決断
原料地を持つ会社に始まり、原料を買う会社として終わった。台湾を失った戦後は、砂糖統制が続くかぎり釜を回しても採算が読めず、1946年9月に許可を得た倉庫業と製薬業で操業を凌いだ。政府の砂糖政策が戦前の自由販売制へ戻り原糖の優先輸入が確実になった1951年春に再開を決め、同年12月25日に川崎工場を日産235トンで動かした。1963年8月末の輸入自由化で割当が外れると設備過剰が表面化し、相馬敏夫社長は1969年に業界へ設備能力3割の削減を求めた。同率同時の削減案は受け入れられず、各社任意に削減して補償を出す案へ後退したまま実を結ばなかった。1974年の砂糖ブームでは豪州原糖を250ポンドから200ポンドで長期買付契約したが、翌年に相場が100ポンドを割り、契約を破棄できないまま高値の原糖が入り続けた。
1984年3月 明糖産業へ営業譲渡
1969年 精糖工業会への3割削減案
精糖工業会への3割削減案設備過剰による市価下落に対し、各社が同率の犠牲を同時に負う能力削減を業界全体へ求めた構造改善案同じ経営論点に直面した企業 | 構造改革・リストラ業績の推移1968 1969 1974 売上高(億円) 171 177 368 純利益率(%) 1.2 1.7 -0.3 1951年12月 川崎工場復旧で復帰