{"title":"カネカの歴史概略","sections":[{"start_year":1949,"end_year":1959,"main_title":"鐘淵紡績の第二会社として発足し塩化ビニールで自立の足場を得るまで","subsections":[{"title":"繊維以外の全事業を引き受けた第二会社","text":"1949年9月1日、鐘淵紡績の企業再建整備計画の認可に基づき、繊維部門を除く全事業を引き受けて鐘淵化学工業が発足した。資本金は2億円、本社は大阪市東区本町に置いた。継承した事業はか性ソーダ、搾油、石鹸、食油、酵母、食品類、洋紙、和紙、エナメル電線、化粧品、澱粉におよぶ。化学会社の看板を掲げてはいたものの、実態は紡績会社が戦中戦後に抱え込んだ雑多な事業の受け皿であり、法的には新会社でありながら、事業そのものは鐘紡の歴史と同じだけ古かった。1949年10月には東京証券取引所などに株式を上場している。\n\n発足後の10年は、引き受けた事業を減らす作業に費やされた。アミノ酸は1952年6月に製造を中止し、澱粉は1953年3月、洋紙は同年7月にそれぞれ譲渡、和紙も1954年8月に整理している。整理を免れたのはか性ソーダ、食油、酵母の3つで、それ以外は順次たたんだ。1967年になると、鐘紡から引き継いだ事業で残っていたのは苛性ソーダと石鹸だけになっている。同時に既設設備の改善増強と新規事業の立ち上げを進めており、引き算と足し算を同じ時期に行っている。石鹸、電解苛性ソーダ、BHCの設備を増強し、自家発電設備を整えて動かしたのもこの時期である。1951年8月には資本金を4億円へ増やし、1954年度の総売上高は61億円に達した。\n\n会社の輪郭が定まらない時期は長く続き、無配の期を何度も重ねている。設立から18年たった1967年になっても、鐘淵化学工業は世間から鐘紡の一部門と見られていた。同社の常務取締役だった大澤孝氏は、証券アナリスト協会の講演でその状況を率直に語っている。資本金は43億8,000万円に増え、1967年の年初からその年の夏までに約2,000万株が一般株主から金融機関へ移り、従来分と合わせて発行株式の50%近くが安定株主の手に渡った。独立した会社としての体裁は、株主構成の面から先に整った。","references":[{"title":"カネカ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「鐘淵化学工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1967年8月号「鐘淵化学工業の現状と将来」（大澤孝）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"環境省「PCB廃棄物処理対策の経緯について」（ポリ塩化ビフェニル（PCB）早期処理情報サイト）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"大澤孝","role":"鐘淵化学工業 常務取締役（1967年7月21日 日本証券アナリスト協会 企業分析第4部会での講演）","date":"1967-07-21","text":"当社は鐘紡と混同されがちである。当社を鐘紡化学と呼ぶ人もいるくらい、大鐘紡の影に隠れて鐘淵化学の存在そのものが明らかでないようである。\n確かに再建整備の時に鐘紡の第二会社として生れたのではあるが、現在、鐘紡は当社の一株主に過ぎない。したがつて、人事はもちろん、経営に関しては当社独自の方針で進めてきている。","source":"証券アナリストジャーナル 1967年8月号「鐘淵化学工業の現状と将来」","paragraph":3}]},{"title":"日本で最初の塩化ビニール工業化と塩素からの連鎖","text":"1950年7月、鐘淵化学工業は塩化ビニールの工業化に日本で初めて成功した。戦時中に軍の要請で進めていた合成ゴムの研究で得た技術と経験を、遊休設備の上で組み直したものである。当初の生産能力は月産60トンにすぎなかったが、数次の拡張を経て1955年3月には月産400トンに達した。技術導入ではなく自社技術によったこと、そして塩素の供給源であるソーダ部門を自前で持っていたことが、この事業を会社の中心に据える条件になった。その後も技術の改良と合理化を重ね、質と量の両面で国内トップメーカーの一つに数えられるまでになる。\n\n塩化ビニールは単体の樹脂としてだけでなく、川下へ次々と枝分かれした。1950年7月には合成樹脂部門から塩ビの供給を受けて塩化ビニール電線の製造を始め、1952年1月には塩化ビニリデンと塩化ビニールの共重合ラテックスを紙に塗った塩ビ加工紙カネプルーフ・ペーパーを送り出している。防湿紙、防油紙として化学肥料や農薬の包装に回った。1953年4月には可塑剤と安定剤を加えて加工業者がそのまま成型できる塩ビコンパウンドを、1953年2月にはショートニングの製造を始め、食品にも足を伸ばした。\n\n塩素を出発点にした事業の並べ方は、この時期に固まった。1948年から製造していたBHCは当初DDTに押されたものの、設備の拡充と品質改良によって原沫では業界1位となる。1954年7月にはジフェニールを塩素化した五塩化ジフェニール、商品名カネクロールを月産100トンの設備で製造開始した。合成電気絶縁油や熱媒可塑剤として使われるもので、日本で製造していたのは鐘淵化学工業だけである。塩素を使う工業が増えるにつれてソーダ部門も拡張し、1955年3月時点で苛性ソーダは月産1,000トン設備を持つに至った。","references":[{"title":"カネカ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「鐘淵化学工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1967年8月号「鐘淵化学工業の現状と将来」（大澤孝）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"環境省「PCB廃棄物処理対策の経緯について」（ポリ塩化ビフェニル（PCB）早期処理情報サイト）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1960,"end_year":1979,"main_title":"塩ビとスチレン系樹脂とカネカロンによる総合化学会社への転換","subsections":[{"title":"高分子化学が売上の6割を占めるまでの積み上げ","text":"1957年7月にアクリル系合成繊維カネカロン、1964年6月にMBS樹脂カネエース、1965年7月に発泡スチレン樹脂カネパールと、主力になる製品が10年足らずの間に並んだ。いずれも自社技術による企業化である。1966年下期の売上構成を見ると、合成樹脂が34%、カネカロンが14%、電線が15%で、高分子化学部門だけで63%を占めた。設立時に引き受けた油脂や酵母は、すでに会社の中心から外れている。既存部門でも製品は増えており、1961年12月に高級製菓用油脂、1967年6月に塩ビ系特殊樹脂の製造を始めた。\n\n主力の塩ビは1967年時点で公称月産能力6,600トンに達し、日本ゼオンと並ぶ国内首位のメーカーとなった。世界の生産能力で見ると11位から12位に位置する。ABS樹脂も月産900トンで国内首位を占め、宇部サイコンの750トン、東洋レーヨンの600トンを上回った。もっとも、ABSは業界全体で大幅な能力過剰にあり、鐘淵化学工業が伸びたのはSタイプではなくBタイプ、つまり塩ビと混合して透明性と耐衝撃性を与える型を持っていたからである。同じ市場で同じ製品を売って勝ったわけではない。欧米の食品衛生規格の試験に通れば容器用途で需要が一気に伸びる、というのが当時の見立てであった。\n\n製品そのものと同じ重さで語られたのが販売網である。加工メーカーに対する技術指導と技術サービスを徹底し、販売と技術を分けない体制を敷いた。この売り方は塩ビ以外の樹脂を出すたびに効き、後に発泡スチレンで後発として参入したときも、販売力に不安はないと言い切る根拠になっている。製品を作る力ではなく、作った製品を使いこなさせる力を競争の軸に置いた点で、同時期の石油化学各社とは組み立てが違った。発泡スチレンでは積水スポンジと油化バディッシュに後れを取り、参入時には特許に触れると問題にされたものの、米英仏に加えて日本でも自社特許が成立したことを根拠に、解決できると見ていた。","references":[{"title":"カネカ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1967年8月号「鐘淵化学工業の現状と将来」（大澤孝）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－プラントの大型化を経て成熟化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"厚生労働省「カネミ油症事件について」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"社会学評論 63巻1号（2012年）「カネミ油症事件における「補償制度」の特異性と欠陥──法的承認の欠如をめぐって」（宇田和子）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"赤門マネジメント・レビュー 7巻8号（2008年8月）「カネカMBS樹脂の競争力──多品種展開を支える開発と製造の力」（橋本規之）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネミ油症被害者支援センター「カネミ油症問題年表」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"原料転換と鹿島 ── 石油化学の大型化への合流","text":"1960年代後半、塩ビモノマーの原料をカーバイドから石油に切り替える議論が業界を覆った。鐘淵化学工業はナフサを原料とするウルフ法とエチレンを原料とするオキシクロリネーション法を比べ、技術者を海外に派遣して国内の原料事情を調べたうえで、1967年にオキシクロリネーション法の採用を決めた。米国ストーファー社の技術を導入し、高砂に51億円を投じて1968年10月の完成を目指す計画である。カーバイド法で1キログラムあたり58円だった金利込み工場原価は、転換後に38円まで下がる見込みだった。\n\nこの決定は一社の設備投資にとどまらない。通商産業省が想定していた塩ビモノマーセンターは徳山、千葉、水島、高岡の4か所で、そこに高砂が加わって5か所となり、さらに三菱油化の鹿島が予定されて計6か所になった。エチレンプラントの最低規模基準が1967年に年産30万トンへ引き上げられ、誘導品の設備も連動して大型化していた時期にあたる。塩化ビニール樹脂は、カーバイド方式から石油化学方式への転換と設備の大型化が進んだ結果、1970年にはポリエチレンを抜いて最大のシェアを占めるプラスチックとなった。\n\n1970年11月に鹿島工場が竣工する。三菱油化のエチレン30万トン計画に対応して、信越化学工業、旭硝子、鐘淵化学工業、旭電化工業の4社が共同出資した鹿島塩ビモノマーが、この時期の塩ビセンターを代表している。単独で原料設備を抱えるのではなく、共同出資と輪番投資でナフサ手配と資金調達の負担を分け合う方式が、当時の石油化学では一般的だった。これらの塩ビセンターは、そのほとんどが1970年から1971年にかけて設備を完成させている。同年12月には海外子会社カネカベルギーを設立し、欧州でも生産を始めた。","references":[{"title":"カネカ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1967年8月号「鐘淵化学工業の現状と将来」（大澤孝）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－プラントの大型化を経て成熟化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"厚生労働省「カネミ油症事件について」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"社会学評論 63巻1号（2012年）「カネミ油症事件における「補償制度」の特異性と欠陥──法的承認の欠如をめぐって」（宇田和子）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"赤門マネジメント・レビュー 7巻8号（2008年8月）「カネカMBS樹脂の競争力──多品種展開を支える開発と製造の力」（橋本規之）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネミ油症被害者支援センター「カネミ油症問題年表」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"カネカロンの用途転換と、カネクロールが招いたカネミ油症","text":"カネカロンはアクリル系合繊で国内の先陣を切ったが、その後にエクスラン、ボンネル、カシミロンと繊維専業の大手が相次いで参入した。同じ土俵で戦っても勝ち目がないと判断した鐘淵化学工業は、専業各社が手を付けない隙間に商品を寄せる。難燃性という特性を生かしてカーテンとカーペットの室内装飾用に力を入れ、燃えない性質を寝具にも回した。さらに特殊な処理で人毛に近い性質を持たせ、かつらの材料に用いた。合繊を使ったかつらは各社が出したものの、1967年の時点で市場に残っていたのはカネカロン製だけである。\n\n同じ時期、鐘淵化学工業の製品が大規模な健康被害を引き起こした。1968年10月、西日本を中心に広域にわたって食用油による健康被害が発生する。厚生労働省の説明によれば、カネミ倉庫が製造したライスオイルに、脱臭工程の熱媒体として使われていた鐘淵化学工業製のカネクロールが混入し、ポリ塩化ビフェニールとダイオキシン類の一種であるポリ塩化ジベンゾフランなどが製品に入った。1954年に日本で唯一の製品として世に出した熱媒可塑剤が、14年後に食品の製造工程で漏れ出したことになる。被害者の届け出は1969年7月時点で1万4,627人にのぼり、同年2月にはカネミ倉庫と同社長、そして鐘淵化学工業を相手取る訴訟が起こされた。1970年11月には国を被告とする全国統一訴訟が続いている。\n\n訴訟は長く続き、原告が国に対して地裁と高裁で勝訴したのち、鐘淵化学工業とは和解に至った。事件を単独の過失として見ると全体を取り違える。PCBによるカネミ油症事件は、阿賀野川のメチル水銀汚染、四日市の大気汚染、神通川のカドミウム汚染、水俣湾のメチル水銀汚染と並んで、重化学工業化を急いだ産業構造そのものが問われた一連の公害の一つに数えられている。1974年4月には化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律が施行され、新しい化学物質を世に出す手続きが根本から変わった。同じ時期、塩化ビニール樹脂は相次ぐ増設で1971年春までに年産200万トンに達する一方で需要が停滞し、業界は1972年1月から不況カルテルに入っている。","references":[{"title":"カネカ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1967年8月号「鐘淵化学工業の現状と将来」（大澤孝）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－プラントの大型化を経て成熟化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"厚生労働省「カネミ油症事件について」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"社会学評論 63巻1号（2012年）「カネミ油症事件における「補償制度」の特異性と欠陥──法的承認の欠如をめぐって」（宇田和子）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"赤門マネジメント・レビュー 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有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1985年12月号「アデランス」（根本信男）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年1月29日号「トップの履歴書 武田正利」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年11月19日号「トップの履歴書 大西正躬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"素材に徹する判断 ── フォンテーヌのアデランスへの譲渡","text":"1960年代後半から1970年代前半の日本には女性かつらの市場が広がり、帝人、鐘紡、興人、コマチヘアといった大手が競った。乱売の末にいずれも撤退し、残ったのは鐘淵化学工業が直営するフォンテーヌと数社である。アデランスの根本信男社長は1985年の講演で、鐘淵化学工業がフォンテーヌを手放さなかった理由を、世界の人工毛の80%をカネカロンとして生産する同社にとって、この直営会社が製品テストの場だったからだと説明している。素材メーカーが川下の販売会社を持つ理由が、収益ではなく開発の側にあった。女性かつらは2,000億円産業とはやされた時期があり、そこから撤退が相次いだ後にあたる。\n\nその方針が1985年8月に変わる。鐘淵化学工業からアデランスへ、アデランスのノウハウで売ってもらう方がいいので引き受けてくれないかという申し入れがあり、フォンテーヌの株式が譲渡された。当時のフォンテーヌは直営店を含め140店を持ち、創業17年のアデランスの97店舗を上回っている。店舗網の規模で勝る側が、売る力で勝る側に渡した取引である。鐘淵化学工業は人工毛の供給者に戻り、売り場を持つことをやめた。判断の当否は、その後もカネカロンが人工毛の主要供給源であり続けたことに表れている。","references":[{"title":"カネカ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1985年12月号「アデランス」（根本信男）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年1月29日号「トップの履歴書 武田正利」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年11月19日号「トップの履歴書 大西正躬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"3位に落ちたら撤退という規律と太陽電池への100億円","text":"1999年6月、カネカロンの営業一筋で歩んだ武田正利氏が社長に就いた。同氏が語った同社の姿は明快である。500億円前後のニッチ市場で過半数のシェアを確保し、3位に落ちたら即座に撤退する。この規律のもとで収益構造の脱・石油化学が進み、世界一のコスト競争力を持つ医薬中間体と、末端を見据えた製品開発で伸びた食品が大黒柱に育った。創業50周年にあたる1999年度は、独自の技術力と海外生産体制がかみ合い、10期ぶりに連結純利益が過去最高を更新する見通しとなった。関係会社の99%が利益を出し、マレーシア、米ヒューストン、ベルギーの生産基盤が整ったことが、増設を検討する際の共通の土台になっていた。\n\nその規律を持つ会社が、1998年10月に子会社カネカソーラーテックを設立し、1999年10月に電力用太陽電池の製造を始めた。投じたのは100億円以上である。事業は立ち上げ後5年が勝負であるとして、3年後の黒字化を掲げた。既存事業と技術のつながりは薄く、市場もまだ小さい。ニッチで過半を取るという原則から見れば、過半のシェアを取れる見込みの立つ領域ではなかった。それでも踏み込んだのは、発酵と合成を組み合わせる技術の延長にバイオや遺伝子組み換えを見据えていたのと同じく、既存の柱が尽きる前に次を仕込む必要があったためと考えられる。\n\n雇用に対する構えも、この時期に言葉として残っている。古田武 前社長は在任中に、首切りはしない、弱者を抱えて走るためにも増収を維持すると語った。武田社長も利益創出と雇用維持は経営にとって同列であり、日本企業である以上リストラはしないと明言している。ただし同時に、人事体系を成果主義へ移すことは避けられないとも述べた。チャンスは平等だが結果は不平等であり、それが公平の本来の意味である、というのがその説明である。雇用を守る約束と、社内の配分を変える宣言が同じ場所で並んでいる。武田社長は入社以来カネカロンの営業一筋で歩み、現場主義を信条として理屈一本槍の議論を嫌う人物であった。","references":[{"title":"カネカ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1985年12月号「アデランス」（根本信男）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年1月29日号「トップの履歴書 武田正利」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年11月19日号「トップの履歴書 大西正躬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"武田正利","role":"鐘淵化学工業 社長（1999年6月就任）","date":"2000-01-29","text":"チャンスは平等だけど結果は不平等。でもそれが『公平』の本来の意味でしょう。よい会社であるほど風土改革は大変。これも五年仕事です","source":"週刊東洋経済 2000年1月29日号「トップの履歴書 武田正利」","paragraph":3}]}]},{"start_year":2000,"end_year":2025,"main_title":"カネカへの改称と4つのソリューションユニットへの組み替え","subsections":[{"title":"医薬品バルクの食品転用と、55年越しの社名変更","text":"2001年4月、厚生労働省の通達によってコエンザイムQ10が食品に分類され、鐘淵化学工業は日本国内で機能性食品素材としての販売を始めた。1977年に医薬品バルクとして製造を開始した物質が、24年を経て別の市場を得たことになる。市場が動いたのは規制の側であって、製品そのものは変わっていない。長く医薬向けに磨いてきた発酵と合成の技術が、健康食品ブームという需要の急拡大にそのまま乗った形である。2004年6月には海外子会社カネカニュートリエンツを設立し、供給の受け皿を北米にも置いた。\n\n2004年9月、鐘淵化学工業株式会社は株式会社カネカへ商号を変更した。1967年に大澤孝常務が、大鐘紡の影に隠れて存在が明らかでないと語った状態から数えて37年、設立からは55年が経っている。鐘淵の二文字を外すという決定は、事業の中身がすでに紡績由来の遺産と無関係になっていた事実を追認するものであった。この時点で会社は、塩ビと発泡樹脂を中核に、食品、医薬品、医療機器、電子材料、合成繊維を並べる総合化学会社の体裁を整えている。商号変更に先立つ2003年9月には、中国に蘇州愛培朗緩衝塑料と青島海華繊維の2社を設立した。\n\n2005年6月に社長へ就いた大西正躬氏が引き継いだのは、16事業で年商4,700億円を稼ぐ分散型の多角経営である。同氏は技術的にも市場としても成長性のある分野として機能性材料、ライフサイエンス、エレクトロニクスの3分野を選び、新製品で攻めると同時に海外展開を強める方針を掲げた。当時、この3分野の合計と海外向けの比率はいずれも全体の35%近辺にあり、まず40%へ引き上げることを目標に置いている。2008年度に売上高6,000億円、経常利益600億円、ROE10%超という数字も併せて示した。","references":[{"title":"カネカ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年11月19日号「トップの履歴書 大西正躬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2017（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2018（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2020（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2021（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2025（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカ 2023年3月期 決算説明資料","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2023（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2024（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"地域統括会社の三極化と4つのソリューションユニット","text":"2012年4月、米国の関係会社が米州統括会社カネカアメリカズホールディングと事業会社2社の3社体制に再編され、同じ月にアジア統括会社として鐘化企業管理（上海）が設立された。2015年10月には欧州統括会社カネカヨーロッパホールディングカンパニーが加わり、米州、アジア、欧州の三極に統括機能が並んだ。製品ごとに海外子会社を置いてきた1970年代からの積み上げを、地域単位で束ね直した。2017年4月には国内でもカネカ北海道を地域統括会社として設けている。2013年7月には食品事業部門の販売会社4社をカネカ食品に再編し、国内の販売機能も束ね直した。\n\n事業の括り方も変わった。16に分かれていた事業は、Material、Quality of Life、Health Care、Nutritionの4つのソリューションユニットへ組み替えられ、長期ビジョンとしてKANEKA UNITED宣言が置かれた。2017年度から2019年度の中期経営計画では、この体制のもとで海外売上高比率を60%へ引き上げる目標が示されている。素材を作って売る会社から、解を組み立てて提供する会社へと、自社の説明の仕方そのものを変えたことになる。2020年度から始まる中期経営計画では、Change with Purpose.とGrow with Result.が掲げられた。その後2023年には中期経営計画という枠組みそのものをやめ、計画を「3年の仕掛」と呼び替えている。2025年から2027年を対象とする「仕掛25」、翌年の「仕掛26」と、呼び名は毎年置き換わる。\n\n買収による柱の足し方も続いた。2016年1月に公開買付けでセメダインを連結子会社とし、2022年8月には株式交換で完全子会社にしている。2018年1月には東武化学に追加出資して子会社とし、2024年12月には医療機器のEndoStream Medicalを連結子会社に加えた。1973年のサンスパイス、1998年の太陽油脂と昭和化成工業、2010年のユーロジェンテックと、追加出資による子会社化は各年代に散っており、大型の合併で規模を作る方法をとってこなかった点は一貫している。生産設備の側では、2024年8月に北海道苫東工場を開設した。","references":[{"title":"カネカ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年11月19日号「トップの履歴書 大西正躬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2017（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2018（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2020（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2021（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2025（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカ 2023年3月期 決算説明資料","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2023（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2024（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"太陽電池の作り替えと、ニッチ首位戦略の現在地","text":"1999年に薄膜シリコンで始めた太陽電池は、そのままの形では残らなかった。カネカは薄膜シリコンタンデム太陽電池で培った技術をヘテロ接合結晶シリコン太陽電池へ移し、変換効率の高い製品に作り替えている。売り先も一般的な太陽光発電所ではない。屋根と一体になる瓦一体型のVISOLA、公共・産業用のGRANSOLA、そして壁面や窓に組み込む建材一体型と、建物の部材として売る形に寄せた。壁面設置型については大成建設と共同で開発を進めている。自社の工場や倉庫にも設置しており、2021年時点で14.3メガワットが稼働していた。\n\n用途特化は車載にも及んだ。ヘテロ接合バックコンタクト型太陽電池がトヨタ自動車の新型プリウスPHEVのルーフガラス部分に採用され、2023年3月に販売が始まっている。同じ時期、東京都をはじめ新築住宅への太陽光発電設置義務化の動きが広がり、住宅向け高効率太陽電池の販売が伸び、各自治体からの問い合わせも活発になった。車載用の本格出荷は2023年3月に始まっている。次の世代としては、ヘテロ接合結晶シリコンにペロブスカイトを重ねたタンデム型の量産技術開発が、NEDOのグリーンイノベーション基金事業のもとで進んでいる。\n\n連結売上高は2012年3月期の4,693億円から2025年3月期の8,072億円へ伸び、同期の営業利益は400億円、経常利益は328億円となった。1949年に引き受けた雑多な事業を減らし、塩素から樹脂へ、樹脂から医薬と電子材料へ、そして解の提供へと、看板を掛け替えながら会社は続いている。ただし500億円規模のニッチで過半を取るという規律は、その規模の市場が存在し続けることを前提にしている。太陽電池が建材と車載へ寄っていったように、市場の側が動けば、同じ規律が撤退の理由にも増設の理由にもなる。","references":[{"title":"カネカ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年11月19日号「トップの履歴書 大西正躬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2017（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2018（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2020（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2021（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2025（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカ 2023年3月期 決算説明資料","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 2023（統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"カネカレポート 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