{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"4205","company_name":"日本ゼオン","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/4205/","api_url":"/api/4205/history.json","updated":"2026-08-12","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/4205/","title":"日本ゼオンの歴史概略","sections":[{"start_year":1950,"end_year":1958,"main_title":"日本軽金属の遊休設備から興した塩化ビニル専業会社（1950〜1958）","subsections":[{"title":"古河系3社と米国グッドリッチが持ち寄った資本と技術","text":"日本ゼオンは1950年4月12日、塩化ビニル樹脂の専門メーカーとして資本金500万円で設立された。戦後日本の合弁会社としては第二号だった。発起人には日本軽金属社長の草野義一氏や稲垣平太郎氏らが名を連ね、創立総会は同年4月5日に日本軽金属の社内へ置いた創立事務所で開かれ、本社も東京都中央区銀座西の同社内に置いた。日本軽金属は終戦後ただちに設備を平和産業へ転換し、一部でカーバイドの生産を始めていたが、残る遊休施設の使い道を調査していた。原料と電力の双方で好条件を持つ塩化ビニルに狙いを定め、試作と研究を続けたうえで、古河電気工業と横浜護謨を誘って新会社を興した。\n\n新会社は国内の資源と外国の技術を結び付けることを設立の前提に置いた。最優秀の品質を国際価格で生産するには優秀な外国技術との結合が必要だという結論に達し、塩化ビニル樹脂で米国第一級の技術を持つB.F.グッドリッチ・ケミカルと折衝を重ねて、外資法に基づく国内手続を終えた1951年1月に契約へ調印した。日本ゼオンは塩化ビニル及び塩化ビニリデンの製造、可塑剤D.O.P.の調製など一連の特許の実施権を得たほか、工場の設計から運転に至る指導監督と技術情報の提供も受けた。グッドリッチの登録商標「GEON」を日本で登録する権利も与えられ、これが社名の由来となった。\n\n対価としてロイヤリティは製品販売の日から1年目が売上高の1.5%、2年目が2%、3年目以降は3%と定め、グッドリッチには資本金の35%にあたる株式を割り当てた。英文社名はThe Japanese Geon Co., Ltd.とし、その頭文字JとGを組み合わせた図案を創立時から社章に用いた。工場は日本軽金属の蒲原工場の敷地内に、カセイソーダ工場と隣り合わせて建設した。原料と用役はすべて日本軽金属から受ける計画で、アセチレンガスは同社のカーバイドから、塩素と水素はカセイソーダ工場の副産物から、電力は自家発電の余剰電力を充てた。","references":[{"title":"日本軽金属二十年史（1959年）「日本ゼオンの設立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日本ゼオン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「日本ゼオン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「繊維－\"不死鳥\"よみがえる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"月産250トン設備がもたらした品質と量の優位","text":"建設は1951年3月に着工した。設計から建設、運転開始までをグッドリッチの技術で行い、1950年7月には同社の技術担当副社長W.I.バード氏が、1951年4月には技師2名が来日して指導にあたった。所要資金は6億7,500万円を見込み、増資4億9,500万円のうち1億7,500万円をグッドリッチの現物出資で賄った。完工は朝鮮戦争の影響で予定より遅れたものの、1952年5月下旬から正常運転に入った。製品は最初からグッドリッチ製と同質のものができ、電線業者やゴム業者へ輸入品を供給してきた段階から自社製品販売の段階に移った。\n\n蒲原工場は1952年5月に月産250トンの設備として完成した。当時の日本のプラスチック業界は塩ビの生産が始まったばかりで、月産50トンから100トン規模の会社が数社あるにすぎず、品質も劣っていた。そこへ既存各社の2.5倍から5倍にあたる月産250トンの体制が現れたため業界の注視を集め、品質の高さも加わって、後年、古我周二社長がゼオン旋風という語で振り返るほどの反響を呼んだ。設立時には国内の塩ビメーカー18社から猛烈な反対を受けた。日産60トンが最高能力という小規模生産体制のなかへ、一社で予定国内総生産能力の半分にもなる規模の企業が入ることが脅威と受け止められた。塩ビ工業は国内技術で達成できる産業であり、導入技術を認めれば国内の研究意欲が減退するというのが反対の論拠だった。","references":[{"title":"日本軽金属二十年史（1959年）「日本ゼオンの設立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日本ゼオン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「日本ゼオン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「繊維－\"不死鳥\"よみがえる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"高岡への拡張と原料の自社調達への移行","text":"生産設備はその後も拡張を続け、第2期計画で月産500トンへ増設したのち、1955年4月には月産700トンへ達した。同年6月期の生産高は前期実績を25%上回る2,980トンで、総売上高は7億4,000万円と前期比23%増となり、用途別の内訳は軟質用が38%、硬質用35%、電線用22%、輸出向け4%だった。この間に資本金は1951年4月に2億円、同年11月に5億円へ増え、1955年時点では稲垣平太郎氏が会長、岸野佐吉氏が社長を務めた。生産品種の拡充にも力を入れ、懸案だったペーストレジンGEON121の国産化に成功して、富山県高岡市に新工場の建設を計画した。\n\n高岡工場は1956年11月に完成し、ペーストレジンの国産化を受けて蒲原に続く第二の塩化ビニル樹脂の生産拠点となった。原料の供給関係にも変化が生じ、塩化ビニル樹脂の生産が増えるにつれて日本軽金属のカーバイド生産では追いつかなくなり、アセチレンが供給不足に陥った。日本軽金属は1955年11月末で供給を打ち切ってアセチレン発生設備一式を譲渡し、日本ゼオンは1956年1月から自社でアセチレンを発生させた。設立時に全量を日本軽金属から受けていた原料のうち、アセチレンだけが操業開始から4年足らずで自給へ切り替わった。増産は続いたものの市況は生産過剰に傾き、1957年下期以降は操業短縮に入った。","references":[{"title":"日本軽金属二十年史（1959年）「日本ゼオンの設立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日本ゼオン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「日本ゼオン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「繊維－\"不死鳥\"よみがえる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1959,"end_year":1971,"main_title":"合成ゴムの国産第1号と自社抽出技術による原料自給（1959〜1971）","subsections":[{"title":"グッドリッチの技術で始めた合成ゴムの国産化","text":"1959年7月、川崎工場が完成して合成ゴムの生産が始まった。グッドリッチ・ケミカルの合成ゴム製造技術を導入したもので、日本での合成ゴムの国産化は、これが最初の成功となった。ただし品目は特殊ゴムに限られた。1955年に山陽化学や三菱シェル・グループなど各社が合成ゴムの企業化を相次いで発表したのを受けて政府が計画間の調整に乗り出し、汎用のスチレン・ブタジエンゴムは国策会社の日本合成ゴムに一本化されたためである。日本ゼオンには特殊ゴムの製造が認められ、原料のブタジエンやアクリルニトリルは他社から買い入れた。当初の生産は月産700トンだった。同じ1959年7月1日には中央研究所を開設し、塩ビの物性や加工応用の研究開発、需要者への技術サービスにあたった。\n\n合成ゴムの需要はその後伸び、新ゴム需要に占める合成ゴムの比率は1960年から1961年にかけて20%から30%だったものが、1969年には63%から64%まで上昇した。この伸びに応えるため、1965年7月に汎用ゴムの専門工場として徳山工場を建設した。それに先立つ1961年9月には東京証券取引所へ上場を果たした。塩ビ側でも設備の配置を組み替え、土地と原料の確保という制約から生産の拡大が難しくなっていた発祥の地の蒲原工場を1967年3月に閉鎖して、高岡工場への一工場集中量産体制へ移した。\n\n塩ビの第二工場は瀬戸内海に面した岡山県の水島地区に置き、1969年8月に完成させて塩化ビニル樹脂の生産を始めた。原料の確保のため1968年3月に山陽モノマーを設立し、資本金1億2,500万円のうち半分を日本ゼオンが、残る半分を旭化成とチッソが出資して、グッドリッチの技術によるオキシクロリネーション法で塩ビモノマーを生産する計画とした。水島工場は年産3万6,000トン規模から出発した。1968年時点の資本金は60億円、従業員は2,192名、1967年度の売上高は230億円を超えていた。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1971年2月「日本ゼオンの現状と将来」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「日本ゼオン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本軽金属二十年史（1959年）「日本ゼオンの設立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"ブタジエン抽出のGPB法と外国技術からの自立","text":"川崎工場では合成ゴムの主原料であるブタジエンを他社から購入していたが、自社での抽出技術の開発が進んだ。ナフサ分解によるエチレン生産の過程で副生するC4留分からブタジエンを抽出するGPB法は、海外で開発された方法にくらべて経費が安く、純度も高い。生産技術に関する大河内記念生産特賞を受けた。徳山工場ではこの方法で年産4万5,000トンの自己抽出を行った。ナフサから塩ビモノマーを得るGPA法も開発し、高岡工場をカーバイドから石油原料へ転換して、原料の絶対量の確保と生産合理化を進めた。\n\n技術と資本の両面で、グッドリッチへの依存は段階的に解けた。塩化ビニルの技術契約は1966年に終了し、以後は自社の技術で続けた。合成ゴムについても汎用ゴムの契約が1972年に満期を迎えることが決まっており、それ以降は塩ビと同様に自社技術で進める方針だった。資本の面でも、創立当初35%を占めていたグッドリッチの出資は1970年に20%へ減り、1971年初めの時点では完全な日本資本の会社になっていた。GPA法、GPB法、GPI法という一連のGP技術の開発は、この期間に重ねられたものである。\n\n自社技術は輸出商品にもなった。GPB法は国内で千葉ブタジエン、東燃石油化学、岡山ブタジエンの3社に供与し、海外ではソ連、オランダ、米国など有力化学会社5社と技術契約を結んだ。1971年初めの時点ではハンガリーとスペインの化学会社とも交渉が続いており、これによって海外の有力企業との連携も深まった。イソプレンモノマーの抽出技術であるGPI法は世界でも経済性の高い抽出法と評され、国内をはじめ各国から技術供与の要請が相次いだ。設立時にロイヤリティを払う側だった会社が、20年ほどで受け取る側に回った。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1971年2月「日本ゼオンの現状と将来」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「日本ゼオン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本軽金属二十年史（1959年）「日本ゼオンの設立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"イソプレンゴムの企業化と生産拠点の再配置","text":"1968年、天然ゴムに分子構造と性質が最も近いとされるポリイソプレンゴムについて、国産第1号として企業化の認可を得た。天然ゴムの価格は伝統的に上下動が激しく、これに対抗する国産化には綿密な経済的見通しが要る。検討を重ねたうえで1970年末に国産化を決め、水島で工場の建設に着手した。原料となるイソプレンモノマーの抽出にはGPI法を用いる。C5留分からのイソプレンの抽出率は15%から16%と少なく、これだけではコストが高くつくため、同量含まれるシクロペンタジエンを併せて抽出することに成功して価格の引き下げを可能にした。ポリマーについては米国アメリポール社の技術に自社の開発技術を併用する形を採った。\n\n1971年初めの時点で資本金は60億円、使用総資本は576億円に達していた。塩化ビニルでは業界の生産量第1位で、高岡工場のモノマーとポリマーの生産能力が年産12万から13万トン、前年末に第3期工事を終えた水島工場が年産8万から9万トンに達した。合成ゴムは川崎工場が年産約5万トン、徳山工場がSBR約15万トンとBR約3万トンで、総能力は23万トンとなった。売上高は1970年3月期が180億円、同年9月期が193億円で、1972年3月期には240億円を見込んでいた。ポリイソプレンゴムへの投資は約80億円を予定していた。\n\n生産拠点をどこに広げるかも課題になっていた。高岡は塩ビ、水島は塩ビとイソプレンゴム、徳山は汎用ゴム、川崎は特殊ゴムと各種ラテックスと役割が分かれていたが、いずれの工場も現在地では設備拡張の余地がほとんどなく、公害問題を併せて考えると本州での規模拡大には難点が多かった。そこで苫小牧に約10万坪の土地を購入した。1970年には日本軽金属、北海道曹達、旭電化工業との4社で苫小牧ソーダを設立した。アルミナ生産に必要な苛性ソーダを日本軽金属へ供給すると同時に、併産される塩素を塩ビ原料として長期に確保する狙いがあった。苫小牧工場では第1期としてEDCを年産6万トン計画し、高岡と水島で外部から買っていた分を置き換える構想で、1971年9月頃の着工、翌年9月の稼働開始を目標に置いた。水島のGPIプラントは1971年11月に完成した。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1971年2月「日本ゼオンの現状と将来」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「日本ゼオン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本軽金属二十年史（1959年）「日本ゼオンの設立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"古我周二","role":"日本ゼオン社長（当時）","date":"1971-01-25","text":"公害関係には各工場ともいろいろ対策をたてているので、必ずしもそうとは言えない。最大の理由は増設の余地がないということである。川崎の年産5万トン、高岡の年産12〜13万トンが両工場での限度であろう。\nこの点苫小牧は立地条件も良く、企業の発展を阻害する因子はないと思う。","source":"証券アナリストジャーナル 1971年2月「日本ゼオンの現状と将来」","paragraph":3}]}]},{"start_year":1972,"end_year":1999,"main_title":"特殊ゴムでの世界展開と塩ビ事業からの後退（1972〜1999）","subsections":[{"title":"社員出身の社長が掲げた高い技術目標","text":"1979年6月、大西三良氏が社長に就任した。それまでの社長は出資したグループ各社からの派遣が続いており、前任の島村道彦氏は第一勧業銀行の出身である。大西氏は1942年10月に横浜護謨製造へ入社し、1944年8月にシンガポールのブキテマ工場長を務めたのち、設立から間もない1951年3月に日本ゼオンへ移った。企画室長、社長室長、ゴム事業部長を経て1969年に常務、1973年に専務、1974年に副社長となっており、社員出身の社長はこれが初めてだった。就任時は創業30周年を翌年に控えていた。\n\n大西社長は、創業からの30年が順調に過ぎたために社内が精神的に甘くなっていると見ていた。今後の30年の発展には高い目標を立てなければならないとして、達成の難しい水準に目標を置き、そこへ人と資金を惜しみなく投じる方針を示した。資源のない日本が伸びるには技術開発力が要るという判断が背景にあり、重点目標の一つに天然ゴムに代わる合成ゴムの開発を挙げた。ハンディキャップ20で満足していれば実力は落ちるとゴルフにたとえ、40歳や50歳になってプロになれというほどの目標だと語った。できないことをやらなければ国も企業も立ち行かないというのが理由だった。\n\n1981年8月、加工品事業部門をゼオン化成として分離・独立させた。1984年4月には高岡工場で水素化ニトリルゴムの生産を始めた。世界に先駆けた商業生産で、製造特許を押さえていたため競合が現れず、国産車を中心にタイミングベルトへの採用が急増した。素材の価格は1キログラムあたり5,000円から6,000円で、耐油性特殊ゴム全体でみても汎用のスチレン・ブタジエンゴムの2倍から20倍だった。それでも燃料ホースやタイミングベルトのような重要保安部品では、部品が原因のリコールが何十億円という損失につながるため、コストより信頼性が優先される。","references":[{"title":"日経ビジネス 1979年12月3日号「新社長登場 大西三良氏（日本ゼオン）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1990年8月27日号「日本ゼオン 技術特化で自動車部品の世界制覇もくろむ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年4月15日号「日本ゼオンの体外型ペースメーカー」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年10月11日号「新社長登場 中野克彦氏［日本ゼオン］」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年9月21日号「日本ゼオン 国際ニッチ戦略で生き残り 特殊ゴム、M&Aで首位固め」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"大西三良","role":"日本ゼオン社長（当時）","date":"1979-12-03","text":"ウチはこの30年間、大体順調にやってきたので精神的に甘くなっている面がある。ゴルフでもそうでしょう。ハンデ20で満足していると、実力が段々落ちて行きますから。今後の30年間の発展のためには高い目標を立てなければダメです。\n例えばウチでは重点目標の一つとして天然ゴムにかわる天然合成ゴムの開発に取り組んでいますが、これはハンデ2、3という程度の目標ではなく、40か50歳になってプロになれというようなものです。でも出来ないことをやらなければ国も企業も食っていけませんから。","source":"日経ビジネス 1979年12月3日号「新社長登場 大西三良氏（日本ゼオン）」","paragraph":2}]},{"title":"日米欧3極体制を築いた特殊ゴム部門の買収","text":"海外生産へ踏み切る事情は二つあった。1987年にダンピング問題で提訴されて米国へのNBR輸出が止まり、欧州ではEC市場統合を前に現地生産を立ち上げる必要が生じた。米国での買収は6、7年前から検討して数社を候補に挙げていたが決め手を欠いていたところ、B.F.グッドリッチの側から特殊ゴム部門売却の打診があった。1989年3月に英国へZeon Chemicals Europeを設立してBPケミカルズのニトリルゴム部門を買収し、4月1日から業務を始めた。同年9月には米国にZeon Chemicals USAを設立し、翌10月にB.F.グッドリッチの特殊ゴム事業を買い取った。米国では前年7月にZeon Chemicals Texasを設立しており、1990年春には水素化ニトリルゴムの自社プラントがヒューストンで稼働した。\n\n買収の総額は200億円だった。これによりNBRの世界シェアは35%近くとなり、耐油性特殊ゴムで最大手となった。生産能力は日本ゼオンの川崎・高岡・徳山3工場が4万5,000トン、米国のルイビル・ハティスバーグ・ヒューストン3工場が3万4,000トン、英国工場が1万トンで、合計8万9,000トンとなった。1990年3月期の売上高1,180億円に占める合成ゴムの割合は約62%で、耐油性特殊ゴムの売上高はさらにその半分にとどまるものの、経常利益88億円の半分近くを稼いだとみられていた。\n\n汎用品では欧米企業に対抗できないという判断があった。規模でも体力でも劣る日本の化学会社が海外へ出るには用途と機能を絞り込むほかなく、特化するほど市場は小さくなるが、1,000万台単位の自動車市場があれば成り立つと見ていた。買収した2部門はいずれも本体の事業戦略の変更で冷遇され、設備投資も行われず従業員の士気も落ちていた。かつて資本と技術を仰いだ相手から事業を買い取ったことで、日本ゼオンは出資を受ける側から買う側へ立場を替えた。BPケミカルズもかつてグッドリッチが資本参加していた会社である。ただし米国事業は1990年から1993年まで4年続けて赤字となり、雇用は守るとしていた当初の方針に反して従業員を470人から390人へ減らした。初めて配当を出したのは1996年度で、追加投資を含めた資本の投下は200億円を超えた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1979年12月3日号「新社長登場 大西三良氏（日本ゼオン）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1990年8月27日号「日本ゼオン 技術特化で自動車部品の世界制覇もくろむ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年4月15日号「日本ゼオンの体外型ペースメーカー」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年10月11日号「新社長登場 中野克彦氏［日本ゼオン］」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年9月21日号「日本ゼオン 国際ニッチ戦略で生き残り 特殊ゴム、M&Aで首位固め」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"滝澤毅","role":"日本ゼオン社長（当時）","date":"1990-08-27","text":"こう言っちゃ何だが、ウチは日本から出た自動車メーカーなどいちいち相手にしていない。米国に出るからには対象はあくまでGM、フォード。いや米国全体と言ってもいい。\n今回の海外拠点作りは一つの足がかり。出発点はゴムだが、いずれ樹脂や医療機器など新しい製品もこのルートに乗せたい。","source":"日経ビジネス 1990年8月27日号「日本ゼオン 技術特化で自動車部品の世界制覇もくろむ」","paragraph":3}]},{"title":"医療分野への進出と塩ビ事業の切離し","text":"多角化の試みは医療分野にも及んだ。東京大学の渥美和彦教授から1980年に共同研究の打診を受け、塩化ビニルペーストを使う補助人工心臓の開発に着手した。同教授はすでに動物実験の段階まで研究を進めていた。1986年に開発へこぎつけて厚生省へ承認を申請したが、症例が60例なければ受け付けられないとして退けられ、症例を集めたうえで1989年3月に再申請し、1990年1月に承認を得た。開発には40億円と10年を要したものの、補助人工心臓を必要とする患者は年間1万5,000件の心臓手術の1%にも満たず、投資は回収できなかった。\n\nこの技術は別の製品へ転用された。1990年7月、日本企業として初めて体外型ペースメーカーの生産を始めた。心電を測定して機械を作動させる仕組みが補助人工心臓と共通していたため、実際の開発期間は半年で済んだ。重さ40グラム、価格はカテーテルとのセットで10万円と従来品の5分の1から10分の1に抑えた使い捨て型で、寿命は3日間に限った。ただし病院は装着手術の技術料で採算を取る構造にあり、販売業者が埋め込み型を売るために体外型を無償で病院へ供与している実態もあって、販売は数百台にとどまった。\n\n1990年11月には水島工場でシクロオレフィンポリマーのプラントが生産を始めた。1993年6月、中野克彦氏が社長に就任した。1956年に入社し、常務時代には水素化ニトリルゴムの市場開拓を担当して、同じ製品で安値攻勢をかけてきたドイツのバイエルに対抗した経歴を持つ。同年9月中間期の経常損益は19億円の赤字だった。1995年7月には塩ビ事業を切り離し、住友化学、トクヤマとの統合会社である新第一塩ビへ移管した。その後も1996年4月に米沢工場、同年5月にタイ、1997年12月にシンガポールへ拠点を設け、1998年5月にはダウ・ケミカルと低燃費タイヤ向けの合成ゴムで提携した。1997年度は合成ゴム事業が営業利益118億円を稼いだ一方、それ以外の新規事業は売上480億円に対して営業赤字15億円だった。","references":[{"title":"日経ビジネス 1979年12月3日号「新社長登場 大西三良氏（日本ゼオン）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1990年8月27日号「日本ゼオン 技術特化で自動車部品の世界制覇もくろむ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年4月15日号「日本ゼオンの体外型ペースメーカー」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年10月11日号「新社長登場 中野克彦氏［日本ゼオン］」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年9月21日号「日本ゼオン 国際ニッチ戦略で生き残り 特殊ゴム、M&Aで首位固め」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":2000,"end_year":2026,"main_title":"創業事業の塩ビ撤退と高機能材料への組み替え（2000〜2026）","subsections":[{"title":"50年続けた塩ビからの撤退と光学フィルムへの投資","text":"2000年3月、水島工場での塩ビ生産を打ち切って塩ビ事業から撤退した。創業以来の主力事業を50年で手放した。1950年の設立は塩化ビニル樹脂の国産化そのものが目的であり、社名も導入先の商標に由来していた。塩ビ業界では1995年に日本ゼオン、住友化学、トクヤマによる新第一塩ビが、1996年に東ソー、三井化学、電気化学による大洋塩ビが事業統合会社として発足していたが、国内需要の縮小で過剰は解消しなかった。統合各社と上位企業との収益力の差はかえって広がり、2001年度に新第一塩ビは20億円弱の営業赤字を計上した。\n\n塩ビに代わる柱として光学フィルムに投資した。2000年7月に東京材料を中核商社としてグループに入れ、2001年12月にはオプテスの高岡製造所を建てている。2003年6月に古河直純氏が社長に就任し、同年9月には会社分割でDCPD-RIM事業部門をRIMTECへ譲渡した。2005年3月には本社を千代田区丸の内の現在地へ移した。光学フィルムの拠点は2007年9月に富山県氷見市の氷見製造所、2013年3月に福井県敦賀市の敦賀製造所と広がった。2019年4月にはオプテスから佐野工場を分社化してゼオンオプトバイオラボを設立し、2022年1月にはオプテスとゼオンナノテクノロジーを吸収合併している。\n\n連結の売上高は2002年3月期の1,912億円から2008年3月期には3,029億円まで伸びた。撤退の負担が残る2002年3月期の当期純利益は0.3億円にとどまった。ただし金融危機の影響で2009年3月期の経常利益は38億円へ落ち込み、2010年3月期の売上高は2,259億円まで下がった。その後は2011年3月期に売上高2,704億円、経常利益336億円へ戻した。塩ビを手放した時点の主力は合成ゴムで、光学フィルムとシクロオレフィンポリマーを含む高機能材料が売上を伸ばすのは、これ以降である。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年9月4日号「過剰 三菱化学、東亞合成の事業統合でも道半ば 塩ビの見えない終着点」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年8月10日号「化学業界 国内需要縮小で始まった\"生き残り再編\"第2幕」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015年11月27日号「投資の視点 次世代繊維 軽くて強い\"夢の新素材\"」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2014年12月19日号「2015年大予測 化学 エチレンなど需給改善」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本ゼオン アナリスト向け決算説明会 主な質疑応答記録（2023年7月〜2025年4月）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"カーボンナノチューブと電池材料への展開","text":"2013年6月、田中公章氏が社長に就任した。同年3月には塗料メーカーのトウペを公開買付けにより子会社化した。2015年11月には徳山工場にカーボンナノチューブの製造プラントを竣工した。産業技術総合研究所が大量生産法を開発したことで実現したもので、それまで導電助剤など用途の限られていた素材の量産ラインが稼働した。蓄電装置やタイヤ向けの採用が見込まれた。2017年10月には米国にZeon Specialty Materialsを設立し、翌年1月から営業を始めた。田中社長は2023年6月まで10年にわたってその職にあった。\n\n合成ゴムでは他社との共同事業に踏み込んだ。2017年4月、住友化学とS-SBR事業を経営統合してZSエラストマーが営業を開始した。低燃費タイヤ向けのソリューションSBRは各社が能力を増やしていた製品で、日本ゼオンと旭化成はいずれもシンガポールで新工場を稼働させていた。ただしこの統合は7年で終わり、2024年9月に住友化学との合弁を解消し、同年10月にZSエラストマーを吸収合併した。アジアの拠点は2010年12月のシンガポールでの生産会社設立に続き、2011年の韓国と中国、2012年のベトナム、2015年のインドへと広がった。\n\n営業利益は2022年3月期に444億円へ達し、連結売上高3,617億円、当期純利益334億円を記録した。ところが翌2023年3月期の営業利益は272億円、2024年3月期は205億円まで落ちた。エラストマー素材の押し下げの主因は化成品で、水島工場の定期修繕による固定費の増加と、新型コロナウイルス下で伸びた電子商取引向け粘着剤の需要が反動で落ちたことが重なった。エラストマー素材事業の営業利益は前年比で35億円減った。高機能材料も2023年3月期の183億円から2024年3月期は132億円へ減り、両事業がそろって落ちた。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年9月4日号「過剰 三菱化学、東亞合成の事業統合でも道半ば 塩ビの見えない終着点」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年8月10日号「化学業界 国内需要縮小で始まった\"生き残り再編\"第2幕」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015年11月27日号「投資の視点 次世代繊維 軽くて強い\"夢の新素材\"」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2014年12月19日号「2015年大予測 化学 エチレンなど需給改善」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本ゼオン アナリスト向け決算説明会 主な質疑応答記録（2023年7月〜2025年4月）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"汎用ゴムの縮小と資本効率の見直し","text":"2023年6月、豊嶋哲也氏が社長に就任した。1989年4月の入社で、2013年1月に高機能樹脂・部材事業部長、2015年6月に執行役員、2020年6月に総合開発センター長として常務執行役員を務めた。汎用ゴムについては、コストリーダーシップを取れない製品を見直して事業構成を変える方針を掲げ、2026年度から徳山工場のエラストマー製造設備の60%を段階的に停止することを決めた。停止はE-SBRのラインから始める。一方で化成品はC5事業全体のモノマーバランスを決める事業と位置づけ、やめる選択肢は持たないとして、コスト低減と組織の見直しに着手した。\n\n高機能材料では投資を続けた。55インチ以上の大型テレビ向け位相差フィルムは事実上の標準となっており、山口県の周南地区にシクロオレフィンポリマーの新プラントを2028年度の稼働で建設し、川崎の共創イノベーション施設は2026年度の稼働を予定する。2020年10月には敦賀工場へ大型テレビ用光学フィルムの新規ラインが竣工し、2024年3月には高岡工場にシクロオレフィンポリマーのリサイクルプラントを建てた。2024年1月の能登半島地震では氷見の光学フィルム工場が被災し、営業利益で約4億円、当期純利益で約18億円の影響が出た。電池材料では中国で主流となったLFP系電池向けを現地生産へ移し、負極用バインダーの技術を珠海辰玉新材料科技へライセンスし、合弁会社が中国国内で販売した。\n\n資本市場への対応も課題になった。経営陣はPBRが1倍を割る株価を問題と捉え、2024年5月から100億円を枠とする自己株式の取得に入り、同年10月には枠を200億円へ広げた。2024年度は配当性向が70%を超え、総還元性向は100%を超えた。自社が持つ他社株式の縮減も前倒しで進め、2024年3月期には投資有価証券売却益255億円を計上して、営業利益205億円を上回る当期純利益311億円を確保した。株主の側でも変化が起きた。設立母体である横浜ゴムの持株比率は2022年3月期の10.59%から2024年3月期には3.61%へ下がり、2025年3月期には上位10位から外れた。2025年3月期の売上高は4,206億円、営業利益は293億円で、翌2026年3月期は売上高4,120億円、営業利益364億円、当期純利益362億円となった。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年9月4日号「過剰 三菱化学、東亞合成の事業統合でも道半ば 塩ビの見えない終着点」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年8月10日号「化学業界 国内需要縮小で始まった\"生き残り再編\"第2幕」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015年11月27日号「投資の視点 次世代繊維 軽くて強い\"夢の新素材\"」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2014年12月19日号「2015年大予測 化学 エチレンなど需給改善」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本ゼオン アナリスト向け決算説明会 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