{
  "title": "山一證券の歴史概略",
  "sections": [
    {
      "start_year": 1897,
      "end_year": 1945,
      "main_title": "兜町の株式仲買商が屋号を社名に変え、戦時統合で創業家の会社になるまで",
      "subsections": [
        {
          "title": "創業者の名を外し、屋号を社名に据えるまで",
          "text": "山梨県甲府出身の小池国三氏が1897年、東京・兜町で株式仲買商として小池国三商店を開いた。1907年に小池合資会社へ改組し、証券業者としては初めて公社債の引受業務に踏み込んでいる。1917年4月、小池合資会社を解散して山一合資会社を設立し、杉野喜精氏が社長に就いた。「山一」の名はこのとき生まれ、1926年の山一證券株式会社への改組を経て、1998年に営業を停止するまで八十年あまり使われた。会社は4月15日を創業記念日とし、1967年に創業七十周年、1972年に七十五周年を祝っている。\n\n創業から二十年で商号から創業者の名が消えたことには、事業の性質が関わる。株式仲買は個人の信用で客を集める商いだが、公社債の引受は発行者と投資家の間に立って残高を抱える仕事であり、個人商店の身丈では受けきれない。小池国三商店から小池合資会社、そして山一合資会社へと器を替えた十年は、個人の信用を組織の信用に載せ替える作業だった。屋号を社名にしたことで、創業者が退いたあとも同じ看板で商いを続けられるようになった。山一合資会社そのものが、解散した小池合資会社の受け皿として設けられた会社だった。この看板の重さは、のちに二度、経営の判断を左右する。",
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          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "1897年に小池国三が東京・兜町で小池国三商店を創業し、1907年に小池合資会社へ改組して証券業者として初めて公社債引受業務に進出、1917年に山一合資会社を設立、1926年に山一證券株式会社へ改組した",
                "source": "日本大百科全書「山一證券」",
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              {
                "fact": "創業者の小池国三は山梨県甲府出身。1917年設立の山一合資会社の社長は杉野喜精",
                "source": "日本大百科全書「山一證券」",
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              {
                "fact": "会社は創業記念日を4月15日とし、1967年が創業70周年、1972年が75周年にあたった。1975年の連載時点で創業78年",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938568",
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            [
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                "fact": "1917年の山一合資会社は、解散した小池合資会社の受け皿として設立された",
                "source": "日本大百科全書「山一證券」",
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              {
                "fact": "1966年の新旧勘定分離では、日高輝が約80店の看板を替える費用を特融返済に回すべきだと考え、新会社の商号を「山一証券」として伝統ある名称を残した",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938568",
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        {
          "title": "自己売買で社長を失い、戦時統合を迎える",
          "text": "1935年12月、杉野喜精氏が東京株式取引所の理事長に転じ、後任の社長に太田収氏が就いた。杉野氏の社長在任は十八年に及び、山一合資会社の設立から山一證券株式会社への改組までを指揮していた。太田氏は東京帝国大学を出た兜町人として知られ、学歴を備えた新しい型の経営者だった。しかし就任から二年余りのち、自ら指揮した鐘淵紡績の新株買いが暴落によって失敗する。私財を投じても損失は埋まらず、太田氏は1938年5月4日に社長を辞任し、同月28日に青酸カリで自らの命を絶った。野村證券に入った北裏喜一郎氏は、入社まもなく太田収氏の伝記を手渡された記憶を書き残している。\n\nこの一件を、相場を読み違えた個人の失敗として片づけることはできる。だが同じことが起きる条件は、当時の証券会社の作りのなかにあった。顧客の注文を取り次ぐ業務と、自社の資金で建玉を持つ業務と、新株の発行を引き受ける業務が一つの会社に同居しており、しかも社長がその自己売買を自ら指揮できた。損が出たときに損を抱えるのは会社であり、判断を止める者は社内にいない。顧客の損を自社で引き取る取引も、自社の建玉を顧客に持たせる取引も、同じ同居の上に成り立つ。会社が自らの売買で傾く危うさを、山一證券は戦前のうちに一度経験している。\n\n1943年9月、山一證券は小池証券と合併し、新たな山一證券株式会社として発足した。小池証券は創業者小池国三氏が1930年に興した小池銀行を改組した会社であり、この合併によって創業家の二つの事業が一つになった。社長には国三氏の子である小池厚之助氏が就いている。戦時下の金融統合のなかで進んだ再編だが、結果として創業家が経営を握る体制が固まり、その体制は戦後の証券ブームを通じて1954年まで続き、後任の社長には大神一氏が就いた。小池厚之助氏は社長を退いたのちも会長、相談役、顧問として社内にとどまり、1965年の危機に際して退任している。",
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          "factBasis": [
            [
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                "fact": "1935年12月に杉野喜精が東京株式取引所理事長へ転じ、後任の社長に太田収が就任した。杉野の社長在任は1917年から1935年12月まで",
                "source": "日本大百科全書「山一證券」",
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              {
                "fact": "太田収は東京帝国大学卒で、学歴を備えた兜町人として知られた。1938年5月4日に鐘淵紡績新株の投機失敗の責任をとって社長を辞任し、同月28日に青酸カリで自殺した",
                "source": "日本大百科全書「山一證券」",
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                "fact": "太田収は東大卒の兜町人として有名で山一証券の社長であったが、仕手戦に敗れて自殺した。北裏喜一郎は野村證券入社まもなく太田収の伝記を手渡された",
                "source": "私の履歴書 北裏喜一郎（日本経済新聞連載）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11941194",
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                "fact": "当時の証券会社は顧客の注文の取次、自社資金による自己売買、新株の引受を一社で兼ね、社長が自己売買を自ら指揮できた（太田収が自ら鐘紡株の思惑買いを進めた事実から）",
                "source": "日本大百科全書「山一證券」",
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                "fact": "1943年9月、山一證券は小池証券と合併して新・山一證券株式会社が発足した。小池証券は創業者小池国三の小池銀行（1930年創業）が改組した会社である",
                "source": "日本大百科全書「山一證券」",
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                "fact": "1943年9月の合併で小池国三の子である小池厚之助が社長に就き、1954年に大神一へ交代した",
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                "fact": "小池厚之助は社長退任後も会長・相談役・顧問として在社し、1965年の日銀特融に際して大神一会長とともに退任に追い込まれた",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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        }
      ]
    },
    {
      "start_year": 1946,
      "end_year": 1969,
      "main_title": "預かった資金が解約に転じ、日本銀行法二十五条が初めて発動されるまで",
      "subsections": [
        {
          "title": "投資信託で預かり資産を抱えた戦後",
          "text": "戦後の証券業再開のあと、山一證券は1951年に投資信託業務へ進出した。個人から資金を預かって運用し、報酬を受け取る事業であり、株式の売買を取り次ぐ従来の商いとは収益の出方が違う。取次の収入は注文が来た日に確定するが、運用の収入は預かった残高に比例して積み上がる。支店網も広がり、1952年に四十七店、1962年には百十二店へ増えた。四大証券と呼ばれる野村・大和・日興・山一の一角として、預かり資産の規模が会社の格を示す時代に入った。のちに問題の中心になる運用預かりも、この延長線上にある。\n\n預かる事業には、取り次ぐ事業には無い弱みがある。取次であれば、注文が減っても手数料が減るだけで済む。預かりでは、顧客が不安を覚えれば解約が始まり、預かった資金を返すための現金がその日のうちに必要になる。日高輝氏はのちにこう書いている。製造業であれば赤字が出れば資金の流れがすぐ回らなくなるから注意信号に気づくが、証券業では資金が絶えず回り続けるため、気づいたときには赤信号になっている。1965年に起きたことも1997年に起きたことも、この弱みが表に出た事態だった。解約に応じる現金は、収益とは別の場所から用意しなければならない。",
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          "factBasis": [
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              {
                "fact": "山一證券は1951年に投資信託業務へ進出した。支店は1952年に47店、1962年に112店へ増えた",
                "source": "日本大百科全書「山一證券」",
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              {
                "fact": "山一は野村・大和・日興と並ぶ四大証券の一角で、運用預かりと投資信託が主力の一つだった",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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            [
              {
                "fact": "日高輝は、赤字が企業の財務体質を悪化させるのは同じでも、製造業ならカネの流れがすぐ回らなくなるから注意信号に気づくが、証券界ではカネの流れが絶えず回り続けるため気づいたときには赤信号であると書いている",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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        {
          "title": "主力銀行が外から送り込んだ社長と、五月二十一日の会見",
          "text": "1964年9月期、山一證券は約三十四億五千万円の赤字を計上した。株式市場は低迷し、日本共同証券によるダウ平均千二百円の防衛が連日続けられていた。同年十月、日本興業銀行の中山素平氏が、日産化学工業の社長だった日高輝氏を赤坂の料亭に呼び、山一の支援を持ちかける。日高氏は一度断ったが、富士銀行の岩佐凱実氏、三菱銀行の宇佐美洵氏、そして小池厚之助氏と同郷の先輩にあたる小林中氏から相次いで説得され、11月24日の株主総会で取締役に選任された。財務の実態は、就任前に誰からも知らされていない。\n\n日高氏は大森治氏を長とする健全化委員会を置き、各部署から現状を集めた。打ち手は二つに絞られた。主力三行に銀行借入金の元利のタナ上げを認めてもらうことと、国内外の支店網を縮めることである。前者は銀行との折衝で片がつくが、後者は顧客に会社の窮状を悟らせる危険を伴う。地方支店の閉鎖は世間の目を集めないよう、1965年7月初めの参議院選挙の投票日に作業を終える日程で組まれた。支店長会議は地域ごとに開かれ、自分の店を閉じるべきだと申し出る支店長もいた。店舗が自社の持ち家であれば、貸家の札を斜めに張り出す覚悟が要る。\n\nその計画は、地方紙から漏れた。1965年5月21日未明、日高氏は中山素平氏の電話で起こされる。宮崎支店の閉鎖を経営の行き詰まりと結びつける記事を西日本新聞が朝刊に載せ、時事通信もこれを配信するという知らせだった。同日午後1時半、丸の内の銀行倶楽部で富士・三菱・興銀の三行と共同の記者会見が開かれ、再建策が公表された。「山一がつぶれるようなことはありません」と訴える会見だったが、経営の苦しさを世に示す会見でもあった。翌週の5月28日には、手当てした約三十億円が一日で引き出された。",
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          "factBasis": [
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              {
                "fact": "日高輝らが取締役に選任される直前期（1964年9月期）の山一の決算は約34億5000万円の赤字だった",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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              {
                "fact": "1964年10月、興銀の中山素平が赤坂の料亭で日高輝に山一支援を持ちかけた。日高は当時日産化学工業の社長で一度断ったが、富士銀行の岩佐凱実、三菱銀行の宇佐美洵、小林中の説得を受け、1964年11月24日の株主総会で取締役に選任された",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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                "fact": "山一の財務内容の実態は、就任前に誰からも日高輝に説明されなかった。小林中は証券業界の最高顧問で、小池厚之助の同郷の先輩だった",
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                "fact": "日高輝は大森治を長とする健全化委員会を組織して各部署の現状を把握し、銀行借入金の元利のタナ上げと国内外の支店網の縮減という二正面作戦を採った",
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                "fact": "地方支店の整理は世間の耳目を集めないよう、1965年7月初めの参議院選挙の投票日に作業を終える日程で組まれた。地域別の支店長会議では自店の閉鎖を具申する支店長もおり、持ち家店舗では貸家札を張り出す覚悟が要った",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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            [
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                "fact": "1965年5月21日未明、中山素平からの電話で、宮崎支店閉鎖を山一の行き詰まりと関連づける記事を西日本新聞が朝刊に載せ、時事通信も時事ファックスで流すと知らされた",
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                "fact": "同日午後1時半、丸の内の銀行倶楽部で富士・三菱・興銀の3行と共同記者会見が開かれ、再建策が発表された。岩佐凱実・中山素平両頭取と三菱銀行の中村俊男副頭取が列席した",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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                "fact": "会見を契機に運用預かりや投資信託の解約が増え、1965年5月28日には四苦八苦の末に手当てした30億円前後が一日で引き出された",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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        {
          "title": "日本銀行法二十五条と、看板を残した新旧分離",
          "text": "1965年5月28日の夜、大蔵省・日本銀行・主力三行のトップが日銀の氷川寮に集まった。会議は午後八時に始まって深夜に及び、最後の判断は田中角栄蔵相が下したと日高氏は伝え聞いている。決まったのは日本銀行法第二十五条による特別融資であり、無担保・無制限のこの条項が発動されたのは初めてだった。記者発表は深夜、日銀総裁の宇佐美洵氏の私邸で行われた。融資は6月7日から7月28日までに八回、合計二百八十二億円に達した。翌朝、日高氏は管理職以上を講堂に集め、事業会社の倒産が見過ごされるのに山一に異例の措置が取られるのは信用機関が事業会社と同じ土俵で論じられないからだと説き、批判は自分が引き受けると告げたという。その夏のボーナスは管理職全員が申し合わせて返上した。\n\n返済の枠組みには、戦後の金融機関再建整備で使われた新旧勘定分離が採られた。1966年7月7日に新会社を設立し、9月1日に営業を譲り受ける。債務は旧会社「株式会社山一」に残し、新会社「山一證券」が稼いだ利益を旧会社へ渡して返済に充てる仕組みで、証券取引法改正による大蔵大臣免許の第一号を取得した。新会社は募集設立とし、一口五千万円と三千万円で出資を募って百二十億円余の申し込みを集め、払込資本金九十億円・株主八十五で発足した。社名を変えるべきだという意見もあったが、日高氏は八十店の看板を替える費用を返済に回すべきだと考え、伝統ある名称を残している。計算上は完済まで十八年八か月を要した。\n\n実際には四年余りで終わった。株式市場の回復に加え、日本証券保有組合の解散にともなう還付金六十七億三千万円が入り、これが返済額の約三割を占めた。大阪北浜に確保していた自社用地は野村證券へ売却して返済に充てている。1969年9月30日に特融を完済し、10月1日に新旧両社が合併して本来の山一證券に戻った。実質四割の減資を伴うため、日高氏は反対する株主全員の了解を求めたという。1970年9月期には三円・年六分の復配にこぎつけた。なお、この特融は当時「無担保」「無利息」と非難されたが、完済までに日歩一・六八銭から一・八八銭で総額六十一億七千万円余の利息が支払われ、担保も提供されている。",
          "references": [],
          "factBasis": [
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              {
                "fact": "1965年5月28日夜、日銀氷川寮で大蔵省・日銀・主力3行のトップ会談が午後8時から深夜まで開かれ、最後の断は田中角栄蔵相が下したと日高輝は伝え聞いている",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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              {
                "fact": "1965年5月28日の夜、大蔵省・日銀が主力銀行首脳を日銀氷川寮に集めて対策を協議し、田中角栄蔵相の決断で日銀法二十五条による無担保・無制限の特別融資が決まった。発表文は関係主要銀行を通じて日銀が特別融資を行うとし、さしあたり山一証券については主要三行が融資を行うとした",
                "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823",
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              {
                "fact": "日本銀行法第25条による無担保・無制限の特別融資が史上初めて発動され、記者発表は深更に宇佐美洵日銀総裁邸で行われた。融資は1965年6月7日から7月28日までに8回、282億円に達した",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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              {
                "fact": "日高輝は翌朝に管理職以上を講堂へ集め、事業会社の倒産が見過ごされるのに山一に異例の措置が取られるのは信用機関が同じ土俵で論じられないからだと説き、批判は一切自分が受けると力説した。その夏のボーナスは管理職全員が申し合わせて返上した",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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                "fact": "戦後の金融緊急措置令施行規則改正と金融機関経理応急措置法の新旧勘定分離に倣い、1966年7月7日に新会社を設立、同年9月1日に営業譲渡を行い、証券取引法改正による大蔵大臣免許の第1号を取得した",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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                "fact": "新会社は募集設立で一口5000万円と3000万円で出資を募り、申込額は120億円余に達した。資本金は払込済90億円、株主数は系列にとらわれない85だった",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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                "fact": "新会社の商号を変えるべきだという意見もあったが、日高輝は全国約80店舗の社名看板を変える資金を特融の返済に振り向けるべきだと考え、新会社を「山一証券」、旧会社を「株式会社山一」とした。当初の計算では完済に18年8か月を要した",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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                "fact": "日本証券保有組合の解散（1969年1月）に伴う還付金67億3000万円を受け入れ、特融返済額の約30%を占めた。大阪北浜の自社用地は野村証券へ売却して返済に充てた",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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                "fact": "1969年9月30日に日銀特融を完済し、10月1日に新旧両社が合併して現在の山一証券が新生した。実質4割の減資を伴うため反対する株主全員の了解を求め、1970年9月期に3円・年6分の復配へこぎつけた",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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                "fact": "特融の完済までに日歩1.68銭から1.88銭で総額約61億7000万円の利息を支払い、担保も提供した。当時は「無利息」「無担保」と非難された",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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    {
      "start_year": 1970,
      "end_year": 1991,
      "main_title": "現場に基盤を持つ系統が経営から外れ、預かった資金に利回りを約束した二十二年",
      "subsections": [
        {
          "title": "再上場が残したもの、企画部門が育った土壌",
          "text": "再建を終えた会社は、市場に戻る手順を踏んだ。新旧分離の際に自ら上場を廃止していた株式を1973年4月に東京証券取引所第二部へ再上場し、1974年2月に第一部へ指定替えした。1972年には創業七十五周年を迎え、普通配当五円と記念株式配当一円を実施している。同年5月、日高輝氏は会長に退き、証券不況以来ともに再建に当たった植谷久三氏が社長に就いた。植谷氏の下では1973年9月に公開増資を行い、自己資本を厚くしたうえでの指定替えだった。日高氏は翌1973年12月、野村證券の瀬川美能留氏を継いで日本証券業協会の会長にも選ばれた。\n\n四年での完済は誇るに足る成果だが、その成果の作り方が会社に残したものがある。再建の要は大蔵省・日本銀行・主力三行との折衝であり、それを担うのは企画部門だった。のちに一社員は、山一は企画畑が代々社長になり大蔵省のほうばかり向いた経営をしてきたと書いている。危機を切り抜けた経験が、対外折衝に長けた系統を経営の本流に据えたと見ることができよう。同じ強みが制約に転じるとすれば、それは現場の判断が経営に届かなくなるときである。日高氏自身も興銀で証券部長を務めた対外折衝の人であり、危機下での適任がそのまま後継の型になった。",
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                "fact": "新旧分離の際に自ら上場を廃止した株式を1973年4月に東証第二部へ約7年ぶりに再上場し、1974年2月に第一部へ指定替えとなった。1972年の創業75周年には普通配当5円と記念株式配当1円を実施した",
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                "fact": "1972年5月に日高輝が会長へ退き、証券不況以来ともに再建に当たった植谷久三が社長に就いた。植谷社長の下で1973年9月に公開増資を行った",
                "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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                "fact": "日高輝は1973年12月、瀬川美能留（野村証券）を継いで日本証券業協会の会長に互選された",
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                "fact": "山一の社員は、無責任に上空を飛ぶアホウドリのような大蔵省の顔色ばかりうかがい、企画畑（ＭＯＦ担）の社長が続いたと破綻直後に書き残している",
                "source": "週刊東洋経済1997年12月13日号「いま泣いている暇はない 内側から見た山一証券の崩壊」",
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                "fact": "山一は企画畑が代々社長になり、大蔵のほうばかり向いた経営をしてきたと関係者が証言している",
                "source": "週刊東洋経済1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」",
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        {
          "title": "後継人事の抗争で現場の系統が消えた",
          "text": "1980年12月に横田良男氏が社長に就いた。1986年、山一證券が引き受けた三菱重工業の転換社債を不適切な先へ配分したことが社会問題となり、引受を担当していた行平次雄氏専務は役員を外れ、ロンドンの山一インターナショナルへ移った。世間はこれを将来の社長候補を一時退避させる人事と見たが、実際には行平氏の追い落としを図る動きだったとされる。横田社長は、営業企画の長かった吉田允昭氏の系統に乗っていた。吉田氏は昭和三十五年入社組の先頭を走り、現場の掌握では抜きん出ていたが、上層の受けは良くなかったという。\n\n構想では横田氏の次は当時の副社長だったが、これを知った植谷久三会長が激怒し、行平氏をロンドンから呼び戻して社長に据える当初の計画へ引き戻した。1987年、その副社長は鬱状態のなかで自殺し、現場に人望のあった吉田允昭氏は退任した。行平氏は1988年9月に社長へ就いている。横田氏は後年、親しい元部下に「あの成田副社長が自殺した時が転機だった」と語ったという。社内では、吉田氏が植谷氏という虎の尻尾を踏んだと言われた。1986年に役員を外れた人物が、二年後には社長の座に就いたことになる。\n\n抗争が去ったあとに残ったのは、人の入れ替えにとどまらない変化だった。吉田氏が基盤としていたのは組合人脈と呼ばれる系統で、同期のなかで人望を集めた者が組合の委員長や書記長を務め、そこから経営者が育つ回路になっていた。この回路は行平氏と三木氏の体制の下で軒並み社外へ出された。反対する者を現場に放逐し、現場には数字だけを上げさせる体制ができ、経営と現場をつなぐ管を細らせた。誰が社長であっても、この作りでは同じ帰結に向かったと考えられる。専門家の流出も続き、金利スワップやデリバティブの技術者が仕事が無くなったという理由で辞めた。",
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                "source": "週刊東洋経済1997年8月23日号「山一証券危機の構図＜緊急匿名座談会＞ＯＢ・現役が本音を語る」",
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        {
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          "text": "吉田允昭氏の退任のあと、営業特金が野放図に膨らんだ。社内では担当者の名から永田ファンドと呼ばれた。企業に転換社債やワラント債を発行させ、その手取り金を預かって運用する取引で、山一證券は「何パーセントで回します」と利回りを約束した。証券会社が元本と利回りを保証するこの約束は握りと呼ばれた。動機は自社の運用力への自信ではなく、他の三社から預かり資産で離されないことにあった。相場が崩れて約束の利回りが出なくなると、含み損の処理を先へ送る飛ばしが始まる。社内にうるさい者がいなくなったため、取引は歯止めなく広がった。\n\n飛ばしは、決算期の違う会社の間で含み損のある有価証券を動かす手法である。三月決算のＡ社が抱える含み損付きの株式を、六月決算のＢ社が簿価のまま買い取る。Ｂ社は帳簿を貸すだけなので、調達コストに一、二%を上乗せした利回りを証券会社に保証してもらい、決算期が近づけば元本と利回りを乗せた価格で証券会社が買い戻して別の会社へ移す。どの会社の決算期末にも含み損が存在しない形が作れる。損は消えず、決算書から消えるだけであり、全体として見れば粉飾決算にあたる。帳簿を貸す側に残るのは、帳簿汚し料と呼ばれた利益だけである。\n\n1991年、証券業界を揺るがす損失補填問題が表に出た。山一證券は六十四法人と二個人に対し、総額四百五十六億円の損失補填を行っていた。最大の補填先は阪和興業グループだった。同年9月4日、行平次雄社長は参議院の特別委員会で証人喚問を受け、野村・日興の社長が辞任するなかで社長の職にとどまる理由を質された。失った信頼を取り戻す筋道をつけるまで努力を続けたい、と行平氏は答えた。損失をすべて表に出すよう進言した副社長がいたが、その副社長は関係会社へ移されたという。ここで損失をすべて表に出さなかったことが、帳簿の外へ移す道を開いた。",
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                "source": "週刊東洋経済1997年8月23日号「山一証券危機の構図＜緊急匿名座談会＞ＯＢ・現役が本音を語る」",
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                "fact": "Ｎファンドの動機は他の三社から離されないためで、社内にうるさい者がいなくなったためやり放題となり、自主性はゼロで体力を考えずに安易な道を選んだとされる。相場が崩れて約束の利回りが出ないと飛ばしに走った",
                "source": "週刊東洋経済1997年8月23日号「山一証券危機の構図＜緊急匿名座談会＞ＯＢ・現役が本音を語る」",
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              {
                "fact": "飛ばしは決算期の違う会社の間で期中だけ含み損のある有価証券を持たせ、決算期末には存在しないように損失を移す手法で、企業会計上は健全といえず全体として見れば粉飾決算である",
                "source": "週刊東洋経済1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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                "source": "週刊東洋経済1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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              {
                "fact": "1991年に明らかになった損失補填問題で、山一証券は64法人と2個人に対し総額456億円の損失補填を行っており、最大の補填先は阪和興業グループだった",
                "source": "週刊東洋経済1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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                "fact": "1991年9月4日の参議院特別委員会で行平社長は、野村と日興の社長が辞任しているのに社長職にとどまる理由を問われ、失った信頼を取り戻す筋道をつけ、その状況を見極めるまで努力を続けようと思ったと答えた",
                "source": "週刊東洋経済1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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                "fact": "損失をすべて表に出したほうがよいと進言した副社長がいたが、その副社長は関係会社へ飛ばされたと山一元役員が証言している",
                "source": "週刊東洋経済1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」",
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    {
      "start_year": 1991,
      "end_year": 2005,
      "main_title": "帳簿の外に置いた含み損が二千六百億円になり、百一年で幕を引くまで",
      "subsections": [
        {
          "title": "決算期の外へ移し、やがて帳簿の外へ出す",
          "text": "1991年12月20日、含み損を会社の外へ移す仕組みが動き出した。山一證券はクレディ・スイス信託銀行に開いた特定金銭信託口座で約二千億円の国債を購入し、これを山一エンタープライズの子会社五社に貸し付けて資金を作る。五社は帳簿を持つだけのペーパーカンパニーであり、その口座を通じて顧客が抱える含み損付きの有価証券を時価を上回る価格で買い取った。五社は連結の対象外にあり、外から損失の所在を追うことができない。飛ばしが決算期の外への移動なら、これは帳簿の外への移動である。大蔵省はこの仕組みの存在を1991年当時から把握していたとされる。\n\n1992年3月18日、阪和興業の社長室で秘密の会談が開かれた。山一側は行平次雄社長ほか四名、阪和興業側は北茂社長ほか五名が出席している。山一が委託を受けていた運用金額は同年1月末で約一千六百六十八億円、実損二百五十六億円と評価損八百三十七億円を合わせて一千九十三億円の損失が出ていた。改正証券取引法の下で損失補填は禁じられていたため、ワラント債の引受と行使によるファイナンス協力によって返すことが約束された。1992年9月末までに、ワラント債の引受によって約百八十九億円が補填に充てられた。会談の模様は阪和興業側が録音していたという。\n\n海外にも同じ仕組みが置かれた。のちに公表された簿外債務二千六百四十八億円のうち、一千五百八十三億円が国内、一千六十五億円が海外で発生しており、海外分は山一オーストラリアに集まっていた。メキシコ債や利息のみを受け取る住宅ローン担保証券が中心で、為替差損も重なった。この処理の全体を知る者は、監査役の木下公明氏と企画担当常務の藤橋忍氏らごく一部に限られていた。決算では1992年3月期に1964年以来の赤字を計上し、1995年3月期は五百六億円、1997年3月期は一千六百四十七億六千三百万円の当期損失を出している。",
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          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "1991年12月20日、クレディ・スイス信託銀行に開設した特金口座を通じて購入した国債約2000億円を山一エンタープライズの子会社5社（ペーパーカンパニー）に貸し付けて資金調達し、その5口座を通じて含み損のある有価証券を顧客から買い取るスキームが実行された",
                "source": "週刊東洋経済1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
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                "fact": "海外の子会社やケイマンなどタックスヘイブンの特別目的会社を使うと不正取引は極めて発覚しにくくなるとされ、連結対象外の関係会社を使った飛ばしも行われた",
                "source": "週刊東洋経済1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
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                "fact": "大蔵省は損失補填問題が発覚した1991年当時から飛ばしの存在を知っており、改正証券取引法下でも知りながら知らないふりをしてきただけだと山一関係者は述べている",
                "source": "週刊東洋経済1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
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                "fact": "1992年3月18日、阪和興業の社長室で秘密会談が開かれ、山一側は行平社長・延命副社長・礒取締役・西沢事業法人部長、阪和興業側は北茂社長以下5名が出席した。会談の模様は阪和興業関係者が録音していたという",
                "source": "週刊東洋経済1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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                "fact": "山一が委託を受けていた運用金額は1992年1月末で約1668億円、うち実損256億円・評価損837億円の合計1093億円の損失が発生していた",
                "source": "週刊東洋経済1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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                "fact": "営業特金として処理していたため改正証券取引法下では損失補填ができず、ワラント行使などのファイナンス協力で返済することが確約され、1992年9月30日現在でワラント債引受により約189億円の損失補填が確認された",
                "source": "週刊東洋経済1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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                "fact": "記者会見で判明した簿外損失2648億円のうち1583億円が国内、1065億円が海外で発生し、海外の簿外含み損は山一オーストラリアに溜まっていた。メキシコ債やＩＯモーゲージといったジャンク債が中心で為替差損も重なった",
                "source": "週刊東洋経済1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
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                "source": "週刊東洋経済1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
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                "source": "日本大百科全書「山一證券」",
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        },
        {
          "title": "大蔵省が廃業を選ばせた十一月の一週間",
          "text": "1997年3月、専務以下十一人の役員が退く異例の人事が発表された。飛ばしの処理に深く関わった役員は残り、関与の薄い役員が退いたとされ、社内には大きな隠し事があるという見方が広がった。同年8月、総会屋の小池隆一氏への利益供与をめぐって強制捜査を受け、8月11日に行平次雄会長・三木淳夫社長ら十一人が退任し、野澤正平氏が社長に就いた。行平氏は顧問として社内に残っている。野澤氏が簿外債務の存在を知らされたのは、就任二週間後の8月25日だった。報告したのは、退任したばかりの行平次雄氏と三木淳夫氏である。\n\n野澤氏は嘉本隆正常務に社内調査を命じたが、隠蔽に関わった幹部の協力が得られず実態はつかめない。10月6日、判明していた簿外損失約二千六百億円をメインバンクの富士銀行へ口頭で報告した。大蔵省への報告より先である。10月中旬以降、山一株は出来高を急増させながら急落した。11月3日に三洋証券が会社更生法の適用を申請し、17日には北海道拓殖銀行が破綻する。19日午前11時30分、長野厖士証券局長は「検討した結果は自主廃業を選択してもらいたい」「こんな信用のない会社に免許を与えることはできない」と告げ、野澤氏は「局長、なんとか助けて下さい」と頭を下げた。\n\n翌20日、会社は弁護士を東京地裁へ送って会社更生の事前相談を求めたが受け付けられず、裁判官から非公式に大蔵省の強い協力がないと難しいという見解を伝えられた。同日、長野局長は24日に大蔵省から発表するので準備をせよと求め、これらのことは内閣の判断であると述べている。21日金曜の夕方にムーディーズが格下げを発表し、22日の日本経済新聞が自主廃業をスクープした。24日午前6時の臨時取締役会で営業停止を決議し、午前11時30分、東京証券取引所で野澤氏は男泣きしながら「社員は悪くありません」と訴えた。株価は百二円で終わった。",
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                "fact": "1997年3月18日、専務を筆頭に常務・取締役ら合計11人の役員が退任する異例の人事が発表され、飛ばしの秘密処理に深くかかわった役員は残され、飛ばしを知らないか反体制的な役員が退任させられた",
                "source": "週刊東洋経済1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」",
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                "source": "週刊東洋経済1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」",
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                "fact": "野澤正平が簿外含み損の存在を知ったのは社長就任2週間後の1997年8月25日で、行平次雄前会長と三木淳夫前社長から報告を受けた",
                "source": "週刊東洋経済1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
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                "fact": "特命を受けた業務監理担当の嘉本隆正常務が中心となって社内調査を始めたが、実態把握は関わった幹部らの協力が得られず難航した",
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                "source": "週刊東洋経済1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
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                "source": "週刊東洋経済1997年12月13日号「いま泣いている暇はない 内側から見た山一証券の崩壊」",
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                "source": "山一證券社内調査委員会 簿外債務の調査報告書（1998年4月16日公表）",
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                "fact": "1997年11月24日、三塚大蔵大臣の記者会見と野澤社長の男泣きの会見が行われ、山一株の週末の株価は102円だった。判明した損失予想額は約3300億円で、簿外債務2648億円・保有有価証券の含み損約300億円・関係会社貸付金の損失約200億円・10月以降の赤字約100億円で構成された",
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        {
          "title": "債務超過ではない会社が消え、報告書だけが残った",
          "text": "廃業の手続きには説明のつかない点が残る。山一證券は債務超過ではなく、1998年3月末の時点でもそうだった。本来、債務超過の証券会社に自主廃業は認められず日銀特融も使えないし、刑事事件になった場合も特融は実施できない。その両方の可能性を抱えたまま、大蔵省は自主廃業という手順を取らせた。長野局長は報告書公表後の取材に、橋本龍太郎首相と三塚博蔵相の指示があったと述べ、核心については国家機密に関することだと答えている。市場が引導を渡したというより、行政の判断として下りてきたと見るほかない。\n\n1998年3月31日、山一證券は全社員を解雇して営業を停止した。創業から百一年である。顧客資産の払い戻しには大蔵省主導の特別な金融措置が採られた。4月16日、社内調査委員会が簿外債務の調査報告書を公表する。嘉本隆正氏を委員長に弁護士を加えた九人が約四か月をかけ、百人を超える関係者から聴取したもので、「自ら行った事実認定を示さず単に抽象的な“反省”の言葉を並べただけの報告書であってはならない」と冒頭に記した。日本経済新聞は同報告書を「歴史的資料として日本の企業史に残る」と紹介している。嘉本氏は聴取を振り返り、誰も自分の責任とは言わないので「じゃあ、山一の消滅は自然現象なのか」と怒鳴ったことがあると述べた。\n\n会社の後始末は長く続いた。1998年7月の株主総会は怒号のなかで五時間に及び、解散の決議にも至らない。1999年6月2日に破産宣告を受け、日本銀行の特別融資は初めて焦げ付いた。破産手続が終了したのは2005年1月26日の債権者集会で、営業停止から法人の消滅までに七年を要した。二度の危機は驚くほど似た形で始まっている。どちらも預かった資金に生じた含み損が原因であり、どちらも解約と資金繰りが会社を追い詰め、どちらも大蔵省と日本銀行と主力銀行の判断が結末を決めた。違いは一点にある。1965年に出すべき数字は帳簿の上にあり、赤字も債務も外から見えた。ゆえに外から来た経営者が、看板を残したまま債務と営業を切り分ける手を打てた。1997年の数字は帳簿の外にあり、社内でも数人しか全体を知らなかった。",
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              {
                "fact": "市場が引導を渡したと市場関係者はいうが、実質債務超過だった拓銀とは違い山一は債務超過ではなく、1998年3月末でも債務超過になっていないと関係者が述べている",
                "source": "週刊東洋経済1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」",
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                "fact": "本来、債務超過の証券会社には自主廃業が認められず日銀特融も使えない。刑事事件の場合も日銀特融は実施できないが、その両方の可能性がありながら大蔵省は自主廃業という手順を強制した",
                "source": "週刊東洋経済1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
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              {
                "fact": "長野厖士証券局長は報告書発表後のNHKインタビューで「橋本首相や三塚大蔵大臣（当時）の指示があった」と答え、週刊東洋経済の取材には「国家機密に関することなので」と核心に触れるのを避けた",
                "source": "週刊東洋経済1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」",
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              {
                "fact": "山一証券は1998年3月31日をもって全社員を解雇し、すべての営業を停止して101年の歴史に幕を下ろした。顧客資産の払い戻し資金については大蔵省主導で特別の金融措置がとられた",
                "source": "週刊東洋経済1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」",
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                "fact": "1998年4月16日に公表された調査報告書は、弁護士を加えた9人の社内調査委員会が昨年12月下旬から4か月近くをかけて作成し、聴取した関係者は100人を超えた。委員長は嘉本隆正常務",
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              },
              {
                "fact": "報告書は「自ら行った事実認定を示さず単に抽象的な“反省”の言葉を並べただけの報告書であってはならない」と記し、日本経済新聞は「歴史的資料として日本の企業史に残る」と評した。嘉本委員長は誰も自分の責任とは言わないので「じゃあ、山一の消滅は自然現象なのか！」と怒鳴ったことがあると述べた",
                "source": "週刊東洋経済1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」",
                "url": null,
                "genbun": ""
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1998年7月の株主総会は怒号が飛ぶなか5時間に及んだが、解散決議には至らなかった",
                "source": "週刊東洋経済1998年7月11日号「山一証券 最後まで逃げた現経営陣」",
                "url": null,
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              },
              {
                "fact": "自己破産すら容易でない山一証券の最終処理が前代未聞の作業となり、日銀特融の初の焦げ付きも生じる見通しとなった。破産宣告は1999年6月2日",
                "source": "週刊東洋経済1999年5月22日号「前代未聞 自己破産すら容易でない山一証券の最終処理」",
                "url": null,
                "genbun": ""
              },
              {
                "fact": "破産手続は2005年1月26日の債権者集会で終了し、2005年2月に破産手続終結登記が完了した",
                "source": "日本大百科全書「山一證券」",
                "url": null,
                "genbun": ""
              }
            ]
          ]
        }
      ]
    }
  ],
  "summary": {
    "title": "サマリー",
    "text": "",
    "qa": [
      {
        "q": "なぜ1897年に小池国三氏が開いた個人商店は、二十年で創業者の名を社名から外したのか",
        "a": "扱う仕事が個人の信用で足りる範囲を超えたためである。株式仲買は個人の信用で客を集める商いだが、1907年に小池合資会社へ改組して踏み込んだ公社債の引受は、発行者と投資家の間に立って残高を抱える仕事であり、個人商店の身丈では受けきれない。1917年4月に小池合資会社を解散して山一合資会社を設立し、杉野喜精氏が社長に就いた。屋号を社名にしたことで、創業者が退いたあとも同じ看板で商いを続けられるようになった。この看板の重さは、1966年に債務と営業を切り分けながら商号だけは変えないという判断につながる。",
        "factBasis": [
          {
            "fact": "1897年に小池国三が創業し、1907年に小池合資会社へ改組して証券業者として初めて公社債引受業務に進出、1917年に小池合資を解散して山一合資を設立、1926年に山一証券へ改組した",
            "source": "日本大百科全書「山一證券」",
            "url": null,
            "genbun": "株式仲買は個人の信用で客を集める商いだが、1907年に小池合資会社へ改組して踏み込んだ公社債の引受は、発行者と投資家の間に立って残高を抱える仕事であり、個人商店の身丈では受けきれない。"
          },
          {
            "fact": "1917年の山一合資会社設立時の社長は杉野喜精で、1935年12月に東京株式取引所理事長へ転じるまで社長を務めた",
            "source": "日本大百科全書「山一證券」",
            "url": null,
            "genbun": "1917年4月に小池合資会社を解散して山一合資会社を設立し、杉野喜精氏が社長に就いた。"
          },
          {
            "fact": "1966年の新旧勘定分離に際し、日高輝は八十店の看板を替える費用を特融の返済に回すべきだと考え、伝統ある名称を守って新会社を「山一証券」、旧会社を「株式会社山一」とした",
            "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
            "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938568",
            "genbun": "この看板の重さは、1966年に債務と営業を切り分けながら商号だけは変えないという判断につながる。"
          }
        ]
      },
      {
        "q": "なぜ1965年に大蔵省と日本銀行は、一証券会社のために日本銀行法二十五条を初めて発動したのか",
        "a": "運用預かりの解約が、他社と銀行へ連鎖する構造だったためである。運用預かりは顧客から割引金融債を預かり料を払って借り入れ、それを担保に銀行融資を受ける資金調達手段で、銀行預金に近い性格を持っていた。山一證券は1964年9月期末の純財産額七十億円に対し、運用預かりを四百七十七億円抱えていた。1965年5月の報道で取り付け騒ぎが起き、解約は他の証券会社と銀行へ波及して信用システムにひびが入る危険があった。5月28日夜の氷川寮での会談で田中角栄蔵相が決断し、日本銀行法二十五条による無担保・無制限の特別融資が決まった。",
        "factBasis": [
          {
            "fact": "運用預かりは証券会社が顧客から主として割引金融債を預かり料を払って借り入れ、それを担保に銀行から融資を受けるもので、当時の証券会社にとって重要な資金調達手段だった。証券会社にとっても投資家にとっても銀行預金と同じような性格を持っていた",
            "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
            "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823",
            "genbun": "運用預かりは顧客から割引金融債を預かり料を払って借り入れ、それを担保に銀行融資を受ける資金調達手段で、銀行預金に近い性格を持っていた。"
          },
          {
            "fact": "1965年5月26日の衆院予算委員会で、1964年9月期末の山一証券の純財産額70億円に対し運用預かりが477億円だったことが明らかにされた。大蔵省は1963年7月の理財局長通達で運用預かりを純財産額の2倍程度に抑えるよう指導していたが事実上反故にされていた",
            "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
            "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823",
            "genbun": "山一證券は1964年9月期末の純財産額七十億円に対し、運用預かりを四百七十七億円抱えていた。"
          },
          {
            "fact": "1965年5月、再建策がまとまらないうちに主力三行の支援策と山一の立て直し策が新聞に報道され、投資家が預けていた証券の引き出しや投資信託の解約に走って取り付け騒ぎが発生した。運用預かりの解約はただちに証券会社の資金繰りを圧迫し、他の証券会社にも波及して銀行にも影響が及び、信用システムにひびが入る危険があった",
            "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
            "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823",
            "genbun": "1965年5月の報道で取り付け騒ぎが起き、解約は他の証券会社と銀行へ波及して信用システムにひびが入る危険があった。"
          },
          {
            "fact": "1965年5月28日の夜、大蔵省・日銀が主力銀行首脳を日銀氷川寮に集めて協議し、田中角栄蔵相の決断で日銀法二十五条による無担保・無制限の特別融資が決まった",
            "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
            "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823",
            "genbun": "5月28日夜の氷川寮での会談で田中角栄蔵相が決断し、日本銀行法二十五条による無担保・無制限の特別融資が決まった。"
          },
          {
            "fact": "特融は1965年6月7日から7月28日までに8回、合計282億円に達した。会議は午後8時に始まって深夜に及び、記者発表は深更に宇佐美洵日銀総裁邸で行われた",
            "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
            "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938568",
            "genbun": "5月28日夜の氷川寮での会談で田中角栄蔵相が決断し、日本銀行法二十五条による無担保・無制限の特別融資が決まった。"
          }
        ]
      },
      {
        "q": "なぜ債務超過ではなかった山一證券が、1997年に自主廃業を選んだのか",
        "a": "損失が帳簿の外にあり、社内でも全体が見えなかったためである。1991年12月、クレディ・スイス信託銀行の特金口座で買った約二千億円の国債を子会社五社に貸し付け、含み損のある有価証券を買い取る仕組みが動き出した。全体を知る者はごく一部に限られていた。1997年8月25日、就任二週間後の野澤正平氏が前会長と前社長から簿外債務の存在を知らされる。11月19日、長野厖士証券局長は自主廃業の選択を求め、翌20日に東京地裁は会社更生の事前相談を受け付けなかった。山一は1998年3月末の時点でも債務超過ではなかった。",
        "factBasis": [
          {
            "fact": "1991年12月20日、クレディ・スイス信託銀行に開設した特金口座を通じて購入した国債約2000億円を山一エンタープライズの子会社5社（ペーパーカンパニー）に貸し付け、その口座で含み損のある有価証券を顧客から買い取るスキームが実行された",
            "source": "週刊東洋経済1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
            "url": null,
            "genbun": "1991年12月、クレディ・スイス信託銀行の特金口座で買った約二千億円の国債を子会社五社に貸し付け、含み損のある有価証券を買い取る仕組みが動き出した。"
          },
          {
            "fact": "行平体制で監査役の木下公明、企画担当常務の藤橋忍らごく一部の役員によって隠蔽工作が行われ、全容を知る者はほとんどいなかった。野澤正平が簿外含み損の存在を知ったのは社長就任2週間後の8月25日で、行平次雄前会長と三木淳夫前社長から報告を受けた",
            "source": "週刊東洋経済1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
            "url": null,
            "genbun": "1997年8月25日、就任二週間後の野澤正平氏が前会長と前社長から簿外債務の存在を知らされる。"
          },
          {
            "fact": "社内調査報告書によれば1997年11月19日午前11時30分に長野厖士証券局長が自主廃業の選択を求め、翌20日に東京地裁は会社更生の事前相談を受け付けず、裁判官は非公式に大蔵省の強い協力がないと難しいとの見解を述べた",
            "source": "山一證券社内調査委員会 簿外債務の調査報告書（1998年4月16日公表）",
            "url": null,
            "genbun": "11月19日、長野厖士証券局長は自主廃業の選択を求め、翌20日に東京地裁は会社更生の事前相談を受け付けなかった。"
          },
          {
            "fact": "実質債務超過だった北海道拓殖銀行とは異なり、山一は債務超過ではなく、1998年3月末でも債務超過にはなっていないとされた",
            "source": "週刊東洋経済1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」",
            "url": null,
            "genbun": "山一は1998年3月末の時点でも債務超過ではなかった。"
          }
        ]
      }
    ]
  }
}
