{"title":"日本鋼管の歴史概略","sections":[{"start_year":1912,"end_year":1936,"main_title":"八幡が作らなかった鋼管から始め、製鉄大合同に加わらなかった民間会社","subsections":[{"title":"需要が小さく輸入に頼っていた継目無鋼管を、専業として引き受けた","text":"1912年6月、白石元治郎氏が資本金200万円で日本鋼管を設立した。設備は20トン平炉2基と製管工場1工場、本社は横浜市、工場は川崎に置いた。狙いを継目無鋼管に定めたのは、需要が大きいからではなく、むしろ小さかったからである。当時の鋼管は製造に特別の設備と高度の技術を要するわりに数量が出ず、官営八幡製鉄所でさえ手をつけずに輸入へ委ねていた。民間の鉄鋼会社が数社しかなかった時代に、日本鋼管はその空白を専業として引き受けた。設備の規模は控えめだった。1918年に入社し、のちに社長となる河田重氏は、初出社の日に「見渡すかぎり殺風景なたんぼの中の一本道」を歩いた。その先の川崎工場には、平炉が3基か4基と、小さなパイプ工場が2つあるだけだった。\n\n\n第一次世界大戦の需要が、この小さな専業会社を一息に膨らませた。平炉は7基に増え、小形中形条鋼・厚板・薄板・第二製管・スポンジ鉄の各工場と小型高炉が加わった。資本金は1,600万円へ跳ね上がる。だが休戦とともに注文は止まった。トン当り200円だった丸棒は70円から80円へ落ち、それでも買い手がつかない。株価は5円まで下げた。増設した工場のうち平炉・鋼管・条鋼を除く各工場は、操業を止めるか廃棄された。1923年の関東大震災では、川崎工場のコンクリート煙突が3分の2倒れている。昭和初頭の世界恐慌では二度の減資に追い込まれた。\n\n\n苦境のなかでも手は打った。富山の電気製鉄所を合併して合金鉄の製造に入り、鍛接鋼管工場を新設した。1921年には減資したうえで、直ちに増資に踏み切った。手続に見本がなく、しかも過半数の委任状を集めなければならなかったため、職員をほぼ全員全国へ送った。資金の出どころは終始、株主と借入だった。河田重氏は、その事実を会社の性格として書き残している。「鋼管会社は純然たる民間会社である。だから資金はすべて株主から集め、あとは借金でまかなってきた。政府の金や援助なしに、よくここまでこられたものだとおもう」。\n","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋書館、1955年）「日本鋼管」および「鉄鋼」概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「日本鋼管」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人2（日本経済新聞社、1980年）河田重","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」堀切治雄","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社）「製鉄－苦闘重ねた先駆者」および日本産業総年表","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"製鉄大合同に加わらない代償を払い、自前の高炉に届くまで24年かけた","text":"1934年1月、官営八幡製鉄所と5つの製鉄会社が合同して半官半民の日本製鉄が発足した。日本鋼管には参加の要請が届いたが、創業社長の白石元治郎氏はこれを断った。理由として伝わるのは、政府の一企業になれば競争がなくなるという判断である。「製鉄業は、政府の一企業として競争のない温室育ちの事業ではいかぬ。あくまでも民間企業として競争しながら発展すべきだ」。合同後の鋼塊生産では日本製鉄が51%を占め、日本鋼管は12%で第2位についた。規模で並ぶ相手ではない。独立を選ぶとは、その差を抱えたまま鉄を売り歩くことを意味した。\n\n\n代償は販売の現場に出た。統制下の日鉄は問屋を呼びつけた。のちに社長となる槇田久生氏によれば、日本鋼管の側は買ってもらうために頭を下げて回った。「問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらい、それをどこかに売ってもらわなければならない」。訪ねた先で碁を打たれながら待たされ、勝負がついたと思えば「もう一番」と言われる。そこまで辛抱しなければ鉄が売れなかった、というのが槇田久生氏の回想である。独立の選択は理念として語りうるが、現場では毎日の営業条件として跳ね返っていた。\n\n\n高炉は創立以来の宿願だった。しかし国策に添わないという理由で、高炉建設計画は商工省に握りつぶされた。事情を変えたのは自社の努力ではなく戦争だった。満州事変から日中戦争へ進むにつれ、官営製鉄所だけでは鉄鋼需要を満たせなくなる。政府は民間企業の育成へ方針を転じ、日本製鉄以外の熔鉱炉建設も認可した。1934年10月に高炉3基を含む扇町製銑工場へ着手し、1936年6月に第一高炉へ火入れした。創立から24年を経て、ようやく銑鋼一貫に届いている。ただし民営で最初の銑鋼一貫は、1903年に釜石製鉄所が実現した。日本鋼管が最初に立ったのは高炉ではなく、八幡が手をつけなかった鋼管のほうだった。\n","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋書館、1955年）「日本鋼管」および「鉄鋼」概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「日本鋼管」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人2（日本経済新聞社、1980年）河田重","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」堀切治雄","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社）「製鉄－苦闘重ねた先駆者」および日本産業総年表","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1936,"end_year":1959,"main_title":"統制・空襲・公職追放という三つの外圧が、経営陣と設備を入れ替えた","subsections":[{"title":"独立を選んだ会社が、販売も原料も国家に握られた","text":"自前の高炉を持った途端、市場そのものが消えた。1937年に共同販売組合ができ、鉄の販売統制が始まる。翌1938年には日本鋼材連合会が設立され、配給規制に基づく切符制へ移った。1941年2月には社員が企画院へ出向し、国内の鉄屑回収計画を立てた。同年7月に鉄鋼統制会が設立されると、原料・生産・配給のすべてが国家の管理下に入った。合同に加わらないという選択で守ったはずの独立は、開戦へ向かう過程で意味を失った。この間、設備の側では1938年6月に国内唯一のトーマス転炉工場が竣工している。屑鉄を使わない製鋼設備であり、のちに純酸素転炉を導入する素地となった。\n\n\n1940年10月、鶴見製鉄造船を合併した。初代浅野総一郎氏が興した造船所・船渠と、造船用鋼材を自給するための製鉄所とが一体になった会社である。これを取り込み、日本鋼管は製鉄と造船を併せ持つ会社になった。世界を見ても両部門を兼営する高炉メーカーは米国のベスレヘム・スチールくらいで、国内では日本鋼管だけである。造船は以後60年余にわたって日本鋼管の一部門であり続け、のちに重工事業部を生む母体にもなった。合併にともない資本金は1億4,335万円へ増えた。鶴見製鉄所では、造船所と厚板工場が一組になっていた。槇田久生氏が所長を務めた当時の生産量は年50万トン、これに対し川崎工場は年100万トンだった。\n\n\n京浜の臨海部に設備を集めていたことが、戦争では最悪の条件になった。1942年4月18日の初の関東大空襲で、米軍機は真っ先に日本鋼管の工場を爆撃した。1945年7月には京浜への爆撃で高炉の火が消え、8月の空襲で再び被災した。終戦時、高炉と平炉は全面休止し、圧延だけが4分の1ほど動く状態で、本来の鋼材のほかにタライやバケツをつくって凌いだ。槇田久生氏は被害の程度をこう書いている。「なかでも日本鋼管の打撃が、もっともひどかった。被害なんてものではなく、何が残っているか、という感じだった」。\n","references":[{"title":"私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人2（日本経済新聞社、1980年）河田重","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋書館、1955年）「日本鋼管」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「日本鋼管」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社）「鉄鋼－苦難に続く試練」「石炭を鉄鋼を」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"公職追放が社長を決め、遅れて始まった復興が次の20年を規定した","text":"戦後の経営陣は、会社の意思ではなく占領政策によって入れ替わった。終戦時の社長・浅野良三氏は公職追放を予知して退き、後を継いだ渡辺政人氏も追放される。1947年、常務で鶴見造船所長だった河田重氏が急遽社長に就いた。河田氏が残ったのは能力の評価によるものではない。1933年に川崎疑獄で110日間勾留され、第一審で無罪となった。その後は日満鋼管の常務として満州へ、次いで北支の石炭山の調査へと回る。本社の取締役になったのは1942年12月である。重役になる時期が遅れたことが、結果として追放を免れさせた。株主総会では推薦者となるべき上位の役員が一人も残っておらず、河田氏は自己紹介の形で就任の挨拶をした。「その紹介してくれる立場の人たちが、みんなパージになって一人もいない。そこでやむを得ず『このたび私が社長になりました。どうぞよろしく……』と自己紹介みたいなあいさつをした」。\n\n\n復興は現物のやりくりから始まった。コークス炉が1基残っても入れる石炭がない。北海道の炭鉱へ飛べば、掘る人も運ぶ人もトラックもガソリンもなかった。京浜の工場から200人を送って積み出しを手伝う条件で、別枠の石炭を確保した。コークスと交換に、いすゞ自動車からトラックを、日本鉱業からガソリンをドラム缶で回してもらっている。石炭と鉄鋼への傾斜生産方式に支えられて1948年4月に川崎製鉄所第五高炉が動き、銑鋼一貫に復帰した。翌1949年4月、財閥解体・過度経済力集中排除・企業再建整備の各法令の適用を受ける。それでも製鉄と造船は分割されず、約4倍の増資で資本金を10億円として一本建で存続した。\n\n\nそれでも戦災の後始末は数年を要し、日本鋼管は鉄鋼各社のなかで復興が最も遅れた。1951年度を初年度とする第一次設備合理化計画は、総工事費289億円を高炉の復旧と圧延設備の刷新にあてた。1955年度からの第二次計画で、ようやく新工場の建設へ進む。労使の対立も残り、1955年から1957年にかけて3年連続で大規模なストライキが起きた。品質もまだ「カマボコのように丸くなった厚板、波を打ったわかめのような薄板」が通用する水準にあった。この遅れは20年後まで尾を引いた。福山製鉄所の建設が遅れたのは京浜地区の復興に時間がかかったことが大きい、というのが槇田久生氏の総括である。\n","references":[{"title":"私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人2（日本経済新聞社、1980年）河田重","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋書館、1955年）「日本鋼管」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「日本鋼管」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社）「鉄鋼－苦難に続く試練」「石炭を鉄鋼を」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1959,"end_year":1979,"main_title":"水江・福山・扇島 ── 三度の大型投資が会社の形を変えた","subsections":[{"title":"薄板へ寄せた水江と、能力の限界を外へ出した福山","text":"1955年度からの第二次設備合理化計画で建設した水江製鉄所が、日本鋼管の製品構成を変えた。あらゆる品種の薄鋼板を集中して大量に生産する工場で、内容積1,709立方メートルの高炉は当時の世界最大級にあたる。米コッパーズ社の技術による高圧操業に重油吹き込みを併用し、コークス比を470キログラムまで下げた。鉱滓を自動処理するドライピットを備えた高炉は、国内でここだけである。生産した冷延鋼板の納入先には、トヨタ・日産・日野・プリンス・富士重工の全自動車メーカーと、日立・松下・三洋が並ぶ。鋼管から出発した会社が、戦後に伸びる産業の素材供給者へ移った。\n\n\n製鋼技術では、この時期に日本鋼管が導入する側から供与する側へ回った。1958年にオーストリアで工業化された純酸素転炉（LD転炉）に早くから着目し、技術導入の交渉に入る。同じく調査を進めていた八幡製鉄とともに、その窓口となった。以後、国内のLD転炉はすべて、この2社からライセンスを受けて設けられている。従来の転炉は空気を吹き込むため窒素が入り、優れた鋼ができない。純酸素転炉は建設費が安く、品質の高い鋼を経済的に得られた。国内の設備数は数年のうちに19基から23基へ増え、日本の鉄鋼業の国際競争力を押し上げた。\n\n\n京浜地区の合理化が完成に近づき、粗鋼能力350万トンが限界に達すると、次の成長は外に土地を求めるしかなくなった。1961年秋に第4の総合製鉄所を福山に置く方針を決め、1962年1月に着手した。水江製鉄所長を兼ねる常務の中野宏氏は、1963年の講演でこの計画の到達点を数字で示している。最終粗鋼年産600万トン、投資額は約2,500億円。1970年度の全社粗鋼能力は770万トンに達し、売上高は現在の約2倍の3,000億円になる見込みだった。第1期は総工費1,000億円強で1966年8月に完成した。第2期は約900億円を投じて1968年3月に終わり、粗鋼能力は450万トンに達する。1975年時点では高炉5基・1,600万トンで、世界一の規模の製鉄所になっていた。\n","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「世界鉄鋼業界と日本鋼管の見通し」赤坂武","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「当社主力工場の概況について」中野宏","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」堀切治雄","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「日本鋼管」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社）「鉄鋼－新日鉄誕生し、業界安定期に」「鉄 石油ショックを機に低成長時代へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"創業の地を離れないと決めたことが、扇島の条件を決めた","text":"京浜製鉄所は創業以来、空いた土地を見つけては設備を足してきた結果、人家に隣接する古い工場群になっていた。老朽化と公害の二つを同時に解く必要があり、社内では他の土地に新立地を探すべきだという案も出た。それでも1969年6月には、沖合の扇島を埋め立てて移る案に決めた。理由は立地条件の優劣ではない。この地区では2万人以上の従業員が働き、下請を含めれば4万人近くが生活していた。遠隔地へ移れば社宅も学校も病院も新設が要る。需要家や地域との結びつきも深い。制約になったのは土地の条件ではなく、そこで暮らす人と築いた関係だった。\n\n\n残ると決めた以上、制約は全部引き受けるほかない。総工費は約9,000億円、うち土地造成だけで1,000億円近くを要し、漁業補償の交渉には1年半かかった。粗鋼は600万トンが公害防止協定上の上限で、無制限の増産はできない。亜硫酸ガスの規制値0.012PPMは、新聞が「たばこを4畳半で1本吸えば規制値に達する」と書くほどの水準だった。粗鋼トン当りの設備費は12万円から13万円と福山の倍以上になる。それでも、高炉7基でようやく600万トンを出していた体制を4,000立方メートル級2基へ集約すれば、要員は約半分で済む。負担増はそれで賄えると見ていた。1974年12月に埋立が完了し、第一高炉は1976年、第二高炉は1979年に火が入った。\n\n\n事業の側では、鉄以外の柱を立てる作業がこの時期に始まった。造船の陸上工事部門が1970年に重工として独立し、1973年に鉄鋼・造船・重工の三事業部制へ移る。粗鋼で売るより加工して付加価値を高める狙いである。パイプライン敷設に必要な溶接技術は造船所が持つもので、他の鉄鋼メーカーにはなかった。ただし1974年9月期の売上5,542億円の内訳は、鉄鋼4,420億円・造船620億円・重工502億円である。鉄鋼が8割を占める構成に変わりはない。しかも造船は1974年度に20万トン超の大型タンカーの引合いが1隻もなくなり、石油危機の直撃を受けた。三本柱の実態は、大きな1本と細い2本だった。\n","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「世界鉄鋼業界と日本鋼管の見通し」赤坂武","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「当社主力工場の概況について」中野宏","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」堀切治雄","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「日本鋼管」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社）「鉄鋼－新日鉄誕生し、業界安定期に」「鉄 石油ショックを機に低成長時代へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1979,"end_year":2002,"main_title":"鉄以外へ広げた20年と、子会社の清算を経て統合で幕を引くまで","subsections":[{"title":"エンジニアリング・海外・新素材 ── 鉄の外に置いた三つの賭け","text":"鉄鋼の国内需要が伸びなくなった時期に、日本鋼管が広げた先は三つある。第一がエンジニアリングで、1980年度には売上高が全社の10%を超えた。ブラジルの国営CSN社、トルコの一貫製鉄所建設、米カイザー社の再建協力と、案件は相手企業の経営全般に及んだ。第二が海外の生産拠点で、1984年8月に米国第7位の高炉メーカー、ナショナル・スチールの株式50%を取得して資本参加した。第三が新素材と電子で、1980年代後半に新材料事業部を発足させた。新日本製鉄の新素材事業開発本部、住友金属工業の事業開発センター、川崎製鉄の新事業推進部と並ぶ動きである。鉄の外を探すのは、この時期の高炉各社に共通する選択だった。\n\n\n広げている最中に、本業の足元が抜けた。1985年9月のプラザ合意後の円高で、高炉5社の業績は悪化する。実質的な赤字は1985年度下半期から1987年度上半期まで続いた。有価証券売却などを除いた1986年度の実質赤字は5社合計で4,000億円に達し、中間配当も一斉に取りやめとなった。日本鋼管は1986年度から1990年度までの5ヵ年合理化計画をまとめる。高炉1基を休止し、福山の分塊設備を止め、造船部門の設備を20%削る。人員は1万9,400人から1万3,200人へ、6,200人減らす方針だった。多角化の投資と本業の人員削減が同じ数年のうちに並んだ。\n\n\n京浜製鉄所は1990年に第二高炉を休止して一炉体制に入り、以後は片肺操業と呼ばれる状態が続いた。生産は福山へ寄り、京浜対福山の比率は1988年度の43対57から1997年度には27対73へ動いた。扇島に留まると決めたときに引き受けた高い設備費は、需要が伸びる前提の上に立っていた。前提が変われば、同じ設備が重荷に変わる。1998年時点で連結鉄鋼部門の利益率は他社の半分以下にとどまり、業界からは「福山だけなら断トツの競争力があるが、実質片肺操業の京浜が大問題」と評された。鉄の外に置いた賭けのうち、電子デバイスも同じ結末をたどっている。1997年度は売上75億円に対して営業赤字145億円を出した。1998年5月に東芝とシステムLSIで包括提携し、メモリー事業からは翌1999年3月末に撤退した。\n","references":[{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社）「鉄 石油ショックを機に低成長時代へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」および日本産業総年表","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年9月19日「トーア・スチール 解散の引き金」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年11月28日「NKK 子会社のトーア・スチールは解散」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年8月7日「鉄鋼再編の鍵握るNKK、神戸鋼の再構築」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1988年40巻4号「新規上場会社紹介 トーア・スチール株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFEホールディングス 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"電炉子会社の清算が決め手となり、統合で幕を引いた","text":"決定的だったのは電炉子会社の処理である。トーア・スチールは1987年10月に東伸製鋼と吾嬬製鋼所が合併して発足し、翌1988年2月に東証一部へ上場した。両社で2,866人いた従業員を1,700人台まで絞り、1988年度から1992年度は年100億円を超える経常利益を出した。生き残りを賭けて建てたのが月産10万トン・総工費1,300億円の鹿島製造所で、1996年3月に完成する。閉鎖する東京（千住）製造所の土地を1,000億円で売り、建設費に充てる計画だった。実際の売却額は330億円余にとどまり、設備廃却損132億円も出た。1994年度以降は経常赤字に転落し、赤字幅は期を追って拡大している。\n\n\n1998年2月、第三者割当増資で出資比率を37%弱から51.58%へ引き上げ、トーア・スチールを連結対象とした。それでも建設用鋼材の需要低迷で最終損失は900億円に達し、期末の債務超過が避けられなくなる。同年9月、日本鋼管はトーア・スチールの解散を決め、通期の最終損益見通しを50億円の黒字から880億円の赤字へ修正した。10月にはスタンダード・アンド・プアーズが社債格付けを投機的とされるBpiへ引き下げ、株価は100円を割った。1999年3月にトーア・スチールは解散し、新設のエヌケーケー条鋼が事業を引き継ぐ。同年には京浜製鉄所の表面処理鋼板と溶接管、富山・清水製作所を分社化し、3,900人を削減した。\n\n\n1998年度は、高炉5社のうち日本鋼管・住友金属工業・神戸製鋼所の3社が経常赤字となった。配当を実施したのは新日本製鉄と川崎製鉄の2社にとどまる。粗鋼生産能力1億1,374万トンに対し、2005年の生産量は9,600万トン余と見込まれた。業界には15%を超える需給ギャップが残る計算だった。1912年に八幡が作らなかった鋼管から始め、製鉄大合同に加わらずに90年を通した会社は、2002年9月に上場を廃止する。川崎製鉄との共同株式移転で、JFEホールディングスの完全子会社となった。翌2003年4月、両社は会社分割によりJFEスチール・JFEエンジニアリング・JFE都市開発・JFE技研の4社へ再編された。社名と上場は消えたが、白石元治郎氏が設立した法人格はJFEエンジニアリングとして残っている。\n","references":[{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社）「鉄 石油ショックを機に低成長時代へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」および日本産業総年表","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年9月19日「トーア・スチール 解散の引き金」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年11月28日「NKK 子会社のトーア・スチールは解散」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年8月7日「鉄鋼再編の鍵握るNKK、神戸鋼の再構築」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1988年40巻4号「新規上場会社紹介 トーア・スチール株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFEホールディングス 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ日本鋼管は1934年の製鉄大合同に加わらず、民間企業として独立を選んだのか","a":"1934年1月に半官半民の日本製鉄が発足した際、日本鋼管にも合同への参加要請が届いたが、創業社長の白石元治郎氏はこれを断った。避けたのは競争の消滅だった。「製鉄業は、政府の一企業として競争のない温室育ちの事業ではいかぬ。あくまでも民間企業として競争しながら発展すべきだ」というのが本人の言葉である。合同後の鋼塊生産は日本製鉄が51%、日本鋼管が12%で、規模で並ぶ相手ではない。独立の代償は販売に出た。槇田久生氏は、日鉄が問屋を呼びつけたのに対し、日本鋼管は買ってもらうために頭を下げて回ったと書いている。"},{"q":"なぜ1962年に広島県福山へ第4の製鉄所を建てたのか","a":"1961年秋に第4の総合製鉄所を福山へ置くと決め、翌1962年1月に埋立から着手した。京浜地区の粗鋼能力350万トンが限界に達し、これ以上伸ばすには他所に広大な土地が要った。最終粗鋼年産600万トン、投資約2,500億円という規模は、1963年の全社売上高810億円の3倍にあたる。赤坂武社長が決めたこの計画を、槇田久生氏は「京浜製鉄所の二倍の生産量を誇る工場をつくろうというのだから、社運をかけた計画だった」と書いている。1966年8月に第1期が完成し、1975年には高炉5基・1,600万トンで世界一の規模になった。"},{"q":"なぜ1998年に上場子会社トーア・スチールを清算し、受け皿会社へ事業を移したのか","a":"1998年9月、日本鋼管はトーア・スチールの任意清算を決め、新設のエヌケーケー条鋼へ事業を承継させた。トーアは1987年に東伸製鋼と吾嬬製鋼所が合併して発足し、従業員を2,866人から1,700人台へ絞って1988〜92年度は年100億円超の経常利益を出していた。引き金は総工費1,300億円の鹿島製造所だった。原資に見込んだ東京製造所の土地は1,000億円で売れるはずが、実際は330億円余にとどまった。最終損失900億円で債務超過が避けられなくなり、従業員1,300人のうち1,000人を受け皿会社が引き受けた。"}]}}