固定費の削減
戦後の日本企業にとって、人件費は固定費だった。長期雇用と年功による処遇の下では、賃金は勤続とともに上がり、景気にかかわらず総額は増加する。主力銀行からの借入で建てた工場も、返済の計画が需要の継続を織り込んでいる。したがって固定費の削減は、需要が戻らないと認めたあとにしか始まらなかった。赤字が出てから着手すれば、生産設備の停止と人員の削減が同時に生じ、次の投資原資まで失う。
固定費の削減に、日本の経営は三つの名称を順に与えてきた。構造不況は業界の状態を指す語で、個々の会社に責任はない。構造調整は誰かが手を下す作業を指すが、その誰かは特定されない。1990年代前半に定着したリストラで、初めて会社が主語になった。言葉が変わったから責任が移ったのではなく、人を減らす責任が業界から会社へ移ったので、それを言い表す言葉が要った。しかもリストラは、当初は肯定的な語として使われた。好調な会社が日常的に体質を改める意味でも用いられていた。ところが人員削減とほぼ同義になるまでに数年もかからなかった。削減の対象が事業から人へ移り、削減の理由が改善から生存へ変わったためである。
実際には、削減は長く業績の谷で着手されてきた。石油危機後の減量経営では、ユニチカが名古屋・犬山・桐生の3工場を一度に閉鎖し、帝人は大屋晋三氏の下で約2,600名を削減して、需要が戻らない前提へ計画を書き換えた。業界全体が同じ状態にあり、削減は不況への対応と説明できた。バブル崩壊後も順序は変わらず、日産自動車は座間工場の車両生産を打ち切った。
谷での削減と逆の時期を選んだのが、業績の山での削減である。日立化成は丹野毅氏が好況のうちに低収益の品目を選り分け、JTは本田勝彦氏が国内工場の大量閉鎖と4,000人の削減を決め、パナソニックは楠見雄規氏が好業績下で1万人の削減へ動いた。利益が出ているうちなら、閉鎖の費用を計上しても財務は耐え、削減で生じた原資を次の設備へ回せる。ただし、説明の負担は経営陣が負う。谷での削減は不況を理由にできるが、山での削減に外部の理由はない。削減の時期は谷から山へ移り、生産設備の閉鎖と新規投資が一つの計画に載るようになった。
財務諸表のどこを見るか
固定費は損益計算書の一行では見えない。販売費及び一般管理費の明細で従業員給料・賞与、賃借料、減価償却費の各項目を年次で並べ、売上高が減少した年に同じ比率で下がっているかを確かめる。人については従業員の状況の人数と平均年齢、特別損失の事業構造改革費用や割増退職金の計上額を見る。設備については設備の状況に載る各工場の帳簿価額と生産能力、セグメント情報の減価償却費と設備投資額を突き合わせ、閉鎖した拠点が翌期に消えているかを追う。