{"title":"サントリーホールディングスの歴史概略","sections":[{"start_year":1899,"end_year":1945,"main_title":"洋酒に賭けた大阪の商店から株式会社寿屋へ","subsections":[{"title":"赤玉ポートワインが作った元手と株式会社化","text":"1899年2月、鳥井信治郎は大阪で鳥井商店を開いた。当時の日本で洋酒は輸入品が主であり、国産品は模倣の域を出ていない。信治郎が選んだのは、輸入ワインをそのまま売ることではなく、日本人の味覚に合わせて甘味を加えた葡萄酒を自分で調合することだった。1902年8月には個人経営のまま、甘味葡萄酒「赤玉ポートワイン」をはじめとする洋酒類の製造に着手している。舶来品を右から左へ流す商いではなく、原酒を仕入れて自社で味を作る商いを選んだことが、以後の同社の性格を決めた。この一品が、その後20年にわたって事業の資金を生み続けた。\n\n販路が広がるにつれて事業の形も改まった。個人経営から合資会社の時代を経て、1921年12月、資本金200万円で株式会社寿屋を設立する。『会社銀行八十年史』はこの経緯を「その後漸次販路を拡張するとともに基礎を固め、合資会社時代を経て大正十年十二月資本金二百万円の（株）寿屋を創立し、業界に確固たる地歩を占めるに至つた」と記した。洋酒という当時としては新奇な商品で、大阪の一商店が20年あまりで株式会社になった計算になる。この20年で蓄えた資金と販路が、次に控えていた長期投資を支える原資となった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史「壽屋」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史「14_醸造 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"サントリーホールディングス 有価証券報告書 第17期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"経済人11（日本経済新聞社、1980年）竹鶴政孝「私の履歴書」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"資本が寝ることを承知で始めたウイスキー","text":"1923年、寿屋は本格ウイスキーの国産化に着手し、山崎に蒸溜所を建設した。当時この事業が国内で手つかずだった理由を、『会社銀行八十年史』は技術ではなく資金の問題として説明している。「資本が長期間固定するため、従来国内ではその醸造が不可能視されていた」。ウイスキーは仕込みから出荷まで数年を要し、その間ずっと資金が寝る。売れるかどうかも分からない酒に、数年ぶんの運転資金を先に沈める判断であった。赤玉ポートワインが毎年生む現金がなければ、着手そのものが成り立たない。技術的な難所より先に、資金繰りの壁が立っていた事業だった。\n\n技術を担ったのは、スコットランドで醸造を学んで帰国した竹鶴政孝である。竹鶴はのちに寿屋を離れてニッカウヰスキーを興すが、自身の回想では、留学を実らせる場を与えたのが鳥井信治郎だったと書いている。「寿屋（サントリーの前名）の鳥井信治郎社長（故人）が洋酒の将来性を確信して、ウイスキーづくりに」踏み切らなければ、自分を見習い技師として採用する工場があったかどうかは疑わしい、という述懐である。1929年、国産第1号となる「サントリーウイスキー」が世に出た。着手から6年が経っていた。八十年史はこれを「世界の銘酒として、寿屋の洋酒陣に光彩を添えた」と書き、1937年には「角瓶」が続いた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史「壽屋」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史「14_醸造 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"サントリーホールディングス 有価証券報告書 第17期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"経済人11（日本経済新聞社、1980年）竹鶴政孝「私の履歴書」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"戦前に一度手放していたビール事業","text":"戦前の寿屋は、ビールにも手を出している。1934年、同社は麦酒部を東京麦酒株式会社として分離した。当時のビール業界は整理と統合が進んだあとで、1939年時点の内地のビール会社は大日本麦酒・麒麟麦酒・東京麦酒・桜麦酒の4社にまで絞られている。寿屋の系譜を引く東京麦酒は、その一角を占めていた。しかし1943年、戦時の企業整備によって東京麦酒は閉鎖される。改組から9年での消滅であり、寿屋が戦前に築いたビールの製造基盤はここで途切れた。1963年にサントリーがビールへ参入したとき、それは初挑戦ではなく、30年前に手放した事業への復帰だった。\n\n戦中から戦後にかけての数年は、洋酒事業にとっても平時ではなかった。八十年史は寿屋について「九年より二十五年までの間は台風、戦禍等災害が相つづいたが、それを克服し」と短く記す。1934年から1950年までの16年、同社は自然災害と戦災に続けて見舞われていた。酒類は原料が主食と競合するため、戦中戦後の食糧事情がそのまま減産に直結する業種でもある。国内の清酒生産高は戦前の年間400万石台から、1948酒造年度には67万石まで落ち込んだ。この環境を通り抜けたうえで、寿屋は戦後の大衆酒市場に向き合った。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史「壽屋」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史「14_醸造 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"サントリーホールディングス 有価証券報告書 第17期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"経済人11（日本経済新聞社、1980年）竹鶴政孝「私の履歴書」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1946,"end_year":1990,"main_title":"佐治敬三の30年とビールという「苦労のタネ」","subsections":[{"title":"トリスバーと「追い討ちのマーケティング」","text":"戦後、寿屋は大衆向けの「トリスウイスキー」を出し、高価だった洋酒を大衆酒に置き換えた。1952年2月には資本金が4800万円となり、大阪本社のほかに支店1・営業所3・工場10・農場1を構えるまでになる。この時期の販売を支えたのがトリスバーだが、この業態は同社の企画ではなかった。佐治敬三は1977年の取材でこう明かしている。「うちにとって非常に大きな推進力になったトリスバーは、われわれのアイデアではなく、たまたま東京と大阪で同時にこういう店を始めたいんだとズブの素人の方がいうてきはりました。この話を聞いて『こりゃ、いけるで』と追い討ちをかけたんです」。\n\n佐治はこの型を「追い討ちのマーケティング」と呼び、需要を先に読む発想そのものを否定した。「消費者ニーズの先取りなど、できまへん」というのが取材の冒頭に置かれた言葉である。「変化しつつある消費者のニーズを先取りなんてできない相談ですから、なるべく早くつかまえる。芽を出すか出さないかというときにキャッチして、それに追い討ちをかける」。市場を作るのではなく、市場に生じた芽を誰より早く見つけて資源を集中する。「走ろうとする馬にムチをあてるのが追い討ちのマーケティング」とも述べており、トリスバーの全国展開はその最初の成功例にあたる。","references":[{"title":"日経ビジネス 1977年3月14日号「ニーズの先取りなどできまへん 佐治敬三氏（サントリー社長）が語る“追い討ち”のマーケティング」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2006年12月9日号「プレミアムモルツに懸けるビール事業の赤字に終止符？ サントリー、44年目の悲願」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 1999年11月13日号「生活文化産業を唱導した陽気な財界ガキ大将 サントリー佐治会長逝く」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2023年5月27日号「サントリー創業家が抱く『酒類日本一』の野望」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史「壽屋」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"40年以上も黒字にならなかったビール事業","text":"1961年、創業者の次男である佐治敬三が社長に就任した。その2年後の1963年4月、同社はビール事業に参入して「サントリービール」を発売し、同じ年に社名を寿屋からサントリー株式会社へ改めている。当時の売上高は約300億円で、大手ビール3社の売上高合計はその10倍近くあった。市場規模から見れば無謀な参入になる。参入の理由を、佐治は事業機会ではなく社内の緊張に置いていた。自伝『へんこつなんこつ』ではこう述べている。「ウイスキー事業は、オールド、トリスを基軸に順風に恵まれていた。しかし、このままでは会社の将来が不安だ。社内の空気をピンと緊張させるためにも、ひそかに暖めてきた最難関のビール事業に敢えて挑戦しようと決意した」。\n\n主力が順調なうちに、あえて勝てない市場へ出るという読み自体は外れていない。洋酒事業はのちに右肩下がりへ転じ、緊張が必要になる日は実際に来た。誤算は別のところにある。発売直後の失敗は需要不足ではなく供給の失敗として起きた。前評判が効きすぎて品切れを起こし、消費者が酒屋へ行っても商品がない。その結果「サントリーは宣伝だけで肝心のビールがない」という評判が立ち、営業担当者は土日を返上して酒屋を回っても返品のほうが多いという状態に置かれた。製造担当者はのちにこれを「デビルズサイクル」と呼んでいる。ビールは鮮度が命であり、店頭で売れ残ると劣化して味が落ち、ますます売れなくなる。この循環が43年間続いた、というのが当事者の総括だった。\n\nそれでも撤退しなかった理由を、佐治は損得ではなく効用で説明している。1977年の取材で、ビール参入が経営にもたらしたものを問われ、こう答えた。「ビールを始めようと思った時にはウイスキーがここまで伸びるとも考えてなかったんですよ。結局ビールをやることでウイスキーの商売もバイタライズされたんですね。ビールを売る苦しみがわかるとウイスキーも殿様商売ではいかんということで営業部門全体が原点に帰れたと思うんです」。赤字事業が主力事業の緩みを正した、という見方になる。同じ取材で佐治は「苦労のタネがなくなると、生きてる甲斐がなくなると違いますか」とも語り、ビールがまだ赤字であることを自ら認めていた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1977年3月14日号「ニーズの先取りなどできまへん 佐治敬三氏（サントリー社長）が語る“追い討ち”のマーケティング」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2006年12月9日号「プレミアムモルツに懸けるビール事業の赤字に終止符？ サントリー、44年目の悲願」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 1999年11月13日号「生活文化産業を唱導した陽気な財界ガキ大将 サントリー佐治会長逝く」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2023年5月27日号「サントリー創業家が抱く『酒類日本一』の野望」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史「壽屋」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"決算は公表する、しかし株式は公開しない","text":"1976年、サントリーは未公開企業でありながら決算数字を公表した。動機は情報公開の理念ではなく、その逆にある。「もともと、全部秘密にしといたわけじゃないんで。どこからともなく漏れましてね。そういう状況が2〜3年続いたもんですから。おまけに漏れた場合というのは、必ずしも正しい数字で漏れてはくれない。それなら責任ある数字を責任ある場所で公表した方が誤解がなくていいだろう」。数字が外へ出ること自体は止められないと認めたうえで、出方だけを自社で管理する判断だった。取材者から「こんなに儲かってたのか、という声もあったようですね」と問われると、佐治は「若干それもあったかも知れませんね」と笑って応じている。\n\n一方で株式公開には踏み切らなかった。理由は2つある。ひとつは市場への不信で、佐治は「現在の株式市場と、それを受けた配当のあり方、これが少しゆがんでいるような気がする」と述べた。安定配当が当然とされる市場では、株式を持つ利点は売却益にしか残らない。「法人が持ってれば金利は費用で落ちる。配当は別途に入ってくるから個人で持つのとは全然利回りが違う」とも語り、法人株主に偏った市場では個人株主の立場が成り立たないことを問題にしている。もうひとつは、そもそも公開する必要がなかったことである。「ウイスキーの商売は設備投資にそんなに金いりませんし、貯蔵分にしても年々増えるその分だけ資金調達すればいいんです。幸いにして今までのところは、早く言えば儲かってますし、それプラス借入金で十分まかなえるわけです」。\n\n後者の条件は見落とせない。非上場は理念だけで維持できるものではなく、外部資本を必要としない事業構造があって初めて選べる。佐治自身も公開を永久に否定してはおらず、「日本の株式市場もそうした方向に向かっていく目安がつけば公開してもいいと思っておるんです」と含みを残していた。社員持株は当時5〜6%あり、佐治はそれを経営参加の手段としてはあまり評価せず、「むしろ日常の仕事の場での参加ができるか否かの方が重要じゃないかと思います」と述べている。資金需要が小さいという前提が崩れたとき、この選択は再検討を迫られる。実際にそうなるのは、それから30年以上あとのことになる。","references":[{"title":"日経ビジネス 1977年3月14日号「ニーズの先取りなどできまへん 佐治敬三氏（サントリー社長）が語る“追い討ち”のマーケティング」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2006年12月9日号「プレミアムモルツに懸けるビール事業の赤字に終止符？ サントリー、44年目の悲願」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 1999年11月13日号「生活文化産業を唱導した陽気な財界ガキ大将 サントリー佐治会長逝く」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2023年5月27日号「サントリー創業家が抱く『酒類日本一』の野望」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史「壽屋」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1991,"end_year":2013,"main_title":"非上場を保ったまま世界と向き合った20年","subsections":[{"title":"主力が縮み、清涼飲料が代わりに立った","text":"ウイスキー市場は1983年をピークに縮小へ転じ、主力の「オールド」の販売本数は最盛期の1240万ケースから4分の1程度まで落ち込んだ。1990年代のサントリーの経営は「危機レベル」と評される状態にある。酒類はウイスキーが下げ止まらず、ビールは1963年の参入以来40年近く赤字が続いていた。稼ぐはずの事業が両方とも傾いた形になる。1990年に代表権を持つ副社長へ就いた佐治信忠は、ウイスキーの縮小を補うためにチューハイ・焼酎事業へ参入し、「ウイスキーのサントリー」からの脱皮を進めた。\n\n穴を埋めたのは清涼飲料である。1981年の「サントリーウーロン茶」を足がかりに、1992年に缶コーヒー「BOSS」、1994年に「C.C.レモン」、1998年に「なっちゃん」と当たりが続き、清涼飲料は営業利益の7割を稼ぐまでになった。酒類でも1994年に国内初の発泡酒「ホップス」を出し、ビールより40円安い価格が受けて大きく売れている。ただし発泡酒はサッポロ、キリン、アサヒが順に追随して競争が激化した。1999年発売の「マグナムドライ」は一時シェア10%超を記録しながら、広告販促費に食われて赤字となる。当たりを出しても利益が残らない点で、この時期の清涼飲料と発泡酒は共通していた。\n\n2001年に社長へ就いた佐治信忠は、ビールの立て直しを高価格帯で試みた。2003年発売の「ザ・プレミアム・モルツ」に資源を集中し、主力の「モルツ」を犠牲にしてでもマーケティングを寄せる。2005年にはプレミアム戦略部を設け、鳥井信宏が指揮を執った。プレミアム価格帯の商品は値引きも販促費も要らず、飲食店向けの生ビールを従来品から置き換えるだけで採算が改善する。2008年、ビール事業は参入46年目にして初の黒字となり、シェアも業界3位に上がった。佐治敬三が「苦労のタネ」と呼んだ事業が利益を出すまでに、2代の社長と45年を要したことになる。","references":[{"title":"東洋経済 2014年7月4日号「巻頭特集 名門はプロ社長に頼った サントリー 創業116年目の決断」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2010年4月24日号「キリンとサントリー統合はなぜ実現できなかったのか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2012年12月23日号「子会社上場に動くサントリーの思惑」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2006年12月9日号「サントリー、44年目の悲願」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"サントリーホールディングス 有価証券報告書 第17期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"統合比率0.5という値付けと交渉の決裂","text":"2009年2月、サントリー株式会社は株式移転によりサントリーホールディングス株式会社を設立し、同年4月に純粋持株会社制へ移行した。事業はサントリー食品・サントリーワインインターナショナル・サントリープロダクツなど複数の会社へ分割して承継されている。同じ年の11月には欧州のOrangina Schweppes Holdingsを約3500億円で買収した。海外へ出るための持株会社体制と、その資金の使い道を、この年に相次いで決めている。翌年に控えていた交渉を思えば、上場企業と対等に組むための構えを先に整えた年でもあった。\n\n2009年から2010年にかけて、サントリーはキリンホールディングスとの経営統合を交渉した。動機は海外展開だけではない。国内の採算そのものが両社の課題だった。ビール世界最大手アンハイザー・ブッシュ・インベブの営業利益率が27.8%だったのに対し、キリンは5.6%、酒税を除いても6.6%にとどまる。佐治信忠も「日本のビール会社は営業利益率が低すぎる。せめて10%くらいに上げていかないといけない」と述べていた。キリンは営業利益の7割強、サントリーは8割強を国内で稼いでおり、海外へ出るにも国内の収益が担保として要る状態にある。国内飲料市場は参入企業が多く、大手メーカーの年間新商品数は百を超えていた。\n\n2010年2月、交渉は破談に終わった。決裂の理由について、サントリー側は統合比率を挙げ、キリン側の加藤壹康は「統合比率の話にすら至っていない」と述べており、説明が食い違っている。キリンが示した比率はキリン1に対しサントリー0.5で、サントリーの企業価値をキリンの半分と評価するものだった。サントリーでは創業家が約9割の株式を握っており、比率次第では創業家の新会社への出資比率が3分の1を超える。その状態を避けたいキリンと、対等にこだわるサントリーの双方が譲らなかった。破談後、佐治は「キリンはルビコンを渡れなかった」と語ったが、同じことはサントリー側にも当てはまる。両社とも収益は右肩上がりで、一方が救済される形の統合ではないため、譲る側がいなかった。","references":[{"title":"東洋経済 2014年7月4日号「巻頭特集 名門はプロ社長に頼った サントリー 創業116年目の決断」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2010年4月24日号「キリンとサントリー統合はなぜ実現できなかったのか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2012年12月23日号「子会社上場に動くサントリーの思惑」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2006年12月9日号「サントリー、44年目の悲願」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"サントリーホールディングス 有価証券報告書 第17期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"本体は非上場のまま、子会社だけを上場させる","text":"破談の直後、佐治信忠は「パブリックカンパニー（上場企業）は難しい。やはりプライベートがいい」と漏らしている。とはいえ資金の問題は残った。2011年末の有利子負債は6600億円で自己資本を上回り、D/Eレシオは1.28倍に達する。競合のアサヒグループホールディングスは3900億円・0.6倍だった。手元の現金および現金同等物は2881億円で、佐治がかねて必要と語っていた「3000億〜4000億円規模のM&A」を続けるには足りない。良い海外案件ほど資本力のある海外飲料大手や外資系ファンドとの競争になり、そこで戦うには借入と社債だけでは限界があった。\n\n2013年7月、サントリーはホールディングス本体ではなく、飲料・食品事業を担う子会社サントリー食品インターナショナルを東京証券取引所市場第一部に上場させた。経営の自由度を保ちながら資金を調達する解として、酒類より業界シェアの高い飲料・食品を選び、本体の議決権には手を触れない構成にしている。上場時の時価総額は1兆円規模とみられ、前年に国内最高額で上場した日本航空を上回った。同年9月には、その子会社が英グラクソ・スミスクラインの飲料事業を約2100億円で買収する。「Lucozade」「Ribena」の製造・販売を引き継ぎ、欧州での足場を広げた。\n\nこの構成に批判がなかったわけではない。東京証券取引所は2007年に、子会社上場について「必ずしも望ましい資本政策とはいえない」との見解を示し、少数株主の権利への一層の配慮を求めていた。親会社の出資比率が高いままでは、役員の選定や株式が希薄化しかねない増資の判断で、子会社の少数株主の声が通りにくいという指摘もある。それでもサントリーは、非上場の利点と資金調達を両立させる方法としてこの形を選んだ。1977年に佐治敬三が語った「公開してもいい」という含みは、結局本体には適用されず、子会社の側で果たされたことになる。","references":[{"title":"東洋経済 2014年7月4日号「巻頭特集 名門はプロ社長に頼った サントリー 創業116年目の決断」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2010年4月24日号「キリンとサントリー統合はなぜ実現できなかったのか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2012年12月23日号「子会社上場に動くサントリーの思惑」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2006年12月9日号「サントリー、44年目の悲願」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"サントリーホールディングス 有価証券報告書 第17期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":2014,"end_year":2025,"main_title":"1兆6500億円の買収と創業家以外から来た社長","subsections":[{"title":"1兆6500億円で30年分の時間を買う","text":"2014年1月、サントリーホールディングスは米蒸留酒大手Beam Inc.の買収を発表し、同年5月に完了した。買収額は160億ドル、日本円で約1兆6500億円にのぼり、2013年度の売上高2兆円に迫る規模となる。佐治信忠はこの額をこう評した。「1兆7000億円という額は、確かに高いっちゃ高い。だが、30年分のグローバルな成長、この時間を買うと考えれば、高い買い物ではない」。ビームは「ジムビーム」「メーカーズマーク」を抱えるバーボンの大手で、この買収によりサントリーは蒸留酒メーカーとして世界3位に浮上した。国産ウイスキーの縮小に30年苦しんだ会社が、蒸留酒の本場そのものを買った形になる。\n\n交渉でサントリーは足元を見られている。2013年11月にビームのマシュー・J・シャトックCEOが来日して佐治と会談し、翌日には取締役会へ書簡を送った。ビーム側は書簡を受け取ってから1週間以内に別の大手海外酒類メーカーへ買収の意思を打診したうえで、サントリーの初期提案を拒否する。打診先の反応は「買収は考えられなくもないが、全事業を買収する可能性は薄い」と鈍かったが、ビームは増額をのまないかぎり交渉に応じなかった。2カ月の交渉で、サントリーは二度の増額を経て1株83.5ドルで合意する。初期提案より総額で1000億円弱高い金額であり、買い手の意欲が読まれていた分を上乗せして払ったことになる。\n\n価格の妥当性については当時から評価が割れていた。M&Aに詳しい一橋大学大学院の服部暢達客員教授は「上場企業のM&Aは、株価に30〜50%のプレミアムがつくのが一般的。今回の25%は決して高くない」と述べる一方、同じ服部は「ビーム社の直近の業績では売上高の成長が鈍化しているうえ、肝心の新興国が伸び悩んでいる」とも指摘した。会計面の負担も重い。買収で発生するのれんは約9000億円と推定され、最長20年償却でも年450億円、買収に伴う借入の利息増が年100億円規模で見込まれる。ビームの営業利益は2013年度で約630億円だったから、これらを差し引けば利益貢献は限られる。格付け会社のムーディーズ・ジャパンは、有利子負債の増加を理由に投資格付けを格下げ方向で見直すと発表した。","references":[{"title":"東洋経済 2014年3月28日号「サントリーＨＤ 蒸留酒市場で世界３位へ ビーム社巨額買収の勝算」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2014年7月4日号「巻頭特集 名門はプロ社長に頼った サントリー 創業116年目の決断」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2023年5月27日号「サントリー創業家が抱く『酒類日本一』の野望」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1977年3月14日号「ニーズの先取りなどできまへん」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"サントリーホールディングス 有価証券報告書 第17期（2025年12月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"創業家以外から迎えた、初めての社長","text":"2014年7月1日、サントリーホールディングスはローソン会長兼社長だった新浪剛史を社長に迎えた。創業家以外から社長を出すのは創業以来初めてになる。佐治信忠は会長へ退き、「サントリーに新しい風を吹き込んでもらいたい」と述べた。小売業からメーカーへの転身であり、飲料業界で圧倒的な販売量を持つセブン‐イレブンとの関係を損ないかねない人事でもある。佐治は記者会見で「たまたまローソンの人だっただけ」とかわしている。新浪は就任会見で「サントリーの文化を継承し、真のグローバル企業として成長を目指したい」と抱負を述べた。創業家は資本を握ったまま、経営の執行だけを外部へ開いたことになる。\n\n経営の担い手を外部に開いた一方で、資本の構造は動いていない。2022年7月には、サントリースピリッツがサントリーBWS・サントリービール・サントリーワインインターナショナル・サントリー酒類の事業を吸収合併し、サントリー株式会社が発足した。社長には鳥井信治郎の曾孫にあたる鳥井信宏が就いている。鳥井は大株主である寿不動産の社長を兼ね、自らの立場を「創業家出身であることに気負いはなく、ただの『事実』だと思っている」と説明する。同時に「今後10年以内にサントリーを日本で1番の総合酒類メーカーにしたい」とも述べ、国内酒類での首位を目標に掲げた。1963年に参入したビールは、いまも同社が首位を取れていない市場である。","references":[{"title":"東洋経済 2014年3月28日号「サントリーＨＤ 蒸留酒市場で世界３位へ ビーム社巨額買収の勝算」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2014年7月4日号「巻頭特集 名門はプロ社長に頼った サントリー 創業116年目の決断」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2023年5月27日号「サントリー創業家が抱く『酒類日本一』の野望」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1977年3月14日号「ニーズの先取りなどできまへん」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"サントリーホールディングス 有価証券報告書 第17期（2025年12月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"非上場を支える株主構成と、その前提条件","text":"2025年12月期の売上収益は3兆4325億円（酒税込み）、営業利益は2212億円、当期利益は866億円である。売上収益は佐治信忠が社長に就いた2001年の1.4兆円から2.4倍になった。連結従業員数は41,628人で、提出会社の平均年間給与は1176万円だった。株主構成を見ると、寿不動産株式会社が89.50%、サントリー持株会が5.07%を保有し、以下は三菱UFJ銀行・三井住友銀行・三井住友信託銀行・日本生命保険が各1.00%と続く。上位2者で94.57%を占め、残りを取引金融機関と生命保険会社が分け合う形になる。創業家の資産管理会社が9割を握る構造は、1899年の創業から126年を経ても変わっていない。\n\nただし、この構造を支えてきた条件は同じではない。1977年に佐治敬三が公開不要の根拠として挙げたのは、ウイスキー事業の設備投資が軽く、利益と借入で資金需要をまかなえることだった。現在のサントリーは、ビーム買収で1兆6500億円を投じ、有利子負債とのれんを抱えた企業である。2013年に飲料・食品事業の上場へ踏み切ったのも、本体の資金力だけでは大型買収を続けられなかったためにほかならない。非上場という選択は理念として保たれているが、それを可能にしていた「金のいらない商売」という前提のほうは、すでに同社の主力から外れている。同じ選択を続けられるかどうかは、次の資金需要の大きさが決めることになる。","references":[{"title":"東洋経済 2014年3月28日号「サントリーＨＤ 蒸留酒市場で世界３位へ ビーム社巨額買収の勝算」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2014年7月4日号「巻頭特集 名門はプロ社長に頼った サントリー 創業116年目の決断」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"東洋経済 2023年5月27日号「サントリー創業家が抱く『酒類日本一』の野望」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1977年3月14日号「ニーズの先取りなどできまへん」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"サントリーホールディングス 有価証券報告書 第17期（2025年12月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1976年に決算を公表しながら、株式は公開しなかったのか","a":"決算公表の理由を、佐治敬三は理念ではなく実務で説明している。数字は「どこからともなく漏れましてね」という状態が続いており、「漏れた場合というのは、必ずしも正しい数字で漏れてはくれない」ためであった。一方で株式公開は見送った。当時の株式市場と配当のあり方が「少しゆがんでいるような気がする」という市場への不信に加え、そもそも資金需要が小さかったからである。「ウイスキーの商売は設備投資にそんなに金いりません」と佐治は語っていた。創業家が9割を握る構造は続き、2025年12月期も寿不動産株式会社が89.50%を保有する。"},{"q":"なぜ1963年に参入したビール事業を、40年以上赤字のまま続けたのか","a":"参入時の売上高は約300億円で、大手ビール3社の売上高合計はその10倍近くあった。佐治敬三は動機を市場機会ではなく社内の状態に置き、自伝で「社内の空気をピンと緊張させるためにも、ひそかに暖めてきた最難関のビール事業に敢えて挑戦しようと決意した」と述べている。発売直後の品切れから悪循環に陥り、以後40年以上この事業は黒字にならなかった。撤退しなかった理由を、佐治は「ビールを売る苦しみがわかるとウイスキーも殿様商売ではいかん」という効用で説明している。2008年、参入46年目で初の黒字となりシェアも業界3位に上がった。"},{"q":"なぜ2014年に年間売上高へ迫る1兆6500億円で米ビームを買ったのか","a":"直前に2つのことが起きていた。ひとつは国内再編の頓挫で、2010年2月にキリンとの統合交渉が破談した。統合比率はキリン1に対しサントリー0.5で、創業家が約9割を握る資本構成が折り合わなかった。もうひとつは資金の手当てで、2013年7月に子会社サントリー食品インターナショナルを上場させ、本体を非上場に保ったまま資金を得る形を作っている。佐治信忠は「30年分のグローバルな成長、この時間を買う」と述べている。のれんは約9000億円と推定され、ムーディーズ・ジャパンは投資格付けを格下げ方向で見直すと発表した。"}]}}