相馬半治
明治製糖・元専務取締役社長(旧明治製糖)
社長就任 1915年
生年月日 —
学歴 東京工業学校応用化学科
出自 —
- 出自
- 相馬半治氏は製糖事業の研究のため欧米に学び、1903年に帰国した技術者である。帰国後は母校である東京高等工業学校の教授と台湾総督府糖務局技師を兼ね、1904年に台湾へ渡って製糖事業の指導にあたった。糖業政策の内側にいた技術者で、自前の資本は持たない。1906年の設立は、同郷の先輩である小川錦吉氏に計画を持ち込み、浅田正文氏・渋沢栄一氏・森村市左衛門氏らの賛助を得て成った。台湾総督府民政長官の後藤新平氏とは電報で交渉し、内地の有力な資本家が経営にあたるなら総督府は歓迎するという内意を確認している。
- 抜擢
- 1906年12月29日の創立総会で選ばれた役員は、取締役会長が小川錦吉氏、専務取締役が相馬半治氏で、渋沢栄一氏が相談役に委嘱された。出資を集めた側が会長に座り、事業を設計した技術者が専務として実務を持つ出発だったとみられる。創立以来、相馬氏が自ら経営にあたり、有嶋健助氏らがこれを補佐した。1931年に明糖事件が起きたのち、1932年に原邦造氏が明治製糖の社長に就いて相馬氏は退いた。事件が解決したあとの1936年、原氏が会長へ回り、相馬氏が社長へ戻っている。
- 施策
- 粗糖を売るだけの会社にとどめない構想を、1916年10月25日の製菓事業ニ関スル調査書で重役へ示し、同年12月に大正製菓を創立した。同社は1917年1月に東京菓子となり、1924年9月に明治製菓と改称している。設備と原料の側も広げ、1912年1月に横浜精糖を合併して川崎工場を得て内地の精製設備を持ち、1923年6月には経営難の日本甜菜製糖を合併して清水工場とした。1918年にはスマトラ興業を興し、オランダ領スマトラ島でゴム栽培にも入っている。1943年の資本金は6,100万円、従業員5,000名で、四大製糖会社の一つに数えられた。
- 評価
- 執筆予定
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)「3.わが社のおこり」
- 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)年表
- 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
- 日本産業史(日経文庫)第1巻「製糖-新渡戸局長と台湾糖」