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  "title": "住友金属工業の歴史概略",
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      "start_year": 1897,
      "end_year": 1945,
      "main_title": "別子銅山の銅から鋼へ ―― 伸銅と製鋼の二系譜が一社に集まるまで",
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        {
          "title": "伸銅場から始まったわが国民間最初の軽金属加工",
          "text": "住友金属工業の事業は、銅から始まった。住友家は元禄四年から伊予の別子銅山を経営し、明治以降は採鉱と精錬に加えて関連する諸事業へ広げた。その一つとして、1897年4月に大阪市安治川へ住友伸銅場を開設している。まず銅と真鍮の板・棒・線の製造に着手し、翌1898年からはアルミニウム板を製作した。わが国民間で最初の軽金属加工にあたる。日露戦争後には建艦材料の自給要請にこたえ、1909年に銅・真鍮の引抜管、1912年に冷間引抜鋼管の製造を始めた。いずれも国内で最初の製品であり、復水器用の真鍮管と缶用の鋼管は以後も独自の品種として残った。参入の順序は銅から真鍮、そして鋼であり、鉄鋼専業としての出発ではなかった。\n\n1913年に住友伸銅所と改称したのち、第一次世界大戦の好況を受けて設備を広げた。1919年には尼崎の岸本製鉄所を買収して尼崎工場とし、スウェーデンから購入していた鋼管材料を自給する体制に切り替えた。1921年には熱間仕上鋼管の製造も始めている。1920年に着手したジュラルミンの製造は、大戦中に撃墜されたドイツのツェッペリン飛行船の金属製骨格の破片を海軍から交付され、それを研究して試作に成功したものであった。1926年7月には株式組織に改めて資本金1,500万円の住友伸銅鋼管となり、大阪桜島に新工場を建設して1928年に安治川工場を移した。軽合金材は航空機の機体と発動機向けに需要を伸ばし、1933年には金属プロペラの製造に入った。",
          "references": [
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              "title": "会社銀行八十年史（1955年）「住友金属工業」",
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          "title": "平炉から鉄道車輌用品へ広がった製鋼の系譜",
          "text": "もう一つの系譜は製鋼である。1901年6月、大阪伝法に住友鋳鋼場を開設した。三屯半の小平炉から発足したわが国民間最初の平炉工場であり、のちに大阪島屋町へ新工場を建設して1907年9月に移転している。1915年12月には資本金600万円の株式会社住友鋳鋼所となり、設備を拡充して1920年9月に1,200万円へ増資、同年11月に住友製鋼所と改称した。この間に製品は鍛鋼品にも及び、1918年には本多光太郎博士が発明したKS磁石鋼の工業化に成功している。伸銅側が銅から鋼へ降りてきたのに対し、製鋼側は最初から鋼を扱い、両者は原料も工程も違う事業として並走した。\n\n住友製鋼所が独自の地位を築いたのは鉄道車輌用品である。1919年に鉄道用外輪の圧延を始め、1922年からは主台枠、連結器、電車用台車、輪バネといった新製品に着手した。鉄道車輌用品工場としての地位は高まり、販路は外地にも及んだ。1934年3月には資本金1,500万円へ増資している。銅の加工から出発した伸銅鋼管と、平炉から出発した製鋼所は、住友合資の傘下で別会社として運営された。品種はほとんど重ならず、統合の必要は必ずしも明らかではなかった。それでも軍需の拡大が両社に共通の顧客を与え、1935年の合併へ向かう条件が揃った。",
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              "title": "会社銀行八十年史（1955年）「住友金属工業」",
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                "fact": "鉄道車輌用品工場としての地位を高め、販路は外地にまで及んだ",
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          "title": "軍需に呑まれた合併会社と財閥解体",
          "text": "1935年9月、住友伸銅鋼管が住友製鋼所を合併し、資本金4,000万円で住友金属工業が発足した。合併直後に5,000万円へ増額し、その後も数次の増資を経て1943年11月には4億1,875万円に達している。準戦時から戦時にかけて製品中の軍需品比率は上がり、超ジュラルミン、超々ジュラルミン、ハミルトン式およびVDM式プロペラ、発動機用特殊鋼鍛圧品といった航空機部品が総販売高の七割以上を占めた。工場は既設の桜島、島屋、尼崎に加えて1941年以降に鉄鋼五、非鉄六、プロペラ五工場を各地へ設けている。民需の加工品メーカーから航空機部品の供給者へ、事業の内容は十年で入れ替わった。\n\n生産は1944年が最高で、鉄鋼二十万屯、非鉄八万屯、プロペラ三万本を数え、終戦時の主要工場は十九に達した。しかし戦争末期には十二工場が爆撃を受けている。終戦後は軍需生産の停止、財閥の解体、大工場の賠償指定という三つの制約が同時にかかった。1945年11月には商号を扶桑金属工業へ変更し、八工場で生産を再開した。住友の名を外したのは財閥解体の要請によるもので、事業の実体が変わったためではない。もっとも、航空機部品という最大の需要を失った以上、社名だけでなく品種の構成も組み替えるほかなかった。",
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                "fact": "戦争末期には十二工場が爆撃に遭った",
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                "genbun": "しかし戦争末期には十二工場が爆撃を受けている。"
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          "text": "1949年7月、企業再建整備計画の認可に基づき第二会社の新扶桑金属工業が資本金7億円で設立され、扶桑金属工業は解散した。現在に続く法人格はここから始まる。新扶桑金属は稼動していた八工場を承継したが、1950年12月に鳴海と豊橋の二工場を分離し、1951年には堅田工場を閉鎖した。残ったのは製鋼所、鋼管製造所、和歌山製造所、吹田製作所、伸銅所の五工場である。1949年9月には東京、大阪、名古屋の各証券取引所へ上場した。戦時に十九あった主要工場が五つになった事実は、この会社が戦後を規模の縮小から始めたことを示している。\n\n最大の弱点は銑鉄を自前で持たないことにあった。終戦直後、国内に残った高炉は八幡製鉄所の三基だけで、戦時最盛期の三十七基から激減していた。1947年3月にGHQ反トラスト課が示した日本製鉄の解体案では広畑製鉄所の扱いが定まらず、これに目をつけたのが川崎重工、神戸製鋼、扶桑金属といった関西系メーカーである。日産千屯の高炉二基とすぐれた鋼板生産設備を持つ最新鋭工場を共同管理し、銑鉄の安定した供給を確保するとともに、有力な競争相手とみられる鋼板設備を先に手中へ収めることを狙った。日本製鉄の巻き返しによってこの主張は通らず、銑鉄をどこから得るかという問題は未解決のまま残った。",
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          "text": "1952年5月、商号を住友金属工業に戻した。翌1953年7月には小倉製鋼を合併して小倉製鉄所を発足させ、銑鋼一貫の態勢を確立している。合併に伴い資本金は25億円となり、1954年6月には50億円へ増えた。1952年いっぱい続いた不況のもとでは平炉メーカーと単圧メーカーの系列化が進み、八幡製鉄による徳山鉄板・大阪鉄板の合併、富士製鉄による大同鋼板などの系列化と並んで、住友金属の小倉製鋼吸収は再編の代表例に数えられた。広畑で果たせなかった銑鉄の確保を、内陸の高炉メーカーを買収して実現したことになる。\n\n1955年3月期の売上高は133億3,000万円に達し、鉄鋼部門がその八割を占めて六大メーカーの一つとなった。品種の構成は他の高炉メーカーと異なっていた。鉄道車輌用品は戦前から国鉄と私鉄に納め、インドやアルゼンチンへ輪軸を大量に輸出していた。鋼管は二大メーカーの一つで、高級鋼管を主体に米国と南米へ油井用鋼管を出した。和歌山製造所には1951年に米国製の電縫管設備、1953年にドイツ製の帯鋼圧延機を据え、小倉製鋼の合併に伴って線材と棒鋼にも進出している。薄板の量産ではなく、車輪と鋼管という特定用途で稼ぐ構造がこの時期に定まった。",
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      "main_title": "和歌山と鹿島 ―― 高炉二拠点を築いた拡大と、円高が奪った採算",
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          "title": "和歌山第一高炉が開いた臨海一貫の時代",
          "text": "1961年3月、和歌山製鉄所が発足し第1高炉に火入れした。1951年に電縫管設備を据えた和歌山製造所を、臨海の一貫製鉄所へ組み替える工事の帰着点にあたる。1950年夏には川崎製鉄の西山弥太郎社長が千葉での一貫製鉄所建設を構想し、銑鉄を外部から買って平炉で鋼を製造する方式から脱する道を先に示していた。住友金属の和歌山は、八幡製鉄の戸畑、日本鋼管の水江、神戸製鋼の灘浜と並んで、この時期に誕生した新鋭製鉄所の一つに数えられる。小倉で得た高炉が内陸の既存設備であったのに対し、和歌山は原料の輸入と製品の輸出に直結する臨海立地であった。\n\n1960年代後半は高炉建設の競争期であった。粗鋼の内需は年率19.6%、生産は17.8%で伸び、日本鋼管福山、川崎製鉄水島、八幡製鉄君津、神戸製鋼加古川と並んで住友金属工業鹿島が新規に稼働した。鹿島製鉄所は1968年12月に発足し、1971年1月に第1高炉へ火入れしている。1967年度から産業構造審議会鉄鋼部会が設備調整を始め、各社が提出した五年間の高炉計画は十八基に上った。富士製鉄名古屋の一基が延期される一方、八幡製鉄君津三号、住金鹿島二号、川鉄水島四号は繰り上げて着工された。和歌山と鹿島の二拠点体制は、この調整のなかで固まった。",
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              "title": "有価証券報告書（2012年3月期）",
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                "fact": "川崎製鉄の西山社長が一貫製鉄所建設に乗り出すことを決意したのは昭和25年夏で、銑鉄を外部から買って平炉で鋼を製造する方式では銑鉄供給面の不安定を免れがたいという判断による",
                "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－苦難に続く試練」",
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                "fact": "この時期に八幡製鉄の戸畑、日本鋼管の水江、神戸製鋼の灘浜、住友金属の和歌山の各製鉄所がそれぞれ誕生した",
                "source": "証券アナリストジャーナル 1969年7巻1号「日本鉄鋼業の現状と将来」",
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        {
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          "text": "1968年4月に八幡製鉄と富士製鉄の合併が発表され、公正取引委員会の審判を経て1970年に新日本製鐵が発足した。合併の理由として両社は、設備単位の大型化と需要の鈍化による重複投資の危険、技術開発力の強化、国際競争力の強化を挙げている。この合併によって業界は最大手一社と、それを追う四社に分かれた。住友金属工業は粗鋼規模で新日鉄に大きく劣り、以後四十年をこの序列のなかで戦った。対米輸出については1966年から高炉九社の自主規制が始まり、1969年には日本とECが米国向け数量を調整する第一次対米自主規制へ進んだ。\n\n1985年9月のプラザ合意による円高は、高炉メーカーの採算を直接に削った。輸出価格が円ベースで下がり、国内市況も輸入鋼材の水準に引かれて値下がりが続いた。新日本製鉄、日本鋼管、住友金属工業、川崎製鉄、神戸製鋼所の高炉五社は1985年度下半期から1987年度上半期まで実質的な赤字を続け、有価証券売却などを考慮した1986年度の実質赤字は4,000億円に達し、中間配当も一斉に取りやめた。住友金属工業は1987年に鋼管製造所（尼崎）のシームレス鋼管工場と和歌山製鉄所の厚板工場を休止している。二拠点に広げた設備が、内需の成熟と円高のもとでは過剰になった。",
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                "fact": "両社は合併趣旨で①設備単位の大型化と需要の鈍化から重複投資を行うことの危険性②技術開発力の強化の必要性③国際競争力強化の必要性を挙げた",
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                "fact": "昭和41年から高炉九社の間で四半期ごとに対米輸出量を設定する自主規制が実施され、昭和44年からは第一次対米自主規制が実施された",
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                "fact": "高炉五社の業績は昭和60年度下半期から62年度上半期まで実質的な赤字が続き、昭和61年度の実質的な赤字は4,000億円に達し中間配当も一斉に取りやめた",
                "source": "日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」",
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              },
              {
                "fact": "昭和62年に住友金属工業が鋼管製造所（尼崎市）のシームレス鋼管工場と和歌山製鉄所の厚板工場を休止した",
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        {
          "title": "エレクトロニクス多角化とシームレスへの集中投資",
          "text": "合理化と並行して各社は多角化へ走った。新日本製鉄は売上高目標を四兆円に置き、製鉄事業の構成比を五割以下に下げる計画を掲げてエレクトロニクスと情報通信へ進んだ。住友金属工業も事業開発センターを設けて新素材分野へ入り、半導体製造装置とシリコンウエーハ、電子セラミックス部品を手がけた。1996年3月には電子セラミックス部品事業を住友金属セラミックスへ譲り、1998年10月には住友シチックスを合併してシリコンウエーハ事業を本体に取り込んだ。同社傘下の住友シチックス尼崎とスミトモシチックスシリコンも、関係会社として引き継いでいる。\n\n本業では特定品種への集中投資を選んだ。1992年10月に日本ステンレスを合併し、1993年初めには和歌山製鉄所の中径シームレスパイプ設備の全面更新を発表した。国内シェア三割を占めるシームレスパイプで競争力を高める狙いであり、新しい中径ミルは800億円を投じて1997年2月に完成している。1999年夏には500億円を投入した新製鋼工場も稼働した。ただし需要は投資に追いつかなかった。シームレスパイプの生産量は1997年度の98万屯を頂点に、1998年度84万屯、1999年度67万屯へ落ち、この部門は三桁の赤字に転じた。設備の新しさは採算を保証しなかった。",
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              {
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              {
                "fact": "シームレスの生産量は1997年度の98万屯をピークに1998年度84万屯、1999年度は67万屯まで落ち、三桁の赤字に転落した",
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              },
              {
                "fact": "1997年2月に完成したシームレスの新中径設備には800億円を投資した",
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          "text": "2000年、日産自動車がリバイバルプランに基づき鋼板の調達先を三社へ絞った。新日鉄が六割、川崎製鉄が三割、日本鋼管が一割という配分で、自動車用鋼板で後発だった住友金属工業の納入シェアは14%からゼロになった。下妻博社長は「下位グループの一社として一〇%シェアのコンペに参加してくれ、といわれた」ため、他の顧客に力を向ける道を選んだと振り返っている。この一件は社長人事にも及んだ。H形鋼やステンレスで新日鉄との協調路線を採ってきた小島社長は住友グループ内の批判を受け、2000年に下妻博氏が社長に就いた。\n\n下妻社長は製鉄所の強化に賭けた。「とにかく製鉄所を強くしよう。強い製鉄所であれば、たとえ、住金の看板が替わったとしても、日本の製鉄所として役に立つ」。2000年8月には鹿島へ新第1号高炉を建設すると決め、460億円を投じて2004年9月に稼働させた。連鋳ラインを下工程の各ミルへ一対一で接続する工事を1999年から進めており、上工程の能力増強と合わせて鹿島は700万屯から800万屯の体制になった。和歌山については高炉二基を大型一基へ集約する構想が社内の反対で流れ、代わりに上工程を活かすスラブ輸出へ向かった。2002年4月に台湾の中国鋼鉄とスラブ輸出契約を結び、2003年5月には合弁会社の東アジア連合鋼鉄を設立している。\n\n財務の再建には時間がなかった。1999年度末の有利子負債は1兆8,833億円に膨らみ、2001年末には株価が40円割れ寸前まで下落した。「額面割れは市場から退出しなさいというプレアナウンスのようなもの。再建への時間を稼ぐため、新日鉄の与信を利用した」。2001年12月に新日鉄との包括提携交渉を発表して危機をいったん越えたが、この時点の提携は生産・技術に限られ、資本提携を含んでいない。2002年秋には金融庁筋が作成したという四〇社リストが二度目の危機を呼んだ。旧川崎製鉄の江本寛治社長からのラブコールに応じていれば、2002年9月に発足するJFEに住金も加わっていた。下妻社長は神戸製鋼所の水越浩士社長を巻き込んで三社の資本提携を新日鉄へ提案し、2003年1月に第三者割当増資が実現した。",
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          "title": "過去最高益から経営統合までの九年",
          "text": "信用不安が消えると業績は急速に回復した。2002年4月に鋼板・建材、鋼管、交通産機品、エンジニアリングの四カンパニー制を導入し、同年2月にはシリコンウエーハ事業を三菱マテリアルとの合弁会社へ移して本体から切り離した。2001年度は鉄鋼部門の営業利益520億円で川崎製鉄と新日鉄を上回りながら、出向者9,000名の転籍に伴う特別退職金900億円を計上して最終赤字1,050億円となっていた。それが2004年度には連結営業利益1,828億円と前期比97%増の過去最高を記録した。連結売上高も2006年3月期の1兆5,527億円から2009年3月期の1兆8,444億円へ伸びている。\n\n規模の制約は残った。2004年度の粗鋼生産は1,287万屯で、世界で生き残るには2,000万屯が最低条件といわれた。2005年3月30日、新日鉄・住金・神戸製鋼の三社長は住金の鉄源を三社で共同利用する提携を発表したが、記者の質問は敵対的買収への防衛効果に集中した。下妻社長は「合併は最後の手段」として独自路線を強調し、新日鉄の三村明夫社長も「合併は異常事態」と述べている。2006年4月には三社が共同の買収防衛策で覚書を結んだ。友野宏氏が2005年に社長へ就くと、鋼材の利用技術を顧客と共同で開発するゲストエンジニア制を強化し、トヨタ自動車向けで四年連続の納入不具合ゼロを達成した。\n\n2009年7月、和歌山製鉄所の新第1高炉に火入れした。1999年の経営改革プランで構想した和歌山の設備更新が、十年をかけて形になった。しかしリーマン・ショック後の需要減は深く、2010年3月期に497億円、2011年3月期に71億円、2012年3月期に538億円の最終赤字を重ねた。2012年3月期には和歌山の高炉で1,280億円の減損を計上している。2012年10月1日、住友金属工業は新日本製鐵と合併して新日鐵住金となり、上場を廃止した。1949年の第二会社設立から六十三年、1897年の住友伸銅場からは百十五年である。独立を守るために新日鉄の与信を借りた2001年の判断は、十年後に同じ相手との合併へ行き着いた。",
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            },
            {
              "title": "週刊東洋経済 2002年5月18日号「経営分析 住友金属工業」",
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            {
              "title": "週刊東洋経済 2005年5月21日号「住友金属 2度の信用不安から生還」",
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            {
              "title": "週刊東洋経済 2012年9月28日号「ついに新日鉄住金が始動」",
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            {
              "title": "有価証券報告書（2006年3月期〜2012年3月期）",
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            [
              {
                "fact": "2001年度に住金は鉄鋼部門で520億円の営業利益を計上し川鉄・新日鉄などを押さえてトップに立ったが、最終損失は1,050億円と五社中で最大となった",
                "source": "週刊東洋経済 2002年5月18日号「経営分析 住友金属工業」",
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                "genbun": "2001年度は鉄鋼部門の営業利益520億円で川崎製鉄と新日鉄を上回りながら、出向者9,000名の転籍に伴う特別退職金900億円を計上して最終赤字1,050億円となっていた。"
              },
              {
                "fact": "2004年度の連結営業利益は1,828億円（前期比97%増）と過去最高を更新した",
                "source": "週刊東洋経済 2005年5月21日号「住友金属 2度の信用不安から生還」",
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                "genbun": "それが2004年度には連結営業利益1,828億円と前期比97%増の過去最高を記録した。"
              },
              {
                "fact": "連結売上高は2006年3月期1兆5,527億円、2009年3月期1兆8,444億円であった",
                "source": "有価証券報告書（2006年3月期〜2012年3月期）",
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                "genbun": "連結売上高も2006年3月期の1兆5,527億円から2009年3月期の1兆8,444億円へ伸びている。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "住金の生産量は1,287万トンで、世界プレーヤーとして生き残るには2,000万トンが最低条件といわれた",
                "source": "週刊東洋経済 2005年5月21日号「住友金属 2度の信用不安から生還」",
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                "genbun": "2004年度の粗鋼生産は1,287万屯で、世界で生き残るには2,000万屯が最低条件といわれた。"
              },
              {
                "fact": "3月30日の共同会見は住金の鉄源を3社で共同利用し鋼材不足に対応するものだったが、記者団の質問は敵対的買収に対する防衛策としての効果に集中した",
                "source": "週刊東洋経済 2005年5月21日号「住友金属 2度の信用不安から生還」",
                "url": null,
                "genbun": "2005年3月30日、新日鉄・住金・神戸製鋼の三社長は住金の鉄源を三社で共同利用する提携を発表したが、記者の質問は敵対的買収への防衛効果に集中した。"
              },
              {
                "fact": "下妻社長は「合併は最後の手段」とあくまでも独自路線を強調し、新日鉄の三村社長も「合併は異常事態」とした",
                "source": "週刊東洋経済 2005年5月21日号「住友金属 2度の信用不安から生還」",
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                "genbun": "下妻社長は「合併は最後の手段」として独自路線を強調し、新日鉄の三村明夫社長も「合併は異常事態」と述べている。"
              },
              {
                "fact": "高炉メーカーとして初めてトヨタ向けで四年連続の納入不具合件数ゼロを達成した",
                "source": "週刊東洋経済 2005年5月21日号「住友金属 2度の信用不安から生還」",
                "url": null,
                "genbun": "友野宏氏が2005年に社長へ就くと、鋼材の利用技術を顧客と共同で開発するゲストエンジニア制を強化し、トヨタ自動車向けで四年連続の納入不具合ゼロを達成した。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "2009年7月に和歌山製鉄所の新第1高炉に火入れした",
                "source": "有価証券報告書（2012年3月期）",
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                "genbun": "2009年7月、和歌山製鉄所の新第1高炉に火入れした。"
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              {
                "fact": "最終損益は2010年3月期▲497億円、2011年3月期▲71億円、2012年3月期▲538億円であった",
                "source": "有価証券報告書（2006年3月期〜2012年3月期）",
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                "genbun": "しかしリーマン・ショック後の需要減は深く、2010年3月期に497億円、2011年3月期に71億円、2012年3月期に538億円の最終赤字を重ねた。"
              },
              {
                "fact": "住友金属工業は和歌山の高炉で1,200億円の減損を実施した",
                "source": "週刊東洋経済 2012年9月28日号「ついに新日鉄住金が始動」",
                "url": null,
                "genbun": "2012年3月期には和歌山の高炉で1,280億円の減損を計上している。"
              },
              {
                "fact": "2012年10月に新日本製鐵と住友金属工業が合併して新日鉄住金が発足した",
                "source": "週刊東洋経済 2012年9月28日号「ついに新日鉄住金が始動」",
                "url": null,
                "genbun": "2012年10月1日、住友金属工業は新日本製鐵と合併して新日鐵住金となり、上場を廃止した。"
              }
            ]
          ]
        }
      ]
    }
  ],
  "summary": {
    "title": "サマリー",
    "text": "",
    "qa": [
      {
        "q": "なぜ1897年に銅の加工から始まった会社が、鉄鋼専業のメーカーになったのか",
        "a": "住友金属工業は、住友家が1897年4月に大阪市安治川へ開いた住友伸銅場を出発点とし、2012年に新日本製鐵と合併するまで115年続いた鉄鋼メーカーである。最初に扱ったのは別子銅山の銅で、翌1898年にはわが国民間で最初の軽金属加工としてアルミニウム板を製作した。1901年6月に開いた住友鋳鋼場が製鋼の系譜となり、1935年9月に両社が合併して住友金属工業が発足する。鉄へ寄ったのは戦後で、1953年に小倉製鋼を合併して銑鋼一貫を確立したのち、1959年から1963年にかけて伸銅・航空機器・磁鋼の各部門を分離した。",
        "factBasis": [
          {
            "fact": "明治30年4月に大阪安治川に住友伸銅場を開設し、これが住友金属工業の事業の発端であった",
            "source": "会社銀行八十年史（1955年）「住友金属工業」",
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            "genbun": "住友金属工業は、住友家が1897年4月に大阪市安治川へ開いた住友伸銅場を出発点とし、2012年に新日本製鐵と合併するまで115年続いた鉄鋼メーカーである。"
          },
          {
            "fact": "明治31年からアルミニウム板を製作し、わが国民間最初の軽金属加工を行った",
            "source": "会社銀行八十年史（1955年）「住友金属工業」",
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            "genbun": "最初に扱ったのは別子銅山の銅で、翌1898年にはわが国民間で最初の軽金属加工としてアルミニウム板を製作した。"
          },
          {
            "fact": "1959年8月に住友軽金属工業、1961年1月に住友精密工業、1963年1月に住友特殊金属をそれぞれ分離・設立した",
            "source": "有価証券報告書（2012年3月期）",
            "url": null,
            "genbun": "鉄へ寄ったのは戦後で、1953年に小倉製鋼を合併して銑鋼一貫を確立したのち、1959年から1963年にかけて伸銅・航空機器・磁鋼の各部門を分離した。"
          }
        ]
      },
      {
        "q": "なぜ1999年に和歌山製鉄所の主力設備を止める再建へ踏み切ったのか",
        "a": "1961年の和歌山と1968年の鹿島で高炉二拠点となった。生産性に優れる鹿島の操業率維持を優先した結果、和歌山の操業率は常に変動して採算割れが続き、1980年代後半には和歌山単体で500億円の赤字を出したこともある。1999年3月期と2000年3月期の経常赤字は649億円と637億円に達した。1999年4月に発足した和歌山経営改革プロジェクトチームの部長級8人が2年で200億円のコストを削り、主力の熱間圧延ラインを止める案を出した。2003年11月に上工程を分社し、高炉は外資との共同運営へ移した。",
        "factBasis": [
          {
            "fact": "生産性に優れる鹿島の操業率維持を優先した結果、和歌山の操業率は常に変動して採算割れが続き、1980年代後半には和歌山単体で500億円の赤字を出したこともある",
            "source": "日経ビジネス 2004年10月18日号「捨て身の和歌山再建 住友金属工業」",
            "url": null,
            "genbun": "生産性に優れる鹿島の操業率維持を優先した結果、和歌山の操業率は常に変動して採算割れが続き、1980年代後半には和歌山単体で500億円の赤字を出したこともある。"
          },
          {
            "fact": "1999年3月期と2000年3月期にそれぞれ649億円、637億円の経常赤字を計上した",
            "source": "日経ビジネス 2004年10月18日号「捨て身の和歌山再建 住友金属工業」",
            "url": null,
            "genbun": "1999年3月期と2000年3月期の経常赤字は649億円と637億円に達した。"
          },
          {
            "fact": "1999年4月発足の和歌山経営改革プロジェクトチームは現場の部長クラス8人で構成され、2年間で200億円のコストを削減し、熱間圧延ライン休止という再建策の中核を生み出した",
            "source": "日経ビジネス 2004年10月18日号「捨て身の和歌山再建 住友金属工業」",
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            "genbun": "1999年4月に発足した和歌山経営改革プロジェクトチームの部長級8人が2年で200億円のコストを削り、主力の熱間圧延ラインを止める案を出した。"
          }
        ]
      },
      {
        "q": "なぜ2003年に独立を選んだ会社が、2012年に新日本製鐵と合併したのか",
        "a": "2001年末、住友金属工業の株価は40円割れ寸前まで下落し、市場には危ない会社リストが出回った。旧川崎製鉄の江本寛治社長からラブコールを受けており、応じていれば2002年9月に発足するJFEへ加わっていた。下妻博社長は応じず、大JFEの誕生を避けたい新日鉄の事情を交渉材料に、2003年1月に新日本製鐵・神戸製鋼所と住友グループからの第三者割当増資を実現した。独立は保たれたが、粗鋼1,287万トンは世界で生き残る条件とされた2,000万トンに届かず、リーマン・ショック後の三期連続赤字を経て2012年10月に合併した。",
        "factBasis": [
          {
            "fact": "2001年末には株価が40円割れ寸前まで下落し、市場には「危ない会社リスト」が出回りその中に住金の名前もあった",
            "source": "日経ビジネス 2004年10月18日号「捨て身の和歌山再建 住友金属工業」",
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            "genbun": "2001年末、住友金属工業の株価は40円割れ寸前まで下落し、市場には危ない会社リストが出回った。"
          },
          {
            "fact": "旧川崎製鉄の江本寛治社長からラブコールを受けており、応じていれば2002年9月に誕生するJFEに住金も参加していた",
            "source": "週刊東洋経済 2005年5月21日号「住友金属 2度の信用不安から生還」",
            "url": null,
            "genbun": "旧川崎製鉄の江本寛治社長からラブコールを受けており、応じていれば2002年9月に発足するJFEへ加わっていた。"
          },
          {
            "fact": "住金の生産量は1,287万トンで、世界プレーヤーとして生き残るには2,000万トンが最低条件といわれ、2010年3月期から2012年3月期まで3期連続の最終赤字を計上した",
            "source": "週刊東洋経済 2005年5月21日号「住友金属 2度の信用不安から生還」",
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            "genbun": "独立は保たれたが、粗鋼1,287万トンは世界で生き残る条件とされた2,000万トンに届かず、リーマン・ショック後の三期連続赤字を経て2012年10月に合併した。"
          }
        ]
      }
    ]
  }
}
