1964年の分社を、単なる節税目的の組織いじりと見るのは浅い。企業集団が税務の都合で増加していたのは確かだが、正士氏がこの一社にだけ"グループの長男"という重みを与え、他社の模倣を脱する自社開発を託した点にこそ、この判断の芯がある。しかも担い手には、営業を離れ開発だけを歩む息子の明彦氏を据えた。主力事業の輸液から切り離して開発専業の会社を設立する方針は、目先の売上より次の商品を生む力を選んだ配置だったのだろう。
もっとも、この構えがすぐ成果を生んだわけではない。物マネの体質は容易に変わらず、自社初の新薬アーキンが世に出るまでには四半世紀を要した。皮肉にも先に実を結んだのは、輸液の技術を転じたオロナミンCやポカリスエットで、医薬品業界からは"徳島のジュース屋さん"と揶揄された。それでも、医薬で稼ぎ消費財で日銭を得る二階建ての構造は、後年の国際展開を支えた。稼ぐ事業と育てる事業をあえて分けた配置に、この会社の性格がよく表れている。