栗田工業粉飾決算の露見と、伊藤忠商事の増資引受による経営再建

倒産させるか、引き受けるか——最大の債権者が社長を送り込んだ6年間

時期 1967年12月
意思決定者(推定) 貝石眞三(社長)・伊藤忠商事
論点 粉飾決算の後始末と経営再建
概要
1967年12月、栗田工業の粉飾決算が露見した。隠されていた累積赤字は26億円で、当時の資本金の2.6倍にあたる。倒産寸前の同社を救ったのは最大の債権者である伊藤忠商事で、増資を引き受けたうえ、副社長の貝石眞三氏を副社長のまま社長に送り込んだ。再建には6年を要し、1973年9月期の復配で一区切りがついた。
背景
後発で参入した水処理装置の市場で先行企業に苦戦し、「仕事の確保が先決」という号令のもとで出血受注を重ねた。長期工事に工事進行基準を採って未実現の利益を先に計上し、1960年7月に始まった粉飾は、1961年の株式公開と1962年の市場第一部への昇格を通り抜けた。
内容
伊藤忠商事が増資に応じて救済に乗り出し、貝石眞三社長は責任を経営に帰したうえで労働組合へ業績を逐一報告した。「4年で給料を2.4倍にする」という約束、持ち株制度の導入、出血受注の一掃と原価意識の徹底が再建の柱となった。
含意
1972年9月期に累積赤字を一掃し、翌期には8年ぶりの復配を果たした。ただし危機の原因となった工事進行基準は1975年の時点でも残り、自己資本比率は9.26%にとどまっていた。回復を支えたのは水処理薬品の利益と公害防止需要の急拡大であった。
筆者の見解

曲げられたのは、判断より物差しであった

この一件を経営者のモラルの問題として片づけると、見落とすものが多い。粉飾を生んだのは「仕事の確保が先決。採算はライバルを打倒してからとればよい」という号令であり、それは装置部門で先行するオルガノに届かない後発企業が、受注を取るために選びうる数少ない手であった。誤りは、その無理を工事進行基準で決算に映さずに済ませたところにある。判断そのものより、判断の結果を測る物差しを曲げた点に、この一件の芯があるとみることができる。

もっとも、再建が成ったことをもって仕組みが直ったとみるのは早い。栗田工業は1975年の時点でも同じ工事進行基準を採り続け、拡大解釈を疑われていた。26億円の累積赤字を消したのは薬品の利益と公害防止市場の急拡大であって、会計処理の是正ではなかった。「努力が7割、時流が3割」という当時の評は、伊藤忠商事の増資と貝石社長の経営公開が、時流に間に合ったことの言い換えでもあったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

水処理の専業として上場するまで

栗田工業は1949年7月、水の将来に着目した栗田春生氏が神戸市に資本金30万円で設立した会社である。ボイラの湯垢を取り除く清缶剤から出発し、1954年10月には水処理装置へも手を広げた。1961年10月に東京・大阪両証券取引所の第二部へ上場し、翌1962年8月には第一部へ昇格している。海軍の技術将校を中心とする技術者の集まりで、水処理という一分野を掘り下げる専業として、戦後の設備投資の広がりとともに規模を伸ばした[1][2][3]

事業の広がりに合わせて、外部の力も取り込んでいる。1962年1月には横浜市へ総合研究所を新築移転し、水質の調査と薬剤の開発を担う拠点を整えた。1965年4月には伊藤忠商事と業務提携を結び、資材の調達や輸出で総合商社の販路を借りる関係を作っている。もっとも、後発で入った水処理装置の市場には、イオン交換装置から出てきたオルガノなどの先行企業がすでにいた。薬品で築いた地歩が、そのまま装置で通用したわけではなかった[4][5]

出血受注と工事進行基準

装置部門での苦戦は、受注の取り方をゆがめた。「仕事の確保が先決。採算はライバルを打倒してからとればよい」。当時の社長で創業者の栗田氏は、こう社員を叱咤したと伝えられる。値段を度外視した出血受注が重なれば、工事を取るたびに損の積み上がる商いになる。手強い相手に苦戦し、思うように成果の上がらない焦りが、採算を後回しにする号令となって現場へ降りていた[6]

表に出る決算は、その損を映さなかった。同社は6カ月を超える長期工事に工事進行基準を採り、出来高に応じて売上と利益を先に計上していた。製作の途中にある装置まで売上へ算入すれば、実態の赤字はしばらく隠れる。資金の管理も粗く、受け取った手形をそのまま商社へ持ち込んで割り引き、日々の資金を回していた。粉飾は1960年7月に始まり、翌1961年の株式公開と1962年の第一部昇格を、露見しないまま通り抜けている[7][8][9]

決断

露見と、伊藤忠商事の救済

粉飾は1967年の暮れから翌年の初めにかけて表に出た。1967年12月に決算の作り替えが露見し、隠されていた累積赤字は26億円にのぼった。当時の資本金の2.6倍にあたる規模で、1965年に倒産して粉飾摘発の契機となった山陽特殊製鋼でさえ、その額は資本金並みであった。大蔵省が摘発の矛先を粉飾から利益隠しの逆粉飾へ移した直後という時期に、水処理専業メーカーの帳簿の中身が明るみに出た[10][11]

会社は倒産の一歩手前にあった。取引銀行に再建の意思はなく、支えを引き受けたのは最大の債権者である伊藤忠商事であった。業務提携以来、専務を送り込んでいたうえ、栗田工業が倒れれば20億円の損害をこうむる立場にもあった。伊藤忠は増資に応じる形で救済に乗り出し、副社長であった貝石眞三氏を、その職にとどめたまま栗田工業の社長に据えている。債権者が自ら経営の席に着く選択であった[12][13]

経営の公開と原価意識

貝石社長がまず手をつけたのは、社員の不信を取り除くことであった。「倒産の危機は戦略の失敗によるもの。徹頭徹尾、社長の責任で、社員が誤りを起こしたわけではない」と責任の所在を経営に置き、「赤字の実態を隠しに隠して見栄で配当するなどは論外」と過去のやり方を退けた。そのうえで、不信を解く方法は経営の公開しかないと判断し、労働組合へ業績を逐一報告し、相談も重ねている[14]

約束は数字で示された。1969年には「4年で給料を2.4倍にする」と社員に告げ、それ以上の実績で応えている。1971年には持ち株制度を設け、業績の回復が社員の手元へ返る仕組みも整えた。同時に、悪癖であった出血受注を一掃し、「他社よりも1%安く作り1%高く売れ」という指示で全社に原価の意識を入れている。集金と回収の区別さえ曖昧であった管理を、外から来た経営者が組み替える作業でもあった[15][16]

結果

累積赤字の一掃と8年ぶりの復配

立て直しは数字に表れた。1972年9月期に累積赤字を一掃し、翌1973年9月期には8年ぶりとなる年率10%の配当を復活させている。そのテコとなったのは、創業以来の収益源である水処理薬品であった。薬剤は研究開発に費用がかかる半面、一度できあがれば原価は低く利益率が高い。客先の設備が動く限り繰り返し売れる商材でもあり、装置部門の混乱のさなかでも会社の底を支えていた[17][18]

時代も味方した。水質関係の公害防止機器の市場は1970年の886億円から1973年に2119億円へと年平均34%で膨らみ、鹿島や大分のコンビナートからは大型装置の受注が続いた。物価の上昇が累積赤字の実質的な重さを削る効果もあった。「栗田の再建は努力が7割、時流が3割」と評された理由である。人員は粉飾の露呈した当時の1500人前後に据え置かれ、増員に頼らない回復であった[19][20][21]

再建後に残ったもの

再建の完了が語られたあとも、疑いの目は残った。1975年の時点でも同社は6カ月を超える長期工事に進行基準を採り続け、「税法の規定以上に拡大解釈しているのではないか」という指摘を受けている。1968年の危機そのものが進行度基準の乱用による自転車操業から生まれた以上、同じ手法を残した意味は小さくない。未実現の売上と利益を先に計上する処理は、契約の解消や取引先の倒産に弱い[22]

財務の弱さも残った。1975年3月期の自己資本比率は9.26%と10%に届かず、借入への依存が消えたわけではなかった。同社は時価発行増資による自己資本の充実を再建の仕上げに置き、1975年に株主割当と公募の増資を実施している。その後の無償交付を経て資本金は32億4280万円となり、1981年には年12%の配当を保つ水準まで戻った。自己資本比率も19.9%へ改善し、30%台を次の目標に掲げている[23][24]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1975年8月4日号「栗田工業 時価発行体制への詰めに甘さ」
  • 証券アナリストジャーナル 1981年12月号「栗田工業 60年度売上げ1,000億円達成へ」(中村貞夫・栗田工業社長 講演要旨)
  • 栗田工業 有価証券報告書【沿革】

免責事項およびポリシー