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  "title": "直近の動向と展望",
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      "title": "なぜ三菱電機は事業の棚卸しを始めたのか（筆者所感）",
      "text": "1921年1月、三菱造船神戸造船所の電機製作所を継承する形で三菱電機が創立された。三菱財閥の内側で重電分野を担う中核会社という成立事情が、外向きの市場開拓ではなく財閥内分業の温存に重心を置く事業構造を初期から決めた。神戸・長崎・名古屋の3拠点で変圧器・電動機・扇風機まで重電と民生の両面を見据える布陣を1924年までに整え、財閥本体の需要を内側で吸収する装置として動き出した。戦時下の1940〜44年には半年余りで6工場を新設し、軍需に動員される財閥本体の延長線上で10を超える製作所網を抱えた。\n\nこうして温存型の事業構造は、戦後の総合電機モデルへ無理なく拡張した。1949年5月の東証上場と米ウエスチングハウスとの技術提携復活で公開会社の体裁を整え、1959年8月の北伊丹半導体量産工場と1960年10月の鎌倉製作所で重電の上にエレクトロニクスを積み重ねた。1977年6月の4事業本部制を起点に1993年6月には9事業本部体制まで縦割りが広がり、製作所単位の独立採算と事業本部の縦割りという二重構造が、財閥内分業で培った温存癖を全社規模で再現した。新しい領域を載せても旧来の事業を切らずに済む組織原理が、規模拡大の推進力となった。\n\nだが1990年代以降、温存癖が選択と集中の壁となった。1994年に北岡隆社長は「一流になれないものを切り捨てる」(北岡隆社長 日経ビジネス 1994/03/21)とウェルチ流の整理を語り、5万人体制を批判した。1998年の汎用DRAM撤退と2001年「Changes for the Better」で舵切りは明示されたが、縦割り構造は残った。2021年、長崎製作所の鉄道車両向け空調機器で架空検査が発覚し、杉山武史社長が辞任して専務執行役の漆間啓氏が緊急登板した。漆間社長は「品質に対する誠実さがなかった」(漆間啓社長 日経ビジネス 2022/03/10)と振り返り、縦割りに蓄積した不正が露呈した。\n\nなぜ三菱電機は事業の棚卸しを始めたのか。漆間社長は2022年のBA体制移行と2024年の自動車機器事業の分社化を経て、2025年5月のIR Dayで売上1兆9000億円規模を価値再獲得事業に分類した。約0.3兆円は2027年度中に終息、約0.8兆円は2025年度中に終息か継続を判断する仕組みで、3年で1兆円のM&A投資枠と総還元性向50%以上の方針が並走する。財閥内分業で生まれた温存癖を制度で上書きする試みのなかで、製作所単位の縦割り運営は維持されている。",
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          "title": "三菱電機 IR Day",
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