大塚HD医薬品事業の分社による大塚製薬の設立と二階建てモデルの構築
- 概要
- 1964年8月、大塚は医薬品事業を分社し、大塚製薬工場の販売部門を切り離して大塚製薬を新設した。大塚正士氏は新会社を"グループの長男"と位置づけ、他社模倣を脱する自社開発の担い手として、息子の大塚明彦氏を開発・生産の責任者に据えた。輸液で安定して稼ぐ体制の上に開発と消費財を重ねる、二階建てモデルの出発点になった経営判断。
- 背景
- 戦後の大塚は、創業者の武三郎氏が法人化を認めず正士氏が周辺に会社を設けた、わかりにくい企業集団であった。医薬品販売は他社新薬の類似品が大半を占め、 『大手の物マネをしろ』 という体質を独自開発へ切り替える必要に迫られていた。
- 内容
- 大塚製薬工場の販売部門を分社して大塚製薬を新設し、開発・生産の責任者に大塚明彦氏を据えた。営業を一切やらせず、ゼロから研究開発の体制を築かせた。稼ぎ頭の輸液を担う大塚製薬工場を土台に、開発と後の消費財を新会社に委ねる役割分担を敷いた。
- 含意
- 分社が生んだ開発力は、自社新薬アーキンとオロナミンC・ポカリスエットという消費財に結実した。医薬で稼ぎ消費財で日銭を得る二階建ての収益構造は、医薬専業とは異なる横断型の会社を育て、後年の国際展開を支える体力になった。
筆者の見解
稼ぐ事業と育てる事業を分けるということ
1964年の分社を、単なる節税目的の組織いじりと見るのは浅い。企業集団が税務の都合で膨らんでいたのは確かだが、正士氏がこの一社にだけ"グループの長男"という重みを与え、他社の模倣を脱する自社開発を託した点にこそ、この判断の芯がある。しかも担い手には、営業を離れ開発だけを歩む息子の明彦氏を据えた。稼ぎ頭の輸液から切り離して開発専業の会社を作る構えは、目先の売上より次の商品を生む力を選んだ配置だったとみられる。
もっとも、この構えがすぐ成果を生んだわけではない。物マネの体質は容易に変わらず、自社初の新薬アーキンが世に出るまでには四半世紀を要した。皮肉にも先に実を結んだのは、輸液の技術を転じたオロナミンCやポカリスエットの側で、医薬品業界からは"徳島のジュース屋さん"と揶揄された。それでも、医薬で稼ぎ消費財で日銭を得る二階建ての構造は、後年の国際展開を支えた。稼ぐ事業と育てる事業をあえて分けた配置に、この会社の性格がよく表れている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
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