造船不況下の「2.5次産業型企業」への変身

二度の人員削減を重ねながら、稲葉興作氏はなぜ造船会社の看板を下ろそうとしたか

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時期 1987
意思決定者 稲葉興作 石川島播磨重工業 社長
論点 造船の構造不況と事業構成の組み替え
概要
1979年と1987年の二度にわたる大規模な人員削減とあわせて、石川島播磨重工業が造船一本の事業構成を陸上機械・産業機械へ組み替え、重工業と機械産業の中間を志向する「2.5次産業型企業」への脱皮を進めた経営判断。稲葉興作社長の下で対外的に明確化した。
背景
1960年の合併後、真藤恒氏の生産革新で造船の世界的な地位を築いたが、1970年代のオイルショックでタンカー需要が構造的に細り、造船は残り少ない構造不況業種となった。経常赤字も現れ、造船依存の重さが弱みに転じた。
内容
1979年に希望退職を募って4,610人が応募し、1987年にも大規模な削減に踏み切った。ただし人員整理だけにとどめず、陸上機械・産業機械へ資源を振り向け、造船会社から総合機械メーカーへ事業の比重を移す構造転換を掲げた。
含意
1987年3月期は212億円の当期純損失を計上したが、造船の比率を下げ多角機械メーカーへ転じた判断は、のちの航空エンジンへの集中や2002年の造船分社化へとつながる土台となった。造る量より事業の構成を選ぶ判断であった。
筆者の見解

造る量より、事業の構成を選ぶ

この判断の核心は、人員削減という痛みを伴う縮小そのものよりも、削減で空いた資源を造船の外へ振り向け、事業の比重を意識して移し替えた点にある。造船で世界の頂点に立った成功体験は、裏を返せば造船市況の波を丸ごと引き受ける体質でもあった。稲葉興作社長が二度目の削減を陸上機械・産業機械への組み替えと一体で進め、「2.5次産業型企業」への変身として掲げたのは、その体質そのものを作り替えようとする試みであったとみることができる。

もっとも、造る量を追う経営から事業の構成を選ぶ経営への切り替えは、一度の決断で完結するものではなかった。造船はその後も縮小を続け、分社化と社名変更を経てようやく本体から外れていく。1980年代の構造転換は、その長い組み替えの入り口にあたり、どの事業をどれだけ抱えるかという問いを経営の中心に据えた点で、のちの航空エンジン集中や祖業の手放しに通じる射程を持っていたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

造船世界一に上りつめた高度成長期

1960年に播磨造船所と合併して発足した石川島播磨重工業は、高度成長期を通じて造船の世界的な地位を築いた会社であった。生産の革新を主導したのが、のちに社長となる真藤恒氏である。真藤氏は安く速く大型船を仕上げる「シンドー船型」を生み出し、船体を分けて同時に組むブロック工法や先行艤装で工期を縮め、安値受注でシェアを広げた。当時の評伝は、ローコストを武器に世界を制覇した造船業界のなかでも同社はとりわけ安値受注で鳴らし、強引にシェアを拡大してきたと記している[1]

造船を軸とする拡大は数字にも表れていた。単体の売上高は1970年代を通じて伸び続け、1978年3月期には7,600億円台に達した。もっとも、その成長は造船への傾斜と裏表であった。土光敏夫氏以来、土光・田口・真藤とアクの強い経営者が続き、がむしゃらに突き進んできた同社は、復興から高度成長にかけての造船需要にみずからの体質を合わせて優等生の称号を得ていたが、その体質は造船市況の波をそのまま受けやすいものでもあった[2][3]

オイルショックが招いた構造不況

1970年代のオイルショックを境に、世界的なタンカー需要は急速かつ構造的に減退した。省エネルギーと脱石油の流れのなかで大型タンカーの発注は細り、各国の造船能力は一転して過剰となった。造船はもはや一時の不況ではなく、供給構造そのものを縮めなければ立ちゆかない業種へと変わっていった。三菱重工業と並ぶ日本の代表的な重工業会社であった石川島播磨も、この構造的な逆風から逃れられなかった[4]

業績には早くに影が差した。単体の経常損益は1979年3月期に101億円の赤字へ転じ、翌1980年3月期には190億円の赤字へと沈んだ。売上高こそ7,000億円前後を保っていたものの、造船を厚く抱える事業構成のままでは採算が合わなくなっていた。市況の回復を待つだけでは立て直せないという認識が、単なる合理化を超えた事業構成の見直しへと経営を向かわせていく[5]

決断

1979年、造船重機大手が人員整理に踏み切る

1979年2月、石川島播磨重工業は希望退職の募集に踏み切った。応募者は予想を上回る4,610人に達した。三菱重工業と並ぶ日本の代表的な重工業会社が人員整理という最後の手段をとったことは、高度成長を支えた造船重機業界が重大な転機を迎えていることを象徴する出来事であった。当時の経済誌は、造船工業はいまや残された数少ない構造不況業種であり、これから最も苦しい時期を越えていかねばならないと評している[6]

この時期の縮小を主導したのは、真藤恒氏の路線であった。当時の経済誌は同社の方針を「戦線縮小ソフト強化に苦闘する真藤イズム[7]」と評し、造船の規模を縮めながら別の稼ぎ手を育てようとする苦闘を伝えている。もっとも1979年の時点では、削減の主眼はなお造船を残したうえでの身の丈の調整にあった。造船という祖業そのものの比重をどこまで下げるのかという問いには、まだ正面から答えが出されていなかった。

1987年、「2.5次産業型企業」への変身

1983年に社長へ就いた稲葉興作氏の下で、事業構成の見直しはさらに踏み込んだものになった。1987年、石川島播磨重工業は再び大規模な人員削減に踏み切る。1987年3月期には212億円の当期純損失を計上し、痛みは数字にも刻まれた。ただし今回の削減は、造船の規模を縮めるだけの後ろ向きの整理にとどまらず、削減で生まれた資源を陸上機械や産業機械へ振り向ける前向きの組み替えと一体で進められた[8]

この転換を、当時の日経ビジネスは「2.5次産業型企業へ変身急ぐ」との見出しで伝えた。造船という第二次産業を主体とする会社が、機械やサービスを厚く抱える機械産業の側へ比重を移し、重工業と機械産業の中間に立つ企業へ姿を変えようとする動きを言い当てた見立てであった。祖業の名を社名に残しながら、その実態を陸上機械の厚い総合機械メーカーへと組み替えていく道筋が、この時期にはっきりと選び取られた[9]

結果

造船会社から総合機械メーカーへ

二度の人員削減と事業構成の組み替えを経て、石川島播磨重工業は造船一本の会社から、陸上機械を厚く抱える総合機械メーカーへと実態を変えていった。造船の比率が下がるにつれ、産業機械や航空エンジンといった別の柱の存在感が相対的に高まっていく。1987年3月期の212億円の赤字は、その組み替えに伴う痛みを映していたが、造船市況の波に業績を丸ごと委ねる体質からは抜け出しつつあった[10]

この構造転換は、その後の同社の歩みを方向づけた。造船は1990年代の円高と韓国・中国勢の台頭でさらに競争力を失い、2002年には船舶海洋事業を分社化してIHIマリンユナイテッドを発足させ、2007年には社名から「石川島」と「造船」の二語を外して「IHI」へ改めた。1980年代に選び取った「造る量より事業の構成」という発想は、のちに航空エンジンを本流へ据えていく集中戦略の出発点にもなったとみられる[11]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1987年6月22日号「石川島播磨重工業。2.5次産業型企業へ変身急ぐ」
  • 週刊東洋経済 1979年3月24日号「戦線縮小ソフト強化に苦闘する真藤イズム」
  • 日経ビジネス 1973年3月5日号「真藤恒・石川島播磨重工業社長」
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
  • 石川島播磨重工業 会社年鑑(単体業績)