重要な意思決定
19596月

酸化エチレンの量産開始

背景

石油化学への原料転換と国産技術の開発

1950年代を通じて日本触媒の無水フタル酸はナフタリンを原料としていたが、石油化学原料(オルソキシレン)による製造法の検討が1950年頃から始まった。日本触媒は創業以来培ってきた気相酸化の技術を応用し、1951年に石油化学原料による無水フタル酸の工業化に世界で初めて成功した。当時の石油化学業界では海外からの技術導入が一般的であったが、八谷泰造氏は国産技術にこだわった。

1955年にはパイロットプラント(月産3トン)を稼働させ、石油化学由来の無水フタル酸に関する製造データを蓄積した。しかし、量産にはエチレンセンターへの参画が不可欠であり、財閥系や大手化学メーカーが主導するコンビナート計画に、相対的に規模の小さい日本触媒が加わることは容易ではなかった。

決断

川崎工場の新設と資本金の2倍を超える設備投資

日本触媒は、日本石油化学が川崎で新設するエチレンセンターへの参画を決断した。同コンビナートの参画企業は古河化学、昭和化学、旭ダウなど財閥系に属さない独立系メーカーで構成されており、日本触媒もその一社として誘致された。1958年に川崎で2.6万㎡の土地を取得し、1959年6月に酸化エチレンのプラント(年産5,000トン)を新設して稼働を開始した。

投資額は9.8億円に上り、当時の日本触媒の資本金4.8億円の2倍を超える規模であった。業界関係者からは「潰れる」と揶揄されたという。さらに1960年には姫路工場を新設し、川崎で製造した酸化エチレンを原料に無水フタル酸を増産する2拠点体制を構築した。投資資金を確保するため、1959年に資本金10億円、1961年に21億円への増資を相次いで実施した。

結果

石油化学転換による売上拡大と新市場の獲得

川崎工場と姫路工場の2拠点体制の確立により、日本触媒は1960年代を通じて生産量と売上高を拡大した。需要面では、無水フタル酸がポリエステル繊維の製造にも用いられるようになり、従来の塗料・塩ビに加えて3つ目の用途が加わった。1960年代の合成繊維ブームが追い風となり、市場拡大を享受した。

八谷氏は「分相応のことをやっておれば良いのに、いずれ潰れるぞと言われたが、自分の力を信じてわがままを通してきた」と振り返っている。資本金の2倍を超える設備投資は文字通り社運を賭けた判断であったが、石油化学への原料転換と国産技術による一貫生産体制の構築が、日本触媒を中小企業から中堅化学メーカーへと成長させた。