身のギー・ド・ラ・シュヴァルリー氏、営業部長には水品氏、技術サービス部の責任者には本社から派遣されたチャールズ・M・デッカー氏が就いた。黒澤商店時代と違い、営業と技術サービスの業務がここで分けられた。設立時の事務所は東京・丸の内の三菱東9号館内に置かれ、同年10月に横浜山下町へ移った。","references":[{"title":"岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩－創業期 日本アイ・ビー・エム（株）社長」城西国際大学紀要","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"名城論叢 第6巻第4号（2006年3月）谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム50年史（日本アイ・ビー・エム、1988年）序章 創立前史","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム50年史（日本アイ・ビー・エム、1988年）第1章 日本ワットソン統計会計機械株式会社と創業時代","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1938,"end_year":1970,"main_title":"開戦による凍結と再出発、特許公開と引き換えの国内生産（1938〜1970）","subsections":[{"title":"開戦による資産の凍結、別会社での継承、66名の再出発","text":"開戦は会社を一度消した。1941年10月に代表取締役となった水品氏は、12月8日の朝、残る10名ばかりの社員を集め、機械そのものは米国のものでも性能によって国力の向上に役立っている以上、動揺せず顧客への奉仕を続けようと訓示した。その訓示を終える間もなく警官が踏み込み、水品氏は横浜加賀町署へ連行される。米国資本100%の会社の責任者というスパイ容疑での勾留は異例の3カ月に及び、検事が現れたのは一度だけだった。釈放後も2カ月の外出禁止が言い渡された。1942年3月、日本ワットソンの資産は全面的に凍結され、業務は指定管理人のもとで必要最小限の保守に限られた。\n\n事業は別の会社で続いた。1943年6月、東京芝浦電気を推進母体とする日本統計機が発足し、大蔵省の指令で日本ワットソンの正味資産173万円を引き継いだ。物資動員計画のもとで統計処理の需要が高まり、陸海軍も暗号解読から配船計画まで統計機械の役割に気づいていた。取締役に就いた第一生命の矢野一郎氏は発足にあたり、政府は戦争を始めたが企業家としてはIBMの事業を残しておくことが義務だと述べた。同社は1949年まで保守を続け、その間にIBMへのロイヤリティを非居住者勘定へ積み立てた。東京芝浦電気の縁故でこのとき採用された稲垣早苗氏は、のちに日本IBMの社長となる。\n\n1949年8月、GHQの指令で日本ワットソンの資産凍結が解かれ、資産相当額299万円が返還された。これに先立つ同年6月、8年ぶりに開かれた株主総会で社名を日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズへ改め、本店を日本統計機の所在地である東京・神田須田町へ移した。代表取締役にはIBM本社の利益代表としてデッカー氏が、常務取締役には水品氏が就いた。1950年4月に業務を再開したときの資本金は1980万円、従業員は66名で、その大半は日本統計機の出身者が占めた。この年の売上高は7700万円、税引後利益は1200万円である。1952年5月には麹町二番町に新社屋が竣工した。正面玄関のガラスには社是の「THINK」が金文字で掲げられ、玄関脇の大理石には世界平和は世界交易からという一節が刻まれた。当時の水品氏の役職は常務取締役である。","references":[{"title":"名城論叢 第6巻第4号（2006年3月）谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩－創業期 日本アイ・ビー・エム（株）社長」城西国際大学紀要","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」（日本経営協会総合研究所）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"荷役と機械 1962年6月号「日本IBM(株)千鳥町工場のH・M その1.レイアウト」竹内昌利（荷役研究所）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"事務機械化の需要と、特許公開を条件とした認可","text":"再開後の需要は速く伸びた。1950年から1957年にかけてパンチカード・システムへの引き合いが増え、日本企業の事務機械化が進んだ。初期の仕事は輸入機械の修理と米軍払い下げ機の再生、そしてカードの生産である。1950年から1953年まで大森工場で修理と再生にあたり、1954年には南糀谷工場での国産開始へ移った。第一号の製品となった080分類機は、ほとんど外国製と同一の製品や部品で組まれた。顧客数は1950年の18社から1957年には約200社へ増え、コンピュータを扱い始めてからの1963年には約700社に達した。収入は1950年からの10年で74倍になった。新社屋の1階には教室が置かれ、統計会計機を採用した企業の社員を1日6時間・3週間半で講習した。1952年までの修了者は557名にのぼる。\n\n1953年に米国IBMが初の商用コンピュータIBM701を世に出し、日本での生産にも乗り出そうとしたところ、計画は政府の壁に突き当たった。通商産業省は、日本IBMがIBMワールド・トレード社の100%子会社であることを理由に、現地生産の認可すなわち技術導入申請の認可を渋った。基本的な産業政策にかかわる問題だという判断である。一方で国内のコンピュータ・メーカーは、IBMが日本で持つ特許の壁にぶつかり、商品としての生産が困難な状態にあった。通産省はIBMの技術を国内メーカーへ公開させる必要を認める。\n\n通産省が日本IBMへの技術援助契約を認可する条件として出したのが、日本メーカーへの特許公開だった。1960年夏、通産省とIBMワールド・トレード社、日本IBMの三者はこの懸案を一括して解決することで合意する。日本IBMは合意の2年後にあたる1963年から、千鳥町工場でIBM1440の現地生産を始めた。国内メーカーが得たのは製造特許権にとどまり、製造やサービスのノウハウは含まれていない。これに対して日本IBMへの技術援助契約にはコンピュータの製造・サービス全般に関する特許とノウハウが含まれており、この差が1960年代の急成長を支えた。1968年の国内シェアは33.6%で首位を占めたが、国産各社の育成策が進んだ1970年には31.9%へ下がった。現地生産に先立ち、千鳥町工場は1961年5月に拡張とレイアウトの全面変更を行った。","references":[{"title":"名城論叢 第6巻第4号（2006年3月）谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩－創業期 日本アイ・ビー・エム（株）社長」城西国際大学紀要","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」（日本経営協会総合研究所）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"荷役と機械 1962年6月号「日本IBM(株)千鳥町工場のH・M その1.レイアウト」竹内昌利（荷役研究所）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"送金の禁止が生んだ自己金融と、資本金の膨張","text":"認可までの十数年、親会社への送金は禁じられていた。ロイヤリティの外貨送金が外資法の許可を得られなかったため、年々の税引利益は剰余金として積み立てられ、実質的な利益剰余金となって運転資金に充てられた。不足分は三菱信託銀行と東京銀行からの融資に頼った。資本金の源泉が国内の円貨であることを理由に、配当金の外貨送金も認められなかった。日本IBMは決算処理のうえでロイヤリティと配当金の相当額をIBMワールド・トレード社への負債として貸借対照表に累積させ、親会社の側も当初は機械の輸入代金の受け取りが増えることで満足していた。\n\n1960年2月、日本IBMは初めて株式配当の形で増資を行い、資本金は2980万円から1億1920万円へ増えた。同年に技術援助契約が外資法に基づいて認可され発効すると、1961年からロイヤリティの海外送金が始まる。配当金はなお送金されず、利益配当分は資本金へ繰り入れられた。1963年以降は繰越利益に加えて積立金を取り崩す大幅な増資が続き、1964年末の資本金は66億7531万円に達した。利益を全額自己資本へ繰り入れたため財務は自己金融で回り、1967年からは現金配当も加わって親会社への送金が実現した。\n\n1958年には茨城県東海村の日本原子力研究所へ、国内で初めてとなる電子計算機650を納入した。翌1959年には大和銀行と塩野義製薬にも導入した。同じ年に社名を日本アイ・ビー・エム株式会社へ改め、千鳥町工場の第一期工事を終えて国内の生産体制を整えた。1970年の売上高は984億円、純利益は228億円で、売上高利益率は23.2%に達する。従業員は7358名だった。1962年にはシステムズ・エンジニアの職種を設け、1964年の東京五輪では競技結果の集計に協力した。1967年には神奈川県に藤沢工場が完成した。","references":[{"title":"名城論叢 第6巻第4号（2006年3月）谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩－創業期 日本アイ・ビー・エム（株）社長」城西国際大学紀要","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」（日本経営協会総合研究所）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"荷役と機械 1962年6月号「日本IBM(株)千鳥町工場のH・M その1.レイアウト」竹内昌利（荷役研究所）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1971,"end_year":1992,"main_title":"国産勢の逆転と日本化路線、売上高一兆円までの二十年（1971〜1992）","subsections":[{"title":"値引きが削った利益率と、富士通による売上高の逆転","text":"1971年7月、IBMは周辺装置の貸借方式の変更を発表し、日本IBMも米国とカナダに続いてこの方式を採った。一定期間使用方式と呼ばれ、顧客が12カ月の契約使用期間を選べば従来の月額料金より約8%、24カ月なら約16%安い料金で使える。周辺装置をめぐる競争が激しくなったことに加え、この値引きと価格の引き下げが利益率を押し下げた。1975年の売上高は2455億円まで増えたにもかかわらず、純利益は237億円にとどまり、売上高利益率は9.7%へ落ちた。1970年の23.2%から5年で半分以下になった。\n\n国産メーカーの成長は政府の保護政策に支えられていた。1961年に設立された日本電子計算機は政府資金の融資を受け、国産メーカーのリース資金の負担を肩代わりする役割を果たした。1971年まで続いた輸入と資本の規制は、1972年のコンピュータの一部輸入自由化を経て緩む。1974年には技術導入の自由化に続いて関連産業への輸入自由化と資本の100%自由化が実施され、1976年にはソフトウェアの自由化が行われた。政府は同時に国産各社の再編と補助金による育成に力を入れた。1970年から1974年にかけて市場そのものは急速に広がり、国産メーカーの成長によって競争は激しさを増した。\n\n1970年代の汎用コンピュータの国内シェアは、日本IBMを先頭に富士通・日立・NECが続く並びだった。日本IBMのシェアは1970年代はじめの33%を頂点として下がり、1979年にはそれまで2位だった富士通が売上高で日本IBMを抜いて首位に立つ。設置金額のシェアで富士通が首位となるのは1985年である。1973年、日本IBMは貸借対照表を初めて社外に公表した。それまではIBMワールド・トレード社との連結決算を行っていたため決算書を公表していなかったが、商法上の公告義務と経理公開を求める社会的な要請が背景にあった。","references":[{"title":"名城論叢 第6巻第4号（2006年3月）谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年11月15日号・1999年12月4日号・2002年3月9日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2012年4月6日号・2015年5月8日号・2019年9月28日号・2025年9月27日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年11月28日号「顧客第一で、常に先頭を走る 自由闊達な会社へ大ナタ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年4月17日号「日本IBM、外資へ回帰。日本化路線を大転換、アジアへ商圏拡大」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1975年7月21日号「人間中心経営に国境なし。椎名武雄氏（日本アイ・ビー・エム社長）が語るIBMイズム」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年5月3日号「崩れ始めた自己制御の仕組み 暴走防ぐ社内憲法が必要」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年5月29日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1981年10月5日号「“日本”を売り込む日本IBM」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"社史插話：日本アイ・ビー・エム『献身の譜』（日本アイ・ビー・エム、1981年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"日本市場に合わせた製品と、売上高一兆円への到達","text":"1975年2月28日、椎名武雄氏が45歳で社長に就いた。就任後の3年間は前任の稲垣早苗氏が会長として代表権を持ち、椎名氏が全権を握るのは1978年からである。椎名氏は日本市場に合う製品とサービスを通じて日本の企業として認められることを目標に掲げた。コンピュータの大衆化に対応するため、日本IBMは特約店制度の導入と製品開発、子会社・関連会社の設立を進める。1982年にIBM特約店制度を発足させ、1979年には漢字情報システム、1980年には日本語文書処理システムと3380磁気ディスク装置を発表した。1977年には製品センターを開設した。椎名氏は慶應義塾大学工学部を出たのち米国バックネル大学へ再入学し、1953年に入社して千鳥町工場長・営業担当副社長を経ていた。就任翌年の取材では、その国の経営をその国の人間に任せるのがIBMの60年来の伝統だと述べている。\n\n製品も日本語を前提に作られた。1983年に発表したマルチステーション5550は日本語処理を組み込んだ機種で、同じ年にはシステム/36も発表した。1985年には神奈川県に大和研究所を完成させ、開発拠点としての性格を強めた。1987年にはパーソナルシステム/55と日本IBM科学賞を、1988年には点字翻訳ネットワークのてんやく広場とAS/400を、1990年にはRISCシステム/6000とシステム/390を発表した。1992年にはIBMプロフェッショナル専門職制度を設け、同じ年にThinkPadシリーズを送り出した。\n\n業績は1980年代を通じて伸びた。1981年から1986年にかけて売上は二桁の伸びを続け、大型機種を中心とする買取需要と、米国向けを中心とした製造用部品の輸出が支えた。1987年の売上高は1兆606億円、税引後利益は742億円、従業員は2万210名で、売上高で1兆円企業となった。1981年と1990年を比べると売上高は3倍、税引利益は2倍である。総資本経常利益率は1988年に29.5%へ達し、同年の富士通・日立製作所・NECのいずれをも大きく上回った。1989年は25.3%、1990年は19.6%である。製造の評価も高かった。IBMグループが世界に持つ40余りの工場のうち、藤沢工場と野洲工場は品質と製造技術で常に上位5位以内に入るとされ、藤沢工場に86あった小集団活動のエクセル・サークルは、その成果が米国の研究所を通じて欧米各国の工場へ伝えられた。","references":[{"title":"名城論叢 第6巻第4号（2006年3月）谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年11月15日号・1999年12月4日号・2002年3月9日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2012年4月6日号・2015年5月8日号・2019年9月28日号・2025年9月27日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年11月28日号「顧客第一で、常に先頭を走る 自由闊達な会社へ大ナタ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年4月17日号「日本IBM、外資へ回帰。日本化路線を大転換、アジアへ商圏拡大」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1975年7月21日号「人間中心経営に国境なし。椎名武雄氏（日本アイ・ビー・エム社長）が語るIBMイズム」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年5月3日号「崩れ始めた自己制御の仕組み 暴走防ぐ社内憲法が必要」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 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1981年10月5日号「“日本”を売り込む日本IBM」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"社史插話：日本アイ・ビー・エム『献身の譜』（日本アイ・ビー・エム、1981年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"親会社への送金が残した薄い利益剰余金と、三分社化","text":"収益力の高さは利益剰余金に結びつかなかった。1987年12月期は税引利益742億円に対して594億円がIBMへ配当として支払われ、配当性向は80%に達する。1991年は税引利益564億円に対して配当が625億円で配当性向は90%、1998年には税引利益390億円に対して配当730億円で187%に上った。売上高の約1割と推定されるロイヤリティも別に支払われており、1987年は669億円、1990年は969億円、1998年は1173億円と見積もられる。1991年以降は税引利益や配当金を上回るロイヤリティの支払額になったとみられる。\n\n利益剰余金の水準は国内の競合と比べて小さい。1988年の日本IBMの利益剰余金は1761億円で、同じ年の富士通6581億円、東芝5212億円、日立製作所1兆8382億円とは桁が違う。1993年には富士通8793億円、東芝8754億円、日立2兆6692億円へ増えた一方、日本IBMは純損失を計上して1721億円へ減らした。総合的な収益力では国内メーカーを上回りながら利益剰余金が積み上がらなかったのは、親会社への高いロイヤリティと配当の支払いが利益を吸い上げたためである。1996年に2203億円まで戻した利益剰余金は、1997年に1782億円、1998年には1447億円へ減った。\n\n1990年代に入ると売上高と税引利益がともに減った。1992年10月、日本IBMは本体と情報サービス、サービスの3社への分社を発表する。競争力の強化と顧客ニーズへの迅速な対応、市場に焦点を絞った自立経営が理由に挙げられた。分社計画の発表時の社員数は本体1万5500名、情報サービス2700名、サービス4500名、出向1300名の合計2万4000名である。同年11月にはセカンドキャリア支援プログラムを設け、早期定年退職の有資格者へ年齢に応じて月額給与の3カ月から18カ月分を支給した。1993年6月末までの退職者は1632名に達した。当時会長だった椎名氏は、構造変革には3年ほど前から着手しており分社もその一環であるとしたうえで、リストラクチャリングは他社より多少進んでいるとしてもまだ緒についたところだと語った。","references":[{"title":"名城論叢 第6巻第4号（2006年3月）谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年11月15日号・1999年12月4日号・2002年3月9日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2012年4月6日号・2015年5月8日号・2019年9月28日号・2025年9月27日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年11月28日号「顧客第一で、常に先頭を走る 自由闊達な会社へ大ナタ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年4月17日号「日本IBM、外資へ回帰。日本化路線を大転換、アジアへ商圏拡大」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1975年7月21日号「人間中心経営に国境なし。椎名武雄氏（日本アイ・ビー・エム社長）が語るIBMイズム」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年5月3日号「崩れ始めた自己制御の仕組み 暴走防ぐ社内憲法が必要」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 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1999年5月29日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"機械を売る会社から仕組みを預かる会社へ、二〇〇一年の頂点","text":"情報システム以外の事業には手を出さない方針も明確だった。新聞の製作システムは作っても新聞そのものは手がけず、銀行向けのシステムを構築しても決済業務には入らない。顧客のビジネスに割り込めば後々の損になるという判断で、北城社長はこの点を国内の競合他社との違いとして挙げた。1994年12月期には増収増益に戻り、以後は赤字に陥っていない。1997年12月期は4期連続の増収増益となり、純利益は687億円に達した。1999年2月には外資系企業の申告所得ランキングで首位に返り咲いた。1998年12月期には3000社から6000億円分を購買し、発行した伝票は40万枚に上った。伝票1枚あたり約1000円の発行費用を減らすため、電子商取引による調達へ切り替えた。\n\n1999年12月、大歳卓麻氏が社長に就いた。北城氏はIBMアジア・パシフィックの責任者を兼ねる会長へ移り、IBM本社のルイス・ガースナー会長の強い希望による人事だと伝えられた。就任から6年目での交代はIBMの人事慣例では任期の途中にあたり、社内外の予想を外した。2001年12月期の売上高は1兆7075億円で過去最高となり、国内分は前期比9.7%増の1兆4608億円だった。サービスの売上高は全体の5割を超え、アウトソーシングは60%増えた。営業利益は1809億円で、同じ年に3800億円の最終赤字を見込んでいた富士通とは対照的だった。\n\n頂点は2001年だった。IBMは2004年12月にパソコン事業を中国のレノボへ売却する契約を結び、2005年に手放した。日本IBMの売上高は2001年の1兆7075億円から縮み、2010年には9377億円になった。2005年には社員による不正会計が発覚して米IBMが2004年決算の修正を迫られ、以後は本社から次々に人材が送り込まれて独立色が薄れた。2007年にはIBMアジア・パシフィックから分離し、米本社へ直接業務を報告する体制へ移った。2014年にはSystem xサーバー事業をレノボ・エンタープライズ・ソリューションズへ譲渡した。","references":[{"title":"名城論叢 第6巻第4号（2006年3月）谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年11月15日号・1999年12月4日号・2002年3月9日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2012年4月6日号・2015年5月8日号・2019年9月28日号・2025年9月27日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年11月28日号「顧客第一で、常に先頭を走る 自由闊達な会社へ大ナタ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年4月17日号「日本IBM、外資へ回帰。日本化路線を大転換、アジアへ商圏拡大」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1975年7月21日号「人間中心経営に国境なし。椎名武雄氏（日本アイ・ビー・エム社長）が語るIBMイズム」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年5月3日号「崩れ始めた自己制御の仕組み 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Holdings合同会社が全額を保有し、事業所は30カ所を数える。本社は2024年に日本橋箱崎町から港区虎ノ門へ移った。1937年の設立時に50万円だった資本金は、戦時中の資産凍結と戦後の返還、送金を禁じられた時代の自己金融を経て現在の規模になった。日本の事務機械化を先導した会社は、いまや古い技術で作られた基幹システムの更新を引き受ける側に回っている。","references":[{"title":"名城論叢 第6巻第4号（2006年3月）谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年11月15日号・1999年12月4日号・2002年3月9日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2012年4月6日号・2015年5月8日号・2019年9月28日号・2025年9月27日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年11月28日号「顧客第一で、常に先頭を走る 自由闊達な会社へ大ナタ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年4月17日号「日本IBM、外資へ回帰。日本化路線を大転換、アジアへ商圏拡大」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 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