第1章 年〜年

台糖:台湾製糖の創立と橋仔頭工場での製糖開始

1900年〜米糖問題の解決を掲げた創立総会

安政の開港以来、安価な外国糖の輸入が続いて内地の糖業は衰え、明治初年には砂糖と綿花の輸入額が輸入総額の約半ばを占めた。1891年には新式製糖機械を備えた甜菜糖の官営工場が北海道に建設されたものの、より安価な甘蔗糖に圧倒されて1895年に作業を中止した。同じ年に八重山島へ甘蔗を原料とする製糖工場が設立され、政府と民間有志の努力で国内の砂糖工業はようやく形を得たが、供給量はごくわずかで需要の約8割は輸入糖でまかなっていた。米と砂糖の累年の輸入増加による貿易収支の悪化は米糖問題と呼ばれ、台湾の開発と並んで官民の関心を集めた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [1]安政開港以来の外国糖流入で内地糖業が衰微し、明治初年には砂糖と綿花の輸入額が輸入の約半ばを占めた
    • [2]明治24年に新式製糖機械を持つ甜菜糖官営工場が北海道に建設されたが、甘蔗糖に圧倒され明治28年に作業中止
    • [3]同時期に八重山島に甘蔗原料の製糖工場が設立されたが、需要の約8割は輸入糖でまかなっていた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
    • [4]台湾の開発と米糖問題(米と砂糖の累年の輸入増加による外国貿易尻の悪化)の解決が官民の大関心事だった

日清戦争によって甘蔗の栽培に適した台湾を領有した日本では、近代工業としての製糖業が生まれた。第三代の台湾総督である児玉源太郎伯は、三井合名理事長の益田孝氏と、官政界および実業界に勢力のあった井上馨侯らの賛助を求めて新式製糖会社の計画を進めた。政府は莫大な助成金を用意し、台湾で原料甘蔗の生産農業と砂糖製造工業を併せ営む大企業の計画を立て、1900年12月、三井財閥の巨額の出資により台湾製糖が設立された。創立総会は東京・日本橋坂本町の東京銀行集会所で開かれ、初代社長には鈴木藤三郎氏が就任した。発起人には益田氏ら7氏が名を連ね、翌1901年1月に台南地方法院鳳山出張所で設立登記を済ませた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [5]日清戦争によって甘蔗栽培に適した台湾を領有し、近代工業としての製糖業が生まれた
    • [7]政府は莫大な助成金をもって台湾に原料甘蔗生産農業と砂糖製造工業の両面建ての大企業計画を立て、明治33年12月に三井財閥の巨額の出資により台湾製糖が設立された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
    • [6]第三代台湾総督の児玉源太郎伯が三井合名理事長の益田孝氏、官政界および実業界に勢力のあった井上馨侯らの賛助を求めて計画を進めた
  • 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表
    • [8]1900年12月、東京銀行集会所で創立総会を開き、初代社長に鈴木藤三郎氏が就任した
    • [9]発起人は三井物産合名専務理事の益田孝氏ら7氏。1901年1月に台南地方法院鳳山出張所で設立登記

社章はSとTの二文字を組み合わせた図案で、Tの字を朝日の形にして会社の繁栄への願いを込めた。今の高雄市橋頭区に置かれた橋仔頭工場は台湾で初めての新式製糖工場となり、台湾製糖はここで1902年1月に製糖を始めた。甘蔗を育てて新式の設備で砂糖にした経験を持つ者は当時の日本に一人もおらず、領有して間もない台湾は情勢もひどく、事業にするうえでの障害は多岐にわたった。日本経済の現状を案じて株主に加わった宮内省や財界人の後押しを受け、社員が総出で取り組んだ結果、最初の産糖は18,502ピクルに達した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)3編 企業の歴史「台糖」
    • [10]社章は台湾製糖のSとTの文字を組合せ図案化し、Tの字を朝日にかたどって社運の隆昌を念願したもの
  • 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表
    • [11]1902年1月に橋仔頭工場(現在の高雄市橋頭区、台湾で最初の新式製糖工場)で製糖を開始
    • [12]1902年1月に橋仔頭工場で製糖を開始した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
    • [13]当時のわが国には甘蔗を栽培して新式製糖設備で砂糖を製造する経験者は皆無で、占領後まもない台湾現地の諸情勢は極めて悪く企業化には種々の障害があった
    • [14]日本経済の実情を憂えて株主となった宮内省はじめ実業家の支援と全社をあげての努力の結果、第一回産糖は18,502ピクル
参考文献[1]-[14]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [1]安政開港以来の外国糖流入で内地糖業が衰微し、明治初年には砂糖と綿花の輸入額が輸入の約半ばを占めた
    • [2]明治24年に新式製糖機械を持つ甜菜糖官営工場が北海道に建設されたが、甘蔗糖に圧倒され明治28年に作業中止
    • [3]同時期に八重山島に甘蔗原料の製糖工場が設立されたが、需要の約8割は輸入糖でまかなっていた
    • [5]日清戦争によって甘蔗栽培に適した台湾を領有し、近代工業としての製糖業が生まれた
    • [7]政府は莫大な助成金をもって台湾に原料甘蔗生産農業と砂糖製造工業の両面建ての大企業計画を立て、明治33年12月に三井財閥の巨額の出資により台湾製糖が設立された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
    • [4]台湾の開発と米糖問題(米と砂糖の累年の輸入増加による外国貿易尻の悪化)の解決が官民の大関心事だった
    • [6]第三代台湾総督の児玉源太郎伯が三井合名理事長の益田孝氏、官政界および実業界に勢力のあった井上馨侯らの賛助を求めて計画を進めた
    • [13]当時のわが国には甘蔗を栽培して新式製糖設備で砂糖を製造する経験者は皆無で、占領後まもない台湾現地の諸情勢は極めて悪く企業化には種々の障害があった
    • [14]日本経済の実情を憂えて株主となった宮内省はじめ実業家の支援と全社をあげての努力の結果、第一回産糖は18,502ピクル
    • [8]1900年12月、東京銀行集会所で創立総会を開き、初代社長に鈴木藤三郎氏が就任した
    • [9]発起人は三井物産合名専務理事の益田孝氏ら7氏。1901年1月に台南地方法院鳳山出張所で設立登記
    • [11]1902年1月に橋仔頭工場(現在の高雄市橋頭区、台湾で最初の新式製糖工場)で製糖を開始
    • [12]1902年1月に橋仔頭工場で製糖を開始した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)3編 企業の歴史「台糖」
    • [10]社章は台湾製糖のSとTの文字を組合せ図案化し、Tの字を朝日にかたどって社運の隆昌を念願したもの

1909年〜湾裡工場の継承と神戸工場買収による内地精製糖への進出

1909年9月、台湾製糖は台南製糖を合併して湾裡工場を継承し、同年11月に大阪株式取引所へ上場した。1911年12月には神戸精糖から神戸工場を買収し、台湾の甘蔗糖に加えて内地の精製糖にも設備を持った。明治の末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖が相次いで創設され、大正初期にはさらに4社が設立された。内地では精製糖工場が増設され、北海道では甜菜糖業が復活し、沖縄では糖業が強化され、南洋庁にも新式製糖工場が新設されて、国内消費の自給に向けた設備が各地に増えた。甘蔗の産地を抱えた台湾製糖にとって、内地へ精製の設備を置くことは、原料の側から製品の側へ足場を伸ばす動きだったとみられる。

  • 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表
    • [15]1909年9月に台南製糖を合併して湾裡工場を継承、同年11月に大阪株式取引所に上場
    • [16]1911年12月に神戸精糖から神戸工場を買収
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [17]明治末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖が創設され、大正初期に4社の設立をみた
    • [18]国内では精製糖工場を増設、北海道の甜菜糖業の復活、沖縄糖業の強化、南洋庁に新式製糖工場の新設等、国内消費の自給を目ざして発展した

政府が台湾に立てた計画は、原料甘蔗の生産農業と砂糖製造工業を併せ営む両面建ての大企業というものであり、台湾製糖は作付から製品までを一社で抱えたまま出発した。甘蔗を搾ったあとに残る糖蜜も捨てられず、アルコールの原料として充てられ、台湾製糖は砂糖の副産物からその製造まで自ら手がけた。台湾の製糖各社が終戦までに持った設備は、45の製糖工場のほか、アルコール、ブタノール、パルプの各工場に及んだ。戦後に社長を務めた武智勝氏は、この時代を『甘蔗栽培から精製糖まで一貫作業を行い、五十年間に亘る技術と体験をもつている』と振り返った。畑から製品までを一続きに握る体制は、砂糖以外の製品へ会社が移るときの足場になった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [19]政府は莫大な助成金をもって台湾に原料甘蔗生産農業と砂糖製造工業の両面建ての大企業計画を立てた
    • [21]大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の4社が製糖45工場とアルコール工場、ブタノール工場、パルプ工場を経営していた
  • 経済知識 1958年
    • [20]台湾製糖時代に糖蜜を原料としてアルコールを製造していた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
    • [22]台糖の社長は武智勝

創立から35年後、台湾製糖の産糖は第一回の18,502ピクルから5,383,200ピクルに達し、台湾最大の製糖会社となった。1932年には、その後に設立された塩水港製糖、明治製糖、大日本製糖など各社の発展と相まって、内需を満たして海外へ輸出するという創立時の理想が実現した。日本の糖業は大正末期から1930年代末にかけて生産を伸ばし、1929年から1940年までの総生産量のうち台湾産糖が80%以上を占めた。1939年には糖業の創設以来の最高を記録したが、同じ年に糖価の公定価格制が実施され、自由な取引の時代から統制の時代へ移った。台湾の甘蔗を土台に積み上げた優位は、価格を自ら決められなくなった時点で性格を変えた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
    • [23]第一回産糖18,502ピクルは35年後に5,383,200ピクルとなり、台湾最大の製糖会社となった
    • [24]昭和7年、その後設立された塩水港製糖、明治製糖、大日本製糖等各社の発展と相まって、内需を満たして海外に輸出するという会社創立の理想を実現した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [25]大正末期から昭和14、15年にかけてわが国糖業は飛躍し、昭和4年から15年までの総生産量の80%以上を台湾産糖が占めた
    • [26]昭和14年にわが国糖業創設以来の最高を記録し、同年糖価の公定価格制が実施されて自由時代から統制時代に入った
参考文献[15]-[26]
    • [15]1909年9月に台南製糖を合併して湾裡工場を継承、同年11月に大阪株式取引所に上場
    • [16]1911年12月に神戸精糖から神戸工場を買収
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [17]明治末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖が創設され、大正初期に4社の設立をみた
    • [18]国内では精製糖工場を増設、北海道の甜菜糖業の復活、沖縄糖業の強化、南洋庁に新式製糖工場の新設等、国内消費の自給を目ざして発展した
    • [19]政府は莫大な助成金をもって台湾に原料甘蔗生産農業と砂糖製造工業の両面建ての大企業計画を立てた
    • [21]大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の4社が製糖45工場とアルコール工場、ブタノール工場、パルプ工場を経営していた
    • [25]大正末期から昭和14、15年にかけてわが国糖業は飛躍し、昭和4年から15年までの総生産量の80%以上を台湾産糖が占めた
    • [26]昭和14年にわが国糖業創設以来の最高を記録し、同年糖価の公定価格制が実施されて自由時代から統制時代に入った
  • 経済知識 1958年
    • [20]台湾製糖時代に糖蜜を原料としてアルコールを製造していた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
    • [22]台糖の社長は武智勝
    • [23]第一回産糖18,502ピクルは35年後に5,383,200ピクルとなり、台湾最大の製糖会社となった
    • [24]昭和7年、その後設立された塩水港製糖、明治製糖、大日本製糖等各社の発展と相まって、内需を満たして海外に輸出するという会社創立の理想を実現した

1945年〜東莞工場と新興製糖の合併、台湾事業の放棄

1939年3月、台湾製糖は広東省の東莞工場で操業を開始した。台湾では1940年から1941年にかけて甘蔗の作付が米作に押されて面積を減らし、さらに暴風の被害が見込まれたことから、糖業の再編成が提唱された。当時存続していた6社のうち帝国製糖が大日本製糖に合併され、1941年9月には新興製糖が台湾製糖に合併されて大寮製糖所として引き継がれた。台湾の糖業は大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の4社に集約された。1943年1月には、フィリピンで軍管理製糖工場の委任経営を軍政監部から受託した。

  • 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表
    • [27]1939年3月に広東省東莞工場で操業を開始
    • [29]存続した6社のうち帝国製糖が大日本製糖に、新興製糖が台湾製糖に合併された。1941年9月に新興製糖を合併し大寮製糖所として継承
    • [31]1943年1月、フィリピンで軍管理製糖工場の委任経営を軍政監部から受託
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [28]昭和15、16年の甘蔗作は米作におされて作付面積が減少し、暴風の被害も予想されて糖業の再編成が提唱された
    • [30]大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の4社となった

内地の精製糖工場は1928年に16工場を数え、日産能力は合わせて2,800屯、年製造高は867万担に達して最盛期を迎えたが、台湾で耕地白糖の製造設備が次第に普及するにつれて精製糖の価値は相対的に低落し、生産高は年を追って減った。太平洋戦争の進展とともに内地の精製糖は企業整備にかかり、1943年にはほとんどの工場が操業を中止した。台湾製糖も同年7月、軍用燃料の製造への転用にともなって、神戸製糖工場を閉鎖した。国民一般への砂糖の配給も同じ年に完全に途絶え、戦後の1947年まで4年にわたって停止が続いた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [32]国内の精製糖工場は最盛期の昭和3年に16工場、日産能力2,800屯、年製造高867万担に達したが、台湾で耕地白糖の製造設備が普及するとともに精製糖の価値が相対的に低落し生産高も逐年減少した
    • [33]太平洋戦争の進展とともに企業整備に遭い、昭和18年にはほとんど操業中止の状態となった
    • [35]国民一般に対する配給も昭和18年に至りまったく杜絶し、戦後の昭和22年まで配給停止が続いた
  • 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表
    • [34]1943年7月、軍用燃料製造への転用に伴い神戸製糖工場を閉鎖

大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の4社は、台湾で45の製糖工場とそれに付属する工場群を動かしていたが、終戦とともにその一切を失った。1945年の敗戦で台湾製糖は同地での事業をすべて手放し、1900年12月の創立から50年かけて原料の甘蔗畑から製糖工場まで積み上げたものは、ことごとく会社の手を離れた。原料甘蔗の栽培適地である台湾と南洋群島を失った日本の糖業は、原料糖のすべてを海外から輸入して精製するだけの姿に変わり、砂糖の供給は全消費量の95%を輸入に仰ぐ往時の状況へ逆転した。国内に残された製糖業は、1919年にようやく継続事業としての基礎を得た北海道の甜菜糖だけだった。その産糖高も肥料と労力の不足から、終戦時には13万6千担へ減っていた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [36]大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の4社が製糖45工場とアルコール工場、ブタノール工場、パルプ工場を経営しつつ終戦と同時に一切を喪失した
    • [39]台湾、南洋群島の原料甘蔗の栽培適地を失い、原料糖のすべてを海外から輸入して精製するのみの姿に変わった。砂糖供給は全消費量の95%を輸入に仰ぐ状況に逆転した
    • [40]わが国の甜菜糖業は明治初期に始まり数次の興亡を経て、大正8年に初めて継続事業としての基礎を作った。戦後わが国に残された唯一の製糖業である
    • [41]太平洋戦争の進展とともに肥料、労力の不足で手痛い打撃を受け、終戦時の産糖高は13万6千担に激減した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
    • [37]昭和20年の敗戦の結果、台湾における全事業を放棄した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)3編 企業の歴史「台糖」
    • [38]昭和20年の敗戦によって、50年にわたって築きあげた台湾における全事業を失った
参考文献[27]-[41]
    • [27]1939年3月に広東省東莞工場で操業を開始
    • [29]存続した6社のうち帝国製糖が大日本製糖に、新興製糖が台湾製糖に合併された。1941年9月に新興製糖を合併し大寮製糖所として継承
    • [31]1943年1月、フィリピンで軍管理製糖工場の委任経営を軍政監部から受託
    • [34]1943年7月、軍用燃料製造への転用に伴い神戸製糖工場を閉鎖
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [28]昭和15、16年の甘蔗作は米作におされて作付面積が減少し、暴風の被害も予想されて糖業の再編成が提唱された
    • [30]大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の4社となった
    • [32]国内の精製糖工場は最盛期の昭和3年に16工場、日産能力2,800屯、年製造高867万担に達したが、台湾で耕地白糖の製造設備が普及するとともに精製糖の価値が相対的に低落し生産高も逐年減少した
    • [33]太平洋戦争の進展とともに企業整備に遭い、昭和18年にはほとんど操業中止の状態となった
    • [35]国民一般に対する配給も昭和18年に至りまったく杜絶し、戦後の昭和22年まで配給停止が続いた
    • [36]大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の4社が製糖45工場とアルコール工場、ブタノール工場、パルプ工場を経営しつつ終戦と同時に一切を喪失した
    • [39]台湾、南洋群島の原料甘蔗の栽培適地を失い、原料糖のすべてを海外から輸入して精製するのみの姿に変わった。砂糖供給は全消費量の95%を輸入に仰ぐ状況に逆転した
    • [40]わが国の甜菜糖業は明治初期に始まり数次の興亡を経て、大正8年に初めて継続事業としての基礎を作った。戦後わが国に残された唯一の製糖業である
    • [41]太平洋戦争の進展とともに肥料、労力の不足で手痛い打撃を受け、終戦時の産糖高は13万6千担に激減した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
    • [37]昭和20年の敗戦の結果、台湾における全事業を放棄した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)3編 企業の歴史「台糖」
    • [38]昭和20年の敗戦によって、50年にわたって築きあげた台湾における全事業を失った

出典・参考

5件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)3編 企業の歴史「台糖」
  • 経済知識 1958年
  • 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表

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