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国内3工場(名古屋・犬山・桐生)の閉鎖と減量経営への転換

1975年実施

繊維構造不況の底で、ユニチカはどこまで身を削り、何で赤字を埋めたか

時期 1975
意思決定者 小幡謙三(社長)
論点 構造不況への対応
概要
1975年、繊維構造不況で巨額の経常赤字に陥ったユニチカが、名古屋・犬山・桐生の国内3工場を閉鎖し、綿紡・毛紡の設備縮小と希望退職・一時帰休に踏み切った減量経営の判断。積水化学工業出身の再建トップ・小幡謙三が進めた体質改善路線の一環として実施された。
背景
1969年にニチボーと日本レイヨンの合併で発足した新生ユニチカは、慢性的な設備過剰と繊維の構造不況を抱えていた。オイルショック後の換物インフレで一時は経常利益120億円まで回復したが、需要の冷え込みと東南アジア諸国の輸出攻勢が重なり、50年3月期には187億円の経常赤字へ転落した。
内容
1975年春、名古屋・犬山・桐生の3工場を閉鎖し、綿紡で12万7000錘(23%)、毛紡で3万2000錘(38%)の設備を縮小した。同時に800人の希望退職を募り、8月には大阪・東京両本社や中央研究所など間接部門の375人を3ヵ月間一時帰休させた。巨額の赤字は、固定資産・有価証券の売却益249億円で穴埋めした。
含意
拡大路線から一転して拠点・設備・人員を削る守りの経営へ舵を切った、繊維構造不況への減量経営の第一波であった。本業の赤字を土地インフレの含み益で穴埋めする姿は当時の「花見酒経済」の縮図とも評されたが、資産売却による延命は倒産を免れさせつつ、業界の構造問題の解決はその後数年に持ち越された。
筆者の見解

拡大の代償を、どこで・何で払うか

この経営判断の核心は、拡大を前提に増設を重ねてきた繊維専業が、構造不況の直撃を受けて初めて拠点・設備・人員を同時に削る守りへ転じた点にある。名古屋・犬山・桐生の3工場閉鎖と綿紡・毛紡の設備縮小、希望退職と本社間接部門の一時帰休は、いずれも痛みを伴う削減であり、合併後も先送りされてきた設備過剰の調整に正面から踏み込む減量経営の第一波であった。積水化学から迎えた小幡氏の体質改善路線が、好況期の含み損処理から一転して事業規模そのものの圧縮へと及んだ局面とみることができる。

一方で、この判断のもう一つの顔は、本業の巨額赤字を土地・有価証券の売却益で覆い隠したことにある。249億円の資産売却益は倒産を免れさせ、販売用不動産を抱えて致命傷を負った興人との明暗を分けたが、それは構造問題そのものの解決ではなく、含み益という一時的な武器による延命でもあった。実際に経常赤字はその後も数年続き、黒字転換は1979年3月期まで待つことになる。規模を追った拡大の代償を、どこで、何によって払うのか——この決断は、拠点の削減という実物の痛みと、土地インフレ益への依存という当時の日本企業に共通する体質の両面を、繊維不況の縮図として映し出した点で示唆に富む。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

合併で生まれた新生ユニチカと繊維の構造不況

ユニチカの経営不振は、この時に始まったものではない。繊維業界で構造改善が叫ばれたのは記事の10年も前からで、紡績はもちろん合繊でも増設の動きが出るたびに設備調整が話題となり、過剰は慢性化していた。1969年(昭和44年)10月にニチボーと日本レイヨンの合併で発足した新生ユニチカも、こうした設備過剰の調整という背景から生まれた会社であった。しかし合併後も不振は続き、業績はむしろ悪化した[1]

この立て直しのため、1972年(昭和47年)に積水化学工業の会長だった小幡謙三が再建社長として乗り込んできた。小幡氏は人事の刷新と決算処理方法の変更で過去の含み損を吐き出させるなど、体質改善を断行した。オーナー色の薄い外部出身の経営者が、合併会社の体質そのものを作り替えようとする再建であった[2]

オイルショック後の乱高下と巨額赤字への転落

体質改善が進んでいたところへ、1972〜73年の過剰流動性の発生とオイルショックが続いた。換物インフレの高まりで需要と製品価格が急伸し、48年9月期には経常利益120億円、続く49年3月期も100億円の経常利益を計上して、過去の不振を吹き飛ばす勢いだった。ところが好業績は長続きせず、49年9月期の経常利益はわずか7億円に激減し、50年3月期には187億円の赤字へ転落した。回復したと思った矢先に再び谷底へ突き落とされる、乱高下の激しい局面であった[3]

この50年3月期の経常損失187億円は、資本金229億円にほぼ匹敵する額の赤字が、わずか半年の事業活動で出たことを意味していた。売上高1116億円に対応するため、売上高経常損失率は16.8%に達し、100円売れば17円ほど損をする状態だった。赤字の背景には、業界の設備過剰という構造改善の問題が未解決のまま残っていたことに加え、東南アジア諸国の対日輸出攻勢が強まり、大幅賃上げで競争力が衰えていたことがあった[4]

決断

3工場閉鎖と設備・人員の削減

大幅赤字に追い込まれた段階で、構造改善への動きがようやく本格化した。ユニチカはこの年の春、名古屋・犬山・桐生の3工場を閉鎖し、綿紡では12万7000錘、毛紡では3万2000錘、比率にしてそれぞれ23%、38%の設備縮小に踏み切った。生産拠点そのものを畳み、主力の紡績設備を大きく落とすという、拡大を前提に増設を重ねてきた経営からの明確な転換であった。同業各社も程度の差はあれ同じ動きをみせており、業界全体が減量へ向かう局面であった[5]

人員面でも削減に踏み込んだ。設備縮小と同時に800人の希望退職者を募り、さらに8月には、大阪・東京の両本社や中央研究所といった間接部門の375人を、出向または配置転換する前提で3ヵ月間一時帰休させる方針を打ち出した。生産現場だけでなく本社機能にまで手を入れる徹底ぶりで、減量経営に本腰を入れる姿勢を示すものであった[6]

資産売却で赤字を穴埋めするという選択

もう一つの柱は、巨額の赤字を資産売却益で穴埋めするという財務上の選択であった。50年3月期の資産売却益は、固定資産186億円と有価証券63億円の合計249億円に達し、資本金を20億円も上回る規模だった。これによりユニチカは、経常損失では戦後最大の倒産と騒がれた興人と同程度の打撃を受けながらも、純利益として1億900万円をかろうじて計上した。土地・有価証券の含み益という「武器」が、本業の赤字を覆い隠したのである[7]

売却益の中身は、繊維の本業とは距離のある不動産や有価証券だった。固定資産売却益の中心は、京都工場の跡地を住宅公団へ売却した分で、これだけで75億円を占めた。旧東京工場の一部をゴルフ練習場用地として譲渡した分も含まれる。記事は、こうして本業の赤字を土地インフレの含み益で埋め合わせる姿を、付加価値経営の原則を踏みはずした「花見酒経済」の縮図として批判的にとらえていた[8]

結果

売却難と持ち越された構造問題

もっとも、資産売却による延命策はまもなく頭打ちの兆しをみせた。9月中間決算では当初意図した土地売却益の計上が難しくなり、この春に閉鎖した名古屋・犬山の両工場は条件次第で売却する考えだったものの、最大の買い手である地方自治体や住宅公団が財政難や事業計画の展開難に陥り、これまでのようには進まなくなっていた。有価証券の売却を進めても100億円の経常損失の穴を埋め切れない状態で、51年3月期の9月中間でもなお100億円前後の経常赤字が見込まれ、昨年10月からの1年間では300億円近い赤字となる計算であった[9]

減量経営の第一波を経てもなお、繊維の構造不況は深く尾を引いた。ユニチカの経常損益は、1976年3月期に222億円、1977年3月期に101億円、1978年3月期にも88億円の赤字が続き、黒字へ転じたのは1979年3月期であった。設備過剰の解消だけでなく、東南アジア諸国との競争力や本業の需要回復という問いに答えられなければ不況からの脱出は保証されない、という記事の指摘どおり、構造調整には数年を要した[10]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1975年9月29日号「ユニチカ 限界にきた“花見酒経済”の縮図」(日経マグロウヒル社)
  • 会社年鑑(1986年版)